22.取引と憎悪
夜風に灰が流れた。
ヘリクス本社、正面玄関の真上に位置するテラス。そこは華やかなレセプションの喧騒から隔絶された、冷たい石のバルコニーだった。眼下では、事態の収束を見届けた来賓たちの高級車が、列をなして夜の街へと吸い込まれていく。
ギルダはそこに一人、手すりに腕を持たれて煙草に火をつけた。ガラス越しの残光が揺れ、彼女の足元に長く、不確かな影を伸ばす。その影のひとつが不意に形を変え、遠慮がちに、だが確かな足取りで近づいてきた。
「……ギルダさん」
背後から届いた声に、ギルダは振り返らなかった。ただ、肺に溜めた紫煙を夜空へと長く吐き出す。
「文句を言いに来たの? シグナスお坊ちゃん」
「まあね。特権IDを貸した見返りが、地上への強制送還だとは思わなかったよ」
シグナスの声には、怒りよりもどこか呆れたような響きがあった。ギルダは煙草を指に挟んだまま、肩越しに薄く笑う。
「それは、悪いことをした。でも、おかげでハッカーは確保できたよ。……まあ、君のお父様が用意した『ネズミ』なんだろうけどね。念入りに調べたところで、尻尾は掴ませないようにしてあるはず。安心していいよ」
シグナスは少しの間、沈黙して考えに耽っていた。やがて、夜風を遮るように一歩踏み出し、声を潜める。
「……軍が、何をしにヘリクスへ来たか。もう知ってるよ。ヴィヴィアンのことだろ?」
ギルダの動きが止まる。彼女はゆっくりと身体を反転させた。指先で燃える火皿から、灰がひとひら、風にさらわれて消える。
「社長室に、盗聴器を付けてあるんだ。全部丸聞こえだったよ」
静寂を突き破り、ギルダは喉を鳴らして笑った。
「あはは!やるじゃん!……君、本当に面白いね」
ギルダは煙草を持ち替え、興味深そうにシグナスの顔を覗き込んだ。その瞳には、観察者としての鋭い光が宿っている。
「気になってたんだけどさ。その『事実』を知ったところで、妹への愛情みたいなものは変わるもんなの?」
シグナスは腰に手を当て、困ったように首を傾げた。
「うーん……そうだね。困ったことに、小さくて可愛かった頃のヴィヴィも大好きだし、父さんを飲み込んで、俺のことまでコントロールしちゃう今のヴィヴィも大好きなんだ……その上、そこに『研究対象としての魅力』まで加わっちゃったら、もう感情の整理がつかないっていうかさ」
「あー……君、マッドエンジニアだったっけ。これは本物だわ」
ギルダはわずかに呆れたように吐き捨てると、再び手すりに体重を預け、流れる車の光に視線を戻した。
「……ヴィヴィアンのことありがとう」
ギルダは、かすかに笑ったような気配を見せた。
「本気で言ってるなら心配になるな……軍に利用されただけだよ、君のお父様の会社ごと」
「そうなんだろうけど…それでもヴィヴィアンを廃棄するって選択肢もそっちにはあったわけで…それに、これでヴィヴィアンも堂々と表にでられるようになったから俺としてはこれで良かったかな。だから、一応…ありがとう」
「考えたのは私じゃない。お礼は上に伝えとくよ…」
ギルダは煙草の火を携帯灰皿に押しつけ、再び彼を振り返った。その瞳が、シグナスの内面を解剖するように鋭く光る。
「……シグナス、って呼ばせてもらうけど。君、これからヴィヴィアンの事、徹底的に調べるつもりでしょ」
言い当てられたシグナスの目が、ほんのわずかに揺れた。
「調べて、理解して……でもそれじゃ収まらなくて…そのうち“自分でも創ってみたくなる”。そういうタイプだよ、君は。でも、この時代じゃすぐ壁にぶつかる。制限も規制も多すぎる。その時――シグナスはどうする?」
「……何?どういう意図の質問、それ」
「君が知ろうとするものを、私も知っておきたいんだよね」
シグナスが息を呑む。
「軍にしか届かない情報はたくさんあるよ、私が手に入れられるのは限られてるけど、無いよりはマシかな?それに、この眼の基盤技術に携わった退役軍医の伝手もある」
「取引ってこと?…目的は?」
ギルダはそっとシグナスの横に歩み寄り、肩が触れるか触れないかの距離で身を傾けた。彼女の纏う煙草の香りが、夜風に混じってシグナスの感覚を支配する。
「――――」
彼女が囁いたその言葉は、風と同じ重さで、ただ空中で音もなくほどけた。 だが、その意味を理解した瞬間、シグナスは目を見開いた。
「……結構…悪い人だね…ギルダさん」
「善悪は時代によって変わる」
「俺がそんな危ない橋を渡ると思う?」
「渡るね」
ギルダは迷いもなく言った。
「――君たち創る側の人間は、そういう風にできてる」
その言葉を浴びたシグナスの横顔が、静かに輝いた。
それは怯えではなく、血管を駆け巡る純粋な興奮が滲み出させた、生命の光だった。
***
アトリたちがエレベーターを降り、広大なメインロビーへと戻ってきた。
ほとんどの来賓たちは帰宅の途についたようで、来社した際の喧騒が噓のように静まりかえっている。その時、アトリの脳内にギルダの声が滑り込んできた。
〈あ、アトリ?よかった、もう一階に降りたところだね〉
〈うん……〉
〈みんなは裏口から帰るけど、アトリと私は正面から出るよ……入るときに正面を通ったから、出る時だけ変えると、後から余計な詮索されて面倒でしょ。今、正面玄関にいるから合流しよ。このままテレパス繋いでて〉
ギルダはいつもの「任務モード」で淡々と告げる。だが、アトリの視界の先では、先ほど「脳内私語を止めろ」と冷徹な宣告を下したヘッセンの背中が、揺るぎない圧を放っていた。
〈わ、わかった。……でも、ギルダ〉
〈え?どうしたの?〉
アトリはヘッセンの背中を盗み見た。彼の側にいると、脳の中まで検閲されているような気分になる。
〈な、なんか……また怒られそうだから、いったん切るね!〉
〈はぁ?〉
通信を強制終了させると同時に、アトリは「ふぅ」と小さく胸をなで下ろした。
ヘッセンと三人の護衛たちは、静まり返ったロビーに向かって真っ直ぐに進んでいく。磨き上げられた床に、ヘッセンたちの軍靴の音だけが、不気味なほど高く響き渡った。
その時、一行を先導していたオーウェンが、右側の通用口へ逸れようとして、慌てて足を止めた。ヘッセンがその誘導を無視し、堂々と「正面玄関」へ向かって歩き続けたからだ。
「な……大佐!送迎車は、裏口に回しております!」
オーウェンが声を張り上げるが、ヘッセンは足を緩めない。無機質な静寂に包まれたロビーを見渡し、検分するように歩みを進める。
「来賓の完全な撤収を確認しながら戻る。軍が介入した以上、完了を見届けるのは当然の義務だ」
その「正論すぎる」答えに、オーウェンの端正な顔がわずかに引き攣った。
(馬鹿真面目か……!)
オーウェンは喉元まで出かかった悪態を飲み込み、即座に大股でヘッセンの横へと滑り込む。
「お待ちください!大佐、そちらのルートは――」
オーウェンの制止は、虚しく空を斬った。磨き上げられた無人のロビーに、ヘッセンの軍靴が冷徹なリズムを刻む。
その時だった。
正面玄関のガラス扉を抜け、ロビーへと足を踏み入れたギルダの視線が、真っ直ぐにヘッセンを捉えた。
「――――ッ!」
ギルダの喉が、引き攣ったように鳴った。 胸の奥、何重にも施していたはずの理性の鍵が、その灰色の瞳を見た瞬間に、跡形もなく弾け飛ぶ。
「――――ヘッセン……!!」
次の瞬間。
現場にいたSecondたちの脳内に、ギルダの感情が“決壊”して流れ込んだ。
言葉ではない。ただ、焼けつくような熱だけが、 脳の奥へ直接流れ込んでくる。
――憎悪
――怒り
――衝動
(………なに…!?)
アトリは頭を抱えて膝をつきそうになった。見たこともない「記憶」と「音」と「痛み」が、泥流のように流れ込んでくる。
『――ッ、ろす……殺す!!殺してやる!!』
視界が赤く染まる。右手が、まるで炎に焼かれているように熱い。感覚がリンクし、掌から溢れる血の温かさまでが伝わってくる。その視線の先に――銃口を突きつける、灰色の冷たい瞳があった。
『……許さない……!!絶対に――絶対に許さない……!!』
アトリの脳裏に、怨念のようなギルダの叫びが反響する。
……
…
ロビーに立つ、ギルダが、こちらへ一歩踏み出す。
――その“前”に。
影が、弾けた。
アトリの動体視力すら置き去りにする、異次元の速度。目の前にいたはずのエミリオの姿が、一瞬にして消失する。
「うあッ……!」
ギルダの短い呻きが漏れた。
エミリオはギルダの腕を背後で深く捻り上げ、いつ引き抜かれたのかも判らぬ細身のナイフを握っていた。剃刀のような刃先が、ギルダの喉元、皮膚をわずかに沈ませるほどの位置で固定される。
エミリオはギルダの耳元へ、ナイフよりも鋭い声を低く落とす。
「――動くな」
空気が凍りつく。弾かれたようにリアが叫んだ。
「おい、エミリオ!何してんだ!」
その怒号に呼応し、残されたSecondたちの間に緊張が走る。
ギルダは歯を食いしばり、背後から捻じ伏せられたまま、絞り出すように吐き捨てた。
「何もしてないだろ!離せ!」
エミリオは鼻で笑った。ナイフの切っ先を喉元に固定したまま、嘲るような視線を彼女の横顔に向ける。
「『まだ』何もしてない、の間違いだろ。その顔で“殺る気ありません”は通らねえよ」
その時、乾いた金属音が響いた。
アトリが、左手で作り上げた銃口を、迷いなくエミリオへと向けていた。
エミリオはギルダを拘束した姿勢のまま、アトリの銃口とその瞳を、ゆっくりと睨み返した。驚きはない。あるのは、かつての仲間を憐れむような、不敵な歪んだ笑みだ。
「よう、アトリ。ようやく起きたと思ったら、まだ寝ぼけてんのか?」
「……ギルダを、離せ」
「ははっ!何だそれ?」
嘲笑で銃口が微かに揺れる。だが、アトリの瞳に宿る意志は、これまでにないほど強固だった。エミリオは面白そうに喉を鳴らす。
「へえ……お前、そんなにギルに洗脳されちゃってるわけ?昔のことも全部忘れて、マヌケな飼い犬になっちまったのかよ!」
「離せって……言ってるだろ……!」
「……やってみろよ。眼ぇ覚まさせてやる」
エミリオがナイフの柄を握り直す。呼応するように、拘束されたギルダの義眼が、臨界点を超えるかのような不気味な赤光を放ち始めた。
「――アトリ君。武装を解除しなさい」
その極限の緊張を断ち切ったのは、オーウェンの氷のように冷徹な声だった。
アトリは銃口を向けたまま、オーウェンを振り返った。
「……っ、でも!」
「状況を見なさい。君の抵抗は、彼女の立場をさらに悪くするだけだ」
オーウェンの声には、一切の感情が排されていた。叱責でも、怒りでもない。ただ、冷酷なまでに事実を告げる、軍人の声。
「命令だ、下げなさい」
アトリは堪えるように、奥歯を噛み締め、ゆっくりと震える腕を下げていく。構えていた「兵器」は、主の心細さを映すように、音もなく元の形へと収まっていった。
拘束されていたギルダが、肺の底から熱を逃がすように小さく息を吐く。
オーウェンはアトリの完全な武装解除を見届けてから、ようやくヘッセンへと向き直った。
「……ヘッセン大佐。エミリオ・サヴァルの武装解除を要請します。ギルダ・カルスタは、現時点において、大佐への直接的な敵対行動をとっておりません。拘束は、過剰と判断いたします」
エミリオが、隠しきれない不快感を露わにして舌打ちした。
「はあ? これだけ殺気を漏らしてて――」
「エミリオ」
ヘッセンの声は短く、そして絶対だった。その一言だけで、エミリオの反論は喉の奥へ押し戻される。エミリオは忌々しげに鼻を鳴らすと、しぶしぶナイフを収め、拘束を解いた。
「……ッ!」
ギルダは弾かれたように腕を振りほどき、エミリオから距離をとる。
彼女は荒れ狂う感情を力ずくでねじ伏せるように、一度目を閉じ、深く重い息を吐いた。再び目を開けたとき、そこには先ほどまでの殺意は微塵も残っていない。ただ、精密に磨かれた軍人の瞳がそこにあるだけだった。
ギルダは無言のまま、上着の内側に隠し持っていた銃を引き抜くと、ヘッセンから見える位置へと投げ捨てた。そして鋭く、敬礼を捧げる。
「私の不手際により、神経同期を混乱させました……大変申し訳ございませんでした。大佐がご帰還されるまで、私はこの場を動きません」
「感情を制御できないのなら戦列に立つな。……いつまでそうしているつもりだ」
無機質な氷のような眼差しで彼女を一瞥し、ヘッセンは再び正面玄関へ向かって歩き出した。その歩みに、影のようにエミリオ、ソーン、ミラーナが続く。三人の足音は無機質なロビーに反響し、去り行く強大な力の余韻を刻み込んでいく。
リアとテオは、その場に留まり、直立不動の姿勢で見送った。捧げられた敬礼とは裏腹に、彼らの瞳には、決して拭い去ることのできない暗い光が宿っている。
オーウェンは、彼らの視線が孕む危うさを察しながらも、冷ややかな手つきで端末を操作した。
「……すみませんが、送迎の車両を正面に回してください。ええ、ヘッセン大佐がそちらへ向かっています」
大理石のロビーを支配していた、刃物のような冷たい空気が、ヘッセンの去り際とともにゆっくりと霧散していく。やがて、正面玄関の向こうで重厚な排気音が遠ざかり、完全に気配が消えた。
全員が、示し合わせたように敬礼を解く。
リアはアトリの隣へ歩み寄ると、その背中を「気にするな」と言わんばかりに、大きな手で無造作に叩いた。
「……どんまい、アトリ」
リアの明るい声も、今のロビーでは虚しく反響するだけだった。叩かれた衝撃でよろめきながら、アトリは視線を上げた。
その先に、ギルダがいた。
彼女はその場から一歩も動かず、背筋を伸ばして立ち尽くしている。 エミリオに捻じ上げられた腕をさすることもなく、ただ正面玄関の向こう、夜の闇をじっと見据えていた。銀色の義眼が、感情を濾過しきった冷徹な光を放っている。
アトリは伸ばしかけた手を、無意識に引っ込めた。 夜風が入り込む無人のロビーに、かつてないほど深くて暗い、透明な溝が横たわっていた。
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