27.とりあえず生き延びてください
監査執行局の灰色の廊下を、オーウェンは慣れた足取りで、さっさと進んでいく。その背中を見失うまいと、ギルダ、テオ、リアの三人は小走り気味についていった。
「……あの!」
突然、リアが声を上げた。
指差す先――
廊下の端。壁際に沿うようにして、何人かが倒れている。
一人や二人ではない。
書類を抱えたまま、壁にもたれるように座り込んでいる者。床にそのまま転がっている者。姿勢は違えど、全員ぴくりとも動かない。
「なんか……倒れてる人が、いっぱいいるんですけど!」
リアの声が裏返る。
テオは警戒するように一歩近づき、しゃがみ込んだ。
「……生きてます…よね?」
「ああ、平常運転です」
オーウェンは眼鏡越しに一瞥しただけだった。
「審問が立て込むと、こうなります。資料作成に追われて、皆この辺りで仮眠を取るんですよ」
「………床で、ですか?」
ギルダも、困惑したまま視線を彷徨わせる。
「ええ」
オーウェンは実に真面目な顔で頷いた。
「ソファーで寝たら最後ですからね。床なら適度に不快なので、十五分程度で自然に起きます」
三人は無言になった。
リアが、倒れている人物とオーウェンを交互に見て呟いた。
「……前線の野営と、そんなに変わらないような……」
オーウェンは、口を開けて笑った。
「あはは!その通りです。ここもある意味前線ですからね」
その瞬間、壁際に倒れていた一人が、もぞりと身じろぎした。
「……次の……資料……」
寝言だった。
オーウェンは一歩前に出ると、足元を軽く鳴らして声をかける。
「君」
「……はいぃ……?」
半分眠ったまま返事が返ってくる。
オーウェンは微笑んだ
「君は今日、高応答型神経インターフェースの申請について、医療用途限定の根拠整理、出力上限の再設定、それに関する差し戻し対応と、再提出までを行う必要があります」
よどみなく、事実だけを並べる。
確認でも、叱責でもない。
「このまま眠れば、明日には二倍の量が戻ってきます」
オーウェンは、にこりと微笑んだ。
「――どちらを選ぶかは、君の自由です」
次の瞬間。
倒れていた職員は、がばっと跳ね起きた。
「起きます!!今起きました!!」
書類をかき集めると、よろめきながらも全力で走り去っていく。オーウェンは、その背を一瞥しただけで、満足したように小さく頷いた。
「判断が早くて助かります」
そして、何事もなかったように歩き出した。
リアは呆然と、その後姿を見つめる。
「……鬼だ」
オーウェンは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「そのうち慣れますよ」
そう言って、自室のドアを開ける。
三人は、顔を見合わせた。
――本当に、来るところを間違えたかもしれない。
***
オーウェンの私室へ足を踏み入れた瞬間、三人は思わず足を止めた。
刈り込まれた生垣、淡い色の花々、そして中央の丸テーブル。 その上に、紅茶と色とりどりのマカロンが並んでいる。
さっきまで廊下で職員が床に転がっていた場所と、本当に同じ建物なのだろうか。
ギルダとテオは、場違いな場所へ放り込まれたように固まる。その一方で、リアだけは目を輝かせながら辺りを見回していた。
「わぁ……!」
「ちょっとした親睦のつもりです。どうぞ、座ってください」
三人はぎこちなく椅子へ腰を下ろす。紅茶の香りがふわりと漂い、緊張がほんの少しだけほどけた。
「何か質問はありますか? なんでも結構ですよ」
「はい!」
その言葉を聞いた瞬間、リアが勢いよく手を挙げた。
「オーウェン大佐は、なんでメガネなんですか?視界投影とか、情報リンクとかですか?」
(そこかよ)
ギルダとテオは心の中で同時に突っ込む。
オーウェンは一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに柔らかく笑った。
「ああ、これですか?」
眼鏡のフレームへ指を添える。
「単純に目が悪いんですよ。今どき珍しいでしょう? 大抵の人は手術で治してしまいますから」
リアは身を乗り出した。
「え? じゃあ何も機能ついてないんですか? ただ目が良くなるだけのメガネ?」
「ええ。ただの眼鏡です」
オーウェンはためらいなく外して差し出した。
「見てみますか?」
「いいんすか!?」
リアは嬉しそうに受け取ると、表へ裏へと眺め始める。
「ほんとだ! ただのメガネだ!」
感心したようにレンズを覗き込む。
「でも、こんなの逆に邪魔じゃないですか?わざわざ普通のメガネなんて、何か意味があるんですか?」
「意味、ですか…」
オーウェンは少しだけ考えるように視線を落とした。
(……始まったよ)
ギルダとテオは同時にため息をつく。
リアは疑問に思ったことをそのまま口にしてしまう。これまであまりこの特性は気に入られることがなかった。
だが、オーウェンは咎めるどころか、むしろ楽しそうに続けた。
「例えば、君たちは煙草を嗜んでいるようですが……」
ギルダとテオの肩がぴくりと跳ねる。なぜかバレている。
「喫煙することに何か意味はありますか?僕から見ればあまりメリットがないように思えますが」
リアは少し考え、素直に答えた。
「メリット…うーん……やっぱ、うまいって感じるから。あとは、みんなで吸ってる時間が好きなんです」
オーウェンは満足そうに頷いた。
「僕も同じです。眼鏡をつけていると落ち着くんです。意味はないけれど、惹かれてしまうもの……という点では、一緒でしょう。趣味や嗜好、というんでしょうかね」
「趣味嗜好……」
リアは手の中の眼鏡を見つめ、考えを巡らせる。
「なるほど!分かった気がします。メガネ、ありがとうございます」
両手で眼鏡を差し出す。
オーウェンはそれを受け取り、また柔らかく微笑んだ。
「他には何かありますか?」
今度は、ギルダとテオへ視線を向ける。
しばらく沈黙が流れたあと、テオが静かに口を開いた。
「……自分たちは、不適合と判断されたのでしょうか」
オーウェンは微笑みを崩さなかった。 動揺も、否定も、焦りもない。ただ、静かに受け止めるような表情。
「扱いづらいから、司令本部から……ヘッセン大佐の下から外された。そういう理解でよろしいですか」
「……君たちは、そう感じているんですね」
オーウェンは小さく息をつき、紅茶へ視線を落とした。
「君たちのことは色々調べました。所感としては――能力は素晴らしく、卓越しています。不適合であるはずがない。そして今、こうして話していても……特段の扱いづらさは感じません。まあ、普通ですよ。普通」
ギルダが思わず聞き返す。
「……普通?」
「ええ。これまで一緒に過ごした友人が亡くなって、動揺する。怒る。不安になる。それは“普通”のことです。むしろ、僕はそれを好ましく思っています」
ギルダの喉が小さく鳴った。 テオは視線を落とし、リアは息を呑む。
「君たちはもう幼い子どもではありません。それぞれの考え方も、感じ方も、個性も……以前よりずっと複雑になった。一人の指揮官が全員のケアを完璧にこなすのは難しくなったんです。ただ、それだけのことですよ」
オーウェンは紅茶を一口飲んだ。
庭には風が通り、花々がかすかに揺れている。
その穏やかさが、むしろギルダの胸の奥をざわつかせた。
「もう一つよろしいでしょうか」
「どうぞ」
ギルダは姿勢を正し、真正面から問いを投げる。
「私たちが“不適合”でないのなら―― なぜ特別管制通達を出されたのでしょうか。前線から外された理由に納得がいきません」
リアが「えっ」と小さく声を漏らす。通達の意味を知らなかったらしい。オーウェンは驚きもせず、落ち着いた声で答えた。
「まずは監査執行局という環境に慣れてほしいからです。内部の仕事は膨大ですし、基礎を身につけてから現場へ出た方が、安全だと判断しました」
ギルダは食い下がる。
「それは……具体的に、いつまでですか」
語尾が鋭い。 テオが慌てて袖を引く。
「ギル、落ち着け」
だがギルダは止まらない。 胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「テオは情報処理型ですから、後方でも能力を発揮できます。リアも護衛や訓練補助など前線以外でも役割があります。でも私は違います。私の義眼は現場の情報を取得・解析するためのものです。観測対象のない場所では、本来の性能を発揮できません。前線に行けないのなら……私がいる意味がありません」
「意味が必要ですか、君がここにいることに」
ギルダは瞬きをする。言葉の形と意味の合致点を探すが、接合部は見つからない。
「……おっしゃっていることが良くわかりません。私は不要、ということですか」
「ああ……なるほど。そう取ってしまうんですね。ヘッセン大佐と同じタイプですか」
「……?」
名を出された人物は思い浮かぶ。厳格、合理、削ぎ落とされた語彙——だが“タイプ”という単語が派生させる意味の広がりを、ギルダは持てない。
「“役に立つこと”と“自分が存在すること”を同じ欄に置く人たちですよ。君も、彼も」
「……違うのですか?」
「はい。僕の基準では、まったく違います」
ヘルマンは視線を逸らさずに頷き、声をわずかに柔らげる。
「今はまだ、分からなくていいです。分からないまま――とりあえず、生き延びてくださいね」
ギルダは返答を組み立てようとする。反論の骨組みは用意できている。「任務」「規定」「適性」「復帰判定」。
だがオーウェンの言葉は論破の対象に立っていなかった。規定でも、作戦でも、命令でもなかったからだ。
――生き延びてくださいね。
役に立つ、と言われたことはあっても、ただ在ることを肯定された記憶は、彼女の中で検索に引っかからない。その言葉だけが、胸の奥へ静かに沈んでいった。
そんな中、リアがぽつりと口を開く。
「……オーウェン大佐って、オレたちに対しても、なんでそんな話し方なんですか?」
唐突で、でもリアらしい疑問。 ギルダとテオが一瞬だけ目を見合わせる。
オーウェンは微笑みを崩さず、静かに問い返した。
「嫌ですか?」
リアは慌てて首を振る。
「いえ、ただ……なんか、ソワソワするっていうか……」
オーウェンは小さく笑った。 紅茶の湯気の向こうで、その笑みはどこか柔らかい。
「これも、僕の趣味嗜好です。慣れていただけると助かります」
テオがふと眉を寄せた。
「この茶会も大佐の趣味ですか」
「ええ、紅茶が手に入りやすくなりましたからね。創造規制法の影響で新しい産業は停滞しましたが、その一方で、古くからある嗜好品の生産や流通は安定しました」
そう言って、静かにカップを置く。
「――君たちが守ってきた世界の、良い変化のひとつですよ」
三人は顔を見合わせそれぞれカップを手に取り、紅茶を口に含む。ほっとする味だった。 胸の奥に張りつめていたものが、少しだけ緩む。
しばらく穏やかな時間が流れたあと、オーウェンが何かを思い出したように口を開いた。
「そうそう」
三人が顔を上げる。
「煙草については、多少なら目をつむるつもりです」
「……!」
三人の表情がわずかに明るくなる。
「ただし、本数はきちんと管理してください。それから――僕の庭での喫煙は全面禁止です」
「えっ……?」
リアが思わず声を上げる。
「オレたちの趣味嗜好なんですが……」
「君たち、喫煙年齢に達していないのをお忘れですか」
オーウェンは微笑んだまま、さらりと続ける。
「趣味嗜好は尊重しますよ。ただし、健康と僕の庭だけは守ってくださいね」




