15.平和の別名
ヘリクス・ダイナミクス中央棟25階。
アトリウムホールの重厚な扉が開かれると、そこは暴力的なまでの光の世界だった。
天井まで届く巨大なアクリルの円柱――先ほどロビーで見上げたあの「海」が、ここメインフロアの中央にもそびえ立っている。透き通った青い水の中を、魚の群れが光の粒となって乱舞し、その波紋が白い大理石の床にゆらゆらと幻想的な模様を描き出していた。
オーウェンがフロアに一歩踏み出した瞬間、会場の空気がわずかに、だが確実に震えた。
「これは、オーウェン中佐。本日のレセプションでお目にかかれるとは光栄です」
「ぜひ一度、我が社の新規ユニットをご覧いただければ」
「ひいお祖父様であるオスカー閣下には、我が社も多大なるご恩をいただいておりまして……」
次から次へと、笑みの仮面を張り付けた男女がオーウェンを包囲していく。連邦軍本部、監査執行局・主任審問官。企業の不正を暴き、軍の規律を正す「死神」のような権限を持つ彼に、人々は必死で擦り寄ろうとする
「ええ、また後ほどゆっくり。今は主催者への挨拶が先ですので」
オーウェンは完璧な微笑みを崩さず、押し寄せる欲の渦を流麗にいなしていく。
リアは一歩後ろで控えながら、その人の流れを冷静に観察していた。肩の力を抜いた姿勢のまま、視線だけは常に周囲を巡らせ、近づきすぎる者の殺気や不審な動きを選別している。
<……よくやるよな、中佐は。あんな嘘くさい笑顔、オレなら一分も持たねえよ>
リアはわずかに眉を寄せ、うんざりした思考を隣のテオへと飛ばした。
テオは返答を返す代わりに、オーウェンの背後を影のように守りつつ、会場内に点在する監視インフォメーション端末へと順に接近していく。メインフロアを同期するには、各端末の至近距離まで近づき、直接ハッキングを仕掛ける必要があった。
オーウェンが社交の歩みを進めるたび、テオの腕の「N-Link」が端末の通信ポートと不可視の線を結び、超高速でアクセス権を上書きしていく。
オペレーションルームで待機しているギルダの右眼――銀色の義眼が、青白く鋭い閃光を放った。
「……リンク、確認」
ギルダの脳内に、メインフロアの全方位映像が流れ込む。テオによってリアルタイムで処理されたデータは、熱源反応、サイボーグ個体の出力値、さらには不審な心拍数の増大までを「視覚情報」として彼女の網膜に焼き付けていく。
「……中佐、完了しました」
テオが周囲に悟られぬよう、極めて小さな声でオーウェンに報告した。
オーウェンは、なおも言葉を重ねようとしていた実業家の話を流麗な動作で切り上げた。「失礼、予定がありますので」と完璧な社交用の微笑みを残し、彼は淀みのない足取りで喧騒の中心から離れていく。
歩きながら、オーウェンは手元のホロパッドを操作し、ギルダへと通信を繋いだ。
『ギルダ君、お疲れ様です。こちらの掌握は終わりました。我々は一度、そちらのオペレーションルームへ戻ります。君たちは、そのままレセプションを楽しんでください』
通信を切った瞬間、オーウェンの顔からそれまでの「審問官」としての仮面が剥がれ落ちた。彼は首を左右に振り、凝り固まった肩を回しながら深く重いため息を吐き出した。
「はあ……だから嫌だったんですよ、こういう場所は。大体、僕は監査なんですから、癒着を疑われるような社交の場に出ること自体がおかしな話です。それなのに、上が『顔を売ってこい』だの『家柄を示せ』だのとうるさくて……どうしてこう、馬鹿なことを真顔で命じてくるんですかね。理解に苦しみますよ」
あまりに露骨なぼやき節に、背後に控えるリアとテオは顔を見合わせ、声に出さず思考だけで言葉を交わした。
<始まった……>
<……中佐のぼやきモードだ>
二人は、普段の理知的で冷静な上官が漏らす人間臭い愚痴を、半ば呆れ、半ば安心したように受け流した。
オーウェンは二人の横で、淡々と客の動線を見渡していたが――ふいに目だけで二人へ合図した。
「……リア君、テオ君。少し、面倒なのが来ます」
会場の華やかな喧騒を割り込むようにして、一人の男が近づいてきた。
スーツは黒一色。 仕立ての良さが遠目にも分かる。歩くだけで周囲の空気が変わるような、“場を支配する側”の人間特有の圧。
顔立ちは若い――30代、いや20代と言われも納得するだろう。だがそれは、頭部から首筋にかけて施された高精度のサイバネ手術によるものだと一目で分かった。実年齢は恐らくもっと上だ。
「……これはこれは。久しいですな、オーウェン大佐」
男は笑った。その笑みは、温度よりも“意図”の方が濃い。
オーウェンはにこりと微笑む。
「大佐ではありませんよ。お忘れですか、コーデックス社長。――今は中佐です」
「おっと、これは失礼」
コーデックスと呼ばれた男は、芝居がかった動作で軽く肩をすくめた。その仕草一つひとつが、計算され尽くした役者のように洗練されている。彼は悪意のない笑顔を面に貼り付けたまま、迷いなく手を差し出した。
二人の手が触れ合い、静かな、しかし確かな火花を散らすような握手が交わされる。
<んだ、こいつ…>
リアが眉をわずかに動かす。
<ラザロ・コーデックス……ヘリクスの社長だ。オーウェン中佐に新規案件を跳ねられまくって正直良く思われてない>
テオは視線を正面に固定したまま、事実のみを返した。
<あーはいはい……そういう系ね>
リアは納得し、内心でため息をついた。
自分たちの前に立つこの理屈っぽい上官が、表の世界でどれほど「恨みの種」を蒔いているか――。それは二人にとって、もはや日常の風景のひとつに過ぎなかった。
「相変わらずお元気そうでなによりです、中佐」
「社長こそ、相変わらずご繁盛のようで。エネルギーもAIも、世の中はヘリクスの掌中にあると言っても過言ではありませんね」
「ええ、お陰様で……まあ、もう少し『規制』を緩和いただければ、我が社ももっと人類の繁栄に寄与できるのですがねえ」
ラザロの視線が、値踏みするようにオーウェンの背後に控えるリアとテオへと滑った。それは人間を見る目ではない。精巧に組み上げられた工業製品の「出力」を測るような、冷徹な技術者の目だ。
「いやはや……羨ましい限りだ。今となっては製造も、理論の再現すら許されない“旧時代の奇跡”。それをこうして気軽に護衛として連れ歩けるとは。我々民間企業には到底望めない――実に“恵まれた”特権をお持ちだ」
二人は表情ひとつ動かさず、無表情を保った。
ラザロは彼らを品定めするように、執拗にその全身へ視線を這わせた。
「しかも“規格を正す側”が。このご時世に“ここまでの出力”が廊下を歩いているだけで、技術者は泣きますよ……同等品を民間が作れば“即、違法”ですからね」
オーウェンは静かに口を開いた。
「……二人とも、少し下がっていていい」
二人は無言で一歩退き、距離をとる。
オーウェンは微笑みを崩さず、しかし声だけはわずかに低くした。
「――彼らは法に基づき、正式な手続きを経て任用された私の部下です。彼らへの扱いは、どうか『人』としてお願いいたします」
「人……なるほど、人ですか」
ラザロは目を細め、口の端を吊り上げる。その笑みは、氷のように薄く、形だけの礼儀をまとっていた。
「先日の《触覚統合フレーム》の件でご立腹ですか?コーデックス社長」
「ええ、まあ。“技術の独占”というのは……どうなんでしょうね。民間が血を吐くような思いで試行錯誤した結果が、すべて“規制違反”の一言で即却下される……それを、あなたは健全と呼べますか?」
ラザロは挑戦的な笑みを深めた。その瞳の奥には、「経営者」としての、底知れない野心がぎらついている。
「《触覚統合フレーム》は、遅延ログの欠落と入力経路の明示不足により却下しました。必要資料を揃え、“既存技術の範囲内の改修”として再提出してください。そうすれば、正式な審査のテーブルには載せましょう」
「……“既存技術の範囲内”、ね。創造にすらお上の許可がいるとは、変な時代になりましたよ」
ラザロが吐き捨てるように言う。オーウェンは、その挑発を正面から、微塵の揺らぎもなく受け流した。
「既存の技術は、すでに成熟しています。組み合わせと最適化だけで、現代のほとんどの領域は十分に賄える」
「つまり――“未来を作る余裕はない”、と?」
「“今を立て直さなければ、未来は来ない”ということです」
その一言で、ラザロの表情が明らかに不快に歪んだ。完璧に調整されたはずの義体の表情筋が、苛立ちによって一瞬だけ不自然な痙攣を起こす。
「――“未来を生み出す権利”は、一体誰のものでしょうね?」
その言葉は、もはや挑発というよりは、“宣戦布告”に近かった。 オーウェンは揺るぎない眼差しでそれを受け止める。返答を急がないのは、ここでの不用意な一言が、容易に政治の天秤を動かすことを熟知しているからだ。
ラザロは白すぎる歯を見せ、仮面のような笑みを浮かべた。
「ルールを作る場所にも、我々を座らせていただきたいものです」
「そう仰るなら、まずは既存のルールを守るところからお願いいたします」
「つまり、私たちに“今のまま”でいろと?」
ラザロは、大仰に肩をすくめて見せた。
「退屈ですね、中佐」
「退屈は、平和の別名ですよ」
オーウェンが静かに告げると、二人の間に、冷たく研ぎ澄まされた沈黙が降りた。
***
煌びやかなアトリウムホールの一角、アトリとギルダは色とりどりの料理が並ぶビュッフェテーブルの傍らにいた。 宝石のようにカットされたフルーツや、外縁では見たこともない精巧なテリーヌが照明を反射して輝いている。
しかし、ギルダの視界にはそのご馳走に重なるように、テオから送られ続ける冷徹な監視ログが流れ続けていた。アトリが物珍しそうに並んだ料理を眺める中、ギルダはシャンパングラスを傾け、意識の底で語りかける。
<ヘリクスの社長――ラザロ・コーデックスは、『創規法』が大嫌いなんだよ>
アトリの視線が、ふと止まる。
<でも、逆らえば巨大なヘリクスといえど、連邦に会社ごと潰される。だから、煮え湯を飲みながら従ってる。……皮肉なことに、創規法に反対している連中はその事実を知らないし、知ったところで『同じ反対派なら、保身に走らず戦えよ』って逆ギレされるのがオチだろうね>
アトリは手に取ろうとしたフォークを止め、視界の端で社交をこなす大人たちの影を追った。
<……じゃあ、ヘリクスは“誰の味方でもない”のに、勝手に両方から殴られてるってこと?>
「ふふッ……」
ギルダは口元を押さえた。テレパスではなく、 本当に声が漏れてしまったらしい。
<うまいこと言うね。従っているから反対派に殴られ、逆らえないから世間に誤解され、本音を言えば連邦に消されるから憎まれ役を買って出る。そういう意味じゃ、ヘリクスは……この時代で一番不運な会社かもね>
アトリは水槽の中を泳ぐ魚を見つめ、どこか納得したように頷いた。
<だから、オーウェン中佐は『表向きは』って言ってたんだ。みんな、本当の顔を隠してるんだね……>
<そう……まあ、中佐自身も結構、複雑な立場だからね。やっかまれたり、利用しようと擦り寄られたり。内心、溜まったもんじゃないと思うよ>
ギルダはふと視線を上げた。
ちょうどその時、 オーウェンがアトリウムホールを退場していくところだった。
ギルダはその背中を、 短く、しかしどこか親しみを込めて見送った。
アトリはその視線の意味を、まだ完全には理解できないまま、ただ静かにギルダの横に立っていた。
ふと、アトリが皿に取った厚切りのローストビーフを一口、口に運んだ。 その瞬間、彼の身体が小刻みにぶるぶると震えだす。
「えっ……アトリ、どうしたの……!?」
予想外の反応に、ギルダはテレパスを切り、生の声で駆け寄った。 敵襲か、毒物か――だが義眼はまだ同期のクールタイムで沈黙したまま。解析ができない。
「なにこれ……おいしすぎる……!ギルダもこれ、絶対に食べた方がいいよ……!」
アトリは潤んだ瞳で見上げると、感動に打ち震えながらそう叫んだ。外縁の無機質な合成食糧とは比較にならない、本物の肉の旨味。彼はそのまま、吸い寄せられるようにビュッフェテーブルへとお代わりを取りに戻っていった。
「ちょ……ちょっと、アトリ……あんまり……」
“このあと何があるか分からないから、あまり食べすぎない方がいい” そう言おうとした。けれど――嬉しそうに皿を抱えて戻ってくるアトリを見た瞬間、 ギルダはその言葉を飲み込んだ。
「……まあ、いいか。たまにはね」
アトリが、これ以上ないほど満足げな顔で戻ってくる。
「はい、これギルダの分!」
「うん……ありがと。アトリも、いっぱい食べな」
その声は、 任務中とは思えないほど柔らかかった。
水槽の青い光が、 二人の影を静かに揺らしていた。
***
華やかな狂騒の裏側、ヘリクス・ダイナミクスの非常階段。無機質なコンクリートの空間を、スーツ姿の青年が足早に駆け上がっていた。片手には、小柄な少女の手。
「待って……シグナス、やっぱりダメ。こんなの、見つかったら絶対にお父様に叱られる!」
白いドレスの裾を揺らしながら、少女が声を殺して訴える。 その手を引く青年は、窮屈そうなスーツ姿のまま、いたずらっぽく、だが確信に満ちた笑みを浮かべて振り返った。
「大丈夫だって! 父さんは今、過保護が極まって少し神経質になってるだけさ。ヴィヴィアンが会場に現れれば、あまりの可愛さに、誰も文句も言えなくなるって」
「でも……」
ヴィヴィアンの不安を裏付けるように、軋むような機械音を立てて監視モニターがゆっくりと二人の方へ旋回した。冷徹なレンズが彼らを捉えようとしたその瞬間、シグナスはポケットから自作の小型デバイスを滑らせた。
彼が不敵な笑みとともにスイッチを押し込むと、直前まで二人を追っていたモニターのインジケーターが瞬き、音もなくブラックアウトする。
「……さあ行こう、主役の登場にはサプライズが必要だろ?」
非常階段に二人の足音が静かに響いていく。
その背中は、これから始まる“事件”の中心へ向かっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ヘリクス社長とオーウェン中佐の水面下でのバチバチをお送りいたしました。
そして、コーデックス兄妹が登場!
今回のキーパーソン二人です。
次回はこの兄妹とのエピソードです。




