9.ぼくはアトリ
夕方の光が、監査執行局の上層階をゆっくりと染めていた。
壁一面のガラス窓からは、ドーム内部の街が一望できる。
高層ビルの影は長く伸び、立体道路の車列は橙色の光を反射しながら流れていく。遠くの暖房塔から上がる白い蒸気が、夕焼けの色に溶けて淡く揺れていた。
休憩スペースには、職員たちがぽつぽつと集まっていて、静かに談笑している。その窓際の丸テーブルのひとつに、アトリ・テオ・リアの三人が立っていた。
アトリは、N-Linkをそっとテーブルに置く。夕陽が反射し、金属の縁が細く光った。
テオが腕を組み、落ち着いた声で言う。
「8年放置されてたらどんな状態か分からないから、とりあえず起動して見ろ」
「ほらアトリ、やってみ!」
リアが勢いよく身を乗り出す。
「ここ、ぐって長押しして──“動け!”って感じで押すの!ぐっ!て!」
「ぐ……?」
リアの勢いに押されて親指を当てるが、どう“ぐっ”なのか全く分からない。
その横で、テオが小さく息を吐き補足する。
「違う。押すんじゃない。N-Linkは“Secondの神経信号”で起動する。力じゃなくて……意識だ」
テオはアトリの手を軽く持ち上げ、N-Linkのセンサー部分へそっと添えさせる。
「ほら、親指をここに当てて……“ここに意識を送る”つもりで。信号を流し込むイメージだ」
アトリは小さく息を吸い、言われたとおりに意識を一点へ集中させる。
次の瞬間──
N-Linkがかすかに震え、夕陽を吸い込むように柔らかな光がにじむように立ち上がった。息を吹き返したように、控えめな起動音が“ふわり”と響く。
アトリは目を見開いた。
「……ついた」
リアとテオが同時に身を乗り出す。
「「おーー」」
夕陽がテーブルの上で跳ね、起動した N-Link の表示が薄く光る。
テオは端末の表示を確認しながら、淡々と続ける。
「N-Linkでできる浅層ハッキングは用途が広い。ドアのロック、カメラ、配電盤、通信パネル……有効距離にある“機器の表層だけ”なら、大抵のものは動かせる。強制停止も、モード切り替えも、軽いログ閲覧もできる」
アトリが目を丸くすると、テオは少しだけ肩をすくめた。
「ただ……リアとお前は、戦闘タイプのユニットだ。現場でこういう細かい操作をする場面は、あまりないと思う」
テオは続ける。
「でも、N-Linkがあると処理できる量も速さも桁違いになる。リアの義手がわけの分からない速度で変形するのはそのせいだ…しかもこいつ、無意識で使ってるからな」
「へえー」
リアはまったく理解していない顔で相槌を打った。…テオの専門的な話に飽き始めているようだった。つん、とテオの肩を指でつつく。
「……なあ、テオ」
「ん?」
「司令本部組って、アトリに会いに来ないの?」
テオは端末から目を離さずに答える。
「一応声はかけた。“指示されていないから動けない”そうだ」
「はー……来りゃいいのに」
リアはつまらなそうにテーブルを指でとんとん叩く。そして──ふっと、イタズラを思いついた顔になった。
「……よし。エミリオからかってやろ」
「馬鹿、やめとけ」
テオの制止は完全に無視された。リアはすでにテーブルから離れ、インプラント通信を展開している。
「──あ、エミリオ?元気ぃ?」
からかうような、妙に軽い声で通話を始めた。
「今さ、アトリと一緒なんだけど。来ないの? ……いや、ちょっと走ってくりゃすぐじゃん!……うん、…うん………あ~、残念!アトリはギルと外縁に戻るんだよ!司令本部で会えると思ってたんだろ?タイミング逃したな〜?」
『──ッ…!?──なんッ──!!』
受話側の怒鳴り声が“物理的に”漏れ聞こえてきた。
テオはその様子を見て真顔で言い放つ。
「……放っておこう」
そして、何事もなかったかのようにアトリへ向き直る。
「ギルが戻ってくるまで、このフロアで少しN-Linkの練習をしておくか」
***
アトリたちがいなくなったオーウェンの庭では、葉擦れの音と噴水の水音だけが残った。オーウェンに残るよう言われたギルダは向かいの椅子に座り気まずそうに頭を掻いた。
「……あの、煙草については申し訳──」
「喫煙の話ではありませんよ、ギルダ君」
オーウェンの声が“上官”の温度に切り替わる。
ギルダの眼が一瞬で鋭くなった。
「今後は、君がアトリ君を管理する立場になりますので、いくつか共有しておくことがあります」
オーウェンは数枚の資料をギルダの前に展開させた。
「復元局によるアトリ君の初期解析報告書です──目を通してください」
表示された文面の上部には、《機密レベル4》 の赤い印字。
ギルダは目を細めた。
「これは……私に閲覧権限はないのでは?」
「はい。ですので、オフレコでお願いします」
この人は、法律と規定を扱う立場でありながら、ときどきこういう“抜け道”を平然と使う。ギルダは胸の内で呆れつつも、素早く目を走らせた。
「……生命維持系は正常のようですが、核心部分のデータが雑ですね。測定不能な項目を無理やり数値化したように見えます。これでは判断が──」
そこまで言って、ギルダの指が止まった。
資料の一角──
《内的ガイダンス》の項目。
「……深層ログの干渉……?」
低く漏れた言葉に、オーウェンが静かに頷く。
「“内的ガイダンス”については、機能停止時の深層ログと現在の神経ログが重なっている状態、とされています。あくまで推定ですが」
「14歳のアトリのログが、今の彼の中で“指示”として浮かび上がっているということですか」
「ええ、非常に特異な現象です…しかしながら、記憶喪失の状態で、行動ログだけが先に反応するというのは、危険でもあります。現在の本人の意志と、身体の“昔の記憶”が衝突する可能性がありますから。──そういう彼の特性を理解し、管理するのも君の役目です」
ギルダは黙った。
沈黙は、理解と警戒が混ざった色を帯びる。
「中佐は彼の深層ログの方に興味がおありのようですね……」
「……話が早くて助かりますよ」
オーウェンの口元が、わずかに吊り上がった。
「深層ログの推測が正しいかどうかはまだ保留です。しかし──“内的ガイダンス”がアトリ君の行動に一定の影響を与えている。そこが最も重要です」
資料を閉じ、指を組む。
「何か“目的”があって彼は目覚め、何か“意図”をもって導き、……そして今は沈黙している」
ギルダは眉を寄せた。
まるで、アトリの中に“もう一人”がいるかのような言い方だ。
「注意深く観察してください。彼が“どこへ向かおうとしているのか”、本人が気づくより先に、周囲が察する必要があります。報告は私へ直で、些細なことでも構いません」
「わかりました」
オーウェンはひと呼吸置き、何気ない調子で問いかける。
「──ところで、君はアトリ君と特別に親しかったのでしょうか」
ギルダはわずかに目を細めた。
「……どういう意味でしょうか」
「これは僕の個人的な見解ですが、頭の中の“声”が、アトリ君を君の元へ導いたように思えましてね」
オーウェンは淡々と続ける。
「となると、当然疑問が浮かぶわけです。なぜ他のSecondではなく、君の所へ行ったのか」
ギルダは返事をしなかった。その反応を見て、オーウェンは小さく笑う。
「表向きの理由はいくらでも整えられますよ。パニックで本部から本能的に離れようとした。脱出経路の先に偶然、第47基地のルートが重なっていた。あるいは、旧ログに残っていた“安全圏リスト”が誤作動を起こした…、とかね。上には当面、そのあたりで納得してもらいます」
静かに言葉を重ねる。
「余計な雑音はおさえるので、君の裁量で“今の彼を守る”ことを優先してください。君の元でなら、空白を抱えている彼に何か良い影響が出るかもしれません」
ギルダは一瞬だけ息を呑み、次の瞬間には表情を引き締めていた。
「了解しました」
椅子を離れ、背筋を伸ばし、ギルダは静かに敬礼した。
***
監査執行局・上層フロア。
日が落ちきり、ガラス越しの空は深い紺色へと変わっていた。遠くの街の光が点々と瞬き、立体道路の車列が細い光の帯を描いている。
この時間帯は人の往来も少なく、ほとんど使われない側通路の自動ドアが、練習用に選ばれていた。テオが指でそのドアを示す。
「じゃあ次は、このドアだ。浅層で開けてみろ。軽い操作にはちょうどいい」
アトリは10メートルほど離れた位置で立ち止まり、小さく息を吸った。N-Linkの表面が、意識の集中に呼応するように淡く光る。
<ACCESS: DOOR-UNIT_12>
<SIGNAL: OPEN>
<INTENSITY: 0.12>
<MODE: TOUCH>
──シュッ。
自動ドアが静かに開いた。
「……できた」
「その調子だ。次は“閉じる”。強く流すなよ、薄くでいい」
アトリがもう一度意識を送ると、 今度は──
――ピシャッ。
勢いよく閉まった。
「ちょ、薄くって言っただろ……じゃあ、次は開……」
──ガンッ!
「痛ッ!!」
閉じたばかりの自動ドアに、 帰ってきたギルダが真正面からぶつかった。
後ろに座っていたリアが腹を抱えて笑う。
アトリは真っ青になって駆け寄った。
「ギルダ!? ごめん……!」
ギルダは痛みに顔をしかめつつも、どこか安心させるように笑う。
「……ただいま。練習は順調みたいだね」
リアが椅子にふんぞり返りながら、にやにやと身を乗り出す。
「おう、お帰りー。で?怒られた?めっちゃ怒られた?」
ギルダは無言でテーブルに肘をつき、低い声でぽつりとつぶやいた。
「……ついでに、リアが未申請で封印シール持ち出した件も報告しといたから」
「はっ!? ひどっ!!なんで巻き込むんだよ!!」
テオはギルダへ向き直り報告する。
「N-Linkの使い方は大体教えといた。リアよりは教えがいがある。使う上でのルールはギルが教えろ」
「わかった」
四人はテーブルに腰を下ろし、アトリはN-Linkをそっと目の前に置いた。
テオが指先で端末を示しながら言う。
「それはアトリ専用だから、お前にしか反応しない。修理はできるが……再発行は、今の時代だと本当に難しい。だから、なくしたり壊したりしないようにな」
その声音は穏やかだが、言葉の奥に“本気の忠告”が確かに滲んでいた。
アトリは端末を胸に抱えるようにして、こくりと頷く。
「うん、大事にする」
そのまま端末を見つめていたアトリは、 ふと何かに気づいたように視線を上げた。
「……あれ? そういえば、ギルダは持ってないの?」
一瞬、空気が止まった。
ギルダは視線をそらし、気まずそうに答える。
「……昔壊してから、再発行してもらえてない」
リアが肩をすくめて笑う。
「ま、そういうわけだ。取り扱いには気をつけろよ、アトリ」
***
しばらくして、ギルダがふっと姿勢を正した。
「──私たち、明日外縁へ戻るから」
リアがすぐに不満げな声を上げる。
「なんだよー、もっといりゃいいじゃん」
「こっちも仕事があるんでね……」
ギルダは苦笑しながら答えたが、 アトリの視線がふと揺れたのに気づいた。その揺れは、 “別れが寂しい”というより──“聞きたいことがあるのに、まだ聞けていない” そんな迷いに近かった。
ギルダが静かに問いかける。
「……アトリ。何か気になることあった?」
アトリは少しだけ唇を噛み、 勇気を振り絞るように顔を上げた。
「……あのさ。昔のぼくのこと……少し、聞いてもいい?」
リアとテオが同時に目を向ける。
ギルダは一瞬だけ驚いたが、すぐに柔らかく頷いた。
「……もちろん。うーん、そうだなあ…」
ギルダは記憶を探るように視線を宙へ向けた。
「私たちはね、9歳の時に手術を受けてから、ずっと一緒に暮らしてたんだ。9人でひとつの班みたいに、どこへ行くにも一緒でね。アトリはその中でも…何て言うか自由な奴だったな」
リアがすぐに笑いながら口を挟む。
「アトリはさあ……面白いこと、すぐ思いつくんだよ。で、周りを巻き込むんだ」
テオも懐かしそうに眉を上げる。
「……昔、健康管理AIの端末あったの覚えてるか?」
ギルダが吹き出した。
「あー……あったね。すっごい地味なやつ」
テオが続ける。
「アトリが“つまんない”って急に言い出して。ミラーナにキャラクター描かせて──」
リアが思い出すように頭に手で抑える。
「なんだっけ……あの犬の……」
「ポッチくんじゃなかった?」とギルダ。
リアの目がぱっと見開かれた。
「うわー!それ!懐かしい!」
アトリはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
自分の知らない“自分”の話に、胸がくすぐったくなる。
テオが笑いながら続けた。
「で、レイとカイルが中身を書き換えて……なぜか“ポッチくんの健康管理ゲーム”にしたんだ」
ギルダが笑って肩を震わせる。
「なんか……あの犬、踊ってたよね?」
リアが机を叩いて笑う。
「してた!めっちゃ跳ねてた!なんであんな動きにしたんだろうな!?」
三人は同時に笑った。
その笑い声は、軍のフロアには似つかわしくないほど明るくて、まるで昔の彼らに戻ったような、無邪気な響きだった。
テオまで口元を緩める。
「ポッチくんを見たときのヘッセン大佐の顔は今でも覚えてる。あれは……理解不能を通り越して、完全に処理落ちしてたな」
ギルダがアトリへ視線を向ける。
「でもアトリは全然こわがらないで、“改良しました”って胸張って言ってさ」
リアが頷く。
「そうそう!あれは笑った。みんな“アトリすげえ……”ってなったもん」
アトリは耳まで赤くなった。
「なんか……すごいバカっぽくない?」
リアが即座に返す。
「それがいいんじゃん!」
テオが静かに言葉を添えた。
「アトリは……いつも“楽しいこと”を探してた。発想も自由で、こっちが思いつかないことを平気でやる。正直……オレたちは何度もアトリに救われてた」
「だからオレたち、お前が起きてくれて……ホントに嬉しいんだよ」
リアが続ける。
その言葉は、冗談でも勢いでもなく、まっすぐで、飾り気のない“本音”だった。
アトリは息を呑んだ。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
けれど同時に、どうしようもない距離も感じてしまう。
──彼らは、ずっと一緒に生きてきた。
──ぼくは、そこにいなかった。
笑い合う三人の姿が眩しくて、その輪に“かつての自分”がいたことが、逆に胸を締めつけた。その気配を察したように、ギルダがそっと口を開く。
「アトリ」
アトリが顔を上げると、ギルダは優しく、しかし真剣な眼差しで続けた。
「これはただの思い出話だから。君が昔のアトリになろうとか、そういうプレッシャーは感じなくていい」
ギルダは少しだけ視線を落とし、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「あれから8年たってる。私たちも、昔の自分と今の自分は違う。…君と同じでしょ?」
アトリは胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなるのを感じた。
「ありがとう。でも……自分のこともそうなんだけど…」
そして、顔を上げる。
迷いを押しのけるように、まっすぐ三人を見た。
「ぼくは……みんなのことが知りたい」
三人が同時に固まった。まるで、想定外の方向から風が吹いたような反応だった。アトリがそんなことを言うなんて、誰も思っていなかったのだ。
「ぼくも、“今の”みんなが知りたいと思ったんだ」
その一言で、三人の表情がふっと緩んだ。驚きが、ゆっくりと嬉しさへ変わっていく。
「じゃあ、オレから! リア・レノックス!困ったら何でも聞けよ!」
「テオドール・アッカー。主に情報処理担当だ。テオでいい」
ギルダは静かに微笑んだ。
その笑みには、8年の重さを抱えたまま、それでも前へ進もうとする覚悟があった。
「ギルダ・カルスタ。これから君と同じ基地で働くことになる。……歓迎するよ、アトリ」
アトリは三人の顔を順に見て、力強く頷いた。
「──ぼくはアトリ・フィンチ。みんな、よろしく」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
1章はこれで終了です。
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次からアトリとギルダの基地での生活を書きます。
Secondの設計者との出会いと、違法サイボーグとの事件が発生します。




