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後宮の爪紅師は、妃たちの嘘を剥がす 〜異世界転生ネイリスト、呪いの指先から宮廷陰謀を暴きます〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第四話 黒爪の貴妃

続きは「黒爪」の急報から、第一章の事件が一段深くなる場面です。ここで“呪い”の恐怖を強めつつ、凛花が科学ではなく職人の観察眼で崩していきます。


思考時間: 12s

第四話 黒爪の貴妃


 白蓮宮へ戻る道は、行きよりもずっと短く感じた。


 走っているわけではない。


 怜月殿下は相変わらず歩いている。


 けれど、その歩調には迷いがなかった。回廊の角を曲がるたび、女官たちが慌てて道を空ける。黒衣の裾が風を切り、宦官たちは言葉を飲み込み、宮の空気だけが先に震えていく。


 私は道具箱を抱え直した。


 手のひらに汗が滲んでいる。


 黒い爪。


 凛花の記憶が、何度もその言葉を繰り返していた。


 後宮で黒は、ただの色ではない。


 罪人の色。


 喪の色。


 それから、死を待つ妃の色。


 昔、皇帝の寵愛を失った妃の爪が黒く染まり、三日後に冷たい池で見つかったという噂がある。誰かに殺されたとも、自ら身を投げたとも、呪いで血が腐ったとも言われていた。


 もちろん、噂だ。


 でも後宮では、噂が本当かどうかはあまり重要ではない。


 人が信じた時点で、噂は刃になる。


「凛花」


 隣を歩く小鈴が、小声で言った。


「黒爪って、本当に……」


「まだ見てない」


「見たら分かるの?」


「分からないかもしれない」


「そこは分かるって言ってよ!」


「嘘をつく余裕がない」


 小鈴は泣きそうな顔で私を睨んだ。


「今日のあんた、ずっと正直すぎて怖い」


「私も怖い」


「じゃあ、やめようよ」


「やめられるなら、最初から紅玉宮に行ってない」


「正論が嫌いになりそう」


 そんな会話をしている間にも、白蓮宮の門が見えてきた。


 門前には、先ほどより人が多い。


 女官、宦官、医官、衛兵。


 皆がざわめき、けれど怜月殿下の姿を見ると一斉に頭を下げる。その動きが波のように広がった。


 白蓮宮の中からは、泣き声が聞こえていた。


 ただの涙ではない。


 恐怖が混じっている。


「殿下!」


 香梅が駆け寄ってきた。


 顔が真っ青だった。普段は下級爪紅師たちの前で偉そうにしている彼女が、今は完全に余裕を失っている。


「清貴妃様の御手が……爪が、黒く……!」


「医官は」


「診ておりますが、原因が分からぬと」


「香炉は止めたはずだ」


「はい。ですが、爪の色だけが急に」


 怜月殿下は私を見た。


 命令はなかった。


 けれど、言いたいことは分かる。


 見ろ。


 私は頷くしかなかった。


 寝殿へ入ると、空気がさっきより重くなっていた。


 香炉は止められている。


 それでも部屋には甘さが残っている。布や衣、髪に染み込んだ香はすぐには消えない。


 清貴妃は寝台に横たわっていた。


 顔色は相変わらず悪い。


 けれど、先ほどと違うのは、彼女の右手に白い布が掛けられていることだった。


 医官がその横で困り果てた顔をしている。


 年配の男だ。額には汗が浮いている。彼は怜月殿下を見るなり、深く頭を下げた。


「殿下、これは毒とも病とも断じかねます。脈は乱れておりますが、命に関わるほどではございません。ただ、爪の色が……」


「布を取れ」


 怜月殿下が言った。


 医官はためらった。


 その一瞬で、周囲の女官たちがまたざわめく。


 怜月殿下の目が冷える。


「取れ」


 医官は震える手で、布をめくった。


 小鈴が喉の奥で小さく悲鳴を漏らした。


 清貴妃の爪が、黒く染まっていた。


 正確には、全部ではない。


 右手の薬指と中指。


 左手の小指。


 三本だけ。


 桃花色だったはずの爪紅の上に、墨を垂らしたような黒が広がっている。爪の根元からではなく、爪先からじわりと滲んだような黒。


 美しいから、余計に不気味だった。


 桃の花に、夜が染み込んでいくように見える。


「黒爪……」


 誰かが呟いた。


「やはり呪いだわ」


「南妃様の爪紅が……」


「いいえ、紅玉宮の印も出たのでしょう」


「では麗妃様が?」


「声を慎みなさい!」


 香梅が叱りつけるが、遅い。


 噂はもう、部屋の中で生き物のように動き始めている。


 私は一歩近づいた。


 清貴妃の目が薄く開いている。


 彼女は自分の爪を見ていなかった。


 見ないようにしているのか。


 それとも、見なくても分かっているのか。


「貴妃様」


 私は膝をついた。


「御手を拝見してもよろしいでしょうか」


 清貴妃は少しだけ私を見る。


 その目には、先ほどよりも疲れがあった。


「……また、爪を見るのね」


「それが仕事ですので」


「便利な仕事ね」


「便利ではありません。見えたら、見えなかったことにできないので」


 清貴妃の唇が、かすかに動いた。


 笑ったのかもしれない。


「なら、可哀想な仕事だわ」


 私は返事をしなかった。


 その通りだと思ったからだ。


 清貴妃の手をそっと支える。


 熱はある。


 けれど、黒くなった指だけが異様に冷たい、というわけではない。血が腐っているとか、壊死しているとか、そういうものではなさそうだった。


 まず、匂い。


 焦げた匂いはない。


 腐敗臭もない。


 次に、表面。


 黒い色は爪そのものから変色しているように見えるが、艶が違う。爪紅の上に重なった膜のような光り方をしている。


 私は細い布を取り出し、ほんの少しだけ爪先を拭った。


 黒は落ちない。


 周囲の女官たちが息を呑む。


 医官が低く言った。


「落ちぬのです。洗っても、拭っても」


「水では落ちません」


 私は呟いた。


「油でも、おそらく落ちにくい」


 小鈴が後ろで小さく言う。


「じゃあ、やっぱり呪い……?」


「違う」


 私は即答していた。


 自分でも驚くくらい強く。


「呪いなら、もう少し雑に怖がらせます」


「呪いに雑とかあるの?」


「これは、人に見せるために丁寧に作った黒です」


 怜月殿下が私の横に立った。


「どういう意味だ」


「黒くなる指が選ばれています」


「指が?」


「右手の薬指と中指、左手の小指。この三本だけです。もし爪紅そのものに反応したなら、全ての爪に出てもいいはずです。香油で落とした時に混入したものなら、触れた範囲にもっと広がるはずです。でも、黒いのは三本だけ」


「その三本に意味があるのか」


 私は清貴妃の手を見た。


 右薬指。


 婚姻や寵愛を象徴する指。


 右中指。


 この国では、誓いの印を押す時に使う指。


 左小指。


 秘密を結ぶ指。


 凛花の記憶が教えてくれる。


 後宮では、爪の色だけでなく、どの指に飾りを置くかにも意味がある。


 つまりこれは、ただの変色ではない。


 文章だ。


 爪に書かれた脅迫文。


「“寵愛と誓いと秘密を汚す”という意味に見えます」


 部屋の空気が凍った。


 清貴妃の指が、私の手の中でわずかに動いた。


 当たりだ。


 何かがある。


 怜月殿下の声が低くなる。


「誰に向けた言葉だ」


「清貴妃様に。あるいは、清貴妃様を見ている誰かに」


「つまり、見せしめか」


「はい」


 私は爪先に顔を近づけた。


 黒い部分の縁に、わずかな青みがある。


 墨ではない。


 炭でもない。


 金属系の粉と、何かの汁が反応したような色。


 この世界の素材名までは分からない。


 けれど、前世の知識が小さく囁く。


 酸化。


 変色。


 成分同士の反応。


 色は、混ぜるもので変わる。


 ジェルも顔料も、相性を間違えれば濁る。美しいはずの色が、一瞬で灰色になる。


「清貴妃様」


 私は聞いた。


「この黒くなった三本だけ、何か別のものに触れましたか」


「……覚えていないわ」


 返事は早くなかった。


 嘘ではない。


 でも、全部ではない。


「では、今日、目を覚まされてから誰かに手を握られましたか」


 清貴妃は沈黙した。


 女官たちが顔を見合わせる。


 医官が慌てて言った。


「診察の際に、私が脈を」


「脈なら手首です。爪には触れません」


 私は清貴妃を見た。


 清貴妃は視線を逸らした。


 誰かを庇っている。


 まただ。


 この人はずっと、誰かを庇っている。


「貴妃様」


 怜月殿下が静かに言った。


「隠し事は、お身体のためになりません」


 清貴妃は彼を見た。


 弱っているはずなのに、その目は強かった。


「殿下は、私の身体を案じてくださるの?」


「帝の妃が後宮で倒れた。案じるのは当然だ」


「では、私個人ではなく、帝の妃だから?」


 怜月殿下は答えなかった。


 清貴妃は薄く笑う。


「正直な方」


「嘘を言う場面ではない」


「後宮で、嘘を言わずに済む場面などありますか」


 その一言で、部屋の奥の女官たちがうつむいた。


 会話が刃のように交わされる。


 清貴妃は弱っている。


 怜月殿下は彼女を問い詰めている。


 なのに、どちらも簡単には本音を出さない。


 私は、清貴妃の黒くなった爪を見ながら思った。


 この二人は、何かを共有している。


 信頼ではない。


 敵意でもない。


 もっと古い、言葉にしにくいもの。


「凛花」


 怜月殿下が私に振る。


 やめてほしい。


 でも逃げられない。


「黒くなった原因は」


「まだ断定できません。ただ、爪紅の下から黒くなったのではなく、上で反応しています」


「落とせるか」


「普通には難しいです。でも、何に反応したか分かれば」


「調べるには何が要る」


「使われた爪紅、香油、清貴妃様が触れたもの。それから、この部屋に置かれていた茶器や菓子皿、薬湯の椀も見たいです」


「爪と関係があるのか」


「手は色々なものに触れます。口に入る前に、指先が触れることもあります」


 私は清貴妃の三本の指を見る。


「黒くしたい指だけに、何かを付けた人がいるはずです。直接か、間接かは分かりません」


 その時、若い女官が一人、びくりと肩を揺らした。


 私は見た。


 右手を袖に隠した。


 爪は見えなかった。


 けれど動きが不自然だった。


「あなた」


 私は思わず声をかけた。


 女官が顔を上げる。


 十六、七くらい。杏児より少し年上か。目元が赤い。白蓮宮の女官らしく、淡い爪紅を塗っている。


「今日、清貴妃様の手に触れましたか」


「い、いいえ」


 早い。


 早すぎる。


 周囲が彼女を見る。


 女官は震え始めた。


「違います、私は何も……!」


 怜月殿下が一歩近づく。


「名は」


「梨春でございます」


「手を出せ」


 梨春は出さない。


 出せないのだ。


 私はゆっくり近づいた。


「梨春さん」


「来ないで!」


 叫び声が寝殿に響いた。


 女官たちがざわめく。


 梨春は自分の手を袖の中に隠し、涙を浮かべて首を振った。


「私は何もしていません。貴妃様を傷つけるつもりなんて」


「傷つけるつもりはなかったんですね」


 私が言うと、梨春の顔がさらに青くなった。


 しまった、という顔。


 言葉は、爪よりも先にこぼれることがある。


「怜月殿下」


 清貴妃が、寝台から声を出した。


「その子を責めないで」


「庇うのか」


「庇うわ」


 清貴妃は言った。


「私の女官だもの」


「その女官が何かを隠しているとしても?」


「隠していない女官など、後宮にはいないでしょう」


 清貴妃の声は弱い。


 それでも、梨春を守ろうとしていた。


 私は梨春の手を見たかった。


 でも、無理やり暴くのは違う気がした。


 前世のサロンでもそうだった。


 指先の傷を見て、何があったのか分かることはある。けれど、こちらから暴いていいことと、そうでないことがある。


 ただ、今は後宮だ。


 優しさだけでは、次の誰かが傷つく。


「梨春さん」


 私は声を落とした。


「あなたが清貴妃様を傷つけるつもりではなかったことは、たぶん本当だと思います」


 梨春の肩が震える。


「でも、あなたが黙っていると、誰かが“呪い”にされます。南妃様か、紅玉宮か、あるいは清貴妃様ご自身が」


「貴妃様が?」


「黒は罪の色です。清貴妃様の爪が黒くなったと広まれば、今度は清貴妃様が何か罪を犯したのだと噂されるかもしれません」


 梨春の目が揺れた。


 彼女は清貴妃を見た。


 清貴妃は目を閉じている。


 何も言わない。


 許すとも、止めるとも。


 梨春は泣きながら、ゆっくり右手を出した。


 その爪を見た瞬間、私は息を呑んだ。


 右手の人差し指と親指だけ、爪先が黒ずんでいる。


 清貴妃の爪と同じ黒ではない。


 もっと薄い。


 粉が入り込んだ跡。


「これは……」


 小鈴が小さく呟く。


 私は梨春の指先に顔を近づけた。


 焦げた匂いではない。


 わずかに酸っぱい。


 果汁?


 いや、薬湯に入れる酸味のある実かもしれない。


「何を触りましたか」


 梨春は泣きながら答えた。


「蜜柑の砂糖漬けを……貴妃様が喉が渇いたとおっしゃったので、小皿をお持ちして……」


「その時、手で?」


「はい。でも、布を使いました。直接は触っていません。ただ、貴妃様が一つ摘まれて、そのあと……」


「そのあと?」


「私に、下がってよいと」


 梨春は唇を噛んだ。


「その時、貴妃様が私の手を少し握ってくださって……怖がらなくていい、と」


 私は清貴妃を見た。


 彼女は目を閉じたまま。


 けれど、指先がわずかに動いている。


 清貴妃が梨春の手を握った。


 その時、梨春の指先に付着していた何かが、清貴妃の爪に移った。


 黒くなった三本だけ。


 つまり、梨春が触れた位置だ。


「蜜柑の砂糖漬けを見せてください」


 怜月殿下が視線を動かすと、宦官がすぐに動いた。


 しばらくして、小さな皿が運ばれてくる。


 琥珀色の蜜に浸かった薄切りの果実。


 甘い香り。


 私はその皿を見て、違和感を覚えた。


 果実の色が明るすぎる。


 蜜の表面に、かすかな青い膜がある。


「これは、清貴妃様が普段召し上がるものですか」


「はい」


 梨春が答える。


「ただ、今日は食欲がないからと、一切れだけ」


 私は小皿の縁を見た。


 そこに薄い粉が残っている。


 白い粉。


 砂糖ではない。


 指で触れると、きしりとした。


 小鈴が覗き込む。


「何これ」


「たぶん、爪紅の艶出しに使う粉に似てる」


「食べ物に入れるものじゃないじゃない!」


「うん」


 私は蜜柑の一切れを布でつまみ、清貴妃の爪に残った黒い部分と見比べる。


 桃花爪紅。


 黄晶石粉。


 香油。


 そして、この白い艶粉。


 酸味のある蜜柑。


 いくつかが重なって、黒くなった。


 単体では毒ではない。


 単体では、ただの美容素材、ただの菓子。


 でも組み合わせれば、爪に呪いを作れる。


「黒爪の正体は、おそらくこれです」


 私は言った。


 部屋が静かになる。


「菓子に混ぜた艶粉と、先ほどの爪紅に残った鉱物粉が反応したんだと思います。梨春さんの指についた粉が、清貴妃様の爪に触れて、黒くなった」


 医官が眉をひそめる。


「そのようなことで爪が黒く?」


「爪ではなく、爪紅の表面が黒くなっています。元の爪はおそらく無事です」


「証明できるか」


 怜月殿下が問う。


 私は少し考えた。


「同じ爪紅があれば」


「用意しろ」


 怜月殿下が命じる。


 香梅が慌てて爪紅の小壺を持ってくる。


 私は小さな白い陶片を借り、その上に桃花爪紅を薄く塗った。乾ききる前に、香油をほんの少し。さらに黄晶石粉を微量。そして、菓子皿の縁に残っていた白い粉と蜜柑の汁を落とす。


 しばらくは何も起こらなかった。


 女官たちが息を潜めて見守る。


 小鈴が隣で祈るように両手を握っていた。


 やがて。


 桃花色の上に、黒い染みが浮かんだ。


 誰かが悲鳴を上げた。


 私は胸の奥で、静かに息を吐いた。


 当たった。


 でも、喜べない。


 呪いではないと証明できた。


 けれど、これはつまり、誰かがこの反応を知っていて、わざと仕組んだということだ。


「呪いではありません」


 私は陶片を持ち上げた。


「爪紅と香油と粉と蜜柑の汁を使った細工です」


 部屋の空気が、大きく変わった。


 恐怖が、怒りに変わる。


 女官たちは互いを見た。


 南妃の呪いではない。


 紅玉宮の単独犯でもない。


 白蓮宮の中にも、誰かがいる。


 怜月殿下が梨春を見る。


「菓子を用意したのは誰だ」


 梨春は泣きながら首を振った。


「厨房から届きました。でも、皿に移したのは私です。粉なんて、気づかなくて……」


「厨房の誰が」


「分かりません。いつもの盆に乗っていて……」


「盆を運んだ者は」


 誰も答えない。


 答えられないのか、答えたくないのか。


 その時、清貴妃が小さく笑った。


「見事ね」


 皆が彼女を見る。


 清貴妃は黒く染まった爪を眺めていた。


 怯えてはいない。


 むしろ、どこか諦めたような笑みだった。


「呪いではない。毒でもない。誰かが丁寧に、私の指先へ罪を塗った」


「貴妃様」


 私は声をかけた。


「心当たりがあるのではありませんか」


 部屋の空気が張り詰める。


 怜月殿下が私を止めなかった。


 清貴妃は私を見た。


「あると言ったら?」


「教えてください」


「教えたら、その者は死ぬわ」


 梨春が震えた。


 女官たちも顔を伏せる。


 清貴妃は続けた。


「後宮で罪を暴くということは、誰かを救うことではないの。誰を殺すか選ぶことよ」


 その言葉は、重かった。


 私はすぐには返せなかった。


 前世のサロンには、警察も裁判も法律もあった。


 それでも人の悩みは複雑だった。


 でもここは違う。


 権力が近すぎる。


 噂が早すぎる。


 命が軽すぎる。


 真実を見つければ、それで終わりではない。


 その真実を誰に渡すかで、誰かの人生が決まる。


「それでも」


 私は清貴妃の爪を見た。


 黒くされた爪。


 恐怖を広めるために使われた、美しい指先。


「このままなら、もっと多くの人が殺されます」


 清貴妃の表情が変わった。


「あなた、変な子ね」


「今日二回目です」


「誰に言われたの」


「紅玉宮の女官長様に」


「あの人が?」


 清貴妃は少しだけ目を細めた。


 そこに、意外な感情が見えた。


 敵意ではない。


 昔を思い出すような、苦い親しみ。


 清貴妃と翠蘭は、ただの敵ではない。


 また一つ、爪紅の下の色が見えた気がした。


「殿下」


 清貴妃は怜月殿下を見た。


「私の古い爪紅帳を、持ってきてください」


 怜月殿下の顔がわずかに険しくなる。


「どこにある」


「東の化粧棚の底。誰にも触らせていません」


「なぜ今まで出さなかった」


「出せば、昔のことまで掘り返されるから」


「昔のこととは」


 清貴妃は答えなかった。


 代わりに、黒く染まった爪を私に差し出す。


「凛花」


「はい」


「この爪、落とせる?」


 問い方が、少しだけ変わった。


 妃が下級爪紅師に命じる声ではない。


 女が女に頼む声だった。


「完全に落とすには時間がかかります。でも、爪そのものは傷んでいないと思います」


「そう」


 清貴妃は目を閉じた。


「なら、まだ戦えるわね」


 その言葉で、私はようやく気づいた。


 清貴妃はただの被害者ではない。


 彼女は弱っている。


 追い詰められている。


 それでも、後宮の盤面から降りるつもりはない。


 怜月殿下が宦官に命じ、古い爪紅帳が運ばれてきた。


 黒い革表紙。


 角は擦れている。


 紐は色褪せていた。


 帳を見た瞬間、部屋の何人かが明らかに顔色を変えた。


 香梅。


 医官。


 それから、奥に控えていた年配の女官。


 私はその反応を見逃さなかった。


 この帳には、ただの爪紅の記録以上のものがある。


 怜月殿下が帳を開く。


 私は横から覗いた。


 歴代の爪色。


 宴の日付。


 妃の名。


 誰が爪紅を贈ったか。


 どの指にどの色を置いたか。


 丁寧な文字で記されている。


 最初はただの記録に見えた。


 けれど、頁をめくるうちに、私は指先が冷たくなるのを感じた。


 桃花色。


 金粉。


 右薬指。


 左小指。


 黒変。


 その組み合わせが、過去にもあった。


 一度ではない。


 三度。


 そして、その三人の妃の名前の横には、小さく同じ印がついていた。


 蓮の花を崩したような印。


「この印は何ですか」


 私が問うと、部屋中が静まり返った。


 清貴妃は目を開けない。


 怜月殿下は答えない。


 沈黙が長すぎる。


 やがて、怜月殿下が低く言った。


「かつて、皇子を産むはずだった妃につけられた印だ」


 小鈴が息を止めた。


 私も、言葉を失った。


 皇子。


 翠蘭が言っていた言葉が戻ってくる。


 桃花の色は、皇子の血を隠す。


 黒爪は、ただの脅しではない。


 皇位継承に関わる印。


 後宮の奥に隠された、古い事件の再現。


 清貴妃の爪は、今の彼女だけを狙ったものではない。


 過去の死者たちを呼び起こすために、黒くされたのだ。


 私は爪紅帳を見下ろした。


 美しい色の記録。


 その裏に、妃たちの沈黙と死が並んでいる。


 爪は、嘘をつかない。


 けれど、爪紅帳は嘘を保存していた。


 怜月殿下が帳を閉じる。


 その音が、やけに大きく響いた。


「凛花」


「はい」


「お前には、これが何に見える」


 私は答えるまでに、少し時間がかかった。


 ただの事件ではない。


 ただの呪いでもない。


 ただの女同士の争いでもない。


「……誰かが、昔の事件をもう一度塗り直そうとしているように見えます」


 怜月殿下の目が、暗く沈んだ。


「その通りだ」


 その声を聞いた瞬間、私は悟った。


 この人は、最初から知っていたわけではない。


 けれど、恐れていた。


 この黒爪が、古い何かに繋がることを。


 そして、それが今、現実になった。


 清貴妃が薄く笑う。


「殿下。これで、私をただの哀れな被害者として扱えなくなりましたね」


「最初から、そのつもりはない」


「なら、取引しましょう」


 寝台の上の妃は、黒く染まった爪をゆっくりと握った。


「私が知っていることを話します。その代わり、梨春と杏児、そして翠蘭をすぐには処罰しないで」


 部屋がざわめく。


 怜月殿下は清貴妃を見た。


「罪を犯した者を庇うのか」


「罪を犯させた者を捕まえたいのです」


 清貴妃の声はかすれていた。


 けれど、その言葉には力があった。


「殿下も、その方がお望みでしょう?」


 怜月殿下は答えなかった。


 その沈黙の中で、私はまた清貴妃の爪を見る。


 黒く汚された爪。


 でも、指先はまだ折れていない。


 この人は、戦うつもりだ。


 そして私は、たぶんまた巻き込まれる。


 小鈴が隣で、ほとんど聞こえない声で言った。


「凛花、これ、もう帰れないやつじゃない?」


「うん」


「うんじゃないってば……」


 私は道具箱を抱きしめた。


 中には爪紅と筆と、甘皮用の油膏。


 武器にしては、あまりに頼りない。


 それでも今、この後宮で私に使えるものはそれしかない。


 怜月殿下が静かに言った。


「話せ、清貴妃」


 清貴妃は目を閉じたまま、口を開く。


「十年前、黒爪の妃と呼ばれた方がいました」


 その言葉で、寝殿の空気がさらに冷たくなった。


「その方は、皇子を宿していた。けれど、出産の前夜に爪が黒く染まり、翌朝には……」


 清貴妃の声が一度途切れる。


 誰も急かさない。


 私は爪紅帳を見た。


 そこに残された名。


 黒い印。


 消されたように薄い文字。


 清貴妃は、ゆっくり続けた。


「亡くなりました。表向きは病死。でも、後宮にいた者たちは皆、知っていました。あれは病ではない。誰かが、皇子ごと妃を消したのだと」


 怜月殿下の横顔が、凍ったように動かない。


 私は胸の奥がざわついた。


 十年前。


 皇子。


 黒爪の妃。


 そして今、清貴妃の爪に同じ印が再現された。


 これは、過去から届いた呪いではない。


 過去を知る誰かが、今の後宮に向けて爪を立てている。


 清貴妃が最後に、私を見た。


「凛花。あなたは爪を見るのでしょう」


「……はい」


「なら、見つけて」


 黒く染まった指先が、わずかに震えた。


「十年前、誰があの方の爪に嘘を塗ったのかを」

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