第一話 爪は、嘘をつかない
爪は、よく喋る。
口よりも、目よりも、時には涙よりも正直に。
「……最近、眠れてないですね」
私がそう言うと、目の前の女性はぎくりと肩を揺らした。
午後八時を過ぎた、駅前ビル四階のネイルサロン。窓の外では雨が斜めに降っていて、ガラス越しの街灯が滲んでいる。店内にはアロマオイルの甘い匂いと、ジェルを硬化するライトの低い機械音が満ちていた。
彼女の手は綺麗だった。
指は細く、関節も目立たない。爪の形も整っている。けれど、親指の横だけが荒れていた。甘皮のあたりに小さな傷。右手の中指の爪先に、わずかな欠け。
強く見える人ほど、指先で泣く。
「え、分かります?」
「分かります。爪は嘘をつかないので」
私は笑って、淡い桜色のジェルを筆先に取った。
「今月は派手な赤じゃなくていいんですか?」
「……ちょっと、職場で色々あって」
「では、今日は“何も言わないけど、ちゃんと可愛い”色にしましょう」
女性は一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。
「真白さんって、占い師みたい」
「違いますよ。ネイリストです」
そう答えながら、私は彼女の爪に色を置いた。
薄く、薄く。
一度で塗ろうとすると濁る。焦って厚く乗せると、あとで歪む。爪も、人の気持ちも、たぶん似ている。
何度も薄く重ねて、やっと綺麗になる。
「はい、ライト入れてください」
彼女が指をライトに差し込む。
青白い光が、手元だけを静かに照らした。
私はその間に、次の色を作る。桜色に、ほんの少しだけベージュを混ぜる。可愛すぎず、寂しすぎず、会社で悪目立ちしない程度に柔らかい色。
前世……いや、この時の私はまだ前世だなんて知らなかったけれど、私の仕事はずっとこうだった。
爪を整える。
色を塗る。
割れた爪を補修する。
客の愚痴を聞く。
誰にも言えなかった言葉を、指先に逃がしてあげる。
それだけの仕事。
でも、私はこの仕事が好きだった。
「真白さん、休んでます?」
今度は彼女が私を見た。
「え?」
「なんか、顔色悪いですよ」
「大丈夫です。今月ちょっと予約が詰まってるだけで」
「ちゃんと寝てくださいね。私が言うのも変ですけど」
「はい。人には言えるんですけどね、そういうの」
私は軽く笑った。
実際、寝てはいなかった。
独立して三年目。小さなサロンはようやく軌道に乗り、常連客も増えた。ありがたいことだ。ありがたい。だからこそ断れない。
予約表はいつも埋まっていた。
閉店後には帳簿をつけ、材料を発注し、SNS用の写真を編集し、流行のデザインを調べる。
手は商売道具なのに、私自身の爪はいつも短く切りそろえられているだけだった。
お客様の手は綺麗にする。
自分の手は後回し。
そんなものだと思っていた。
「できました」
私は最後にトップジェルを塗り、もう一度ライトに入れてもらう。
仕上がった爪は、雨の日の桜みたいだった。派手ではない。けれど、指先が動くたびに小さく艶めく。
彼女は両手を眺めて、しばらく黙っていた。
「……明日、会社行けそうです」
その言葉を聞くのが、私は好きだった。
爪一本で人生が変わるなんて言わない。
でも、改札を抜ける時、書類を渡す時、嫌な人の前で拳を握る時、自分の指先が少し綺麗だと、それだけで呼吸がしやすくなることがある。
「無理はしないでくださいね」
「真白さんも」
最後の客を見送ったあと、私は店内の照明を落とした。
雨はまだ降っている。
片付けをして、レジを締めて、予約表を確認する。明日も朝から夜まで埋まっていた。ありがたい。ありがたいけれど、胸の奥が少しだけ重い。
スマートフォンに母からのメッセージが届いていた。
『ちゃんと食べてる?』
私は少し迷ってから、短く返した。
『食べてるよ』
嘘だった。
昼にコンビニのサンドイッチを半分食べただけだ。
爪は嘘をつかない。
でも、人間は簡単に嘘をつく。
自分にも。
店を出ると、雨は細くなっていた。傘を差して駅へ向かう。ビルのネオンが濡れた歩道に伸びて、私の足元でぐにゃりと歪んだ。
その時、指先が痺れた。
最初は冷えたのだと思った。
でも違った。
次に、耳鳴り。
世界の音が遠くなる。
雨音も、車の走る音も、どこか別の場所の出来事みたいだった。
「あ……」
傘が手から滑り落ちた。
アスファルトに当たる音が、やけに大きく響いた。
誰かが「大丈夫ですか」と言った気がする。
私は返事をしようとした。
けれど、口が動かなかった。
最後に見えたのは、自分の手だった。
短く切った、何の飾りもない爪。
ああ。
自分の爪、しばらく塗ってなかったな。
そんなことを思った。
それが、御園真白としての最後の記憶だった。
*
目を開けた時、最初に見えたのは、知らない天井だった。
木の梁。
薄い布。
薬草の匂い。
それから、誰かが水を絞る音。
「起きた?」
聞き慣れない声だった。
私は瞬きをした。
視界がぼやけている。喉が渇いていて、身体が鉛みたいに重い。
「……ここ、どこですか」
自分の声が、自分のものではなかった。
高い。
若い。
喉の奥が震えた。
布団の脇に座っていた少女が、呆れた顔をする。
「何言ってるの。西下房に決まってるでしょ。凛花、頭まで打った?」
凛花。
それが誰の名前なのか、最初は分からなかった。
けれど、少女は私を見ている。
つまり、私の名前らしい。
私はゆっくりと身体を起こした。腕が細い。手首も細い。見下ろすと、粗末な薄青い衣を着ていた。襟元には見慣れない紐。袖は長く、手元の布は何度も洗われて色が抜けている。
そして、手。
私は息を止めた。
自分の手ではなかった。
いや、今はもう自分の手なのだろう。
細い指。少し荒れた甘皮。爪は短く整えられているが、道具を扱う人間の手だった。爪の端に、赤い顔料がほんの少し残っている。
「……爪紅」
無意識に呟いた。
少女が目を丸くする。
「本当に大丈夫? あんた爪紅師でしょ」
爪紅師。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に誰かの記憶が流れ込んできた。
凛花。
華燐帝国後宮の下級爪紅師。
年は十七。
親はいない。
幼い頃に後宮へ売られ、雑用女官として育ち、手先の器用さを見込まれて爪紅師の下働きになった。
妃や女官の爪を整え、爪紅を塗る仕事。
華やかに見えて、身分は低い。
口答えは許されない。
失敗すれば追放。
妃の不興を買えば、もっと悪い。
記憶が一気に押し寄せて、私は吐きそうになった。
ここは日本ではない。
駅前のサロンでもない。
私は御園真白ではなく、凛花になっている。
どうして。
死んだのか。
転生?
そんな馬鹿な、と思う一方で、身体の中の記憶は妙にはっきりしていた。夢ではない。寝ぼけてもいない。
私は、異世界の後宮にいる。
「ねえ、凛花。顔真っ青だけど」
「……大丈夫」
「大丈夫な人の顔じゃないけど」
少女は腕を組んだ。
彼女の名前も、記憶の奥から浮かんでくる。
小鈴。
同じ西下房の下級女官。年は凛花と近い。よく喋る。よく怒る。けれど、悪い子ではない。
私は小鈴の手を見た。
左手の人差し指と中指の先だけ、少し硬くなっている。水仕事ではない。針仕事だ。けれど爪の根元が荒れている。栄養が足りていない。小指の爪だけ割れているのは、たぶん重い桶を持つ時に引っかけたのだろう。
見るだけで、分かる。
これは私の癖だ。
真白として身についた癖。
でも、凛花の記憶にも爪紅師としての技術がある。二つの感覚が重なって、以前よりもずっと細かく見えた。
「小鈴、右手より左手の方が荒れてる。針仕事、増えた?」
私が言うと、小鈴は口を開けた。
「……え、なんで分かるの」
「爪」
「爪?」
「左の指先に糸を引っかけた跡がある。あと、小指は桶で割ったでしょう」
小鈴はぱっと左手を隠した。
「気持ち悪っ」
「失礼ね」
「ごめん。でも、なんか今日の凛花、変」
それはそうだろう。
中身が別人に近い。
私は布団から降りようとした。足元がふらつく。小鈴が慌てて支えてくれた。
「無理しないで。昨日、彩雲殿の帰りに倒れたんだから」
「彩雲殿……」
記憶を探る。
位の低い妃が住む宮の一つだ。昨日、凛花はそこで爪紅の手入れをしていた。帰り道に熱を出して倒れたらしい。
過労。
それは前世でも今世でも変わらないらしい。
笑えない。
「休んでいて平気なの?」
「平気じゃないけど、今日は上の方が騒がしくて、下っ端の一人二人いなくても気づかれないわよ」
「騒がしい?」
小鈴は急に声を落とした。
さっきまでの軽さが消える。
「また出たんだって」
「何が?」
小鈴は部屋の戸口をちらりと見た。
誰もいないことを確かめてから、私の耳元に顔を寄せる。
「呪い」
その言葉は、部屋の空気を冷たくした。
私は眉をひそめる。
「呪い?」
「清貴妃様が倒れたの。昨日の夜。南妃様から贈られた爪紅を塗ったあとに、急に熱を出して、手が腫れて、息も苦しくなったって」
爪紅。
私は思わず、自分の指先を見た。
凛花の爪に残った赤い顔料。
この世界では、爪紅はただの化粧ではない。
それは凛花の記憶に強く刻まれていた。
桃花色は寵愛。
金は皇帝の祝福。
青は喪と沈黙。
黒は罪。
妃たちは衣よりも、髪飾りよりも、爪先に意味を込める。どの妃がどの色を許されるか。誰が誰から爪紅を贈られたか。皇帝がどの色を褒めたか。
後宮では、爪先ひとつで女の立場が変わる。
「それで、南妃様が疑われてるの?」
「当たり前でしょ。清貴妃様は今、陛下の一番のお気に入りだもの。南妃様からしたら邪魔で仕方ないじゃない」
「でも、分かりやすすぎる」
「え?」
私は口にしてから、少し後悔した。
まだ状況も見ていないのに、余計なことを言うべきではない。
ここは後宮だ。
日本のサロンではない。
思ったことをそのまま口にすれば、命取りになる。
「なんでもない」
「凛花、ほんと変。前はそういうこと言わなかったのに」
「熱のせいかも」
「便利ね、熱」
小鈴は疑わしげに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
早い。
硬い。
誰かが急いでいる。
「凛花はいるか!」
戸が乱暴に開いた。
入ってきたのは、年かさの女官だった。細い目、薄い唇、隙のない立ち姿。記憶によれば、爪紅師たちをまとめる香梅という女官だ。
「香梅様」
小鈴が慌てて頭を下げる。
私も遅れて膝をついた。
香梅は私を見るなり、眉間に皺を寄せた。
「起きているなら来なさい」
「どちらへでしょうか」
「清貴妃様の宮よ」
小鈴が息を呑む。
私は黙って香梅を見た。
「私が、ですか」
「そうよ。昨日、彩雲殿で桃花色の爪紅を扱ったのはお前でしょう」
「はい」
「同じ系列の爪紅が清貴妃様にも使われた。上の爪紅師たちは皆、関わりを恐れて口を閉じている。下の者でもいいから、爪紅の状態を見られる者を出せとのお達しよ」
つまり、責任を押し付けるための下っ端が必要なのだ。
凛花の記憶がそう告げていた。
小鈴が青ざめる。
「香梅様、凛花は昨日倒れたばかりで」
「なら、お前が行く?」
小鈴は言葉を詰まらせた。
香梅の目は笑っていない。
この後宮では、優しさは弱みになる。誰かを庇えば、その分だけ自分が傷つく。
私はゆっくり息を吐いた。
「参ります」
「凛花!」
小鈴が小さく叫ぶ。
私は彼女に視線だけで大丈夫と伝えた。
大丈夫ではない。
でも、行かないという選択肢もない。
それに。
爪紅で倒れた妃。
呪いと騒ぐ後宮。
誰かに罪を着せるには、あまりにも分かりやすい贈り物。
職業病だろうか。
怖いのに、気になってしまった。
*
後宮は、美しい牢獄だった。
白い石畳。
朱塗りの柱。
金の飾り窓。
池には蓮が浮かび、回廊には絹の簾が揺れている。春でもないのに、どこからか花の香が流れてきた。
だが、すれ違う女官たちの顔は硬い。
誰もが声を潜め、目だけを忙しく動かしている。
ここでは、噂が毒より早く回る。
「見た? 南妃様付きの女官、今朝から誰も出てこないって」
「清貴妃様がもしこのままなら、南宮は終わりよ」
「呪いの爪紅なんて、本当にあるのかしら」
「あるわよ。昔、黒爪の妃が――」
そこで声が途切れる。
私と香梅が近づくと、女官たちは一斉に黙った。
その視線が痛い。
爪紅師。
下級。
事件に呼ばれた者。
誰も言葉にはしないが、意味は分かる。
失敗すれば、この女が責任を取らされる。
清貴妃の宮――白蓮宮に近づくほど、空気は重くなった。
門の前には衛兵が立ち、内側からはすすり泣きが聞こえる。
香梅が名を告げると、私たちは中へ通された。
香が強い。
私は足を止めそうになった。
甘い。
甘すぎる。
白檀、桂皮、丁子。それから、どこか焦げたような苦み。
寝殿の奥、薄い帳の向こうに清貴妃が横たわっていた。顔色は悪く、唇の色も薄い。手は布団の上に出されている。
その指先だけが、妙に美しかった。
桃花色の爪紅。
淡い桃色に、細かな金が散っている。春の花びらを閉じ込めたような色だ。
けれど、私はその爪を見た瞬間、喉の奥がひやりとした。
美しすぎる。
いや、違う。
整いすぎている。
「お前が爪紅師か」
低い女性の声がした。
寝台の脇に立っていた年配の女官が、鋭い目でこちらを見ていた。清貴妃付きの女官長だろう。
「はい。凛花と申します」
「見なさい。南妃様から贈られた爪紅を塗ったあと、貴妃様はこのようなお姿になられた。これは呪いです」
断定だった。
疑っているのではない。
もう結論が決まっている声。
私は膝をつき、清貴妃の手に触れた。
熱い。
けれど、爪周りの腫れは均一ではない。薬指の根元だけ赤みが強い。中指の爪表面には薄い曇り。小指の先に、金粉とは違う硬い粒が一つ。
私は顔を近づけた。
爪紅の匂いは弱い。
むしろ強いのは、指の周囲に残る香油の匂い。
落とすための油。
前世のサロンでも、ジェルそのものよりリムーバーで荒れる人はいた。爪に乗せた色ではなく、それを落とす過程で肌が傷むことがある。
この世界の爪紅も同じだ。
塗るもの。
落とすもの。
磨くもの。
香らせるもの。
美しさには、いくつもの工程がある。
ならば、毒を仕込める場所も一つではない。
「どうなのです」
女官長が迫る。
「これは南妃様の呪いでしょう?」
私は答えなかった。
清貴妃の指先をもう一度見る。
爪紅の厚み。
塗り筋。
金の散らし方。
右手の薬指だけ、ほんのわずかに筆の角度が違う。
凛花の記憶が告げる。
これは、普段の清貴妃付き爪紅師の癖ではない。
そして、真白としての経験が告げる。
この仕上げは、上手い人間がわざと下手に見せている。
ぞくりとした。
怖い。
でも、見えてしまった。
「……呪いではありません」
私がそう言った瞬間、部屋中の視線が突き刺さった。
香梅が息を止める気配がする。
女官長の顔が険しくなった。
「何ですって?」
「これは呪いではありません」
「下級爪紅師ごときが、何を根拠に」
「爪です」
言ってから、私は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
不思議だった。
膝は少し震えている。
でも、手は震えていない。
「爪紅そのものが原因なら、爪全体と周囲の肌にもっと均一に症状が出るはずです。ですが赤みが強いのは薬指の根元。小指に残っている粒も、爪紅に混ぜられた金粉とは違います」
「では、貴妃様が倒れた理由は何だと言うのです」
私は清貴妃の手をそっと布団に戻した。
「爪紅ではなく、それを落とすために使った香油です」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
女官長の目が一瞬だけ揺れる。
本当に一瞬だった。
でも、私は見た。
その時だった。
帳の向こう、部屋の奥から男の声がした。
「続けろ」
低く、静かな声。
怒鳴っていないのに、誰も逆らえない声だった。
私は振り返った。
黒い衣をまとった男が、簾の陰に立っていた。
長い黒髪。
銀糸の刺繍。
冷たい目。
凛花の記憶が、その名を引きずり出す。
怜月殿下。
皇帝の弟。
後宮監察を任された、氷の皇弟。
彼は私を見ていた。
まるで、爪紅の下に隠された傷を探すように。
「お前は今、香油と言ったな」
「はい」
「証拠は」
私は清貴妃の小指に残っていた粒を、布でそっと拭い取った。
「これです。金粉ではありません。油に混ざると肌を荒らす鉱物粉です。爪紅の表面ではなく、落とす時に根元へ押し込まれた跡があります」
怜月の目が細くなる。
「つまり、南妃の爪紅ではなく、清貴妃の手入れをした者が怪しいと?」
女官長の顔色が変わった。
「殿下、そのような下級女官の言葉をお信じに――」
「私はまだ何も信じていない」
怜月は静かに言った。
「だが、騒ぐ者の言葉より、見ている者の言葉の方が聞く価値はある」
部屋は完全に凍りついた。
私は思った。
面倒な人に見つかった。
その直後、清貴妃の寝台の脇に控えていた若い侍女が、小さく嗚咽を漏らした。
誰もがそちらを見る。
侍女は両手で口元を押さえていた。
その爪は、ぼろぼろだった。
親指の甘皮が裂け、中指の爪先が欠けている。左手だけ不自然に赤い。何度も何度も、同じ場所を擦った跡。
恐怖。
罪悪感。
眠れていない。
私は、その手を見た瞬間に分かってしまった。
この子は犯人ではない。
でも、何かを知っている。
「違うんです……」
侍女が震える声で言った。
女官長が鋭く睨む。
「黙りなさい」
「違うんです、私は、私はただ……命じられただけで……!」
その叫びが、白蓮宮の静寂を破った。
怜月は表情を変えなかった。
けれど、私には分かった。
彼の目が、ほんの少しだけ冷たくなったことを。
呪いの爪紅。
倒れた貴妃。
罪を着せられた南妃。
怯える侍女。
そして、香油に残された偽りの金粉。
後宮の美しい爪先には、思った以上に深い毒が塗り込められているらしい。
私は清貴妃の手を見下ろした。
桃花色の爪紅は、灯りを受けて艶やかに光っている。
美しい。
美しいからこそ、恐ろしい。
爪は、嘘をつかない。
けれど人は、爪に嘘を塗る。
その日から、私の平穏な下級爪紅師生活は、音を立てて剥がれ始めた。




