17.孤独な魚
貴賓用応接室の中央にも、アトリウムと同じ“青い海”があった。天井まで届く円柱水槽が静かに揺れ、光が壁に波紋を投げかけている。
その前で、アトリは緊張した面持ちで右手を構えた。ギルダとヴィヴィアンは、左右から同じ表情でため息をつく。
「……じゃ、じゃあ……いくね」
アトリの指がわずかに震え、次の瞬間、金属音とともに“ブレードフォルム”へと変形した。シグナスの目が、爆発した。
「速ッ……!!ちょっと待って!!」
彼はポケットから小型デバイスを取り出し、水槽の光を反射させながらアトリに詰め寄る。
「今の変形速度、何秒!?いや、違う、初動のトリガーはどこ!?筋電?脳波?それとも内部クロックの同期!?タイム計りたい!ログ取りたい!ていうか、分解……は無理か、さすがに!」
「えっ……ええっ……?」
アトリは完全に押され、ブレードのまま後ずさる。
しかしシグナスは止まらない。アトリの手を覗き込みながら、息を弾ませる。
「それってさ、どこまで複雑な形いけるの!?関節数は?可動域は?内部の応力分散どうしてんの!?“刃”だけじゃなくて、工具とか、マニピュレーターとか…… まさか、流体金属レベルの再構成まで……?」
アトリはぽかんと目を瞬かせた。
「マニ、ピュ……???」
「えっ、困ってる!?あ、ごめん!でもこれ、技術者として聞かずにいられないだろ!? だって“動くシェイプシフト合金”だよ!? こんなの実在するわけ……いや、目の前にあるけど!!」
ギルダは、その様子を横目で見ながらヴィヴィアンに声をかけた。
「……大変、ユニークなお兄様をお持ちですね」
「す……すみません……兄ったら昔からあんな感じで……」
ヴィヴィアンは申し訳なさそうに身を縮める。
「まあ、エンジニアなら取り乱しちゃうのもわからなくはないけど……ところで。あなたは、さっきまでお兄さんと何か揉めていたみたいだけど、大丈夫?」
ヴィヴィアンは、水槽の中をゆらゆらと泳ぐ魚に視線を落とした。
「……私、昔から体が弱かったので、父が少し過保護というか……あまりこういうオフィシャルな場に連れてきてもらったことがなくて。今日も本当は参加する予定はなかったんです。でも、シグナスがこっそり連れ出してくれて……もう、雰囲気だけは見られたから、私はそれで十分なんですけど……」
シグナスはアトリの腕に夢中になりながらも、妹の言葉はしっかりと拾っていた。
「ヴィヴィ! もう、十五歳になったんだから遠慮してちゃ駄目だ!こういう華やかな場所は、ヴィヴィにこそ向いてるんだよ!」
ヴィヴィアンは頬を赤らめ、 ギルダは「……なるほどね」と小さく呟いた。
その横で、シグナスはついにルーペを取り出し、アトリのブレードに当てて覗き込み始めた。
「父さんも、ヴィヴィが来たら考え変わるって……よし、今度は後ろ向いて。基部の構造を――」
「ギルダぁ……」
アトリは半泣きで助けを求める。
ギルダは静かに立ち上がり、シグナスの肩に手を置いた。
「シグナスお坊ちゃん。そろそろアトリを解放してあげて……代わりに、私の“眼”を見せてあげる」
その瞬間、シグナスの動きがぴたりと止まった。
「マジ?いいの?」
シグナスは疑いと興奮が入り混じった声を上げた。
「だってあんたら、軍の“旧時代の奇跡”ってやつなんだろ?そんなの、ほいほい見せていいわけ?機密とか、ないの?」
「大丈夫。見ても分かるものじゃないから」
その一言に、シグナスの表情が一瞬だけむっと歪んだ。
「へえー……」
彼はルーペを置き、顎を上げる。年相応の反発と、技術者としての自負が混ざった笑み。
「なめてもらっちゃ困るなあ。こっちはアルファベットを覚える前から工学の英才教育受けてんの。技術のことなら、そこらの大人より見えてんだけど?」
「じゃあ……どうぞ?」
ギルダは左目を閉じ、無機質な輝きを放つ銀の右眼を、真っ直ぐにシグナスの視線へと差し出した。
***
アトリは魂を吸い取られたような足取りで、ふらふらとソファに倒れ込む。
向かいの席に座ったヴィヴィアンと目が合った。
「ごめんなさい……兄がひどいことして、大丈夫だった?」
「うん……なんとか」
アトリが力なく答えると、ヴィヴィアンは探るように彼をじっと見つめた。
「あなたって……何歳? どうしてこんな大人ばかりのレセプションに参加しているの?」
アトリは少し考え、自分の立場を整理してから口を開いた。
「えっと……十四歳。今日は、姉さんの付き添いで……」
そう言って、シグナスを義眼の迷宮に引き込んでいるギルダを指差す。
「そうなんだ……同い年くらいなのに、そんなにすごい義体を使いこなしているなんて驚いたわ」
ヴィヴィアンは感心したように呟くと、ふと視線を中央の水槽へと移した。
アトリも彼女に倣って、揺らめく青い光を見つめる。
「すごい水槽だね。こんなの、初めて見てびっくりした」
「私が……魚が好きだから。お父様が、本物の水族館を作るんだって張り切っちゃって」
「ええっ!? それで会社の中に!? すごいね……!」
「私、小さい頃に、長い間入院してたことがあるんだけど……退院したらロビーがこんなことになってて、驚いちゃった」
ヴィヴィアンは、懐かしさと少しの寂しさが混ざったように、ふっと笑った。 その横顔は、水槽の青い光に照らされて、どこか儚げだった。
アトリはその光に吸い寄せられるように、水槽へ視線を移す。ゆらゆらと揺れる水草、群れで泳ぐ魚たち。 青い層が静かに流れていく――その中で。
群れのリズムから外れた影が、ひとつ。
他の魚が描く“円”の軌道に乗らず、 まるで別の世界の水を泳いでいるような、奇妙な動き。
「あれ……あの魚だけ、なんか動きが変だね。一匹だけ群れを離れてる」
ヴィヴィアンの視線が、アトリの指す先で孤立して泳ぐその一匹に止まる。
「ああ……あれは、寄生虫のせいかも」
「寄生虫……?」
「そう。特定の寄生虫に感染すると、その魚は群れから外れて、ひたすら光に向かって泳ぐようになるの。外見は他の魚と同じに見えるけど……脳の指示系統を、自分ではない何かに書き換えられてる」
その言葉を聞いた瞬間、アトリの心臓が大きく跳ねた。自分の身体の中に眠る、自分ではない「誰か」の意識。まるで彼女が、自分の「秘密」をすべて見透かした上で語りかけているような、錯覚に陥る。
「……自分の意志で泳いでいるつもりでも、実は誰かに泳がされているなんて、なんだか、悲しいよね」
ヴィヴィアンは静かに目を伏せ、光を求めて水面へと昇っていく、孤独な魚の影を追っていた。
「はーーーーっ!?ウソでしょおお……」
その時、シグナスの叫び声が応接室に響き渡った。彼は背中からソファーにばたん、と倒れ込み、両手で顔を覆って絶叫した。
ギルダは「やれやれ」と首を鳴らし、呆れた視線を向けている。
「いやいやいや……理屈は分かる、分かるんだよ。姿勢制御のクロックを直接拾って、ピンポイントで逆相をぶつけて脱調させるっていう理屈はさ……」
シグナスは勢いよく跳ね起きると、思考の速さに言葉が追いつかないといった様子でまくしたてた。
「でもなんでこのサイズの筐体に詰め込めてんの? 熱設計どこいった?フィンもヒートパイプも見えないのに温度が安定してるの意味わかんない。てか、ギルダさん、なんで普通に使えてんの?適合曲線どうやって合わせた?理論はイケるのに実装が現実じゃない!なのに、使えてる……なんで?頭が追い付かねー」
「よくわからないけど使える。そこまで気にしたことない」
「出たよ!使う側はいつもそれ!!」
シグナスが発狂したように髪をかきむしる。その時、ふと彼の視線が、ギルダの手袋に覆われた右手に止まった。布越しに伝わる、硬質でわずかに無骨なシルエット。
「……待って、こっちの義手は……?」
「こっちは通常の軍規格。怪我で後から付けたものだから」
「なーんだ……普通かよ」
あからさまに落胆し、興味を失ったように肩を落とす。その横で、アトリがわずかに眉を寄せ、ムッとしたように口を尖らせた。
「……もう、いいかな?」
「シグナス、失礼だからもうその辺にして」
ヴィヴィアンの冷ややかな制止に、シグナスは「……わかったよ」としぶしぶ引き下がった。しかし、その視線は未だギルダの眼に吸い寄せられたままだ。
「いやでも、どうやったらこれを作れるんだろう……すごすぎて、わけがわかんねーよ」
独り言のように呟く彼の瞳には、悔しさと、それ以上の心からの敬意が滲んでいた。やがて、シグナスは静かに顔を上げた。
「ギルダさん、ひとつだけ……マジメに聞いていい?」
「どうぞ」
シグナスは少し迷い、 今度はさっきの騒ぎとは正反対の、落ち着いた声で言った。
「……こんなの使ってて、本当に大丈夫なの?」
ギルダが瞬きをする。シグナスは義眼を指しながら続けた。
「普通、こういうデバイスって “機械側が人間に合わせる”ように作るんだよ。でも、その義眼は逆で、“人間側が機械の動きに合わせる”設計になってる気がする」
水槽の青い光が、ギルダの横顔を照らす。
「とんでもない精度で動いてる化け物みたいなデバイスだけど……その裏で、“使ってる人間の方が危ない橋渡ってる”なんて…… そういうの、なんか良くないじゃん。『使えるからいいや』で済ませるのは違うんじゃないかな」
ギルダは、ふっと笑った。
「昔、眼の方を調整したからだいぶ負担は軽くなったんだ。使用制限もある。この眼とは十年以上の付き合いだからね。何とかうまくやってるよ」
シグナスは一瞬だけ目を丸くし、 すぐに視線を逸らした。
「あ、そっか……そうなんだ……」
「心配してくれてありがとう」
ギルダは柔らかく言った。
「いやッ、心配っていうか!無理すんなって話!技術に対する冒涜だって言ってんの、だから!」
その瞬間――
義眼の内部で、 冷却シーケンスの終了を告げる微かな音がした。
《COOL-TIME COMPLETE》
(……使えるようになった。今のうちに、次の補佐任務の準備を――)
癖のように、ギルダは義眼をONにした。
赤い光が、 ほんの一瞬だけ瞳の奥で脈打つ。
視界は瞬時に変貌し、無機質な情報へと分解されていく。生体反応、温度分布、姿勢制御パターン、神経信号プロファイル……流れる情報の滝を無感情に読み飛ばそうとした、その時だった。
画面の端に、 “ありえない表示”が浮かんだ。
《脳反応:機械式AIコア》
《適合モデル:人工知性体》
《法規照合:カテゴリD/登録なし/違法規格》
《警告:情報保持を推奨》
ギルダは、呼吸を一瞬だけ止めた。
視線は動かさない。表情も変えない。
ただ、心臓だけが ひとつ、強く脈を打つ。
水槽の中で、 寄生虫に操られた一匹の魚が 光へ向かってふらふらと泳いでいく。
――その魚の軌道と、義眼の警告が重なる。
表示の重なった先へ、ギルダの視線がゆっくりと辿り着く。
白いドレスの少女。
――ヴィヴィアン。
彼女は水槽を見つめたまま、 静かに微笑んでいた。
ギルダの喉が、 かすかに鳴った。
(……嘘、でしょ)
水槽の青い光が、 ヴィヴィアンの頬を淡く照らす。
その光は、まるで“深海の底に沈む何か”のように 静かで、冷たかった。
その静寂を、無粋な足音が切り裂いた。
「シグナス様……!こんなことをされては困ります……!」
扉が乱暴に開かれ、数人のスタッフと警備担当が応接室になだれ込んでくる。
シグナスは、うっとうしそうに髪をかきむしりながら立ち上がる。
「何だよ、別にいいだろ。それより父さんは?早くヴィヴィアンに会わせたいんだけど。驚くぞ、絶対」
「社長はレセプションでお忙しいのです!お二人とも、レセプションが完全に終了するまで、この部屋で待機するよう申し付かっております!」
「はあ!?何それ!意味わかんねえよ!」
シグナスの声が跳ね上がる。その横で、ヴィヴィアンは小さく肩をすくめた。
「……ほらね、だから言ったでしょ。私、来ちゃいけなかったのよ」
ギルダの胸の奥で、冷たい思考が高速で回り始める。
(本人たちは……このことを知っている?いや、知っていて軍関係者と同じ部屋にいられるはずがない。けど、反応を見るに、スタッフは知っている可能性がある……私に、解析能力があることが知られたら、かなりまずい……口封じの対象になるのは私とアトリだ)
生存本能が警鐘を鳴らす。ヘリクス社の「闇」に触れてしまった今、この部屋に留まる一分一秒が死に直結しかねない。
「ギルダぁ……早く戻ろうよ。ぼく、もう疲れちゃったよ。この人、怖いんだもん」
不意にアトリが、甘えるような、心細い子供のような声を上げた。ギルダの腕にしがみつき、シグナスを指さす。
ギルダが驚いたように目を瞬かせる。
「なんだよ!怖くないだろ!……もうちょっと見せろ!」
シグナスがわざとおどけた拍子で追い縋り、アトリは「わっ!」と声を上げて逃げ回る。 そのあまりに年相応で無邪気なやり取りに、スタッフの目に浮かんでいた鋭い疑念が、目に見えて緩んでいく。
「……この方々は?」
スタッフが困惑気味に問いかける。ヴィヴィアンが静かに一歩前に出た。
「私たちを見つけて、ここまで連れてきてくださった方です。兄さんがだいぶ引き留めてしまって……」
「ああ……オーウェン中佐の……」
アトリの幼い振る舞いと、ギルダの若さ。スタッフは彼らを「偶然通りがかっただけの、何も知らない子ども」だと断定し、完全に油断した。
「スタッフの方も合流されましたので、我々は任務に戻ります」
ギルダは即座に表情を切り替え、事務的な「軍人の顔」を張り付けた。
シグナスが名残惜しそうに、けれどどこか清々しい笑みを浮かべて手を振った。
「じゃあな、ギルダさん、アトリ!レセプション終わったらまた見せてよ!今度はログ取る準備もしとくからさ!」
「遠慮しときます」
ギルダは短く、冷淡にそれだけを返すと、アトリの背中を促して流れるように応接室を後にする。背後で閉まる重厚な扉の音を聞きながら、ギルダは止まっていた息を深く、長く吐き出した。
「……行くよ」
小声でアトリに告げ、ギルダは早足でアトリウムホールへと向かいながら、テレパスで意識を向けた。
〈アトリ……ありがと。ホントに助かった……〉
ギルダの切実な思念に、アトリが少し首を傾げながら、波動を返す。
〈ギルダの嫌な気持ちがテレパスで伝わってきたよ。早く部屋から出たいって……ねえ、何かあったの?〉
〈うん……激ヤバなものを見ちゃった……〉
廊下の曲がり角で、ギルダは視線を動かさず、背後の「気配」だけに意識を集中させる。ヘリクス社の監視網がどこまで張り巡らされているかは未知数だ。
〈つけられてる可能性があるから、このまま自然にアトリウムホールへ戻る。とりあえずデザートでも食べよ……そこで全部、説明する〉
アトリウムホールは、先ほどと変わらぬ眩い光と、宝石を散りばめたような人々の笑い声に満ちていた。ギルダは壁際のビュッフェテーブルへとアトリを促し、色鮮やかなムースが載った小皿を手に取らせる。
「……おいしい?」
「うん。冷たくて、甘いよ……これ、全部食べてもいいの?」
「いいよ。むしろ食べてよ……今のうちに」
「……なんか優しくない?」
「いつも優しいでしょ……」
ギルダは周囲の視線を遮りながら思念のボリュームを最小限に絞り込む。
〈……なるべく、リアクションに出さないでね。いくよ〉
ギルダの義眼が網膜に焼き付けた、あの無機質な警告表示。
《ヴィヴィアン・コーデックス》
《機械式AIコア》
《違法規格》
その衝撃的な視覚ログが、テレパスを通じてアトリの脳内へダイレクトに転送された。
〈………………え、ええええええええええええええええ!?〉
アトリの思念が、悲鳴のような音を立てて爆発した。あまりの衝撃に口に運ぼうとしていたムースがスプーンから勢いよくダイブする。
「おわっ……!?」
変な声を出しながら、アトリは空中でムースをキャッチしようと、スプーンを振り回した。 周囲のセレブたちが「あら……?」と怪訝そうにこちらを見る中、ギルダは無表情のまま、テーブルの下でアトリの足を軽く蹴った。
〈リアクションに出すなって言ったでしょ……いいから、そのまま食べな〉
〈む、無理だよ!味が全然しなくなっちゃったよ……!〉
ギルダは深くため息をつき、アトリはムースを抱えたまま震える。
――周囲からは、ただ仲の良い姉弟が デザートを楽しんでいるようにしか見えなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ヴィヴィアンの正体について発覚する回でした。
次回から起承転結の『転』になります。
バトル開始です。




