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後宮の爪紅師は、妃たちの嘘を剥がす 〜異世界転生ネイリスト、呪いの指先から宮廷陰謀を暴きます〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第二話 香油の瓶

「命じられた?」


 怜月殿下の声は、刃物のように冷えていた。


 泣き崩れた侍女は、寝台の脇で両手を床につき、肩を震わせていた。年は、私より少し下だろうか。細い首に、薄い青筋が浮いている。目元は赤い。けれど、その泣き方は、罪を逃れようとする人間の泣き方ではなかった。


 限界まで黙っていた人が、ようやく息を吐いた時の泣き方。


 私は、その手を見てしまう。


 親指の横の皮が、何度も剥かれていた。中指の爪先は斜めに欠けている。左手の薬指の根元だけ、妙に赤い。


 爪紅を塗った手ではない。


 香油を扱った手だ。


 しかも慣れていない。瓶の口を拭う時、指に引っかけたのだろう。乾いた油と粉が甘皮に残っている。


 女官長が侍女の前に立ちはだかった。


「殿下、この者は混乱しております。清貴妃様が倒れられ、気が動転しているのでしょう。下女の戯言など――」


「黙れ」


 怜月殿下が一言だけ言った。


 それだけで、女官長の唇が閉じた。


 不思議な人だと思った。


 大声ではない。怒鳴ってもいない。けれど、その場にいる全員が逆らえなくなる。


 皇族だから、というだけではない。


 この人は、相手がどこで嘘をついたかを見ている。


 私が爪を見るように。


「名は」


 怜月殿下が侍女に問う。


「……杏児でございます」


「誰に命じられた」


 杏児は答えようとして、喉を詰まらせた。


 その視線が一瞬、女官長へ向かう。


 女官長の眉がわずかに動いた。


 ああ。


 今ので、部屋にいる者たちはほとんど察した。


 けれど、察しただけでは罪にならない。


 後宮では、真実よりも形が重い。誰が見たか。誰が証言するか。誰の名で記録されるか。それがなければ、真実はただの噂にされる。


「杏児」


 私はなるべく静かに声をかけた。


 侍女がこちらを見る。


 怯えきった目だった。


「あなたが清貴妃様の爪紅を落としたの?」


「……はい」


「いつ?」


「昨夜の宴のあとです。貴妃様が、爪紅を落とすようにと」


「その香油は、いつものもの?」


 杏児の唇が震えた。


「……いつもは、白梅油を使います。でも昨夜は、女官長様から、こちらの方が早く落ちるからと……」


「杏児!」


 女官長が鋭く叫んだ。


 だが、遅い。


 言葉はもう、部屋に落ちた。


 怜月殿下は女官長を見なかった。ただ、杏児だけを見ていた。


「その瓶はどこにある」


「化粧箱の……奥に」


 女官長の顔から、すっと血の気が引いた。


 私はその変化を見て、背筋が冷たくなる。


 この女官長が犯人なのか。


 いや、まだ早い。


 あまりにも前に出すぎている。


 後宮の陰謀で一番危ないのは、分かりやすい悪人ではない。分かりやすい悪人の背後で、誰かが静かに笑っている時だ。


「化粧箱を」


 怜月殿下が命じると、部屋の隅に控えていた宦官が動いた。


 黒漆の化粧箱が運ばれてくる。蓋を開けると、中には爪紅、白粉、香油、金箔、細筆、小さな磨き布が整然と並べられていた。


 女官長は姿勢を崩さない。


 けれど、指先だけが震えていた。


 その爪は美しく整えられている。薄い紅を塗り、縁だけ金で飾っている。だが、左手の親指だけ、爪の横が荒れていた。そこを見た瞬間、私は引っかかった。


 緊張で爪を触る癖がある。


 それは分かる。


 でも荒れ方が新しくない。


 長い間、同じ場所を触り続けている人の手だ。


「凛花」


 怜月殿下が私の名を呼んだ。


 一度しか名乗っていないのに、もう覚えられていた。


 ありがたくない。


「調べろ」


「私が、ですか」


「お前以外に、ここで瓶の口に残った粉を見る者がいるのか」


 反論できない言い方をする人だ。


 私は小さく息を吐いて、化粧箱の前に膝をついた。


 並んだ瓶を一本ずつ見る。


 香油は三本。


 白梅油。


 桃花油。


 そして、無名の瑠璃瓶。


 最後の一本だけ、札がない。


 瓶の口に薄黄色い粉が残っていた。


 私は布越しに瓶を持ち上げた。中の油は透明に近い。けれど光に透かすと、ごく細かい粒が浮いている。金粉ではない。金粉なら沈み方が違う。これはもっと鋭い。油の中で光を拾うたび、細く刺すようにきらめく。


「黄晶石に似ています」


 私は言った。


「似ている?」


 怜月殿下が問う。


「断言はできません。ですが、爪紅に使う金粉とは粒の角が違います。肌に残ると荒れます。爪の根元に入り込めば、腫れも出るはずです」


「毒か」


「毒というより、刺激物です。単独なら命に関わるほどではありません。でも、香と一緒に使えば、発熱や動悸に見せられるかもしれません」


 私は部屋を見回した。


 白檀。


 桂皮。


 丁子。


 さっきから香が強すぎる。


「それから、この部屋の香も強すぎます。肌を荒らす油を使い、そのうえで強い香を焚けば、息苦しさや目眩が出てもおかしくありません。清貴妃様の体質にもよりますが」


 寝台の上で、清貴妃がかすかに身じろぎした。


 薄く目が開く。


 彼女は私を見た。


 いや、見たというより、探っていた。


 この下級爪紅師は、どこまで言うのか。


 そんな目だった。


 意識はある。


 つまり、周囲の会話も聞こえている。


 私は清貴妃の指先をもう一度見る。


 美しい爪。


 けれど、その手は固く握られていた。


 怒っている。


 怖がっているのではない。


 この人は、誰かに嵌められたことに気づいている。


 それでも黙っている。


 なぜ?


「貴妃様」


 私は思わず声をかけていた。


 香梅が後ろで息を呑む。


 下級爪紅師が貴妃に直接話しかけるなど、本来なら許されない。


 けれど、怜月殿下は止めなかった。


 清貴妃の唇が、わずかに動く。


「……何」


 か細い声。


 しかし、芯はあった。


「昨夜、この香油を使うことに違和感はありませんでしたか」


 女官長が割って入ろうとした。


「貴妃様はお疲れで――」


「私は、貴妃様に伺っています」


 自分でも驚くほど、強い声が出た。


 部屋がまた静まり返る。


 清貴妃は、私をじっと見た。


 化粧気の薄い顔。熱で潤んだ目。それでも、美しい人だった。華やかな美しさではない。白い蓮のように、静かな場所でこそ目を奪う美しさ。


「……香りが、違ったわ」


 清貴妃は言った。


 女官長の顔が強張る。


「貴妃様」


「いつもの白梅油より、甘かった。けれど、早く落ちると言われたから」


「誰に?」


 私が問うより早く、怜月殿下が言った。


 清貴妃は目だけを動かし、女官長を見た。


 それで十分だった。


 女官長は膝をついた。


「殿下、私はただ、貴妃様のお身体を思って――」


「黙れと言ったはずだ」


 怜月殿下の声は、さっきより低かった。


 女官長は唇を噛む。


 その瞬間、私は彼女の右手を見た。


 爪の縁に、ほんのわずかに黒い線がある。


 香油瓶を扱った跡ではない。


 帳簿をめくる者の手だ。


 古い墨。


 この人は最近、何かを何度も書いたか、何度も確認している。


 私は化粧箱の中をもう一度見た。


 爪紅の小壺。


 細筆。


 磨き布。


 香油。


 その下に敷かれた布が、少し厚い。


 前世でもあった。道具箱に、薄い伝票やメモを隠す人。お客様に見せたくない仕入れ先や、失敗したデザインのメモを底に入れておく。


 私は布の端を持ち上げた。


 女官長が目を見開く。


「何を――」


 底に、小さく折られた紙があった。


 怜月殿下の視線が鋭くなる。


「開け」


 私は紙を開いた。


 そこに書かれていたのは、品の名前と数だった。


 桃花爪紅 三壺。


 白梅油 二瓶。


 瑠璃瓶 一瓶。


 黄晶石粉 少量。


 そして、最後に小さな印。


 紅玉宮。


 部屋の空気が、重く沈んだ。


「紅玉宮……」


 誰かが呟いた。


 紅玉宮。


 凛花の記憶が、その名を教える。


 南妃の宮ではない。


 清貴妃の宮でもない。


 別の妃が住む宮だ。


 つまり、南妃から贈られた爪紅に見せかけながら、材料は第三の宮から流れている。


 これは、妃同士の単純な嫉妬ではない。


 誰かが、南妃と清貴妃を同時に傷つけようとしている。


「お前」


 怜月殿下が女官長を見た。


「この紙に見覚えは」


「ございません」


 即答だった。


 早すぎる。


 私は女官長の爪を見た。


 左手の親指が、また爪の横を押している。


 その仕草は恐怖だけではない。


 苛立ち。


 追い詰められた人間の苛立ち。


「見覚えがないのなら」


 怜月殿下は淡々と言った。


「なぜ、紙を見る前から震えていた」


 女官長は顔を上げた。


 その目に、憎しみが浮かんだ。


「殿下は、下級爪紅師の言葉をそこまで信じられるのですか」


「信じるとは言っていない」


「ではなぜ」


「お前たちが、あまりにも分かりやすく嘘をつくからだ」


 その言葉に、女官長の表情が崩れた。


 一瞬だけ。


 しかし、すぐに整えられる。


 後宮で長く生きてきた女の顔だった。


「私は貴妃様にお仕えしてきました。誰よりも近くで、誰よりも心を尽くして」


「だからこそ、近くでしかできない細工がある」


 怜月殿下は容赦がない。


 私はそのやり取りを聞きながら、胸の奥が少し重くなった。


 女官長が悪いのか。


 おそらく、無関係ではない。


 でも、彼女の手には迷いがある。


 完全に計画した人間の爪ではない。急に巻き込まれ、何度も帳簿を確認し、自分のしたことを数え直している人の手だ。


 私は、杏児の手を見る。


 ぼろぼろの爪。


 次に女官長の手。


 整えられているけれど、親指だけが荒れた爪。


 そして清貴妃の手。


 美しい桃花色の下で、怒りに震える爪。


 誰も、何も言い切っていない。


 でも、爪だけが順番に話している。


「殿下」


 私は口を開いた。


 怜月殿下がこちらを見る。


「この方が香油を渡したのは、たぶん事実です」


 女官長が私を睨む。


「ですが、この方が最初に考えたとは限りません」


 部屋の隅で、誰かが息を呑んだ。


 怜月殿下の目が細くなる。


「なぜそう思う」


「手です」


「また爪か」


「はい」


 私は女官長の左手を示した。


「この方は、自分の爪を触る癖があります。長く続いている癖です。でも今日の荒れ方は特にひどい。何かを何度も迷った跡です。最初から清貴妃様を害するつもりだった人なら、もう少し手が落ち着いているはずです」


「情で判断しているのか」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「情で判断したいなら、この場で誰のことも疑いたくありません」


 怜月殿下は黙った。


 その沈黙は、怒りではなかった。


 続きを言え、という沈黙だった。


「それに、紅玉宮の名が分かりやすすぎます。こんな紙を化粧箱の底に残すのは不自然です。見つけさせるために置かれた可能性があります」


「つまり、紅玉宮も濡れ衣だと?」


「そこまでは分かりません。ただ、南妃様に罪を着せようとした事件の中で、次に紅玉宮の名が出てくるのは、都合が良すぎます」


 怜月殿下は、わずかに口角を上げた。


 笑ったのかもしれない。


 けれど、寒い笑みだった。


「面白い」


「面白くありません」


 思わず返してしまった。


 香梅が後ろで小さく変な音を立てる。


 私はしまったと思ったが、もう遅い。


 怜月殿下は私を見た。


「何が面白くない」


「貴妃様は倒れています。杏児は怯えています。女官長様も何かを隠しています。南妃様も紅玉宮の方も、たぶんこのままだと巻き込まれます。面白いところがありません」


 部屋の誰もが黙った。


 言い過ぎた。


 下級爪紅師が皇弟に向かって言う台詞ではない。


 けれど、怜月殿下は怒らなかった。


 むしろ、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……そうか」


 低い声だった。


「お前には、そう見えるのか」


 どういう意味かは分からない。


 けれど、その声には一瞬だけ、冷たさではないものが混じっていた。


 疲れ。


 あるいは、諦めに近いもの。


 すぐに消えたけれど。


「杏児」


 怜月殿下が呼ぶ。


 侍女はびくりと震えた。


「お前に香油を使えと命じたのは、女官長か」


 杏児は泣きながら頷いた。


「はい……ですが、女官長様も、文を受け取って……」


 女官長が目を閉じた。


 怜月殿下が問う。


「誰からの文だ」


 杏児は首を振った。


「分かりません。けれど、封に紅い玉の印が……」


 紅玉宮。


 また、その名が出る。


 だが、私の中の違和感は消えなかった。


 爪紅。


 香油。


 黄晶石粉。


 紅玉宮の印。


 全部、証拠が綺麗すぎる。


 ネイルアートでもそうだ。


 綺麗に整いすぎたデザインは、時に嘘くさい。自然な手の動きでできたものではなく、見せるためだけに作られたものに見える。


 この事件は、あまりにも「見せるため」に整えられている。


「その文は」


 怜月殿下が女官長に問う。


 女官長は唇を噛んだ。


「……燃やしました」


「なぜ」


「怖かったからです」


 その声は、初めて本音に近かった。


「文には、貴妃様のお命を奪うものではないと書かれていました。ただ、南妃様の爪紅で肌が荒れたように見せればよいと。そうすれば、南妃様はしばらく謹慎となり、貴妃様は陛下の同情を得られる。誰も傷つかないと」


「誰も傷つかない?」


 清貴妃が寝台から低く言った。


 女官長が顔を上げる。


 清貴妃の目は、熱に潤みながらも、恐ろしいほど冷えていた。


「私は、傷ついていないように見える?」


「貴妃様……私は、あなた様のために」


「私のため?」


 清貴妃は笑った。


 弱々しい笑いだった。


 けれど、部屋の誰よりも痛い笑いだった。


「後宮でその言葉を使う者は、たいてい自分のために動いているわ」


 女官長の顔が歪んだ。


 その瞬間、私は思った。


 この二人の間にも、何かがある。


 ただの主従ではない。


 長く一緒にいた者同士の、甘えと憎しみがある。


 会話だけでは分からない。


 けれど、爪が教えている。


 清貴妃の美しい爪紅は、左手の中指だけわずかに剥がれかけている。寝台で苦しんだ時、自分で布を掴んだ跡だろう。


 その剥がれた部分の下に、薄い傷があった。


 古い傷。


 今回のものではない。


 私はそこに目を留めた。


 清貴妃は私の視線に気づいたようだった。


 指をそっと引こうとする。


 隠した。


 なぜ。


「凛花」


 怜月殿下の声で我に返る。


「お前は、紅玉宮へ行け」


「今ですか」


「今だ」


「私は下級爪紅師です。勝手に他の宮へ出入りできません」


「私の命なら入れる」


「行きたくありません」


 また言ってしまった。


 今度こそ終わったかもしれない。


 香梅が後ろで完全に固まっている。杏児まで泣きながらこちらを見た。女官長でさえ驚いた顔をしている。


 怜月殿下は、しばらく私を見ていた。


「理由は」


「怖いからです」


 正直に言った。


 沈黙が落ちる。


「紅玉宮の名前が出た時点で、そこに行く人間は目立ちます。しかも私はこの場で香油のことを指摘しました。誰かが本当に紅玉宮を陥れようとしているなら、私が行けば邪魔になるはずです」


「ならば、なおさら行く価値がある」


「殿下にはあるでしょうが、私には命が一つしかありません」


 怜月殿下は少しだけ目を見開いた。


 それから、今度こそ笑った。


 冷たいだけではない、少し意外そうな笑みだった。


「お前、案外よく喋るな」


「普段は喋りません」


「ではなぜ今は喋る」


「黙っていたら、もっと危ない気がするので」


 怜月殿下はその答えを気に入ったのか、気に入らなかったのか分からない顔をした。


「護衛をつける」


「護衛がいても毒は防げません」


「では何があれば行く」


「時間と、道具と、あと小鈴を」


「小鈴?」


「同室の女官です。私一人で行くより、普通の下級爪紅師の仕事に見えます」


 怜月殿下は少し考えた。


「いいだろう」


 いいのか。


 言っておいて驚いた。


 どうやらこの人は、必要だと思えば身分の低い女官の希望も聞くらしい。優しいわけではない。利用価値があると判断しただけだろう。


 けれど、話が通じない相手ではない。


 それは少し意外だった。


「ただし」


 怜月殿下の声が低くなる。


「逃げるな」


「逃げません。逃げ道が分からないので」


「覚えれば逃げるのか」


「状況によります」


 また部屋が静かになった。


 私はもう、口を閉じた方がいいと思った。


 怜月殿下は何も言わず、私の前まで歩いてきた。


 近くで見ると、彼は思ったより若かった。二十代前半くらいだろうか。整った顔立ちなのに、華やかさよりも影の方が強い。美しい刃物のような人だ。


「凛花」


「はい」


「お前は爪先から、何を見る」


 突然の問いだった。


 私は少し迷った。


 前世なら、こう答えたかもしれない。


 生活です。


 癖です。


 心の疲れです。


 でも、今ここでそれだけを言うのは違う気がした。


「その人が、隠しきれなかったものを見ます」


 怜月殿下の瞳が、わずかに揺れた。


「隠しきれなかったもの」


「はい。嘘をつくのは口です。でも、嘘を支える手は疲れます」


 彼は私の手を見た。


 粗末な下級爪紅師の手。


 そして、何も言わずに背を向けた。


「半刻後、紅玉宮へ向かう」


 その声で、場が動き出す。


 女官長は連れて行かれ、杏児は別室で保護されることになった。清貴妃には医官が呼び戻され、香炉はすべて止められた。


 私は化粧箱の前に残った。


 桃花色の爪紅。


 瑠璃の香油瓶。


 黄晶石粉。


 紅玉宮の印が押された紙。


 美しいものばかりだった。


 美しいものばかりが、人を傷つけている。


 前世で私が扱っていたネイルは、人を少しだけ前向きにするものだった。明日会社に行くための色。失恋した人が自分を取り戻すための色。結婚式で泣かないように選ぶ色。


 でも、この後宮では違う。


 爪紅は、寵愛を示す。


 嫉妬を煽る。


 身分を縛る。


 罪を着せる。


 そして時には、誰かを壊す道具になる。


「……最悪」


 小さく呟くと、背後で声がした。


「何が最悪なの」


 振り返ると、小鈴が立っていた。


 顔色は悪い。


 急に呼び出されたのだろう。息が上がっている。


「小鈴」


「ちょっと、何したのよ。香梅様に、半刻で支度して凛花について行けって言われたんだけど。私、何か悪いことした?」


「してない。ごめん、巻き込んだ」


「ほんとよ!」


 小鈴は小声で怒鳴った。


 器用な子だ。


 怒りながらも、周囲に聞こえない音量に抑えている。


「で、どこ行くの」


「紅玉宮」


 小鈴の顔が引きつった。


「……帰っていい?」


「私も帰りたい」


「あんたが言わないでよ!」


 その普通の反応に、少しだけ救われた。


 後宮の空気は重すぎる。


 全員が本音を隠しすぎている。


 小鈴のように、怖い時に怖いと言ってくれる人が隣にいるだけで、呼吸がしやすくなった。


「凛花」


 小鈴は私の袖を軽く掴んだ。


「本当に大丈夫なの?」


「大丈夫じゃない」


「そこは嘘でも大丈夫って言いなさいよ」


「爪紅師なので、嘘は苦手」


「さっきからその設定強すぎない?」


 私は少し笑った。


 笑えたことに、自分で驚く。


 その時、回廊の向こうで怜月殿下がこちらを振り返った。


 冷たい目。


 けれど、さっきより少しだけ違って見えた。


 この人も、何かを隠している。


 手は長い袖に隠れていて、爪は見えない。


 だから、まだ読めない。


 私は道具箱を抱え直した。


 箱の中で、細筆と爪紅の小壺が小さく鳴る。


 紅玉宮。


 美しい名前。


 けれど、その名はもう、血のような色をして聞こえた。


 後宮の嘘は、爪紅のように薄く重ねられている。


 一枚剥がせば、また別の色が出てくる。


 そして私は、たぶんもう、最初の一枚を剥がしてしまったのだ

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