第四話 黒爪の貴妃
続きは「黒爪」の急報から、第一章の事件が一段深くなる場面です。ここで“呪い”の恐怖を強めつつ、凛花が科学ではなく職人の観察眼で崩していきます。
思考時間: 12s
第四話 黒爪の貴妃
白蓮宮へ戻る道は、行きよりもずっと短く感じた。
走っているわけではない。
怜月殿下は相変わらず歩いている。
けれど、その歩調には迷いがなかった。回廊の角を曲がるたび、女官たちが慌てて道を空ける。黒衣の裾が風を切り、宦官たちは言葉を飲み込み、宮の空気だけが先に震えていく。
私は道具箱を抱え直した。
手のひらに汗が滲んでいる。
黒い爪。
凛花の記憶が、何度もその言葉を繰り返していた。
後宮で黒は、ただの色ではない。
罪人の色。
喪の色。
それから、死を待つ妃の色。
昔、皇帝の寵愛を失った妃の爪が黒く染まり、三日後に冷たい池で見つかったという噂がある。誰かに殺されたとも、自ら身を投げたとも、呪いで血が腐ったとも言われていた。
もちろん、噂だ。
でも後宮では、噂が本当かどうかはあまり重要ではない。
人が信じた時点で、噂は刃になる。
「凛花」
隣を歩く小鈴が、小声で言った。
「黒爪って、本当に……」
「まだ見てない」
「見たら分かるの?」
「分からないかもしれない」
「そこは分かるって言ってよ!」
「嘘をつく余裕がない」
小鈴は泣きそうな顔で私を睨んだ。
「今日のあんた、ずっと正直すぎて怖い」
「私も怖い」
「じゃあ、やめようよ」
「やめられるなら、最初から紅玉宮に行ってない」
「正論が嫌いになりそう」
そんな会話をしている間にも、白蓮宮の門が見えてきた。
門前には、先ほどより人が多い。
女官、宦官、医官、衛兵。
皆がざわめき、けれど怜月殿下の姿を見ると一斉に頭を下げる。その動きが波のように広がった。
白蓮宮の中からは、泣き声が聞こえていた。
ただの涙ではない。
恐怖が混じっている。
「殿下!」
香梅が駆け寄ってきた。
顔が真っ青だった。普段は下級爪紅師たちの前で偉そうにしている彼女が、今は完全に余裕を失っている。
「清貴妃様の御手が……爪が、黒く……!」
「医官は」
「診ておりますが、原因が分からぬと」
「香炉は止めたはずだ」
「はい。ですが、爪の色だけが急に」
怜月殿下は私を見た。
命令はなかった。
けれど、言いたいことは分かる。
見ろ。
私は頷くしかなかった。
寝殿へ入ると、空気がさっきより重くなっていた。
香炉は止められている。
それでも部屋には甘さが残っている。布や衣、髪に染み込んだ香はすぐには消えない。
清貴妃は寝台に横たわっていた。
顔色は相変わらず悪い。
けれど、先ほどと違うのは、彼女の右手に白い布が掛けられていることだった。
医官がその横で困り果てた顔をしている。
年配の男だ。額には汗が浮いている。彼は怜月殿下を見るなり、深く頭を下げた。
「殿下、これは毒とも病とも断じかねます。脈は乱れておりますが、命に関わるほどではございません。ただ、爪の色が……」
「布を取れ」
怜月殿下が言った。
医官はためらった。
その一瞬で、周囲の女官たちがまたざわめく。
怜月殿下の目が冷える。
「取れ」
医官は震える手で、布をめくった。
小鈴が喉の奥で小さく悲鳴を漏らした。
清貴妃の爪が、黒く染まっていた。
正確には、全部ではない。
右手の薬指と中指。
左手の小指。
三本だけ。
桃花色だったはずの爪紅の上に、墨を垂らしたような黒が広がっている。爪の根元からではなく、爪先からじわりと滲んだような黒。
美しいから、余計に不気味だった。
桃の花に、夜が染み込んでいくように見える。
「黒爪……」
誰かが呟いた。
「やはり呪いだわ」
「南妃様の爪紅が……」
「いいえ、紅玉宮の印も出たのでしょう」
「では麗妃様が?」
「声を慎みなさい!」
香梅が叱りつけるが、遅い。
噂はもう、部屋の中で生き物のように動き始めている。
私は一歩近づいた。
清貴妃の目が薄く開いている。
彼女は自分の爪を見ていなかった。
見ないようにしているのか。
それとも、見なくても分かっているのか。
「貴妃様」
私は膝をついた。
「御手を拝見してもよろしいでしょうか」
清貴妃は少しだけ私を見る。
その目には、先ほどよりも疲れがあった。
「……また、爪を見るのね」
「それが仕事ですので」
「便利な仕事ね」
「便利ではありません。見えたら、見えなかったことにできないので」
清貴妃の唇が、かすかに動いた。
笑ったのかもしれない。
「なら、可哀想な仕事だわ」
私は返事をしなかった。
その通りだと思ったからだ。
清貴妃の手をそっと支える。
熱はある。
けれど、黒くなった指だけが異様に冷たい、というわけではない。血が腐っているとか、壊死しているとか、そういうものではなさそうだった。
まず、匂い。
焦げた匂いはない。
腐敗臭もない。
次に、表面。
黒い色は爪そのものから変色しているように見えるが、艶が違う。爪紅の上に重なった膜のような光り方をしている。
私は細い布を取り出し、ほんの少しだけ爪先を拭った。
黒は落ちない。
周囲の女官たちが息を呑む。
医官が低く言った。
「落ちぬのです。洗っても、拭っても」
「水では落ちません」
私は呟いた。
「油でも、おそらく落ちにくい」
小鈴が後ろで小さく言う。
「じゃあ、やっぱり呪い……?」
「違う」
私は即答していた。
自分でも驚くくらい強く。
「呪いなら、もう少し雑に怖がらせます」
「呪いに雑とかあるの?」
「これは、人に見せるために丁寧に作った黒です」
怜月殿下が私の横に立った。
「どういう意味だ」
「黒くなる指が選ばれています」
「指が?」
「右手の薬指と中指、左手の小指。この三本だけです。もし爪紅そのものに反応したなら、全ての爪に出てもいいはずです。香油で落とした時に混入したものなら、触れた範囲にもっと広がるはずです。でも、黒いのは三本だけ」
「その三本に意味があるのか」
私は清貴妃の手を見た。
右薬指。
婚姻や寵愛を象徴する指。
右中指。
この国では、誓いの印を押す時に使う指。
左小指。
秘密を結ぶ指。
凛花の記憶が教えてくれる。
後宮では、爪の色だけでなく、どの指に飾りを置くかにも意味がある。
つまりこれは、ただの変色ではない。
文章だ。
爪に書かれた脅迫文。
「“寵愛と誓いと秘密を汚す”という意味に見えます」
部屋の空気が凍った。
清貴妃の指が、私の手の中でわずかに動いた。
当たりだ。
何かがある。
怜月殿下の声が低くなる。
「誰に向けた言葉だ」
「清貴妃様に。あるいは、清貴妃様を見ている誰かに」
「つまり、見せしめか」
「はい」
私は爪先に顔を近づけた。
黒い部分の縁に、わずかな青みがある。
墨ではない。
炭でもない。
金属系の粉と、何かの汁が反応したような色。
この世界の素材名までは分からない。
けれど、前世の知識が小さく囁く。
酸化。
変色。
成分同士の反応。
色は、混ぜるもので変わる。
ジェルも顔料も、相性を間違えれば濁る。美しいはずの色が、一瞬で灰色になる。
「清貴妃様」
私は聞いた。
「この黒くなった三本だけ、何か別のものに触れましたか」
「……覚えていないわ」
返事は早くなかった。
嘘ではない。
でも、全部ではない。
「では、今日、目を覚まされてから誰かに手を握られましたか」
清貴妃は沈黙した。
女官たちが顔を見合わせる。
医官が慌てて言った。
「診察の際に、私が脈を」
「脈なら手首です。爪には触れません」
私は清貴妃を見た。
清貴妃は視線を逸らした。
誰かを庇っている。
まただ。
この人はずっと、誰かを庇っている。
「貴妃様」
怜月殿下が静かに言った。
「隠し事は、お身体のためになりません」
清貴妃は彼を見た。
弱っているはずなのに、その目は強かった。
「殿下は、私の身体を案じてくださるの?」
「帝の妃が後宮で倒れた。案じるのは当然だ」
「では、私個人ではなく、帝の妃だから?」
怜月殿下は答えなかった。
清貴妃は薄く笑う。
「正直な方」
「嘘を言う場面ではない」
「後宮で、嘘を言わずに済む場面などありますか」
その一言で、部屋の奥の女官たちがうつむいた。
会話が刃のように交わされる。
清貴妃は弱っている。
怜月殿下は彼女を問い詰めている。
なのに、どちらも簡単には本音を出さない。
私は、清貴妃の黒くなった爪を見ながら思った。
この二人は、何かを共有している。
信頼ではない。
敵意でもない。
もっと古い、言葉にしにくいもの。
「凛花」
怜月殿下が私に振る。
やめてほしい。
でも逃げられない。
「黒くなった原因は」
「まだ断定できません。ただ、爪紅の下から黒くなったのではなく、上で反応しています」
「落とせるか」
「普通には難しいです。でも、何に反応したか分かれば」
「調べるには何が要る」
「使われた爪紅、香油、清貴妃様が触れたもの。それから、この部屋に置かれていた茶器や菓子皿、薬湯の椀も見たいです」
「爪と関係があるのか」
「手は色々なものに触れます。口に入る前に、指先が触れることもあります」
私は清貴妃の三本の指を見る。
「黒くしたい指だけに、何かを付けた人がいるはずです。直接か、間接かは分かりません」
その時、若い女官が一人、びくりと肩を揺らした。
私は見た。
右手を袖に隠した。
爪は見えなかった。
けれど動きが不自然だった。
「あなた」
私は思わず声をかけた。
女官が顔を上げる。
十六、七くらい。杏児より少し年上か。目元が赤い。白蓮宮の女官らしく、淡い爪紅を塗っている。
「今日、清貴妃様の手に触れましたか」
「い、いいえ」
早い。
早すぎる。
周囲が彼女を見る。
女官は震え始めた。
「違います、私は何も……!」
怜月殿下が一歩近づく。
「名は」
「梨春でございます」
「手を出せ」
梨春は出さない。
出せないのだ。
私はゆっくり近づいた。
「梨春さん」
「来ないで!」
叫び声が寝殿に響いた。
女官たちがざわめく。
梨春は自分の手を袖の中に隠し、涙を浮かべて首を振った。
「私は何もしていません。貴妃様を傷つけるつもりなんて」
「傷つけるつもりはなかったんですね」
私が言うと、梨春の顔がさらに青くなった。
しまった、という顔。
言葉は、爪よりも先にこぼれることがある。
「怜月殿下」
清貴妃が、寝台から声を出した。
「その子を責めないで」
「庇うのか」
「庇うわ」
清貴妃は言った。
「私の女官だもの」
「その女官が何かを隠しているとしても?」
「隠していない女官など、後宮にはいないでしょう」
清貴妃の声は弱い。
それでも、梨春を守ろうとしていた。
私は梨春の手を見たかった。
でも、無理やり暴くのは違う気がした。
前世のサロンでもそうだった。
指先の傷を見て、何があったのか分かることはある。けれど、こちらから暴いていいことと、そうでないことがある。
ただ、今は後宮だ。
優しさだけでは、次の誰かが傷つく。
「梨春さん」
私は声を落とした。
「あなたが清貴妃様を傷つけるつもりではなかったことは、たぶん本当だと思います」
梨春の肩が震える。
「でも、あなたが黙っていると、誰かが“呪い”にされます。南妃様か、紅玉宮か、あるいは清貴妃様ご自身が」
「貴妃様が?」
「黒は罪の色です。清貴妃様の爪が黒くなったと広まれば、今度は清貴妃様が何か罪を犯したのだと噂されるかもしれません」
梨春の目が揺れた。
彼女は清貴妃を見た。
清貴妃は目を閉じている。
何も言わない。
許すとも、止めるとも。
梨春は泣きながら、ゆっくり右手を出した。
その爪を見た瞬間、私は息を呑んだ。
右手の人差し指と親指だけ、爪先が黒ずんでいる。
清貴妃の爪と同じ黒ではない。
もっと薄い。
粉が入り込んだ跡。
「これは……」
小鈴が小さく呟く。
私は梨春の指先に顔を近づけた。
焦げた匂いではない。
わずかに酸っぱい。
果汁?
いや、薬湯に入れる酸味のある実かもしれない。
「何を触りましたか」
梨春は泣きながら答えた。
「蜜柑の砂糖漬けを……貴妃様が喉が渇いたとおっしゃったので、小皿をお持ちして……」
「その時、手で?」
「はい。でも、布を使いました。直接は触っていません。ただ、貴妃様が一つ摘まれて、そのあと……」
「そのあと?」
「私に、下がってよいと」
梨春は唇を噛んだ。
「その時、貴妃様が私の手を少し握ってくださって……怖がらなくていい、と」
私は清貴妃を見た。
彼女は目を閉じたまま。
けれど、指先がわずかに動いている。
清貴妃が梨春の手を握った。
その時、梨春の指先に付着していた何かが、清貴妃の爪に移った。
黒くなった三本だけ。
つまり、梨春が触れた位置だ。
「蜜柑の砂糖漬けを見せてください」
怜月殿下が視線を動かすと、宦官がすぐに動いた。
しばらくして、小さな皿が運ばれてくる。
琥珀色の蜜に浸かった薄切りの果実。
甘い香り。
私はその皿を見て、違和感を覚えた。
果実の色が明るすぎる。
蜜の表面に、かすかな青い膜がある。
「これは、清貴妃様が普段召し上がるものですか」
「はい」
梨春が答える。
「ただ、今日は食欲がないからと、一切れだけ」
私は小皿の縁を見た。
そこに薄い粉が残っている。
白い粉。
砂糖ではない。
指で触れると、きしりとした。
小鈴が覗き込む。
「何これ」
「たぶん、爪紅の艶出しに使う粉に似てる」
「食べ物に入れるものじゃないじゃない!」
「うん」
私は蜜柑の一切れを布でつまみ、清貴妃の爪に残った黒い部分と見比べる。
桃花爪紅。
黄晶石粉。
香油。
そして、この白い艶粉。
酸味のある蜜柑。
いくつかが重なって、黒くなった。
単体では毒ではない。
単体では、ただの美容素材、ただの菓子。
でも組み合わせれば、爪に呪いを作れる。
「黒爪の正体は、おそらくこれです」
私は言った。
部屋が静かになる。
「菓子に混ぜた艶粉と、先ほどの爪紅に残った鉱物粉が反応したんだと思います。梨春さんの指についた粉が、清貴妃様の爪に触れて、黒くなった」
医官が眉をひそめる。
「そのようなことで爪が黒く?」
「爪ではなく、爪紅の表面が黒くなっています。元の爪はおそらく無事です」
「証明できるか」
怜月殿下が問う。
私は少し考えた。
「同じ爪紅があれば」
「用意しろ」
怜月殿下が命じる。
香梅が慌てて爪紅の小壺を持ってくる。
私は小さな白い陶片を借り、その上に桃花爪紅を薄く塗った。乾ききる前に、香油をほんの少し。さらに黄晶石粉を微量。そして、菓子皿の縁に残っていた白い粉と蜜柑の汁を落とす。
しばらくは何も起こらなかった。
女官たちが息を潜めて見守る。
小鈴が隣で祈るように両手を握っていた。
やがて。
桃花色の上に、黒い染みが浮かんだ。
誰かが悲鳴を上げた。
私は胸の奥で、静かに息を吐いた。
当たった。
でも、喜べない。
呪いではないと証明できた。
けれど、これはつまり、誰かがこの反応を知っていて、わざと仕組んだということだ。
「呪いではありません」
私は陶片を持ち上げた。
「爪紅と香油と粉と蜜柑の汁を使った細工です」
部屋の空気が、大きく変わった。
恐怖が、怒りに変わる。
女官たちは互いを見た。
南妃の呪いではない。
紅玉宮の単独犯でもない。
白蓮宮の中にも、誰かがいる。
怜月殿下が梨春を見る。
「菓子を用意したのは誰だ」
梨春は泣きながら首を振った。
「厨房から届きました。でも、皿に移したのは私です。粉なんて、気づかなくて……」
「厨房の誰が」
「分かりません。いつもの盆に乗っていて……」
「盆を運んだ者は」
誰も答えない。
答えられないのか、答えたくないのか。
その時、清貴妃が小さく笑った。
「見事ね」
皆が彼女を見る。
清貴妃は黒く染まった爪を眺めていた。
怯えてはいない。
むしろ、どこか諦めたような笑みだった。
「呪いではない。毒でもない。誰かが丁寧に、私の指先へ罪を塗った」
「貴妃様」
私は声をかけた。
「心当たりがあるのではありませんか」
部屋の空気が張り詰める。
怜月殿下が私を止めなかった。
清貴妃は私を見た。
「あると言ったら?」
「教えてください」
「教えたら、その者は死ぬわ」
梨春が震えた。
女官たちも顔を伏せる。
清貴妃は続けた。
「後宮で罪を暴くということは、誰かを救うことではないの。誰を殺すか選ぶことよ」
その言葉は、重かった。
私はすぐには返せなかった。
前世のサロンには、警察も裁判も法律もあった。
それでも人の悩みは複雑だった。
でもここは違う。
権力が近すぎる。
噂が早すぎる。
命が軽すぎる。
真実を見つければ、それで終わりではない。
その真実を誰に渡すかで、誰かの人生が決まる。
「それでも」
私は清貴妃の爪を見た。
黒くされた爪。
恐怖を広めるために使われた、美しい指先。
「このままなら、もっと多くの人が殺されます」
清貴妃の表情が変わった。
「あなた、変な子ね」
「今日二回目です」
「誰に言われたの」
「紅玉宮の女官長様に」
「あの人が?」
清貴妃は少しだけ目を細めた。
そこに、意外な感情が見えた。
敵意ではない。
昔を思い出すような、苦い親しみ。
清貴妃と翠蘭は、ただの敵ではない。
また一つ、爪紅の下の色が見えた気がした。
「殿下」
清貴妃は怜月殿下を見た。
「私の古い爪紅帳を、持ってきてください」
怜月殿下の顔がわずかに険しくなる。
「どこにある」
「東の化粧棚の底。誰にも触らせていません」
「なぜ今まで出さなかった」
「出せば、昔のことまで掘り返されるから」
「昔のこととは」
清貴妃は答えなかった。
代わりに、黒く染まった爪を私に差し出す。
「凛花」
「はい」
「この爪、落とせる?」
問い方が、少しだけ変わった。
妃が下級爪紅師に命じる声ではない。
女が女に頼む声だった。
「完全に落とすには時間がかかります。でも、爪そのものは傷んでいないと思います」
「そう」
清貴妃は目を閉じた。
「なら、まだ戦えるわね」
その言葉で、私はようやく気づいた。
清貴妃はただの被害者ではない。
彼女は弱っている。
追い詰められている。
それでも、後宮の盤面から降りるつもりはない。
怜月殿下が宦官に命じ、古い爪紅帳が運ばれてきた。
黒い革表紙。
角は擦れている。
紐は色褪せていた。
帳を見た瞬間、部屋の何人かが明らかに顔色を変えた。
香梅。
医官。
それから、奥に控えていた年配の女官。
私はその反応を見逃さなかった。
この帳には、ただの爪紅の記録以上のものがある。
怜月殿下が帳を開く。
私は横から覗いた。
歴代の爪色。
宴の日付。
妃の名。
誰が爪紅を贈ったか。
どの指にどの色を置いたか。
丁寧な文字で記されている。
最初はただの記録に見えた。
けれど、頁をめくるうちに、私は指先が冷たくなるのを感じた。
桃花色。
金粉。
右薬指。
左小指。
黒変。
その組み合わせが、過去にもあった。
一度ではない。
三度。
そして、その三人の妃の名前の横には、小さく同じ印がついていた。
蓮の花を崩したような印。
「この印は何ですか」
私が問うと、部屋中が静まり返った。
清貴妃は目を開けない。
怜月殿下は答えない。
沈黙が長すぎる。
やがて、怜月殿下が低く言った。
「かつて、皇子を産むはずだった妃につけられた印だ」
小鈴が息を止めた。
私も、言葉を失った。
皇子。
翠蘭が言っていた言葉が戻ってくる。
桃花の色は、皇子の血を隠す。
黒爪は、ただの脅しではない。
皇位継承に関わる印。
後宮の奥に隠された、古い事件の再現。
清貴妃の爪は、今の彼女だけを狙ったものではない。
過去の死者たちを呼び起こすために、黒くされたのだ。
私は爪紅帳を見下ろした。
美しい色の記録。
その裏に、妃たちの沈黙と死が並んでいる。
爪は、嘘をつかない。
けれど、爪紅帳は嘘を保存していた。
怜月殿下が帳を閉じる。
その音が、やけに大きく響いた。
「凛花」
「はい」
「お前には、これが何に見える」
私は答えるまでに、少し時間がかかった。
ただの事件ではない。
ただの呪いでもない。
ただの女同士の争いでもない。
「……誰かが、昔の事件をもう一度塗り直そうとしているように見えます」
怜月殿下の目が、暗く沈んだ。
「その通りだ」
その声を聞いた瞬間、私は悟った。
この人は、最初から知っていたわけではない。
けれど、恐れていた。
この黒爪が、古い何かに繋がることを。
そして、それが今、現実になった。
清貴妃が薄く笑う。
「殿下。これで、私をただの哀れな被害者として扱えなくなりましたね」
「最初から、そのつもりはない」
「なら、取引しましょう」
寝台の上の妃は、黒く染まった爪をゆっくりと握った。
「私が知っていることを話します。その代わり、梨春と杏児、そして翠蘭をすぐには処罰しないで」
部屋がざわめく。
怜月殿下は清貴妃を見た。
「罪を犯した者を庇うのか」
「罪を犯させた者を捕まえたいのです」
清貴妃の声はかすれていた。
けれど、その言葉には力があった。
「殿下も、その方がお望みでしょう?」
怜月殿下は答えなかった。
その沈黙の中で、私はまた清貴妃の爪を見る。
黒く汚された爪。
でも、指先はまだ折れていない。
この人は、戦うつもりだ。
そして私は、たぶんまた巻き込まれる。
小鈴が隣で、ほとんど聞こえない声で言った。
「凛花、これ、もう帰れないやつじゃない?」
「うん」
「うんじゃないってば……」
私は道具箱を抱きしめた。
中には爪紅と筆と、甘皮用の油膏。
武器にしては、あまりに頼りない。
それでも今、この後宮で私に使えるものはそれしかない。
怜月殿下が静かに言った。
「話せ、清貴妃」
清貴妃は目を閉じたまま、口を開く。
「十年前、黒爪の妃と呼ばれた方がいました」
その言葉で、寝殿の空気がさらに冷たくなった。
「その方は、皇子を宿していた。けれど、出産の前夜に爪が黒く染まり、翌朝には……」
清貴妃の声が一度途切れる。
誰も急かさない。
私は爪紅帳を見た。
そこに残された名。
黒い印。
消されたように薄い文字。
清貴妃は、ゆっくり続けた。
「亡くなりました。表向きは病死。でも、後宮にいた者たちは皆、知っていました。あれは病ではない。誰かが、皇子ごと妃を消したのだと」
怜月殿下の横顔が、凍ったように動かない。
私は胸の奥がざわついた。
十年前。
皇子。
黒爪の妃。
そして今、清貴妃の爪に同じ印が再現された。
これは、過去から届いた呪いではない。
過去を知る誰かが、今の後宮に向けて爪を立てている。
清貴妃が最後に、私を見た。
「凛花。あなたは爪を見るのでしょう」
「……はい」
「なら、見つけて」
黒く染まった指先が、わずかに震えた。
「十年前、誰があの方の爪に嘘を塗ったのかを」




