38.存在していた証跡
バタン、と強固な隔壁を閉めきった暗い室内で、ギルダは足を止め、荒い息を整えた。
室内には、ただ圧倒的な静寂だけが横たわっていた。ここで過ごした4年間、決して居心地の良い場所ではなかったはずなのに、アトリを失った部屋は、あまりにもがらんとして、胸が潰れそうなほどに寂しすぎた。
その時、暗闇の奥から、かすかな駆動音を伴ってブルーがギルダの元へと歩み寄ってきた。
ギルダは力なく、その丸い筐体の前に膝をつく。いつもと変わらない無機質で丸い眼が、じっとこちらを見上げていた。
張り詰めていた糸が、プツリと切れる。 ギルダは両手で顔を覆った。指の隙間から、熱く、震える吐息が漏れ出す。
「……どうしよう……」
絞り出した声が、情けないほどに震えていた。
「もう……ここには、戻ってこられない……アトリも、二度と…帰ってこられないかもしれない……」
恐れていた最悪の予測を言葉にしてしまった途端、胸の奥が鉛のように重く沈み込んでいく。考えたくなかった最悪の未来が、冷酷な輪郭を持って網膜の奥に迫ってくる。
ブルーは、しばらく何も言わなかった。 電子的な駆動音さえもピタリと止め、ただ静かに、膝をつくギルダを見つめ続けている。
やがて、スピーカーから、いつも通りの静かな合成音声が落ちた。
『……ギルダ』
呼びかけは、短かった。
『現在、この状況において最も危険な状態は、基地の機能が喪失することでも、アトリ・フィンチが帰還しない可能性でもありません』
ギルダが、涙に濡れた指の隙間から、はっとして顔を上げる。
ブルーのレンズの奥で、淡いブルーのインジケーターが規則正しく明滅した。
『――あなたが、ここで思考を停止することです』
感情を排した、しかしどこか確固たる意志を感じさせる淡々とした口調で、ブルーは続ける。
『あなたが立ち止まれば、選択は、他者に委ねられます。結果は、予測不能になります。しかし、あなたが行動し続ける限り。選択権は、あなたにあります』
ブルーは、ほんの少しだけ首を傾けた。
『あなたが恐怖する喪失は、確定事象ではありません。よって――思考停止理由は、現時点では存在しません』
ギルダはしばらくの間、声もなく黙り込んでいた。暗い通信室の静寂の中、ブルーが提示した数式のようなロジックが、凍りついていた脳の回路を強引に再起動させていく。
「……うん……そうだね」
小さく、深く、最後の迷いを吐き出すように息を整える。 ギルダは床についた膝を払うと、まっすぐに背筋を伸ばし、立ち上がった。
「ブルー、これ以上の情報流出を防ぐために、この第四十七基地の全メインシステムを停止させる……それが終わったら、一緒にここを出よう」
ギルダはメインコンピューター室へと視線を向け、静かに、だが残酷な現実を告げた。
「でも、そうすると、この基地のサーバーと結びついているブルーのデータは、強制的に切り離さなきゃならなくなる。全部のログを個体コアに移せない。だから……ブルーが残したいものだけを、持ってきて」
『了解しました。基地ホストとの同期切断シーケンスを準備します』
ブルーのインジケーターが激しく点滅し、電子の思考の海を回る。ほんのわずかな演算の間を置いて、人工知能は告げた。
『当ユニットは、第47基地における4年間の滞在で形成された、対人関係データの保存を最優先と定義します』
揺らぎのない、明確なログの選択。
『対象は、ギルダ、アトリ・フィンチ、ならびに外縁治安部隊を含む、当基地で接触・協働した全個人のプロファイル、および対話記録です』
ブルーはカメラレンズの焦点を滑らかに合わせ、ギルダの顔をまっすぐに見上げた。
『これらのデータは、当ユニットの今後の行動判断における絶対的な基準点であり――当ユニットが「ここに存在していた」ことを示す、唯一の証跡です』
静かに、自らが導き出した論理の結論を述べる。
『よって、これらは削除・初期化の対象とはなり得ません。プログラム上の未定義領域ではありますが――当ユニットは、この判断を「正当」と評価します』
ギルダは、胸の奥からぐっと込み上げてくる熱いものを必死で堪えた。 喉の奥が引き締まり、声を出そうとしても一瞬、言葉が遅れる。
「……そう。じゃあ、そうして」
それだけ言うのが精一杯だった。
踵を返し、薄暗い通路を抜けてメインコンピューター室へと向かう。その背後を、小さな駆動音を響かせて、ブルーもまた静かについてくる。
部屋の中央のオペレートシートに、ギルダは深く腰掛けた。
コンソールに置かれた手元の承認パネルに、冷えた両手をそっと重ねる。サイバーニューロンを通して、自分の脳波を基地の基幹サーバーへと一気に流し込んだ。
「管理者、ギルダ・カルスタ。――外縁第47基地の全システム、物理シャットダウン」
彼女の声に応じるように、ブルーの丸い眼が、かつてないほど強く鮮やかに発光した。
『承認。これよりホストとの完全同期を解除し、全システムを停止します』
それが、ふたりの4年間を共にした基地への決別の合図だった。
***
ギルダが再び外へ出た頃には、激しかった地吹雪は嘘のように小降りになり、白銀の世界の果てから静かに夜が明け始めていた。
薄明の光の中、手際よく荷物を車両の荷台へと詰め込んでいく。数着の防寒着と最低限の貴重品、そして――アトリの私物。いつも彼が首に巻いていた、マフラー。荷物はそれだけだった。
ブルーもまた、小さな自分の頭の上に荷物を器用に乗せて運ぶ。後部座席へと飛び込むように、荷物を体ごと詰め込んだ。
作業を終えようとしたその時、低いエンジン音を響かせて、一台の車両が雪混じりの敷地内へと滑り込んできた。車体に描かれているのは、見慣れた外縁治安部隊のエンブレムだ。
ハッチが開き、中からアイビーとファンが焦燥をにじませた顔で降りてくる。
「ギルダ!」
ファンの叫ぶような声に、ギルダは目を見開いた。
「二人とも……どうしてここに……」
「あれだけ近くでドンパチやられてたら、こっちだっていやでも気付くよ」
アイビーがいつものタフな声を少し曇らせて言った。
「司令本部の連中が深く関わってる気配がしたからさ、奴らが引き揚げるまで遠くで待つしかなかったんだ。悪かったね、何もできないで見てるだけで」
「いや……来ないで正解だった。司令本部もあまり公にしたくない性質の事件だから、巻き込まれないで本当に良かったよ」
ギルダが努めて冷静に返すと、ファンがガランとした基地を見上げながら、すがるように視線を戻した。
「アトリは……? ギルダも行っちゃうのか?」
「うん。私はこれから本部へ行く。アトリも、多分……もう二度と、この基地には戻れないと思う」
ファンが息を呑む。その瞳に隠しきれない動揺が走った。
「何があったか、俺たちには教えられないのか?」
「……ごめん。余計なことに巻き込んじゃうから、今は何も言えない。私たち自身、これからどうなるか本当に分からないんだ」
それ以上問い詰めるなという拒絶の代わりに、ギルダは寂しげに視線を落とした。
すると、アイビーが黙って歩み寄り、ギルダの身体をがっしりと抱きしめた。厚い防寒着越しでも伝わる温もり。彼女はぶっきらぼうに、右手でギルダの背中をポンポンと叩く。
「せっかく、雪かきがまともにできるようになってきたってのにね!」
耳元で響いた相変わらずのセリフに、ギルダの強張っていた顔がふっと綻んだ。
「ふふ……そうだね。アイビーさんが根気強く仕込んでくれて、ようやくまともな戦力になったのに」
ギルダはアイビーの腕からそっと離れると、隣でぐっと拳を握りしめているファンに目を向けた。その、いつも自分たちを気遣ってくれた優しい少年へ、心からの感謝を込めて微笑みかける。
「ファン、あの時――私に声をかけてくれてありがとう。ファンがいなかったら、多分、私とっくに潰れてた」
ファンは泣きそうな顔を隠すように、ぐっと口を一文字に結んだ。
「なんだよそれ! 変なフラグ立てんなよ! こんな外縁の基地なんかさ、いつだって戻ってこれるだろ……アトリと、また絶対にここに来てよ。約束してくれ」
ギルダは銀色の右目を優しく細め、力強く頷いた。
「うん。約束する」
ブルーが、別れを察したようにギルダの足元へ近づいてきた。ファンは少し目元を赤くしながらも、しゃがみ込んでブルーの丸い頭部を優しく撫でまわした。
「お前も行っちゃうのかー……寂しくなるな」
ブルーの眼が、ファンの手のひらの下で細かく瞬く。いつもの静かな合成音声が、冷たい夜明けの空気に響いた。
『当ユニットにおけるメモリー領域内で、ファンおよびアイビーに関するログは「重要」に分類されています。以降、新規ログが追加されない仕様変更に対し、当ユニットは「非推奨」のフラグを立てます』
「そっか……おんなじ気持ちってことだな」
ファンは少しだけ照れくさそうに、けれど嬉しそうに鼻をすすって笑った。
「じゃあ、私たちは行くね」
ギルダは車のドアに手をかけ、二人を振り返る。
「まともなお礼もできないままでごめん。他のみんなにも、よろしく伝えておいてくれると嬉しい」
「こちらこそ、たくさん世話になったねえ」
アイビーが深く頷き、その無骨な顔に確かな慈愛を浮かべた。
「こっちのことは任せときな……あんたたちが、前を向いて生きていけるように願ってるよ」
「ありがとう」
ギルダは深く頷いて、運転席へ乗り込もうとした。――が、ブルーがその足元で、何故かせわしなくうろうろしている。
「……なに、ブルー?」
『抱っこを要請します』
「はいはい……」
ギルダは苦笑しながら、その丸い金属の筐体をよっこらしょと抱え上げ、助手席へと滑り込ませた。ブルーは満足そうにセンサーを明滅させると、短いアームを器用に動かしてカチリとシートベルトを装着する。
運転席に座ったギルダは、力強くアクセルを踏み込んだ。
「じゃあ、………いってきます!」
窓を開けて大きく手を振る。
テールランプの赤い光を残し、夜明けの美しい白銀の雪原を、ギルダたちはまっすぐに走り出した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ブルーが主役の回でした。




