21.戦場の残響
テオは、まだ戦場のざらついた空気をまとっていた。耳の奥では、ついさっきまで聞こえていた爆音や悲鳴が、頭痛のような残響となって離れない。
部屋へ戻るため、廊下を歩く。
すると、向こうから数人が歩いてきた。
先頭は、情報本部長を務めるクライン少将だった。
皺ひとつない将官制服を着こなし、前線とは無縁の整った身なりのまま、副官を従えて歩いてくる。テオは反射的に姿勢を正し、壁際へ寄って敬礼した。
クラインは敬礼を返さず、横目でテオを一瞥すると、口元だけで薄く笑った。
「……Secondか。戦果だけは派手だが、金ばかり食ってしょうがない。司令本部は気味の悪いガキどもを特別扱いしすぎだ」
その言葉が、 氷水を心臓に流し込まれたようにテオの胸を冷やした。
取り巻きの兵士たちが、クラインの顔色をうかがいながら小さく笑う。ヘッセンがいないと分かっているから、遠慮がない。クラインは鼻で笑い、さらに言葉を重ねる。
「前線でパニックを起こして撤退した者がいたそうだな。やはり欠陥品だ。ああいう連中は、いずれ必ず化けの皮が剥がれる」
そう言い捨てて、クラインは歩き去ろうとする。
テオの胸の奥で、張り詰めていた何かが、ぶつりと音を立てて切れた。戦場で押し殺してきた恐怖も、悔しさも、喪失も。押し込めてきた感情が、一気に溢れ出す。
「……一度でいい」
クラインの足が止まった。
テオは俯いたまま、拳を強く握り締めている。
「……一度でも、あそこへ立ってから言え」
声は震えていた。その一言には押し殺していた感情が滲んでいる。
「人がが目の前で吹き飛ぶところを見て……」
「助けたいのに、助けられなくて……」
「それでも撃ち続けなきゃいけない場所に、一度でも立ってから言え……!」
その瞬間、クラインの口元がゆっくりと歪んだ。 怒りではない。 “見つけた獲物をどう料理するか”を決めた人間の笑み。周囲の兵士たちに視線を送るだけで、空気が変わった。
「……やれ」
その一言で、空気が変わる。
取り巻きの兵士たちが一斉に動いた。
肩を掴まれ、壁へ叩きつけられる。
拳が飛ぶ。
だが、テオも黙って殴られるだけではなかった。咄嗟に振り抜いた肘が、一人の腹へ深く食い込み、鈍い呻き声が漏れる。だが人数差は埋まらない。
そのとき、廊下の奥から、足音が鋭く響いた。
「――テオに何してんだ、てめえら!」
怒声が廊下を切り裂いた。
次の瞬間、リアの身体が視界へ飛び込む。迷いのない飛び蹴りが兵士の脇腹へ突き刺さり、一人が壁へ叩きつけられた。着地と同時に体勢を低く落とし、そのままもう一人の膝裏を払う。
「……リア!」
テオが思わず声を上げる。
リアはちらりとだけ振り返り、口元を吊り上げた。
「……復元局から戻ってきて正解だったぜ」
言い終えるより早く、踏み込んだ拳が兵士の頬を打ち抜く。鈍い衝突音が響き、兵士が廊下へ転がった。
その一撃を皮切りに、静まり返っていた廊下は一気に騒然となる。しかし、クラインは少し離れた場所で腕を組み、その様子を退屈そうに眺めていた。
「ガキどもが、調子に乗るなよ……また一人くらい消えてくたら都合がいいんだがな。――フィンチとかいう“実験台”みたいに」
リアの動きが、ぴたりと止まる。
その目から、一切の感情が消えた。
次の瞬間、リアは目の前の兵士を蹴り飛ばした。
兵士の身体が宙を舞う。その反動を利用するように、一歩でクラインとの距離を詰める。胸ぐらを掴み、そのまま、片腕だけで軽々と持ち上げる。
クラインの両足が床から離れた。
「ぐっ……!」
制服が首元へ食い込み、呼吸が詰まる。
「や、止めろ…!上へ報告するぞ……! お前らの処分は――」
「……やってみろよ。殺された後も喋れるならな」
クラインの顔から血の気が引く。
兵士たちは誰一人動けなかった。壁にもたれたテオだけが、息を乱しながら、その光景を見つめていた。
そのときだった。
廊下の奥から、硬い軍靴の音が規則正しく響く。一定の速度で近づいてくる、その足音だけで、張り詰めた空気がさらに冷えていく。
兵士たちが反射的に振り返る。
その視線の先に、ヘッセンがいた。表情は無い。戦場からまだ完全には戻りきれていない者特有の、感情の温度が抜け落ちた顔をしていた。
ヘッセンは状況を一瞥し、まずリアに向けて低く言った。
「……リア、手を離せ」
リアは反応しない。むしろ、ヘッセンの声に反応して殺意が濃くなる。ヘッセンは一歩だけ近づき、声の温度をさらに下げた。
「離せ」
拒否という選択肢が存在しない声音だった。リアの肩がびくりと震え、その手がクラインの胸ぐらを離す。
「げほっ……!」
激しく咳き込みながら、クラインは床へ手をつく。ヘッセンは視線をテオへ向ける。
「テオドール、立てるか」
「……はい」
「リアと医務室へ行け。報告は後で聞く」
リアはなおもクラインを睨みつけていたが、やがて踵を返す。テオとともに廊下の奥へ消えていく二人の背中を見届けると、ヘッセンは静かにクラインへ向き直った。
形式的に敬礼したうえで、冷え切った声で言う。
「――状況をご説明いただけますか」
クラインは乱れた襟元を整え、不快そうに咳払いをした。
「……上官に対して反抗的態度をとった。規律違反者に対し相応の指導を行ったところ、逆上して反撃してきただけだ」
鼻で笑う。
「お前は軍紀も礼節も教えていないのか。監督責任を問われるぞ、ヘッセン大佐」
「私の部下が無礼を働いたことについてはお詫び申し上げます。司令本部への報告も、私の責任で行います」
その返答に、クラインは勝ち誇ったように口角を上げた。
しかし、ヘッセンの言葉はそこで終わらない。。
「彼らは前線任務から帰還した直後です。長時間の交戦に加え、他部隊が対処しきれなかった戦域まで担当し、心身ともに極限状態にありました」
淡々と事実だけを積み重ねる。
「そのような兵へ不用意な挑発や接触を行えば、判断能力や感情の制御に影響が及ぶことは、軍の基礎教育でも扱われる内容です」
クラインの眉がわずかに動く。
「……私に非があるとでも言いたいのか?」
「いいえ、責任の所在を論じるつもりはありません。申し上げているのは、危険性です」
ヘッセンは即答する。
「誤解のないよう申し上げますが――不要な接触を行った結果、彼らが本気で応じた場合、あなたの部隊では制圧不可能です」
そこで初めて、ヘッセンの視線が鋭く細められた。
「その危険性だけは、ご理解いただいたほうがよろしいかと」
クラインから笑みが消えた。




