第十二話 青銀の粉は、袖口に残る
「後宮監察付き爪紅師?」
小鈴の声は、白蓮宮の夜気を少しだけ震わせた。
怒っている。
いや、驚いている。
いや、たぶん両方だ。
「何それ。何その、いかにも危ない役職。後宮、今ちょっと思いつきで役職を増やした?」
「増やしたのは殿下」
「でしょうね!」
小鈴は怜月殿下を見た。
見た、というより睨んだ。
護衛たちがぎょっとする。下級女官が皇弟を睨むなど、本来なら即座に叱責されてもおかしくない。
けれど怜月殿下は、いつもの冷たい顔で受け流した。
「必要な役だ」
「凛花を危ないところに連れ回す役では?」
「危ないところに連れ回すのは私の役だ」
「認めた!」
小鈴が本気で頭を抱える。
私は少しだけ笑ってしまった。
笑える状況ではない。
十年前の黒爪事件。
華姚妃の女児。
陶医官の捕縛。
逃げた内通者。
白蓮宮の副女官長・葉泉の関与。
そして、私を名指しした脅迫文。
何一つ軽くない。
それなのに小鈴の声を聞くと、胸の中で固まりかけていた恐怖が少しだけ崩れる。
ありがたい。
うるさいけれど、ありがたい。
「小鈴」
「何」
「ありがとう」
「今、感謝される場面あった?」
「たぶん」
「凛花、やっぱり変になってる」
「それは今日、何度も言われた」
「明日も言うからね」
小鈴はそう言って、ぷいと横を向いた。
けれど、袖を掴む手は離さなかった。
白蓮宮の寝殿では、清貴妃が私たちを待っていた。
夜桃花の爪は、灯りの中で静かに艶めいている。黒い線はまだ残っているのに、不思議と恐ろしさは薄れていた。
黒を罪にしない。
そう決めた爪。
清貴妃は私を見るなり、眉を上げた。
「まあ。少し目を離したら、役職が増えているわ」
「増やされました」
「嫌そうね」
「はい」
「正直でよろしい」
南妃はまだ帰っていなかった。
深い藍の袖をゆるく重ね、まるで自分の宮のような顔で座っている。
「後宮監察付き爪紅師。悪くない響きだわ」
「南妃様まで」
「ただの爪紅師より、物語になるでしょう?」
「私の人生を物語にしないでください」
「残念。後宮に入った時点で、女は誰かの物語にされるのよ」
南妃の声は軽かった。
けれど、その言葉は妙に重かった。
清貴妃が小さく頷く。
「そうね。寵妃、悪女、毒婦、哀れな妃、呪われた女。本人が望まなくても、周囲が勝手に名をつける」
「私は“黒を飾る爪紅師”ですか」
私が言うと、清貴妃は私の左小指を見た。
桃花色に黒、そこへ銀の細い線。
清貴妃と同じ夜桃花。
ただし、私の爪には青銀粉が仕込まれている。
「嫌なら、別の名を自分でつけなさい」
「自分で?」
「ええ。名は、先に名乗った者が少しだけ勝つわ」
南妃が扇で口元を隠す。
「爪紅で呪いを花に変える女。悪くないのでは?」
「長すぎます」
「では、夜桃花の爪紅師」
清貴妃が言った。
少し考えた。
悪くない。
黒を飾る、よりはずっといい。
「……それなら、まだ」
「では決まりね」
「決めるのが早いです」
「後宮では、迷っている間に名を奪われるもの」
その言葉に、葉泉が俯いた。
白蓮宮の副女官長。
彼女は少し離れた場所に控えている。先ほど、脅迫文を受け取り、燃やしていたことを認めたばかりだ。
顔色は悪い。
けれど逃げてはいない。
清貴妃が視線を向ける。
「葉泉」
「はい」
「文を書く準備は」
「整えております」
「手は震えていない?」
葉泉は自分の手を見た。
白梅色の爪。
左手の小指の縁には、まだほんのわずかに青銀粉が残っている。
「……震えております」
「そう。なら、まだ大丈夫ね」
「大丈夫、でございますか」
「自分が怖いことを知っている人間は、まだ無茶をしないわ」
葉泉の目が揺れた。
清貴妃は、彼女を責めている。
同時に、まだ切り捨てていない。
葉泉もそれを分かっているから、余計に苦しそうだった。
「凛花」
怜月殿下が低く呼んだ。
「はい」
「葉泉が書く文を見ろ」
「私がですか?」
「お前は爪だけでなく、折り目も見るだろう」
「便利に使いすぎでは」
「後宮監察付きだ」
「もう役職を盾にされている」
小鈴が横で「ひどい」と頷いた。
それでも私は、卓の前に座った。
葉泉が灰色の紙を用意する。
脅迫文と似た硬い紙。
墨は普通の墨だ。
「鉄胆墨ではないのですね」
私が言うと、葉泉は頷いた。
「白蓮宮にはございません。あれは政務側で使われる墨です」
「後宮内で使う者は?」
「記録係の一部、医官の正式な報告書、それから宦官府です」
また広い。
けれど、少し絞れた。
陶医官は捕らえた。
だが、逃げた影は別にいる。
政務紙と鉄胆墨に触れられる者。
白蓮宮内に文を入れられる者。
葉泉に脅迫文を届けられる者。
「葉泉様」
「何でしょう」
「あなたの部屋に置かれていた文は、どうやって入れられたと思いますか」
「分かりません。部屋に戻った時には、文箱の上に」
「鍵は?」
「女官長と副女官長は、それぞれ小部屋の鍵を持っています。ですが、白蓮宮の内側からなら、合鍵を持つ者も……」
そこで葉泉は言葉を止めた。
清貴妃が気づく。
「誰?」
葉泉は迷った。
だが、今度は黙りきらなかった。
「宮内記録係の柳皓でございます」
知らない名だった。
凛花の記憶にも薄い。
白蓮宮へ帳簿や届け物の記録を取りに来る若い宦官らしい。妃の部屋へ入る権限はないが、女官たちの控え部屋や文箱の管理記録には触れられる。
「柳皓は、政務紙を使えますか」
「はい。記録係ですので」
怜月殿下が護衛へ目を向ける。
「柳皓を探せ。騒ぐな。手と袖を見るだけでいい。青銀粉があれば逃がすな」
護衛が音もなく下がった。
葉泉は文を書き始めた。
筆を持つ手は、わずかに震えている。
けれど、文字は乱れない。
さすが副女官長だ。
文面は短い。
『爪紅師は用意した。明夜、北東の古井戸へ』
怜月殿下が眉をひそめる。
「明夜では遅い」
「今夜だと、こちらが焦っていると見えます」
私が言うと、怜月殿下がこちらを見る。
「お前もそういうことを言うようになったか」
「後宮のせいです」
「成長だな」
「嫌な成長です」
南妃が楽しそうに言う。
「悪くないわ。相手に“まだこちらは完全に把握していない”と思わせるには、少しだけ間を空ける方がいい」
清貴妃も頷いた。
「それに明夜なら、こちらも準備ができる」
「ただし、相手も準備します」
私が言うと、清貴妃が微笑んだ。
「だから面白いのでしょう」
「清貴妃様まで、そういうことを」
「後宮で面白がれなくなったら負けよ」
強い人だ。
倒れたばかりで、爪を黒くされ、懐妊疑惑まで利用されたのに。
いや、強いから倒れなかったのではない。
倒れても、強い顔を作ることをやめなかったのだ。
葉泉が文を書き終える。
私はその折り目を整えた。
「朱夏さんの文と同じ折り方にします」
「できますか」
葉泉が問う。
「折り目に癖がありました。左端を少し強く、最後の角をほんの少しずらす」
葉泉が目を見開く。
「そのようなところまで」
「前の仕事で、包装をたくさんしましたので」
「前の仕事?」
しまった。
小鈴がすかさず言った。
「明珠様のところで、でしょ? 凛花、最近言葉足らずだから」
「そう。それ」
助かった。
小鈴があとで絶対に問い詰める顔をしているけれど、今は助かった。
文を折る。
左端を少し強く。
角をずらす。
そして、封の内側に青銀粉をほんの少し仕込む。
相手が開けば指につく。
今夜の後宮は、爪紅師の罠だらけになってきた。
美しくはない。
でも、必要だ。
「葉泉様」
私は文を渡した。
「これを、いつもの方法で返事が届く場所へ」
「承知しました」
「ただし、一人では行かないでください」
「誰を」
葉泉が問う前に、清貴妃が言った。
「梨春を連れて行きなさい」
梨春がびくりとした。
「私でございますか」
「あなたは今日、恐ろしいものを見すぎたわ。なら、もう見えるものは見ておきなさい」
「貴妃様、それは励ましていらっしゃいますか」
梨春が泣きそうな顔で聞く。
清貴妃は少し考えた。
「半分くらい」
「半分……」
「残り半分は命令」
「承知いたしました」
梨春は深く頭を下げた。
その手はまだ震えていたが、逃げなかった。
*
柳皓が見つかったのは、葉泉と梨春が文を置きに出た直後だった。
白蓮宮の東回廊。
水盤の近く。
彼は袖口を濡らしていた。
護衛に連れられてきた柳皓は、年若い宦官だった。
白い顔。
細い体。
目元に少し神経質な影がある。
爪は短く切られていたが、左手の親指だけに青銀粉が残っている。
逃げた影。
あるいは、その近くにいた者。
柳皓は寝殿の前で膝をついた。
「殿下、これは何かの間違いでございます」
声は震えていない。
でも、爪は震えていた。
指先が、床の上で微かに動く。
「間違いかどうかは、これから聞く」
怜月殿下の声は冷たい。
「今夜、古井戸へ行ったか」
「行っておりません」
「白蓮宮内庭へ文を置いたか」
「存じません」
「葉泉の部屋に文を置いたか」
「存じません」
三度、同じ答え。
早い。
整いすぎている。
私は柳皓の手を見る。
左親指の青銀粉。
袖口の濡れ。
そして、右手の中指に紙で切ったような細い傷。
文を何度も扱う者の傷だ。
「柳皓さん」
私が声をかけると、彼は初めてこちらを見た。
目が細くなる。
「あなたが、夜桃花の爪紅師」
まただ。
私は小さく息を吸った。
「その呼び名は、どこで」
「宮中で噂に」
「まだ広まるには早すぎます」
柳皓は黙った。
「それから、あなたの左手親指に青銀粉が残っています。古井戸の文に触れた人につく粉です」
「私は記録係です。さまざまな紙に触れます。粉など、どこで」
「この粉は、明珠様が作ったものです」
柳皓の目が一瞬だけ動いた。
明珠の名に反応した。
知っている。
柳皓は明珠と何らかの関係がある。
いや、明珠の部屋か爪紅帳に近づいたのかもしれない。
「明珠様をご存じですか」
「古い爪紅師の名くらいは」
「どこで聞きました?」
「宮内記録で」
「宮内記録には、十年前の火事で明珠様の名は残っていますか」
柳皓は答えなかった。
沈黙。
失敗だった。
怜月殿下が一歩近づく。
「お前は、十年前の記録を見たのか」
「記録係ですので」
「誰の命で」
「……」
「柳皓」
怜月殿下の声が低くなる。
「お前が逃げた影か」
柳皓は顔を伏せた。
だが、私は首を横に振った。
「たぶん違います」
「なぜ」
「この人の手は、逃げた人の手ではありません」
小鈴が小声で聞く。
「どういうこと?」
「古井戸で文を取った手は、爪が噛まれていました。柳皓さんの爪は短いけれど、噛まれてはいません。刃物で切っています」
柳皓の目が私へ戻る。
「あなたは何を見て」
「爪です」
我ながら、毎回同じ答えだと思う。
でも、それが一番正確だった。
「青銀粉がついているのは、逃げた人から文を受け取ったから。あなたは連絡役ですね」
柳皓の唇が動いた。
否定しようとして、できなかった。
怜月殿下が問う。
「誰に渡した」
「……言えません」
「またか」
怜月殿下の声に怒りが混じる。
柳皓は俯いたまま言った。
「言えば、私だけでは済みません」
南妃が冷たく笑った。
「後宮の男も、女と同じ言い訳を使うのね」
柳皓は顔を上げた。
その表情には屈辱があった。
「言い訳ではありません」
「では何?」
「妹がいます」
その一言で、葉泉が息を呑んだ。
「柳皓、あなた……」
「私の妹は、宮外の薬舗で働いています。文を運べと言われました。拒めば、妹が白月粉の横流し犯にされると」
また人質。
また弱み。
小鈴が小さく呟く。
「みんな、誰かを握られてる……」
本当にそうだった。
翠蘭は弟。
朱夏は華姚妃の女児。
葉泉は清貴妃の懐妊疑惑。
柳皓は妹。
黒幕は、人そのものではなく、人の大切なものを握って動かしている。
「誰に脅された」
怜月殿下が問う。
柳皓は震えた。
「顔は見ていません。文だけです。けれど、文にはいつも鉄胆墨が使われていました」
「また鉄胆墨か」
「はい。そして、封には必ず同じ印が」
「印?」
柳皓は懐から、小さな紙片を出した。
自分で隠し持っていたのだろう。
護衛がすぐに取り上げ、怜月殿下へ渡す。
紙片には、黒い小さな印が押されていた。
蓮に似ている。
でも、私はもう知っている。
これは蓮ではない。
割れた爪。
怜月殿下の傷の形。
「またこの印……」
小鈴が呟く。
怜月殿下の目が冷たく沈む。
「誰がこの印を使っている」
柳皓は首を振った。
「分かりません。ですが、その印を見せられれば、十年前の件に関わる者は逆らえないと」
明珠がいれば、きっと顔をしかめただろう。
華姚妃が残したはずの印。
怜月殿下の傷。
それが、今は脅迫の印として使われている。
許しがたい。
私は怜月殿下を見た。
彼の顔は変わらない。
でも、右手が袖の中で握られているのが分かった。
「殿下」
「何だ」
「その印を、取り戻しましょう」
彼がこちらを見る。
「取り戻す?」
「はい。敵が脅しに使うなら、こちらで意味を変えます」
「どうやって」
「この印がついた文を、脅迫の証拠としてではなく、華姚妃様の爪紅帳と繋がる印として公的に扱います。黒幕が使えば使うほど、十年前の事件に近づく証拠になるように」
南妃が目を細める。
「つまり、その印を隠さずに逆利用するのね」
「はい」
清貴妃が静かに言った。
「黒を飾るのと同じこと」
「はい」
怜月殿下はしばらく黙っていた。
「母の印を、餌にするのか」
その声は低かった。
私は怯みそうになった。
でも、目を逸らさなかった。
「餌ではなく、証にします」
「同じだ」
「違います」
言い切った。
「敵が使えば脅しになります。でも殿下が使えば、華姚妃様が残した記録の印になります。誰が意味を決めるかです」
怜月殿下の瞳が揺れた。
ほんの少しだけ。
「……お前は、何でも塗り替えようとするな」
「爪紅師なので」
「便利な言葉だ」
「はい」
清貴妃が夜桃花の爪を軽く掲げた。
「殿下。私は賛成です」
南妃も頷く。
「私も。隠せば、黒幕はまたその印で人を脅す。ならば先に意味を変える方がいい」
葉泉が震える声で言った。
「白蓮宮も、その印が届いた文をすべて保管いたします」
梨春も小さく頷く。
「私も、香奈たちに伝えます。怪しい文を見つけても、燃やさないように」
小鈴が私の袖を引いた。
「凛花」
「何?」
「今、ちょっとすごいことしてるよ」
「怖いことの間違いでは」
「うん。それもある」
小鈴の正直さに、少しだけ笑った。
怜月殿下は紙片を見つめていた。
割れた爪の印。
十年前、彼自身の傷から生まれた形。
それを黒幕は、脅しに使っていた。
けれど今、その意味が変わろうとしている。
「柳皓」
怜月殿下が言った。
「お前は誰に文を渡す予定だった」
柳皓は震える声で答えた。
「今夜、酉の刻の終わりに、東の文書庫裏へ」
「相手は」
「顔は見せません。ただ、いつも手袋を」
「手袋?」
「はい。黒い絹の手袋です。爪を見られたくないのだと思います」
私は息を止めた。
爪を見られたくない相手。
ここまで爪と手の痕跡で追ってきた私たちへの対策。
つまり、相手はこちらをかなり理解している。
「殿下」
「分かっている」
怜月殿下の声は冷たい。
「今度は文書庫裏だ」
南妃が楽しそうに、しかし目だけは鋭く言った。
「今夜は忙しいわね」
清貴妃がため息をつく。
「私は寝台の上で待つのに飽きてきました」
「寝ていてください」
私が言うと、清貴妃は不満そうに爪を見た。
「夜桃花の爪をいただいたのに?」
「その爪で無茶をされたら、塗った私が怒られます」
「誰に」
「小鈴に」
「うん、怒る」
小鈴が即答した。
清貴妃は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「分かったわ。今夜は寝台から戦います」
その言い方も十分物騒だった。
怜月殿下は柳皓を見下ろす。
「お前は予定通り文書庫裏へ向かう」
「はい」
「ただし、私の護衛がつく」
「承知いたしました」
「凛花」
「はい」
「お前も来い」
「やっぱりですか」
「当然だ」
「私は爪紅師で、囮で、監察付きで、今度は文書庫裏にも行くのですね」
「忙しいな」
「殿下のせいです」
「否定はしない」
小鈴が言う。
「私も行く」
「駄目だ」
怜月殿下が即答した。
小鈴がむっとする。
「さっきは連れて行ったのに!」
「今度は危険が違う」
「だから行くんです」
「足手まといになる」
小鈴の顔が赤くなった。
怒りで。
私は止めようとしたが、小鈴の方が早かった。
「足手まといでも、凛花が怖い顔して一人で行くよりましです!」
寝殿が静まる。
小鈴は自分でも言ったあと驚いたようだった。
でも、引かなかった。
「私は爪は見えません。でも、人の足とか、顔とか、逃げ道は見ます。さっきも見ました。だから……足手まといだけど、何も見えないわけじゃないです」
怜月殿下は、小鈴をじっと見た。
それから私を見た。
「凛花」
「はい」
「お前の騒がしい護衛を連れて行く」
「護衛に昇格した」
小鈴が小さく呟いた。
「嬉しくないけど、ちょっと嬉しい」
「どっち?」
「分からない!」
清貴妃がくすりと笑う。
南妃も楽しそうに扇を揺らした。
怜月殿下は表情を変えなかったが、もう小鈴を止めなかった。
私は左小指の夜桃花を見た。
黒と銀。
その小さな爪先に、今夜の後宮の糸が集まり始めている。
葉泉の返事。
柳皓の文。
文書庫裏の黒い手袋。
割れた爪の印。
華姚妃の女児。
そして、私を名指しした黒幕。
もう、ただ巻き込まれているだけではない。
こちらから、糸を引きに行く。
怖い。
でも、手は震えていなかった。
爪紅を塗る前の、あの集中に少し似ていた。
仕上げの一筆を間違えれば、全部が崩れる。
だからこそ、呼吸を整える。
私は道具箱を抱え直した。
「行きましょう」
怜月殿下が私を見る。
「覚悟はできたか」
「できていません」
小鈴が隣で頷く。
「私もできてません」
「でも行くのか」
怜月殿下が問う。
私は左小指の夜桃花を、そっと握った。
「爪を塗ったので」
「理由になっているのか」
「私の中では」
怜月殿下は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら行くぞ、夜桃花の爪紅師」
その名は、まだ慣れない。
でも、黒を飾るよりはずっといい。
私は頷き、小鈴とともに夜の回廊へ踏み出した。
後宮の奥、東の文書庫。
そこに、爪を隠した誰かが待っている。
私は思った。
見せたくない爪ほど、きっと多くを語る。
だから今夜、私はその手を見に行く。




