第五話 爪紅帳の沈黙
「十年前、誰があの方の爪に嘘を塗ったのかを」
清貴妃の声は、細かった。
けれど、その言葉は寝殿の奥まで届いた。
泣いていた女官たちも、動揺していた医官も、息を殺して立っていた宦官たちも、誰一人として声を出さなかった。
十年前の黒爪の妃。
皇子を宿していた妃。
そして、病死として片づけられた女。
その名前が、爪紅帳の古い頁に残っている。
いや、残されているというより、消しきれなかったように見えた。
薄い墨。
擦れた文字。
蓮の印。
右薬指、桃花色。
左小指、金粉。
黒変。
その記録の横に、小さく添えられた日付。
私は思わず、帳面の文字から目を離せなかった。
爪紅の記録のはずなのに、そこには人の死に方が書かれているようだった。
「……貴妃様」
最初に口を開いたのは、梨春だった。
声が震えている。
「そのようなこと、今お話しになっては」
「今話さなければ、また誰かが黒爪にされるわ」
清貴妃は静かに言った。
「それとも梨春。あなたは次に、誰の爪が黒くなるか知っているの?」
「知りません!」
梨春は泣きそうな顔で首を振った。
「私は、ただお菓子を……本当に、それだけで」
「分かっているわ」
清貴妃の声が少し柔らかくなる。
「だからこそ、黙っていてはいけないの」
その会話に、私は胸の奥がざらついた。
清貴妃は梨春を責めていない。
だが、完全に許してもいない。
許すというより、今は使う。
自分を傷つけた女官すら、盤面から落とさない。
優しいだけでは生き残れない人の言葉だった。
怜月殿下が帳を閉じた。
「清貴妃」
「はい」
「十年前の黒爪の妃について、どこまで知っている」
「私が知っているのは、女官たちが囁いていた話だけです」
「噂か」
「後宮で噂を軽んじるのは、殿方の悪い癖です」
清貴妃は怜月殿下を見た。
「文書に残らないものほど、本当のことがあります」
怜月殿下は黙った。
否定しない。
清貴妃の言葉には、刺がある。
けれど、ただ皇弟に反発しているだけではない。わざと刺している。反応を見ている。
会話そのものが探り合いだ。
私は少しだけ身を引いた。
こういう場で、下級爪紅師が余計な口を挟むべきではない。
そう思ったのに、怜月殿下がこちらを見た。
「凛花」
嫌な予感がした。
「はい」
「お前はどう見る」
やっぱり。
「どう、とは」
「この帳だ。十年前の記録が今の清貴妃の爪と似すぎている。偶然か、模倣か、それとも同じ者の仕業か」
部屋中の視線が、また私に集まった。
小鈴が隣で、小さく「うわあ」と呟く。
同感だった。
私は帳面をもう一度開かせてもらい、古い頁と今日の清貴妃の爪を見比べた。
十年前の記録。
右薬指。
左小指。
桃花色。
金粉。
黒変。
今回と似ている。
けれど、完全には同じではない。
「同じように見せている、と思います」
「同じではないのか」
「はい」
私は帳の文字を指さした。
「十年前の記録には、右中指がありません。今回黒くなったのは、右薬指、右中指、左小指の三本です」
清貴妃の目が細くなった。
「中指が増えている?」
「はい」
「中指には何の意味があるの」
私は凛花の記憶を探った。
「誓いの印を押す指です。皇族や高位貴族が重要な証書に血印を押す時、右中指を使うことがあると聞いています」
怜月殿下が低く言った。
「寵愛、誓約、秘密」
「はい」
「十年前は、寵愛と秘密だけだった。今回は誓約が加わった」
その言葉が落ちた瞬間、清貴妃の表情がわずかに変わった。
怜月殿下はそれを見逃さなかった。
「心当たりがあるな」
「殿下」
清貴妃は笑った。
「女に何かを尋ねる時、もう少し柔らかくできないのですか」
「柔らかくすれば答えるのか」
「いいえ」
「なら同じだ」
「だから後宮の女に嫌われるのです」
「好かれに来た覚えはない」
「でしょうね」
二人の会話は、冷たくて、妙に息が合っていた。
小鈴が私の耳元で囁く。
「ねえ、あのお二人、仲悪いの?」
「分からない」
「仲良くも見える」
「もっと分からない」
「後宮、難しすぎる」
本当にそう思う。
怜月殿下と清貴妃の間には、ただの皇弟と妃ではない何かがある。
恋ではない。
少なくとも、甘いものではない。
互いに相手の傷の場所を知っていて、必要ならそこを指で押すような関係だ。
「清貴妃」
怜月殿下が言った。
「取引と言ったな」
「ええ」
「条件を言え」
「梨春と杏児を、この場で罪人にしないこと。翠蘭をすぐには牢へ送らないこと。そして、南妃様への疑いを一度止めること」
「南妃を庇う理由は」
「私が南妃様を嫌いだからです」
その答えに、部屋がざわついた。
怜月殿下の眉が動く。
「嫌いだから庇う?」
「ええ。嫌いだから分かります。あの方は、こんな回りくどい真似をしません」
清貴妃は疲れた顔で微笑んだ。
「あの方なら、私を失脚させたい時は正面から刺します」
小鈴が小声で言った。
「南妃様、どんな方なの……」
私も同じことを思った。
清貴妃は続ける。
「南妃様は誇り高い方です。嫌味も堂々となさるし、贈り物に棘を入れる時も、相手に分かるように入れる。けれど、女官や爪紅師を何人も巻き込み、別の宮の印まで使うような真似はしません」
「ずいぶん信頼しているな」
「信頼ではありません。理解です」
清貴妃の声が少し低くなった。
「女同士の争いを、殿方はすぐ嫉妬で片づけます。ですが、後宮の女は嫉妬だけで動けるほど暇ではありません」
その場の女官たちの空気が変わった。
少しだけ、清貴妃を見る目が違う。
この人は、妃である。
上にいる人間だ。
けれど、女官たちの苦しさも知っている。
だからこそ、梨春は彼女を庇おうとしたのかもしれない。
「南妃を呼ぶ」
怜月殿下が言った。
清貴妃が目を伏せる。
「呼べば、騒ぎになります」
「すでに騒ぎだ」
「後宮中が、私と南妃様の対決を見たがります」
「なら見せてやればいい」
「殿下は本当に性格がお悪い」
「よく言われる」
怜月殿下はそう言って、宦官に命じた。
「南宮へ使いを出せ。南妃に、白蓮宮へ来るよう伝えろ。拒めば、私が行くと」
宦官は顔を青くして下がった。
私は思わず怜月殿下を見る。
「よろしいのですか」
「何がだ」
「南妃様は疑われている側です。この場へ呼べば、さらに注目されます」
「だから呼ぶ」
「なぜ」
「隠すと、噂は育つ。人前で見せれば、噂は形を変える」
怜月殿下は私を見た。
「お前も見ろ」
「またですか」
「爪紅師だろう」
「爪紅師は政争を見る職業ではありません」
「今からそうなる」
「嫌です」
「遅い」
小鈴が小さく噴き出した。
すぐに真顔へ戻る。
清貴妃も、ほんの少しだけ笑った。
「殿下。あまりその子を苛めると、逃げますよ」
「逃げ道は知らないと言っていた」
「覚えるかもしれません」
「覚える前に使う」
「本当に性格がお悪い」
この二人、たぶん似ている。
認めたくないけれど、少し似ている。
どちらも優しい言葉を信用していない。
どちらも相手の本音を引きずり出すために、わざと痛い言葉を選ぶ。
ただ、清貴妃の方が少しだけ人間くさい。
怜月殿下は、まだよく分からない。
その後、白蓮宮の寝殿は慌ただしく整えられた。
清貴妃は起き上がると言ったが、医官が必死に止めた。
「貴妃様、なりません。今は安静に」
「寝たまま南妃様を迎える方が失礼でしょう」
「命に関わります」
「命に関わるなら、なおさら寝ている場合ではありません」
無茶を言う人だ。
私は思わず口を挟んだ。
「貴妃様、せめて背を起こすだけにしてください」
清貴妃がこちらを見る。
「あなたまで止めるの」
「止めます。爪は無事でも、お身体は無事ではありません」
「爪紅師に身体の心配をされるとは思わなかったわ」
「手は身体についていますので」
清貴妃は一瞬きょとんとして、それから声を出さずに笑った。
「そうね。確かにそうだわ」
女官たちが支え、清貴妃は寝台の上で上体を起こした。
黒く染まった爪には、布を掛けないことになった。
見せるためだ。
清貴妃自身がそう決めた。
「隠せば、呪いが勝ちます」
彼女はそう言った。
私はその爪を整え直したかった。
黒を落としたかった。
でも、今は落とさない方がいい。
証拠だからだ。
美しくあるための爪が、証拠として晒される。
胸の奥が少し痛んだ。
前世なら、傷んだネイルはすぐ直してあげた。
ここでは、傷んだまま人前に出さなければいけないことがある。
後宮は、嫌な場所だ。
やがて、南妃が来た。
先触れの声が響いた瞬間、寝殿の空気がまた張り詰める。
南妃は、噂通りの人だった。
赤ではなく、深い藍の衣をまとっている。髪飾りは少なく、余計な香もまとっていない。華やかさよりも、鋭さが先に立つ美人だった。
目元は涼しく、唇には笑みがない。
そして爪。
私は最初にそこを見た。
南妃の爪は短めに整えられていた。
色は薄い青。
沈黙と喪に近い色。
だが、爪先にだけ銀の線が一本入っている。
意味は、拒絶。
近づくな、という印。
「怜月殿下」
南妃は膝を折った。
「お呼びと伺いました」
「清貴妃の爪を見ろ」
単刀直入すぎる。
南妃は一瞬だけ怜月殿下を見た。
「ご挨拶より先に、それですか」
「挨拶で爪の色は変わらない」
「相変わらず、女性に嫌われる話し方をなさいますね」
「今日はよく言われる」
清貴妃が小さく笑った。
「南妃様。私も先ほど同じことを申し上げました」
「まあ。では、今日の私とあなたの意見は一致したのですね。珍しいこと」
南妃は清貴妃へ視線を移した。
その瞬間、二人の間に見えない火花が散った気がした。
「お加減はいかが」
「見ての通りです」
「顔色は悪いけれど、口はよく動くようで安心しました」
「南妃様も、疑われているわりには落ち着いていらっしゃる」
「私が慌てれば、あなたは喜ぶでしょう」
「少しは」
「正直でよろしい」
会話が怖い。
優雅なのに怖い。
小鈴が私の袖を掴む。
「ねえ、あれ喧嘩?」
「たぶん」
「でも、なんか楽しそう」
「そこが怖い」
南妃は清貴妃の黒くなった爪を見た。
その表情が、ほんのわずかに変わる。
驚き。
嫌悪。
そして、怒り。
私にはそう見えた。
だが、南妃はすぐに顔を整えた。
「趣味の悪い細工ですね」
「呪いとは思わないのですか」
清貴妃が問う。
「呪いなら、もっと美しくあるべきです」
南妃は冷たく言った。
「これは、作った者の品性が悪い」
私は思わず南妃の爪をもう一度見た。
この人は、たぶん本当に違う。
少なくとも、自分の美意識に反するやり方はしない。
清貴妃が私の方を見た。
「凛花。あなたはどう見る?」
また振られた。
なぜ妃たちは下級爪紅師を盾にするのか。
いや、違う。
清貴妃は私の言葉を利用しようとしている。
南妃の反応を見るために。
「南妃様の爪紅とは、趣向が違いすぎます」
私は答えた。
南妃の目がこちらへ向く。
鋭い。
「あなたが噂の爪紅師?」
「下級爪紅師の凛花でございます」
「下級爪紅師が、私の趣向を語るの」
「爪を拝見しましたので」
「私の爪から何が分かるというの」
「南妃様は、細工をなさるなら真正面からなさる方だと思いました」
小鈴が隣で固まった。
言ってから、私も少し後悔した。
これ、褒めていない。
南妃は数秒、私を見ていた。
そして、ふっと笑った。
「気に入りました」
「え」
「怜月殿下。この爪紅師、私にください」
「断る」
即答だった。
私が断る前に怜月殿下が断った。
なぜ。
「私は物ではありません」
思わず言うと、南妃がさらに笑った。
「ますます気に入ったわ」
清貴妃が不機嫌そうに言う。
「南妃様。私が倒れている横で、人の爪紅師を奪わないでくださる?」
「あなたの爪紅師ではないでしょう」
「今は私の爪を見ているもの」
「では治ったら私の宮へ」
「勝手に決めないでください」
思わず割り込んだ。
怜月殿下が少しだけ目を伏せた。
笑いを堪えたように見えたのは、気のせいだと思いたい。
だが、この会話で分かったことがある。
南妃と清貴妃は仲が悪い。
それは本当だ。
けれど、相手を殺したいほど憎んでいる関係ではない。
むしろ、互いのやり方をよく知っている。
だからこそ、清貴妃は南妃を庇った。
だからこそ、南妃は黒爪を見て怒った。
自分の名を使われたからではない。
後宮の女同士の争いを、品のない呪いに貶められたことに怒っている。
「南妃」
怜月殿下が本題へ戻した。
「この爪紅に見覚えは」
「私が贈ったものに似せています」
「似せている?」
「ええ。私が清貴妃様へ贈った桃花色は、もっと淡い。金粉も細かいものを使わせました。この爪紅は、遠目には同じに見えるけれど、近くで見れば品がない」
品がない。
南妃は本気で不快そうだった。
「爪紅師」
彼女が私を呼ぶ。
「あなたなら分かるでしょう」
「はい。金粉の粒が粗いです。あと、桃色にわずかに赤が強い。南妃様のお爪の色選びとは違います」
「そう」
南妃は満足そうに頷いた。
「よい目です」
「ありがとうございます」
「私の宮へ来る気は」
「ありません」
「残念」
清貴妃が軽く咳き込んだ。
私は慌てて水を取ろうとしたが、梨春が先に動いた。
清貴妃は梨春の手を一瞬見て、それから茶杯を受け取る。
まだ信じている。
傷つけられても、完全には切り捨てない。
強いのか、甘いのか。
たぶん、その両方だ。
「南妃様」
清貴妃は水を飲んだあと、静かに言った。
「十年前の黒爪の妃をご存じ?」
南妃の顔から、笑みが消えた。
「……その話を、ここでするの」
「私の爪がこうなった以上、するしかないでしょう」
「あなた、自分が何を掘り起こそうとしているか分かっているの?」
「分かっているつもりです」
「つもりでは済まないわ」
南妃の声が低くなる。
「黒爪の妃の名を出せば、後宮だけでは終わらない。陛下の御代にも、先帝の御代にも、血が飛ぶわ」
怜月殿下が静かに言った。
「だからこそ、誰かが再現した」
南妃は怜月殿下を見た。
「殿下は、どこまでご存じなの」
「今から知る」
「嘘がお下手ですね」
「よく言われる」
「いいえ。殿下は嘘が下手なのではなく、嘘をつく気がない顔で隠し事をなさるから厄介なのです」
南妃の言葉に、怜月殿下は答えなかった。
図星なのだろうか。
私は怜月殿下の手を見ようとした。
けれど、やはり袖で隠れている。
この人は、爪を見せない。
偶然ではない気がしてきた。
「凛花」
怜月殿下がこちらを見た。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「殿下は、なぜいつも手を隠していらっしゃるのですか」
言った瞬間、空気が止まった。
小鈴が今度こそ本気で私の袖を引いた。
南妃が目を丸くする。
清貴妃は、かすかに笑った。
怜月殿下は私を見ている。
怒っているのか、呆れているのか分からない。
「お前は」
「はい」
「本当に命が一つしかない自覚があるのか」
「あります。今、少し減った気がしました」
南妃がとうとう声を立てて笑った。
「面白い子」
怜月殿下は溜息をついた。
「手が見たいのか」
「爪紅師なので」
「便利な言葉だな」
「はい」
怜月殿下はしばらく黙っていた。
それから、右手だけを袖から出した。
長い指だった。
爪は短く整えられている。
色はない。
けれど、親指の爪の根元に古い傷があった。
細く、白い線。
爪が一度深く割れ、長い時間をかけて戻った跡だ。
私は息を呑みそうになった。
その傷の形が、爪紅帳の古い頁に描かれた小さな印と似ていたからだ。
蓮の崩し印。
いや、似ているのではない。
あれは蓮ではない。
割れた爪の形だ。
「……この印」
私が呟くと、怜月殿下はすぐに手を引いた。
遅い。
見えた。
清貴妃も南妃も、表情を変えなかった。
つまり、二人は知っていたのだ。
十年前の黒爪の妃の記録にあった印は、蓮の印ではない。
怜月殿下の爪の傷。
それを写したもの。
「殿下」
私は声を低くした。
「十年前の事件に、殿下も関わっているのですか」
誰も喋らなかった。
怜月殿下は、氷のような目で私を見た。
でも、不思議と怖くはなかった。
その目の奥に、怒りではなく痛みが見えたからだ。
「関わっている」
怜月殿下は言った。
「私は十年前、黒爪の妃の宮にいた」
小鈴が小さく息を呑む。
清貴妃が目を閉じる。
南妃は扇を握りしめた。
「そして、その妃は」
怜月殿下の声が、ほんのわずかに掠れた。
「私の母だ」
寝殿の空気が、凍りついた。
私は爪紅帳を見た。
薄い文字。
消された名前。
黒爪の妃。
皇子を宿していたはずの女。
その事件は、ただの昔話ではなかった。
怜月殿下自身の傷だったのだ。
爪は、嘘をつかない。
だが、人は爪の傷さえ、十年も隠せる。
私は言葉を失った。
怜月殿下は、いつもの冷たい顔に戻っていた。
「凛花」
「……はい」
「今見たことは忘れろ」
「無理です」
即答してしまった。
怜月殿下の目が細くなる。
でも、私は続けた。
「忘れたら、見落とします」
沈黙。
長い沈黙のあと、怜月殿下は低く言った。
「なら、見落とすな」
その声は命令だった。
けれど、ほんの少しだけ、願いにも聞こえた。




