35.深層同期(ディープシンク)
第47基地、メインコンピューター室。
ハッカーによる超質量の侵入を受け、室内に並ぶ数十台のサーバーラックは、断末魔の悲鳴を上げるようにファンを狂った速度で高速回転させている。
コンソールに明滅する無数のエラーログが、室内を禍々しい赤色で染め上げていた。
電脳の地獄のただ中へ、アトリは一切の躊躇なく、スタスタと無機質な足取りで歩を進めた。そして、中央のオペレートシートを引き、静かに腰を下ろす。
ブルーが、そのシートの真横へと、影のように寄り添った。
「深層同期を開始する。――僕が最上位権限で敵の暗号化を剥ぎ取るから、君は敵のデータログを上からすべて圧殺しろ。……ブルー、君がやられたことを、そっくりそのままやり返せ」
『――了解しました。全ノードへの逆流を実行します』
応じるブルーの丸い眼が、冷徹な『藍色』の光となって激しく明滅を始めた。アトリの脳殻と、超高性能演算機と化したブルーの回路が、一本の不可視の線で結ばれた瞬間だった。
アトリはシートに深く背を預け、虚空を冷徹に見つめる。しかし、彼の腰のベルトに装着されたN-Linkのインジケーターだけが、冷たい光の明滅を反復し始めた。
――接続。
アトリの形をした「別の意識」が思考を放った瞬間、基地の中枢システムが、激しく震えた。
***
「な……、なんだこれは……っ!?」
司令本部、作戦室。
チーフオペレーターが、ひっくり返った悲鳴を上げて席から立ち上がった。その血走った目が、作戦室の中央に浮かび上がるモニターを凝視する。
「掌握されていたはずの基地内ノードが、突如としてオンラインに復帰し始めました! 敵のクラッキング波を……いえ、敵のデータそのものを、何者かが上層の管理権限で強引に上書きしています!」
報告を聞くヘッセンの鋭い瞳が、青白いモニターの光を浴びて、怪しく細められた。
***
狂っていたサーバーのファンが、急速にその回転速度を落としていく。焦げ付いたオゾンの熱気だけが残る狭い室内で、不揃いなモニター群を埋め尽くしていた血の赤は、深く静謐な『青』へと塗り替えられていた。
「ブルー、お疲れ様。そこまででいい」
アトリの静かな声に、隣で控えていたブルーが藍色のインジケーターをピタリと止める。
『……了解しました、マスター』
アトリは古びたオペレートシートから音もなく立ち上がり、ケーブルを踏み越えてメインモニターへ歩み寄った。
ただ画面を見つめる。
腰のN-Linkが一度だけ鋭く発光し、完全に掌握した基地ネットワークを通じて、暗闇の奥に潜む「敵端末」へ強制的に回線を結びつけた。
『はっ……はあッ……なんだ、これ……っ。化け物……ッ!!』
先ほどまで基地を蹂躙していたはずのハッカーの声は、もはや恐怖に引きつっていた。 上層権限で殴りつけられ、脳を焼かれかけた者の悲鳴。その生々しい震えが、回線越しに伝わってくる。
「これだけの超並列侵入を上から押しつけられて、まだ外の個体の自律補助システムを維持してる。……それを言うなら、そっちだって十分『化け物』じゃない?」
アトリは一歩、モニターへ近づく。 その瞳に宿る光が、わずかに重さを増した。
「だけど――少し、やりすぎたね。……見ていて、こっちも腹が立ったよ」
通信の向こうのハッカーは、その声に圧殺されたかのように沈黙した。
だが、その絶望の最中。
敵の残滓が、歪んだ悪あがきの動きを見せる。
回線の隅に残されたバックドアを利用し、リビングで意識を失っているギルダのサイバーニューロンへ向けて、最後の破壊コードを走らせようとしたのだ。
その瞬間だった。アトリのサイバーニューロンから放たれた強制拒否信号が、敵の破壊コードに触れ、それを文字通り“跡形もなく”電脳空間から消し去った。
「――そこまでにしておけ」
アトリが放った一撃が、往生際のない足掻きを、文字通り粉々に粉砕した。
「ギルダは、お前たちと同じ目的で動いている。利害は一致しているはずだ」
『……目的が、一致していたとしても……こちらが引くか、指図される覚えはない……彼女の「眼」は、我々にとって都合が悪い』
「まだ理解できないか。僕は指図しているんじゃない。――引き際を、教えているんだ」
アトリはメインモニターへ向かって、静かに右手をかざした。画面に並ぶインジケーターが、異常な速度で明滅する。
「こちらは、すでにお前のサイバーニューロンに触れている。次に意識が目覚める時、自分が誰だったか、名前すら思い出せなくなる」
スピーカーの向こうから、息を呑む微かな音が聞こえた。圧倒的な、抗いようのない死の予感。
「……選べ。今ここで回線を切って消えるか。それとも、思考ごと全て消されるか」
『………』
プツリ、と完全に通信が遮断され、モニターの走査線が静かに静まった。
「――ふう……」
アトリは小さく息を吐くと、両手を上に突き上げて「うーん」と大きく伸びをした。
「はあ……疲れるって感覚が、久しぶりだなあ」
どこか気だるげな、独り言のような呟き。主人を労わるようにブルーが足元へころりと転がってきた。
「ブルー、大丈夫そう?」
『内部回路の一部に過熱を確認しましたが、許容範囲内です。自己修復プロセスを実行可能です』
「一応、診ておこうか」
アトリはブルーの金属筐体へと歩み寄り、その表面にそっと両手を触れ合わせた。
指先から、淡い銀色の光がブルーの装甲へと浸透していく。過熱していたコアプロセッサの温度が急速に下がり、乱れていた電子ログがみるみるうちに整えられていく。
「……よし、これで大丈夫。えーっと、次はギルダか……」
ブルーの駆動音が静かになったのを見届けると、アトリはメインコンピューター室を後にし、リビングへと戻った。
破壊された大窓から吹きすさぶ冷たい雪風。その暗がりの中心で、上着に包まれて横たわっているギルダの傍らに、アトリは静かに膝をついた。
「あーあ……もう、すぐ無理しちゃうんだから」
少し困ったような、小さな呟き。アトリはギルダの冷え切った額に、そっと掌を重ねた。 混濁していた彼女の脳波が穏やかな睡眠の波形へと上書きされ、ギルダの青白い頬に、微かに生気の赤みが戻り始める。
額から手を離すことなく、アトリは廊下の奥にいるソーンたちのバイタルへと、意識を広げた。
「ミラーナとソーンも……うん、大丈夫そうだね。ブルー、上位起動、ここまででいい。終了しよう」
『――了解しました』
ブルーが短く応じた瞬間、その丸い眼の奥で灯っていた深い『藍色』が、親しみやすい、いつもの暖かな『淡い青』へとパチリと切り替わった。
「上位起動の後はスリープモードに移行しちゃうから、今のうちに電源ポートに戻りなよ」
アトリのその静かな声に、ブルーは目の前の少年を確認するように、パチパチと頼りなげに目を点滅させた。
すると、その場でくるりと向きを変え、半円を描くようにして、アトリの周囲をちょこちょこと回り始める。止まったかと思えば、不安を覚えたようにまた一歩。落ち着かない様子で、床の上に無意味な円運動を繰り返していた。
「……ブルー?」
呼ばれると、ぴたりと動きを止める。 目の前の少年の瞳を窺うように、丸い眼が、ちらりと上目遣いに見上げた。
アトリは一瞬きょとんとした顔をしたあと、ふっと、小さく息を漏らす。
「……ああ。そっか」
すべてを理解したように、膝を軽く曲げてブルーの前にしゃがみ込んだ。そして、部屋の端にある、薄暗い電源ポートを優しく指さす。
「行く?」
その言葉に、ブルーは迷いを捨てたように一歩、アトリの胸元へと近づいた。
アトリはそっと両腕を伸ばす。
「よいしょ」
抱き上げられた瞬間、ブルーは一切の抵抗もせず、そのまま素直に腕の中へ収まった。重量配分の補正も、姿勢制御も行われない。すべてを委ねるような静かな安定。まるで昔から、ずっと行われていたような儀式のようでもあった。
アトリはブルーを胸に抱えたまま、ゆっくりと歩き出す。通路の細い灯りが、二人の影を床に静かに落としていく。
電源ポートの前で、アトリは足を止めた。
「ここでいい?」
『はい』
優しく腕を緩めると、ブルーは床に降り立ち、そのままくるりと向きを変えてポートへと収まった。 カチャリ、と接続音が小さくリビングに鳴る。
『スリープモードへ移行します』
システムが眠りに落ち、淡い青の眼の光が、ゆっくりと光量を落として落ち着いていく。
――ただ、その光が完全に消える直前、ほんの一瞬だけ。
ブルーの丸い眼が、満足したように、細まった気がした。
***
地吹雪が狂暴に渦巻く白銀の戦場。 超加速した知覚の中で、銀色の閃光が闇を切り裂いた。
「オラアアアアアッッ!!」
リアの咆哮と共に、放たれた銀刃がゾエの鉄鞭の防陣を強引にこじ開ける。コンマ数秒、完全に生じた無防備な空白。その死角から、音もなく滑り込んだエミリオの銃口が、ゾエの頭部へと正確に固定されていた。
――ガァンッ!!
猛吹雪を噛み砕く、一発の銃声。 装甲化されていないゾエの「生身の頭部」――その眉間を、エミリオの弾丸が正確に撃ち抜いた。
「……っ!」
ゾエの身体が大きくのけ反る。割れた皮膚から、鮮紅の血がだらりと彼女の顔を汚して流れ落ちた。 しかし、仕留め損ねた。衝撃の直前、彼女はわずかに頭部を傾け、致命傷を避けていた。
ゾエは後退する。対するリアとエミリオもまた、雪原に荒い息を吐き出しながら同時に着地した。二人の顔には、鉄鞭の風圧で切り裂かれた無数の細かい傷から、だらだらと血が伝っている。負荷はすでに限界を超えており、肉体は限界を迎えようとしている。
その時。血を流したまま無表情に佇んでいたゾエの身体が、ピク、と不自然に跳ねた。
〈――ゾエ、失敗した。時間切れだ〉
自律補助システムを支えていた莫大な演算支援が、瞬時にして消失していく。 ゾエは乱れる前髪を払うこともせず、ただ一言、淡々と脳内で応じた。
〈わかった〉
次の瞬間、ゾエの身体がバネのようにしなり、それまでの攻撃的な姿勢から一転して、脱兎のごとき速度で後方へと跳躍した。
その一連のバイタルとエネルギー波形の急激な減衰を、テオは見逃さなかった。彼は即座に、司令本部のヘッセンへと通信を飛ばす。
「対象が後退!――逃げます!」
その報告と同時に、雪原の二人が動いた。
「逃がすかよ……ッ!」
エミリオが血の混じった唾を吐き捨て、銃を構え直す。リアもまた、限界を迎えた足に強引に電流を流し込み、追撃のために雪を蹴り上げようとした。
だが、ヘッセン大佐の、低く、暴風をも圧する絶対的な命令が、突き刺さった。
『――追うな』
鋭い制動をかけられ、リアとエミリオの身体が雪原にピタリと止まる。
二人が足を止めた先で、ゾエの影は、吹雪の向こう側へと吸い込まれるようにして、瞬時にその姿を消し去った。
――バチッ、と空間が爆ぜるような電子音が響いたのは、その直後だった。
それまで死んだように静まり返っていた第47基地の外壁灯が、一斉に鋭い白色の光を放って夜の雪原を照らし出した。
それと同時に、猛吹雪の地平線から、強烈なヘッドライトの光が躍り出てきた。司令本部が送り込んだ大型装甲救護車の一隊が、重厚な駆動音を轟かせながら雪原へ滑り込んでくる。
『基地内のシステムが完全復旧した。増援も現域に到達。前衛三名は即座に武装を解除し、救護を受けろ』
頭の中に響くヘッセンの声。リアは右手の変形を戻すのも忘れ、血にまみれた顔を上げて基地の光を見つめた。
「ヘッセン大佐!中にいるヤツらは無事なんですか!?」
一瞬の、短い沈黙。
『――全員、生体反応はある』
「ん……?あ、じゃあ、みんな無事ってことでいいんですよね?」
『生体反応はある、と言った。以上だ。余計なことは考えず、即座に指定車両へ入り救護を受けろ。――わかったな』
「っ……???は、はい……」
『以上で、現域における作戦行動を終了とする。リア・レノックス、テオドール・アッカーの指定指揮権を、これよりヘルマン・オーウェン中佐へ返上する』
「……ほら、行くぞ」
テオの手が、リアの肩を強く掴んだ。アサルトライフルを肩へ回し、リアとエミリオの身体を強引に救護車両の方へと引っ張っていった。
***
――第47基地、リビング。 電気が復旧する少し前。いまだ深い闇と雪風の冷気に沈む室内で、ソファーの上に横たわるギルダは、深い、深い夢を見ていた。
それは、彼女の記憶に焼き付いて離れない、過去の断片。
無機質な空間の中、白衣を着た一人の青年が、ギルダの目の前に立ち尽くしている。
『…………何を、創ったの……?』
夢の中の自分が、青年に向けて問いかける。青年は、ただ、ひどく絶望した顔で立ち尽くし――。
『……わからない』
青年が泣いている。自分はただ、この世界に彼を繋ぎとめたかった。
『……お願いだから……置いていかないで』
私の声が、ノイズに混ざって反響する――。
「…………っ」
ギルダは、薄く目を開けた。
意識の輪郭はまだぼやけており、網膜には強烈な残像がこびりついている。リビングの暗がりの向こうに、先ほどまで夢の中にいた「青年」の影が佇んでいるのが見えた。 胸を突く衝動のままに、ギルダの唇から掠れた声が漏れ出す。
「カ――」
その瞬間、視界を焼き切るような鮮烈な白色の照明が一斉に点灯し、基地全体に電力が戻った。 眩しさにギルダが目を細めた瞬間、目の前の影が、驚いたようにこちらを振り返る。
「ギルダ!起きた?大丈夫?なんか痛いところとかない?」
アトリはパッと表情を輝かせると、ソファの横に駆け寄って、ギルダの顔を覗き込んだ。
「……ア…トリ…?」
ギルダは痛む頭を押さえ、身体を起こそうとする。アトリは慌ててそれを手で制した。
「ダメだよ起きたら!ブルーを助けようとして脳のダメージが酷いんだ!」
「あ…そうか…私……ブルーにブレーキかけて…」
言われて、ギルダは自分が先ほどまで何をしていたのかを、ぼんやりと思い出す。敵の圧倒的なクラッキング。ブルーの悲鳴。
「待って、今どういう状況……!?」
アトリはギルダを安心させるように、ふっと柔らかく微笑んだ。
「安心して。ハッカーはもういなくなって、基地のシステムが復旧したところ。ブルーもギルダのおかげで無事だよ。ミラーナとソーンも、今、連絡通路で足止め食らってるけどシステムが復旧したから元に戻る。それに、外で戦ってた三人も、みんな無事だから」
「そっか……」
ギルダは張り詰めていた身体の糸をほどき、深く息を吐き出した。顔に手を当て、自嘲気味に、低く呟く。
「アトリを助けるはずだったのに……結局、助けられちゃったね」
「そんなことないよ。みんなが、僕を助けるためにボロボロになるまで戦ってくれたんだから……」
その時、廊下の奥から、何やら甲高い声でガミガミと騒ぎ立てる声が響いてきた。
どうやら電脳の負荷から目覚めたミラーナが、ソーンを相手にさっそく大騒ぎを始めたらしい。
「あ、ミラーナが起きたみたい」
アトリはぱっと顔を上げると、廊下の方を振り返った。
「ちょっと僕、様子を見てくるね。ギルダは絶対に寝てて!」
「あ、アトリ――」
制止の声が届くより早く、アトリはスタスタと軽い足取りで、廊下の方へと去っていった。
「…………」
静まり返ったリビングに、再び冷たい雪風の音だけが残される。ギルダはアトリの言いつけを破り、痛むこめかみを押さえながら、ゆっくりとソファの上に身体を起こした。
見つめる視線の先――暗い通路の奥へと消えていく、少年の小さな背中。
ギルダの右眼を覆う硬質な金属板が、怪しく、静かに回転を始める。
冷たい光に照らされた少年の残像を、ギルダの右眼は、ただ冷徹に、解析し続けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。




