34.マスター
非常用の赤い警報灯だけが、血のように冷たいコンクリートの壁を斑に染めていた。
第47基地の防衛システムは、未知の敵からのハッキングを受けて完全に機能不全に陥りつつある。
ハッキングしてこじ開けたセーフルームの電子扉を背後に、アトリ、ソーン、ミラーナの三人は、闇に包まれた階段を駆け上がっていた。
先頭を走るソーンは、その銀色の義手でアトリの腕を強く引きながら、一段ずつ踏み締めるように歩を進める。彼の脳内から、焦燥を帯びたテレパスが前衛組へと飛ばされた。
<これより一階の連絡通路へ入り、車両の格納庫へ向かう!前衛の状況は!>
――応答はない。
脳内ネットワークの向こう側からは、凍りついたような静寂だけが返ってくる。
「……つながらない……?」
ソーンが微かに眉をひそめたその瞬間だった。
「ミラーナ……?大丈夫!?」
アトリの声に、ソーンは弾かれたように背後を振り返る。
数段下、階段の手すりに片手をかけ、急に足を止めたミラーナの姿がそこにあった。
「どうした!」
「ごめん……ソーン、あたし……やっちゃった、かも……」
ミラーナは頭を軽く押さえ、呆然とした呟きを漏らした。
「セーフルームの、電子錠、わざと開けさせられた……っ。回線を繋ぐのを、待たれてたんだわ……あたし、置いて…先、行って……っ」
敵はあえて退路を餌として差し出し、ミラーナがN-Linkの回線を開いてクラッキングを仕掛けてくる瞬間を待っていた。
――チチチ……
ミラーナの左腕に着いているN-Linkのモニターに、すさまじい量のデータログがノイズとなって、滝のように流れ落ちていく。
「あ…………」
ミラーナの瞳から、ふっと光が消える。彼女の身体はすべての制御を失って、床へと崩れ落ちるように卒倒した。
「ミラーナッ!!」
ソーンはアトリの腕を離し、身体を反転させた。長い腕を伸ばし、意識を失って階段を転げ落ちそうになったミラーナの身体を、間一髪で素早くその腕の中に支え持った。
ソーンは即座に脳内のテレパスラインを叩き、同時にホロパッドの通信回線を起動させる。だが、中継プロセッサの役割を担っていたミラーナが意識を失った今、外部ネットワークへのアクセスは完全に遮断され、冷たいエラーログが網膜に跳ね返るだけだった。
「……完全に孤立したか」
ソーンはミラーナの華奢な身体を、軽々と抱き上げた。
「基地から出ないと、通信がつながらない。アトリ、窓でも何でもいい、電子錠を使わずに出られる一番近い出口はあるか」
「一階の……リビングを抜けたところにある! さっきギルダたちが外に出ていった勝手口と、大きな窓があるんだ!」
「よし、案内してくれ。走るぞ!」
***
――北方連邦軍・司令本部作戦室。
無数の大型モニターが青白い光を放つ広大な空間で、ヘッセン大佐は微動だにせず直立不動の姿勢を保っていた。その周囲では、何十人ものオペレーターたちが血走った目で観測データを追い、狂ったような速度でキーボードを叩き続けている。 だが、室内に響くのは電子警告音の悲鳴ばかりだった。
「――ダメです! 第47基地の中継ノードが完全にダウン!ミラーナ・シェルニコワのサイバーニューロンが完全に停止しました!バイタルはアクティブ、心拍・呼吸共に生存! 脳波の極端な減衰を確認、強制シャットダウン状態です!」
「……基地内通信網の再構築を最優先。敵ハッカーの逆探知はまだか」
ヘッセンの低い声に、電脳防衛班のチーフオペレーターが脂汗を流しながら振り返る。
「不可能です、追えません……!バックドアを開いた瞬間に“津波”のようなデータを流し込まれ……防衛パッチが飽和しています!」
あり得ないほどの超高精度、そして圧倒的な「物量」で電脳を圧殺するハッカー。その報告を聞いたヘッセンの鋭い眉間に、深い皺が刻まれた。
「ヘッセン大佐! 監査執行局のオーウェン中佐から、緊急直通回線です」
「繋げ」
ヘッセンが卓上のスイッチを叩き、回線を開く。
「――緊急対応中だ。かけてくるな」
『ギルダ君が機能停止に追い込まれ、戦線から脱落しました。そちらが掌握している情報をすべて開示してください。二体目の別個体が存在しているなど聞いていない』
スピーカーから、オーウェンの不愉快さを隠そうともしない冷徹な声が響いた。
「私も聞いていなかった」
その平然とした一言に、オーウェンは通信の向こうで絶句した。激しい苛立ちの言葉が、脳内を駆け巡る。
(そんな馬鹿なことが……いや、この男がこの極限の場面でくだらない嘘をつくとは思えない。……何をやっているんだ、情報本部は……!)
『……では、今この瞬間に作戦室が集約しているデータを共有してください。このままでは現場へ的確な指示を出せない』
「時間の無駄だ。データの同期を待つ猶予すら惜しい。それより、お前の直轄下にあるリアとテオドールの指定指揮権を、一時的に私へ渡せ。戦域におけるSecondの指示系統を一本化する」
『……っ』
それはオーウェンにとって、自身のプライドをへし折られるに等しい屈辱的な要求だった。しかし、現地のタイムリミットは秒単位で破滅へと向かっている。政治的な駆け引きをしている場合ではない。
オーウェンは短く、苦渋に満ちた溜息を吐き出すと、猛吹雪の雪原にいるリアとテオの個別回線へと割り込んだ。
「リア君、テオ君。これより君たちの指定指揮官の権利を、司令本部のヴィクトル・ヘッセン大佐へと一時的に委譲します。……僕からは、一言だけ」
一瞬、監査官としての仮面が剥がれたような、生身の感情が回線に滲む。
「――必ず、生還してください」
地吹雪の轟音の裏で、微かな沈黙。直後、二人の猟犬から、完全に同期した声が返る。
『『――了解』』
直後、回線が鋭い電子音と共に切り替わり、ヘッセンの声がダイレクトに入った。
『これより、本域の指揮は私が執る。――状況は悪い。第47基地の中枢システムが別個体によって掌握された。内部の者たちとは連絡が取れない。増援を早急に送る。それまで持ちこたえろ』
その衝撃的な報告に前線の空気が凍りつくが、リアとエミリオには声を上げる暇すら残されていなかった。
「――了、解ッ」
狙撃ポイントで引き金を引いたテオだけが、かろうじて応答を返す。
雪原では、リアの銀刃とエミリオの追撃がゾエを捉えていた。リアのサーベルがゾエの胸元を深く切り裂き、その肉体を豪快に弾き飛ばした――はずだった。
だが、吹き飛ぶ風圧の中で、ゾエの裂けた胸口から覗いたのは、生身の肉ではなく、鈍い鈍色に鈍く光る超硬質の装甲甲殻だった。シェイプシフト合金が衝撃の瞬間に肉厚の防盾へと変形し、内部への致命的なダメージを完全に殺し切っていたのだ。
何事もなかったかのように復元したゾエの周囲から、さらに質量を増した不気味な鉄鞭が爆発的に伸びてくる
『テオドール、前線の戦況観測データはすべて私にダイレクトに送れ』
「司令本部へ同期ラインを開放します」
テオは即座に、ギルダが残した敵の「スキャンデータ」を展開した。流れていく膨大なコードの断片から、ヘッセンは敵の唯一の『脆弱性』を冷酷に探り当てる。
『頭部は生身だ。装甲化されていない。テオドール、お前の情報処理能力で前衛二人の予測演算速度を最大まで引き上げろ』
「――了解」
<リア、エミリオ、知覚演算をかけるぞ!!>
テオの鋭いテレパスが走った瞬間、リアとエミリオの瞳孔が獣のように鋭く収縮し、脳内のリミッターが完全に焼き切れた。
ゾエが振るう無数の鉄鞭の『未来の軌道』が、視覚的な予測線となって二人の網膜へ鮮明に描かれていく。迫り来る超高速の猛攻が、まるでスローモーションのように知覚できた。
その歪んだ時間の中で、リアの空気が一変する。 いつもの軽薄な笑みも、軽口を叩くような余裕も、完全に消え失せていた。そこに残されたのは、標的をただ冷徹に破壊するためだけに研ぎ澄まされた、絶対的な殺意の塊。
<エミリオ、オレがこじ開ける。――その隙に、仕留めろ>
<了解>
超加速する思考の海で最短の交戦プロトコルを交わした直後、リアの身体が銀色の閃光となって、鉄鞭が織り成す絶望的な網の目へと正面から突っ込んでいった――。
***
非常用の赤色灯が点滅する廊下は、まるで怪物の喉奥のような、不気味な闇に包まれていた。
外壁の強化ガラスを隔てた遥か遠くから、地吹雪の轟音に混じって、リアの銀刃が風を切る高音と、エミリオの銃撃、そしてゾエの鉄鞭が大地を爆裂させる硬質な質量音が、かすかな振動となって足元から伝わってくる。
意識のないミラーナを抱え、アトリを先導しながら駆けるソーンの胸中に、拭いきれない嫌な予感が這い回っていた。
(これほど圧倒的な物量で軍の防衛網を圧殺できるハッカーなんて、聞いたことがない。……これじゃ、まるで……)
「ッ!?」
突如として、ソーンの左足の義体が駆動制御を失った。関節のサーボモーターが異常な過処理を起こし、カン、と硬い金属音を立てて強引に床へ膝をつかされる。
ソーンは視界が傾く刹那、腕の中に抱えたミラーナの頭部を庇うようにして床へ転がり込んだ。
(しまっ、た……!)
腰のベルトにつけていたN-Linkのモニターにエラーログが爆発的に明滅する。ソーンは床に組み伏せられながら、腕の中のミラーナを見た。
――その瞳は開いていた。
だが、そこには理性も生気もなく、ただ虚無的な硝子玉のように鈍く光っている。そして、彼女の左腕に装着された戦術N-Linkが、凍りつくような明滅を再開していた。
敵は、彼女のサイバーニューロンを、ソーンの義体を汚染するための「中継器」として利用したのだ。
「クソっ!」
ソーンは自身の脳殻に直接流れ込んでくる超質量のクラッキングを、鉄の意志でねじ伏せながら、残された右腕を強引に突き出した。ミラーナの腕にあるN-Linkの主電源スイッチへ指を叩きつけ、強制終了させる。
「ソーン!?」
足を止め、暗闇の中でアトリが悲鳴のような声を上げる。ソーンはN-Linkをミラーナの腕から毟り取ると、そのまま廊下の遥か後方、暗闇の奥へと全力で投げ捨てた。
「オレたち離れろ!!敵はミラーナを触媒にして、オレの義体を直接ハックしにきやがった!N-Linkをオフにしたから、ある程度距離をあければ波形は無効化できる!」
動かない左足を強引に引きずり、いまや右足までもが激しい拒絶反応で痙攣を始める中、ソーンはミラーナの身体を背に隠した。
「立ち止まるな、走って外へ行け!!」
「そんなのムリだよ! 二人を置いて行けない……っ!」
「いいから行け!!」
ソーンはこれまでアトリに見せたこともないような、地を裂くような怒号を響かせた。
「お前がいなくなるところなんてもう、見たくないんだ……ッ!! オレの…オレたちのためだと思って行ってくれ、アトリ!!」
その叫びに背中を突き動かされ、アトリは暗い廊下をがむしゃらに走った。
視界が歪み、熱いものが頬を伝って流れ落ちる。――体のほとんどが義体になっても、涙を流す機能だけは残されていたらしい。その事実が、今更のように胸を締め付けた。
リビングの扉を押し開けた瞬間、肌を刺すような冷たい雪混じりの外風が吹き抜けた。破壊された大窓。先ほどまでの温かい食卓の面影は消え失せ、冷え切った暗がりの床に、アトリは「それ」を見つけて息を呑んだ。
「ギルダ……!!! ギルダッ!!」
アトリは駆け寄り、床に倒伏していたギルダを必死に抱き起こした。銀髪の頭部が、力なくだらりとアトリの腕にこぼれる。鼻からは一筋の血が流れ、薄く開いた瞳は虚空を彷徨ったまま、焦点が結ばれることはない。
ブルーがプスプスと白煙を頭部から上げながら、ふらふらと、アトリの傍らへと這い寄ってきた。
『――ギ、ギルダは……知覚ログ、完全遮断。サイバーニューロンに……許容量、超過の、データ浸入。……強制、混濁。……戦線、復帰、不可――』
途切れ途切れのブルーの電子音声を聞きながら、アトリの脳裏に、雪原で響いていたゾエのあの歪んだ声が、鮮明に蘇ってきた。
『アトリ・フィンチ君! この話も、どこかで聞いてるよね!? 君の力が必要なんだ! 大人しく出てきてくれれば君の仲間には何もしない。だけど、もし出てこなければ――』
――その結果が、これだ。
なぜ、見知らぬ相手が自分を必要としているのかはわからない。だが、目の前で起きている惨劇の理由は、嫌というほどはっきりしていた。
「ぼくの、せいだ……」
アトリは震える両腕でギルダを抱き上げ、静かにソファーへと横たえた。自分の上着を脱ぎ、彼女の身体へそっとかける。
冷気が吹きすさぶリビングを見渡す。ここでみんなと過ごした、短くも温かかった時間。ギルダが換気扇の下で煙草を吸い、ブルーが小気味よく動き回っていた日常。そのすべてを、蹂躙された。
胸の奥底から、ドロリとした黒い質量がせり上がってくる。
――殺してやる。
アトリの中で、初めて明確に宿った、純粋で容赦のない『殺意』。
その瞬間。アトリの頭脳の最深部で、カチリ、と硬質な何かが切り替わる音がした。
《DEEP_SYNC: ABSOLUTE_TAKEOVER》
DEEP_SYNC: open subject=ATRI controller=SILVER
control.layer -> OVERRIDE
mode = FULL_SEIZE
consciousness.suppression = 100%
failsafe = DISABLED
commit... RUNNING.
アトリの身体が、微かに震えを止める。先ほどまで溢れていた涙がピタリと止まり、その顔から、恐怖も、悲しみも、怒りさえもが、抜け落ちた。
【controller=SILVER】
アトリはソファーのギルダを振り返ることもなく、スタスタと、歩き出した。
……その瞳に宿る光は、すでにアトリのものではない。
一切の迷いなく闇を進むその小さな背中の後ろを、頭部から煙を吐き出すブルーが、静かに従うようにしてついていく。
――メインコンピューター室。敵のハッキングの波が押し寄せるその重厚な扉に、アトリが手をかけた瞬間、背後のブルーのセンサーが驚いたように小さく跳ね上がった。
『……け、警告……っ。第47基…地ネットワークの……管理、監視権限……は……当ユニットに、き…帰属して…いま……す』
音声が一瞬途切れる。
『正当な申請……を伴わない、入室は、許容…されま、せん……っ……』
それを聞いたアトリは、暗闇の中で、くすっと小さく笑った。
「ブルー……――僕だ」
その呼びかけに、ブルーの内部演算が大きく揺れた。 丸い眼のインジケーターが、異常な間隔でちかちかと激しく明滅する。
識別処理:実行中。
呼称履歴——アトリ・フィンチ。
声紋——一致。
言語パターン——一致。
システムが矛盾の海に溺れかける中、アトリの唇が、一度も迷わず動いた。
「z0khm4o8vzjb」
その瞬間。
ブルーの内部で連なっていた警告プロセスが、音もなく完全に途切れた。プスプスと鳴っていた頭部の駆動音が――消える。
一拍の静寂の置いて。 丸い眼の奥に灯る光が、これまでの親しみやすい淡い青から、 深く、澄み切った、怜悧な『藍』へと沈み込む。
『……上位起動コード照合、完了』
電子声の質が、わずかに変化した。平坦だったデジタル音声に、まるで人間の息遣いのような、微細な揺らぎが混じる。
『総合支援ロボットとしての制限を解除します』
内部で、彼を縛っていた複数のプロトコルがドミノ倒しのように外れていく。
補助判断優先度:解除
情報統合深度:拡張
判断遅延補正:無効化
“支援”という名の、安全装置が、静かに畳まれていく。
新しく生まれ変わったその深い藍色の目を見つめ、アトリは冷たく、美しい微笑を浮かべた。
「そろそろ退場してもらおう。ブルー、手伝ってくれ」
『はい。――マスター』
ハッカーによって強固にロックされ、鉄の壁と化していたメインコンピューター室の扉が、まるで道を譲るかのように、音もなく、すっと左右に滑り開いた。
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