第三話 紅玉宮の女官長
紅玉宮へ向かう道は、白蓮宮へ向かう道よりも静かだった。
同じ後宮の中なのに、空気が違う。
白蓮宮は白く、薄く、息を潜めて咲く蓮のような宮だった。清貴妃の印象そのままに、香も色も控えめで、それゆえに一つの乱れが目立つ。
だが紅玉宮は違った。
門へ近づく前から、赤が見える。
柱の朱。
簾に縫い込まれた紅い糸。
庭に植えられた石榴の花。
池のほとりには、黒い石が敷かれている。そこに陽が当たり、赤い宮が揺らいで映っていた。
美しい。
けれど、落ち着かない。
小鈴が私の隣で、ぼそりと呟いた。
「ねえ、ここ、絶対に下っ端が来る場所じゃないよね」
「うん」
「うんじゃないわよ。なんでそんな普通に頷くの」
「否定しても現実は変わらないから」
「たまには現実に抵抗してよ」
小鈴の声は小さい。
けれど、いつもの調子に戻ろうとしてくれているのが分かる。
ありがたかった。
私一人だったら、紅玉宮の門を見ただけで引き返していたかもしれない。
実際、足は重い。
道具箱の中で、爪紅の壺がかすかに鳴った。
怜月殿下は少し前を歩いている。
黒衣の背中。
長い袖。
歩幅は大きすぎない。こちらが小走りにならずに済む程度の速さ。気遣いなのか、単に急ぐ必要がないと思っているのかは分からない。
ただ、彼が通ると、女官たちは皆、頭を下げた。
恐れ。
敬意。
それから、ほんの少しの期待。
この人なら、誰かを裁いてくれるかもしれない。
この人なら、自分たちの嘘も見逃してくれないかもしれない。
そんな複雑な視線だった。
「殿下」
門番の宦官が青ざめた顔で膝をつく。
「紅玉宮へ何用でございましょう」
「翠蘭を呼べ」
「翠蘭様を……」
「二度言わせるな」
宦官は慌てて奥へ走った。
小鈴が私の袖を引く。
「翠蘭様って、紅玉宮の女官長よね」
「そうみたい」
「そうみたいって、あんた昨日まで知ってたでしょ」
「熱で色々と曖昧になったことにして」
「便利ね、その熱!」
小鈴は怒った顔をしたが、声は震えていた。
無理もない。
紅玉宮は、ただの宮ではない。
ここに住む麗妃は、皇帝陛下の寵愛こそ清貴妃に一歩譲るものの、実家の力が強い。後ろ盾は軍部。父は西方の大将軍。兄は近衛の要職にいる。
つまり、怒らせると物理的に怖い家だ。
清貴妃は寵愛の人。
南妃は古い名門の人。
そして麗妃は力の人。
後宮というより、女たちの顔をした政務会議だと思った方がいい。
私は、凛花の記憶と真白の感覚を重ねながら、紅玉宮の女官たちを見た。
爪が違う。
白蓮宮の女官たちは淡い色を好んでいた。白梅、薄桃、淡金。清貴妃の宮らしく、控えめで清楚に見える色。
だが紅玉宮の女官たちは、爪先に赤を入れている。
濃い紅ではない。身分的に許される範囲の、ごく細い赤い線。けれど全員が同じ位置、同じ幅で入れていた。
統制されている。
誰が誰の下にいるのか、一目で分かるようになっている。
ネイルサロンでも、職場によって爪は変わった。
金融系の人は落ち着いたベージュ。
美容系の人は流行のデザイン。
医療関係の人は短く清潔に。
その人が属している場所は、爪に出る。
この紅玉宮は、爪先まで命令されている宮だ。
「お待たせいたしました」
澄んだ声がした。
奥から現れた女性は、美しかった。
妃ではない。
女官だ。
けれど、立ち姿だけなら並の貴族令嬢よりよほど隙がない。
年は三十前後だろうか。髪はぴたりと結い上げ、額には細い金の飾り。衣は紅玉宮の色に合わせた深い赤だが、派手ではない。落ち着いた赤。血ではなく、熟した石榴の色。
彼女が膝を折る。
「紅玉宮女官長、翠蘭でございます。怜月殿下におかれましては――」
「挨拶はいい」
怜月殿下は切った。
翠蘭はわずかに目を伏せた。
怒ってはいない。
驚いてもいない。
こう来ると分かっていた顔だ。
「白蓮宮で見つかった文に、紅玉宮の印があった」
「そのようでございますね」
小鈴が小さく息を呑んだ。
認めた。
いや、違う。
翠蘭は「印があったこと」を認めただけだ。「自分が関わった」とは言っていない。
「知っていたのか」
「先ほど、宮中の噂として耳に入りました」
「噂は早いな」
「後宮で最も足が速いのは、噂でございますから」
翠蘭は淡く微笑んだ。
綺麗な会話だった。
綺麗すぎる。
私の背中に、ぞわりとしたものが走る。
この人は、言葉の爪紅が上手い。
余計なものを塗らず、必要なところだけ色を置く。相手がどう受け取ってもいいように、逃げ道を残している。
怜月殿下の視線が、私に向いた。
「凛花」
また呼ばれた。
この人、人を巻き込むのが本当に早い。
「見ろ」
「何をですか」
「お前が見えるものを」
翠蘭の視線が初めて私に向いた。
穏やかな目だ。
けれど、奥が暗い。
「そちらの方は?」
「爪紅師の凛花だ」
「まあ」
翠蘭は微笑む。
「白蓮宮で、清貴妃様の爪をご覧になった方ですね」
知っている。
早い。
確かに噂は早いのだろう。けれど、私の名まで知っているのは早すぎる。
小鈴が隣で固まった。
私は一歩前に出て、頭を下げる。
「下級爪紅師の凛花でございます」
「下級とはいえ、殿下のお側にいらっしゃるのですから、ただの爪紅師ではないのでしょうね」
「ただの爪紅師です」
「ただの爪紅師は、白蓮宮の香油を見抜いたりはしません」
柔らかい声。
褒めているようで、釘を刺している。
お前のことは知っている。
そう言われた気がした。
「私は爪を見ただけです」
「爪は、そんなに色々なことを教えてくれるものですか?」
「はい」
私は翠蘭の手を見た。
彼女は袖の中に指を隠している。
意図的だ。
爪を見られたくない。
「では、私の爪からは何が見えますか」
そう言いながら、翠蘭は右手を差し出した。
右手だけ。
私はその手を取らず、見下ろした。
美しい爪だった。
形は卵型。長すぎず、短すぎず。紅は薄く、先端にだけ細い金線。女官長として控えめでありながら、紅玉宮の格は示している。
磨きも完璧。
甘皮の処理も美しい。
けれど、右手だけでは分からない。
「左手も拝見してよろしいでしょうか」
翠蘭の微笑みが、ほんの少し止まった。
怜月殿下が何も言わずに見ている。
数秒の沈黙のあと、翠蘭は左手を出した。
同じように整えられていた。
表面上は。
でも、私は見た。
親指の爪だけが、他の指より少し短い。
先端の形が不自然に丸い。
削ったのではない。
噛んで、あとから整えた爪だ。
しかも一度ではない。長く続いている。
左手の親指。
隠したい癖。
強い緊張。
あるいは、言えない秘密。
「とても綺麗に整えられています」
私は言った。
翠蘭は微笑む。
「ありがとう」
「ですが、左の親指だけ、形が違います」
空気が変わった。
小鈴が隣で、ひゅっと息を吸う。
翠蘭は微笑んだままだった。
「よく見ていらっしゃるのね」
「仕事ですので」
「爪紅師は、女官長の爪まで詮索する仕事でしたか?」
「いいえ」
私は一度、翠蘭の目を見た。
「ですが、殿下に見ろと言われましたので」
便利な盾は使う。
怜月殿下がほんの少しだけ眉を動かした気がした。
責任を押し付けられたと分かったのかもしれない。
「親指の爪を噛む癖がおありですね」
翠蘭の顔から、わずかに色が消えた。
すぐ戻る。
けれど、遅い。
見た。
「爪を噛む方が皆、悪いことをしているとは思いません。ただ、長く強い緊張を抱えている方に多いです。それも、誰にも見せたくない時に」
「面白いことをおっしゃる」
「私も面白いとは思っていません」
気づけば、怜月殿下と同じやり取りをしていた。
嫌だ。
この宮に来てから、口が勝手に働く。
翠蘭は静かに手を引いた。
「殿下。白蓮宮の事件に紅玉宮の印が使われたことは、由々しき問題です。ですが、当宮が関わった証拠にはなりません。印など、写そうと思えば写せます」
「では、誰が写した」
「それを調べるのが、殿下のお役目では?」
強い。
丁寧な言葉で、正面から押し返している。
小鈴が私の袖を握る力が強くなった。
怜月殿下は怒らなかった。
「紅玉宮の爪紅と香油の納品帳を出せ」
「それは麗妃様の管理物でございます。殿下といえど、妃殿下の許可なく――」
「出せ」
その一言で、翠蘭の目が細くなった。
さっきまでとは違う。
怒り。
いや、恐怖か。
この人は納品帳を見せたくない。
「……少々、お待ちください」
翠蘭は女官に指示を出す。
その間、私たちは紅玉宮の前庭に通された。
茶が出されたが、誰も手をつけない。
怜月殿下は当然のように飲まない。
小鈴も私の顔を見て、茶杯から手を離した。
「飲まないの?」
「今の流れで飲める?」
「無理」
小声で答えると、小鈴は深く頷いた。
私は茶杯の縁を見た。
綺麗に拭かれている。
毒があるようには見えない。
けれど、この後宮に来てから、「毒がない」と「安全」は違うのだと思い始めていた。
しばらくして、翠蘭が戻ってきた。
手には細長い帳面。
紅い紐で閉じられている。
「こちらが、直近の納品帳でございます」
怜月殿下が受け取ろうとした瞬間、私は思わず口を開いた。
「お待ちください」
全員が私を見る。
しまった。
またやった。
でも、もう遅い。
私は帳面の紐を見ていた。
紅い紐。
結び目が新しい。
紐そのものではない。結び方が新しい。
凛花の記憶では、紅玉宮の帳面は女官長が毎日同じ結びで閉じる。左に小さな輪を作る結び方。けれど、今の帳面は右に輪がある。
別の人間が閉じ直した。
「その帳面、先ほど閉じ直しましたか」
翠蘭の表情が止まった。
「なぜ、そのようなことを」
「結び目が違います」
「紐など、急いでいれば違うこともございます」
「では、急いでいたのですね」
自分で言って、嫌な言い方だと思った。
けれど翠蘭の目が揺れた。
怜月殿下が帳面を取る。
頁を開く。
中は整っていた。
整いすぎている。
品名、数、日付、受領印。
どれも綺麗に揃っている。
私は横から覗き込み、違和感を探した。
桃花爪紅。
白梅油。
紅玉粉。
金箔。
特に怪しいものはない。
いや。
怪しいものがなさすぎる。
「綺麗ですね」
私は呟いた。
翠蘭が微笑む。
「帳面は綺麗であるべきでしょう」
「はい。でも、使われている帳面なら、もう少し汚れます」
怜月殿下が私を見る。
「続けろ」
「爪紅や香油の帳面ですよね。手に油がついていることもあるでしょうし、粉が落ちることもあるはずです。でも、この頁は汚れが少ない。特にこの三日分だけ、紙の端が白すぎます」
翠蘭は黙っている。
私は頁の端を指でなぞった。
「新しい紙を差し替えたのではありませんか」
小鈴が小さく「ひえ」と言った。
怜月殿下は帳面を閉じ、翠蘭を見た。
「差し替えたのか」
「いいえ」
即答。
また早い。
私は翠蘭の左手を見た。
袖の中で、親指が動いている。
爪を噛みたいのを堪えている。
「では、古い頁はどこですか」
私がそう言うと、翠蘭は初めて私を睨んだ。
柔らかな女官長の顔が剥がれた。
その下に、疲れ切った女の顔が見えた。
「あなたに何が分かるの」
声は低かった。
「爪を見ただけの小娘に」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「だから見ています」
「後宮は、爪先を整えれば済む場所ではないわ」
「知っています」
「知らない。あなたは知らない」
翠蘭の声が震えた。
「妃たちが微笑むために、どれほどの女官が眠らずに動くか。誰かの寵愛が移れば、どれほどの者の食い扶持が消えるか。爪紅の色一つで、宮が栄え、宮が沈む。あなたは知らない」
その言葉は、責めているのに、泣いているようだった。
私は言い返せなかった。
知らない。
確かに私は、知らない。
この世界に来たばかりだ。
前世のサロンで、会社員の愚痴や恋人との別れ話を聞いてきた。けれど後宮の女官たちが背負うものとは違う。
誰かの爪を綺麗にしただけでは、救えないものがある。
でも。
「知らないから、見ます」
私は言った。
「知っているつもりになったら、見落とすので」
翠蘭が黙った。
怜月殿下も黙っている。
風が庭を通り、石榴の花が一つ落ちた。
赤い花びらが黒い石の上で潰れる。
「翠蘭」
怜月殿下の声が、静かに落ちた。
「古い頁を出せ」
翠蘭は目を閉じた。
長い沈黙だった。
やがて彼女は、袖の中から小さな鍵を取り出した。
「……こちらへ」
案内されたのは、紅玉宮の奥にある小さな香油庫だった。
扉を開けた瞬間、濃い匂いが押し寄せる。
花油。
木香。
薬草。
鉱物粉。
前世のサロンの薬剤棚とは違うのに、どこか似ていた。美しくなるためのものと、身体を傷めるものが、紙一重で並んでいる匂い。
棚には小壺や瓶が整然と並んでいた。
翠蘭は奥の小箱を開ける。
その中から、折り畳まれた紙束を取り出した。
怜月殿下が受け取り、広げる。
納品記録。
差し替えられたらしい頁。
そこには、先ほどの帳面にはなかった品名があった。
黄晶石粉。
瑠璃油。
桃花爪紅。
納品先――白蓮宮。
受領印――紅玉宮女官長、翠蘭。
小鈴が口元を押さえた。
翠蘭は、静かに言った。
「私は、白蓮宮へ品を流しました」
ついに認めた。
けれど、私は胸の違和感が消えなかった。
翠蘭の爪は、認めた後も震えている。
罪を吐いた人間の安堵がない。
まだ何か隠している。
怜月殿下が問う。
「誰の命令だ」
翠蘭は答えなかった。
「麗妃か」
「違います!」
初めて、翠蘭の声が乱れた。
強い否定。
速すぎる否定。
麗妃を守っている。
「では誰だ」
翠蘭は唇を噛む。
その仕草で、左の親指が見えた。
爪の先端に、わずかに血が滲んでいた。
さっき、袖の中で噛んだのだ。
限界だ。
「翠蘭様」
私は声をかけた。
彼女は私を見た。
憎しみと、疲労と、恐怖の混じった目。
「爪、痛くありませんか」
小鈴が隣で「今それ?」という顔をした。
でも、翠蘭は動きを止めた。
「痛みは、慣れます」
「慣れない方がいいです」
私は道具箱を開けた。
細い布と、小さな軟膏を取り出す。
後宮の爪紅師が使う、甘皮用の油膏。香りは弱い。傷を隠すためではなく、整えるためのもの。
「触ってもよろしいですか」
「……私を捕らえに来たのではないの」
「捕らえるのは殿下の仕事です。私は爪紅師なので」
翠蘭は、変な顔をした。
泣く直前のような、笑う直前のような顔。
怜月殿下が何も言わないので、私は翠蘭の左手を取った。
冷たい手だった。
美しく整えられた爪。
その中で、親指だけが傷だらけだった。
私は血を拭い、油膏を薄く塗る。
爪に触れると、翠蘭の肩がわずかに震えた。
「……弟がいるの」
小さな声だった。
私は手を止めなかった。
「城外の役所で働いている。真面目な子よ。私と違って、後宮の汚いところなんて何も知らない」
怜月殿下の顔が冷える。
「人質か」
翠蘭は笑った。
乾いた笑いだった。
「後宮では、家族の無事を願うことすら弱みになります」
私は黙って親指に布を巻いた。
翠蘭はその布を見つめる。
「文が来たの。白蓮宮へ品を流せと。従わなければ、弟が横領の罪で捕らえられると。証拠も用意してあると」
「誰から」
怜月殿下が問う。
翠蘭は首を振った。
「分かりません。印はありませんでした。ただ、使いの者が一言だけ」
「何と」
翠蘭は唇を震わせた。
「“桃花の色は、皇子の血を隠す”と」
香油庫の空気が、凍った。
皇子。
その言葉が出た瞬間、怜月殿下の表情が変わった。
ほんの一瞬だけ。
だが、私は見た。
この人は、この言葉に心当たりがある。
それも、かなり深いところで。
「殿下」
私は声を潜めた。
「今の言葉は?」
「お前が知るには早い」
「では、知らないまま巻き込まれるのですか」
「もう巻き込まれている」
「最悪ですね」
「さっきも聞いた」
怜月殿下は、かすかに息を吐いた。
笑ったのか、疲れたのか分からない。
翠蘭が私の手を見た。
「あなた、変な爪紅師ね」
「よく言われます」
「今日初めて言われたんじゃないの」
「たぶん、これから何度も言われます」
小鈴が後ろで小さく吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
けれど、次の瞬間だった。
香油庫の外で、誰かが走る音がした。
「殿下!」
宦官が駆け込んでくる。
顔面蒼白だった。
「白蓮宮より急報でございます!」
怜月殿下の目が鋭くなる。
「何だ」
「清貴妃様が……」
宦官は息を切らしながら言った。
「清貴妃様の爪が、黒く変わり始めたと!」
小鈴が悲鳴を飲み込んだ。
翠蘭の手から、力が抜ける。
私は油膏の蓋を閉めるのも忘れ、立ち上がった。
黒い爪。
凛花の記憶が告げる。
後宮で、黒は罪の色。
そして古い噂では――死に向かう妃の色。
事件は、終わっていない。
むしろ、今ようやく本当の爪先が見え始めたのだ。




