10.第47基地の生活
外縁第47基地。
時刻は朝の5時30分。
2階から1階へ降りる足音が、まだ眠っている建物の中に小さく響いた。
アトリがキッチンに入ると、 カウンター脇の端末が淡く光り、隣で待機していた白いロボットがわずかに起動音を鳴らした。
丸みを帯びたボディに、青く発光する二つの丸い眼。 光沢のある白い外装は、どこか玩具めいた安心感がある。ロボットは、静かに頭部を傾けた。
『おはようございます』
落ち着いた合成音声が響く。
AI搭載型ロボットの『ブルー』だ。
「おはよう」
短く返しながら、アトリは棚を開け、調理器具を確認する。フライパン、ヘラ、ボウル。特に不足はなさそうだ。
『現在、冷蔵庫内には卵、合成加工肉、冷凍葉物野菜が残っています。なお、卵は賞味期限が近づいています。優先的な使用を推奨します』
「うーん……」
アトリは冷蔵庫を開けて中を覗き込む。
「何が作れるかな」
『朝食の調理記録によれば、アトリが着任する以前の128日間、朝食はすべて目玉焼きです』
「……え」
アトリは一瞬、手を止めた。
「毎日?」
『はい』
「……129日前は?」
『朝食を摂取していません』
「……そうなんだ」
アトリは深く追及しなかった。
卵を取り出し、カウンターに置く。
「目玉焼き以外って、できない?」
『可能です。スクランブルエッグの調理手順を提示しますか』
「お願い」
ブルーは即座に、分量、火加減、工程を簡潔に読み上げる。
『なお、牛乳を加えることで、仕上がりがより滑らかになります』
アトリは冷蔵庫の中をもう一度覗いた。
「……牛乳、ないよ」
『代替として、コーヒー用クリームの使用が可能です。乳脂肪分が近似しています』
「へえ……」
アトリは少し感心したように頷いた。
「じゃあ、それでやってみよう」
フライパンに火を入れ、手順通りに卵を溶き、クリームを加える。
ブルーは黙って進捗を見守っている。
数分後、フライパンの中で卵がふんわりと固まり始めた。
「……できた」
『調理完了です』
見た目は、確かにそれらしい。
皿に盛りつけたところで、2階から足音がした。
「おはよう……早いね」
眠たげな声音で現れたのはギルダだった。彼女はアトリが差し出したトレイを受け取り、並んだ朝食を一目見て、わずかに目を瞬かせる。焦げ一つない焼き加減。丁寧な盛り付け。
「……料理、できたの?」
「ブルーに教えてもらった。手順どおりにやったら、できた」
ギルダはフォークを持ったまま、少し感心したように言う。
「結構、器用だったんだねえ……アトリ」
「そうかな?」
アトリはきょとんとした顔で答える。二人は小さなテーブルを挟んで、静かに食事を始めた。一口食べたギルダの表情が、わずかに緩む。
「……おいしいよ」
アトリは一瞬だけ考え、それから思い出したように言った。
「そうだ。ギルダ、牛乳買ってもいい?」
「……ぎゅうにゅう?」
ギルダはぽかんとした。
「うん、牛乳。スクランブルエッグに使うと、もっと美味しくなるんだって」
ギルダはフォークを止めたまま、黙り込んだ。視線が少し宙を泳ぎ、眉がわずかに寄る。すぐに否定も肯定も出てこない。考えているというよりも、その単語が自分の生活という領域にどう収まるべきか、配置を探しているような逡巡だった。
「……牛乳……牛乳ね……」
「……牛乳、知らないの?」
「いや、知ってるけど…料理に使う、っていう発想がなかった。なるほどね……」
それ以上は言わない。
どこか新しい地図を手に入れたような顔だった。
彼女は、生活の細かい部分に、ほとんど意識を割いてこなかったのだ、とアトリは悟った。
その姿に、ふと本部からの帰路、リアとテオに言われた言葉がフラッシュバックする。
***
本部から外縁へと戻る日。ギルダが車を回している間の、わずかな見送りの時間だった。
「アトリにこんなこと言うのも変なんだけどさあ……ギルのこと、よろしくな」
リアが少し困ったように笑った。
「ぼくが世話になるんじゃないかな?」
「まあ…そうなんだけど」
テオが呆れたように肩をすくめ、補足する。
「あいつは、昔から自分をないがしろにする癖がある。仕事に没頭すると、食事も睡眠も平気で忘れる。本部に来てからも、ろくにまともな飯を食っていないはずだ」
「あれでも、昔よりはマシになったんだけどな」
二人は顔を見合わせ、まるで手のかかる妹を見守るような眼差しを向けた。
「仕事の判断はギルに任せておけば問題ない。それ以外のことは……お前の方が、まともな感覚を持っていそうだからギルが無理しているようだったら、遠慮なく叱ってくれ」
それは命令ではなく、彼らなりの切実な願いだった。
***
アトリは目の前で黙々と朝食を続けるギルダを、静かに見つめた。
卵を口に運ぶ動きは正確で、姿勢も美しい。しかし、そこに食事を楽しむという意志は感じられない。ただ燃料を補給するように、淡々と遂行される「作業」のようだった。
生活という、もっとも本質的で柔らかな領域だけが、彼女の中でごっそりと抜け落ちている。
「なんか……どっちが記憶喪失なのか、分からなくなるね」
「……確かに」
アトリの指摘に、ギルダは小さく笑った。
「欲しいものがあったら、私に言わなくていいから買っちゃって。食品とか、生活必需品の項目だったら、全部軍が出す」
ギルダは視線だけで、食堂の壁際に設置された端末を示した。
「そこの端末か、ブルーに頼めば配送してもらえるから。食事のことは、アトリに任せるよ」
***
食器の水音が、キッチンに静かに響く。
洗い物をしているのはギルダだった。アトリが止める間もなく、彼女は手慣れた動きで皿を洗い、乾燥ラックに並べていく。
換気扇の下。ギルダはタバコを一本取り出し、火をつけた。白い煙が、低い唸りを立てる換気音に吸い込まれていく。
「ブルー。今、入ってきてる情報を教えて」
ブルーの合成音声が、淡々と返す。
『本日、予定されている定例スケジュールはありません』
一拍置いて、ブルーは淡々と続ける。
『外縁北側、ノースリッジ観測拠点に設置された中継アンテナが、昨夜から通信遮断状態です。原因は積雪による埋没と推定されます。現在、自己復旧プロセスは停止しています』
「……ああ、あそこか」
ギルダは灰皿に軽く灰を落とした。
「ほかは?」
『軽微な案件が複数あります』
ブルーは順に報告する。
周辺監視センサーの誤検知(小型生物由来)。
無人輸送路の一時的な通行遅延。
外縁居住区からの定型的な物資申請。
『重大度はいずれも低。現時点で、即応部隊への出動要請は不要と判断します』
ギルダはタバコを咥えたまま、シンクに背を預けた。
「了解。ブルー。中継アンテナの件、外縁治安部隊にも共有して。アイビーさん宛てでいい。積雪で埋もれてるだけっぽいって」
『共有対象を確認。外縁治安部隊、アイビー・ダナ曹長』
「“雪かき要員としてこちらも向かう”って書いといて」
『了解しました。送信します』
ギルダはタバコを消し、手を拭いた。
「今日は監査案件もないし、こっちから手伝いに行こう」
アトリが顔を上げる。
「……雪かき?」
「そう。外縁治安部隊の仕事」
ギルダは肩をすくめる。
「監査執行局案件が出たら、私たちが優先対応。でも、この前の追跡ユニットみたいな厄介事が毎日起きるわけじゃない」
少し間を置いて、続けた。
「今日みたいな日は、だいたい雑用。その代わり、何かあった時は、アイビーさんの隊に助けてもらうことも多い。持ちつ持たれつ、ってやつかな」
ギルダは防寒具の置いてある方へ目をやる。
「行こう、アトリ。雪かきも、立派な仕事だよ」
***
外に出た瞬間、空気が一気に変わった。
肺の奥まで刺さるような冷気と、足首を埋める新雪。ノースリッジ観測拠点の周囲は、昨夜の降雪で一面が白く塗りつぶされていた。
「お、来た来た」
アンテナ基部のそばで、手を振ったのがアイビーだった。外縁治安部隊の白い防寒装備に身を包み、スコップを肩に担いでいる。
「悪いね。まさか本当に来てくれるとは」
「今日は暇だったからね」
ギルダは軽く手を上げて応じた。
「違法規格も出てない。雪かき日和」
そのとき、アイビーがアトリに気づく。
「あら……アトリじゃないか。こっちに来ることになったのかい?」
「えっ、アトリ!?」
驚いたように声を上げたのは、若い隊員だった。ファン──アイビーの隊の中でも、まだ年の若い青年だ。
ギルダが代わりに説明する。
「いろいろあってね。今は私と一緒に第47基地にいることになった」
「よろしく」
アトリは短く頭を下げる。
「てっきり本部に行ったきり、もう戻ってこないかと思ってた!」
ファンはぱっと表情を明るくした。
「嬉しいよ。この部隊、俺より年下のやついなかったからさ!」
「……ファン」
ギルダが、少し言いにくそうに口を挟む。
「喜んでるところ悪いんだけど、アトリって一応、22歳なんだよね」
「え……?」
ファンの動きが止まる。
「年上……?」
「実年齢は、そうみたい」
アトリはどこか他人事のように答えた。
ギルダは面倒な説明を全部省き、ファンに告げる。
「これまで通りでいいよ。細かいこと気にしなくて」
「……わ、わかった!そ、そういうことで!」
まだ少し混乱した様子のまま、ファンは勢いで頷いた。
アトリが、思い出したように声をかける。
「あ、この前。マフラー貸してくれてありがとう。これ、返すよ」
差し出されたそれを見て、ファンは慌てて手を振った。
「いや、いいって!お古で悪いけど、プレゼントだと思ってくれればさ!」
「──はいはい、そこまで!」
アイビーが、乾いた音を立てて手を叩いた。
「あんたら、口動かす前に手ぇ動かしな!」
***
アイビーの号令で、全員がスコップを手に散開した。 アトリは雪に足を踏み入れ、軽く試すようにスコップを振る。
──軽い。
義体の補助が自然に働き、雪が面白いほどよく動く。 ファンが横目で見て、思わず口笛を吹いた。
「おお……アトリ、めちゃくちゃ捗ってるじゃん」
「そう?」
アトリは首を傾げながら、淡々と雪を掘り進める。 その動きは無駄がなく、まるで“作業用ユニット”のようだった。
「……助かるね。人手が多いと早いよ」
アイビーがアンテナ基部の方を指さす。
「本当は除雪ユニットを使う予定だったんだけどさ。あれが止まっちゃってね」
ギルダがそちらを見る。 雪に半分埋もれた、キャタピラ式の小型除雪ロボット。 丸いライトが点滅したまま、動く気配がない。
ファンが肩をすくめる。
「持ってきたんだけど、起動してすぐ止まっちゃってさ。たぶん内部で凍結したか、センサーが死んだか……今、修理班を呼んでるところ」
ギルダは少し考え、ユニットの方へ歩き出した。
「……ちょっと診てみようか」
ギルダはしゃがみ込み、ユニットの側面に手を当てた。その瞬間、右目の銀色の義眼が静かに展開する。虹彩の奥で、細かなリングが回転し、 内部構造をスキャンするように光が走った。
「……モーターじゃない。“駆動制御モジュール”の反応が落ちてる。劣化か、寿命だと思う」
ファンが「あー……」と頭をかいた。
「そこかー、この世代のユニット、制御モジュールだけ妙に寿命短いんだよな」
アイビーはスコップを雪に突き立て、無線に向かって短く指示を飛ばす。
「整備班、除雪ユニットの不調の件。駆動制御モジュールの交換が必要だ。来るついでに在庫を持ってこられるか?」
『了解。R-95駆動制御モジュール、在庫4つ確認できました。これからそちらへ向かいます』
通信が切れると、アイビーは肩をすくめた。
「創規法で規格が統一されてから、こういう部品は外縁でも、すぐに手に入るようになったね。今は型番さえ分かれば、外縁倉庫に在庫がある。配送も早いし、交換だけで済む。……現場としては“こういう時は”ありがたい」
その後、修理がされ、雪が舞い上がるように除雪されていく。
やがて整備班が到着し、 モジュールは手際よく交換された。
次の瞬間、ユニットが低い駆動音を上げ、 キャタピラが雪を巻き上げながら力強く動き出す。
白い粉雪が舞い上がり、 除雪ユニットはまるで“息を吹き返した”かのように アンテナ基部へ向かって進んでいった。
***
雪かきが無事に終わり、アイビーに昼食へ誘われたが、ギルダは首を振った。
「ありがとう。でも……今日はアトリに、この辺を案内したいんだ」
アイビーたちは軽く手を振り、礼を言って去っていく。
ギルダとアトリは車で近くの市街地へ向かった。
昼時の通りには、白い息を吐きながら人々が行き交い、雪除けヒーターを焚いた露店や、湯気を上げる屋台が並んでいる。建物はどれも同じ規格の断熱パネルで覆われ、補修の跡が幾重にも重なっていた。節電のために街灯は低く暗いが、歩道の縁を走る温水管だけは雪を溶かし続けている。
アトリは外の簡素なベンチに腰を下ろし、ギルダから渡された紙包みを開いた。湯気の立つホットドッグの温かさが、冷えた指先にじんわりと染みていく。
ギルダも隣に座り、同じものを一口かじった。白い息を吐きながら、静かに口を開く。
「創造規制法を愚法だって言う人は多いよ。……まあ、分かる。軍が技術を独占してるように見えるし、新しいものを作れないっていうのは、確かに息苦しいからね」
通りの向こうで、規格化された補給ドローンが 同じ形のコンテナを次々と降ろしていく。アトリはその単調な動きをぼんやりと眺めた。
「でも、規制前から資源もエネルギーも限界だったんだ。“新技術”に回す余裕なんてなかった。さっきのモジュールの件みたいに、規格が統一されたおかげで生活が安定したのは事実だよ」
食べ終えた二人は、ゆっくり通りを歩き出した。
ギルダは露店の並ぶ通りを顎で示す。
「昔は深刻な食糧不足もあったらしいし…… 今みたいに、食べたいときに食べ物が買えるのは、農機も加工設備も輸送ユニットも、“全部同じ規格”で動いてるからなんだ」
アトリは店先の野菜に目を留める。どれも形が揃い、規格通りに並べられている。その均一さは、どこか人工的だった。
「規格が統一されると、どこでも同じ部品が使えて、壊れてもすぐ直せる。外縁みたいな辺境でも物価が安定して、雇用もインフラも最低限は守られる」
ギルダ、白い息を吐く。
「もちろん、全部が良いわけじゃない。でも外縁の人たちにとっては、“壊れたら直せる”“物資がちゃんと届く”ってだけで、生きるための命綱なんだ」
ギルダは最後に、少しだけ遠くを見るような目で言った。
「未来に進むために、まず今を維持するしかない。……私たちは、そういう時代に生きてるんだと思う」
***
一通り街を案内すると、 ギルダはアトリの方へ向き直った。
「アトリ、ちょっと紹介したい人がいるんだ」
そう言って歩き出す。
街の中心から少し外れた場所に、地下へ続く階段があった。 地上の喧騒から切り離されたように、階段の奥は薄暗く、壁には古い案内灯が等間隔に並んでいる。
二人が降りていくと、 地下通路は静かで、暖房管の低い唸りだけが響いていた。通路の突き当たりに、小さな診療所の看板が灯っている。 外縁の街らしく、看板も扉も規格化された無機質なデザインだが、 扉の前には小さな観葉植物が置かれ、どこか人の気配を感じさせた。
ギルダがベルを押すと、 扉が開き、白衣を着た青年が穏やかな笑みを浮かべて出迎えた。整った目元に、落ち着いた薄い色の瞳。無駄のない清潔な身なり。どこか“整いすぎている”印象がある。
「こんにちは、ギルダさん」
「こんにちは、ジョゼ。先生と約束してるんだけど」
「お待ちしてました。どうぞ」
ジョゼに案内され、 二人は奥の診察室へ通される。
「先生、ギルダさんがいらっしゃいました」
「どうぞ」
柔らかな声が返り、 仕切りの向こうから白衣の女性が姿を現した。
白髪まじりのウェーブがかった髪。耳元には控えめなシルバーのイヤリングをつけている。上品で落ち着いた雰囲気をまとい、年齢は60代ほどだろうか。その瞳は、長い年月を医療に捧げてきた人間の静かな強さを宿していた。
ギルダとアトリはソファに腰を下ろす。サリバンは二人の向かいに座り、まずギルダへ、次にアトリへと視線を移した。
「サリバン先生、彼がアトリです」
「まあ……」
ギルダが紹介すると、サリバンは興味深そうにアトリを見つめる。 観察するというより、 “確かめる”ような、静かなまなざしだった。
ギルダは軽く息を整え、アトリへ視線を向ける。
「アトリ、紹介するね。彼女はドクター・サリバン。……私たちSecondの“基礎設計”に関わった人だよ」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ギルダとアトリの外縁での生活のエピソードでした。
次回はSecondの設計者、サリバン先生のエピソードです。




