第十三話 黒い手袋の記録係
東の文書庫は、後宮の中でも特に人の気配が薄い場所だった。
妃たちの宮から離れ、政務院へ通じる回廊の手前にある。美しい花も、香炉も、刺繍の簾もない。あるのは重そうな扉と、湿気を避けるために少し高く作られた床、そして夜でも消えない小さな灯りだけだった。
紙の匂いがする。
古い墨。
乾いた木箱。
人の手で何度もめくられた紙の匂い。
華やかな後宮の裏側に、こんな場所があるのかと思った。
女たちの笑顔も、妃たちの爪紅も、噂も涙も、最後はここで文字にされる。
そして、文字にされなかったものは消える。
十年前の華姚妃のように。
「凛花」
小鈴が私の袖を掴んだまま囁いた。
「私、やっぱり思うんだけど」
「うん」
「夜の文書庫って、絶対に下級女官が来る場所じゃないよね」
「昼でも来る場所じゃないと思う」
「だよね。じゃあ何で来てるんだろうね」
「成り行き」
「後宮の成り行き、だいたい人を殺しにくる」
否定できなかった。
少し前を柳皓が歩いている。
彼は文書庫の連絡役として、予定通り文を運ぶことになっていた。もちろん、一人ではない。見えない位置に怜月殿下の護衛がいる。
怜月殿下本人は、私たちのさらに後ろの闇に紛れていた。
黒い衣は夜に溶ける。
でも、いるのは分かる。
不思議だった。
見えないのに、見られている気配がある。
安心と言うには少し怖い。怖いと言うには少し頼もしい。
小鈴が急に私の爪を見た。
「その夜桃花、目立つね」
「暗いからそこまで見えないと思う」
「見えるよ。黒いのに、なんか光る」
「狙われる印だから」
「そういうこと、さらっと言わないで」
小鈴は眉を下げた。
「凛花、怖くないの?」
「怖い」
「嘘じゃなく?」
「嘘じゃなく」
「じゃあ何でそんな普通に歩けるの」
私は少し考えた。
普通に歩けているわけではない。足は重い。喉は乾く。左小指の爪が、やけに熱を持っているように感じる。
でも、前に進めている。
「たぶん、手が覚えてるから」
「手?」
「失敗できない時ほど、手は勝手に丁寧になる」
前世のサロンで、ブライダルネイルを任された時。
初めて来た客が、震える声で「明日、離婚調停なんです」と言った時。
長年噛み続けた爪を見せて、「こんなのでも綺麗になりますか」と聞かれた時。
怖かった。
失敗したくなかった。
でも、そういう時ほど手は落ち着いた。
その人の明日が、ほんの少しでも呼吸しやすくなるように。
今は、爪一本どころではない。
けれど、私にできることは同じだ。
見る。
整える。
塗り替える。
「変なの」
小鈴が言った。
「うん」
「でも、ちょっと分かった気がする」
「本当?」
「たぶん。私は怖い時ほど、喋っちゃうから」
「知ってる」
「知ってたなら止めてよ」
「小鈴が喋ってくれると、少し怖くなくなるから」
小鈴は一瞬、言葉を詰まらせた。
それから、小さく鼻を鳴らす。
「……じゃあ喋る」
「うん」
「でも、危なくなったら逃げるからね」
「うん」
「凛花も一緒に」
「努力する」
「そこは約束して!」
「約束する」
小鈴はようやく少しだけ頷いた。
その時、柳皓が文書庫裏の小さな石段の前で止まった。
ここが受け渡し場所らしい。
文書庫の裏には細い通路があり、壁沿いに古い木箱が積まれている。灯りはほとんど届かない。月明かりが、石畳を細く白く切っていた。
柳皓は懐から文を取り出し、石段の三段目の隙間へ差し込んだ。
葉泉が書いた返事。
その封には、青銀粉が仕込んである。
相手が開けば、指に残る。
柳皓は震えていなかった。
ただ、唇の色が悪い。
妹を人質に取られていると言っていた。彼も、完全な被害者ではない。けれど、ただの悪人でもない。
後宮はこういう人間ばかりだ。
白でも黒でもない。
爪紅を何度も重ねたような、複雑な色の人たち。
柳皓が一歩下がった。
私たちは物陰から見ている。
しばらく、何も起きなかった。
小鈴の手が私の袖を握る力だけが強くなる。
風が吹き、古い紙の匂いが流れた。
そして。
石段の向こう、文書庫の扉が内側からほんの少し開いた。
私は息を止めた。
外から来ると思っていた。
でも、相手は中にいた。
扉の隙間から、黒い手袋をした手が伸びる。
細い手。
男か女か分からない。
爪は見えない。
指先は黒い絹で覆われている。
手は石段の文を取った。
その瞬間、私は左小指がじんと熱くなるような錯覚を覚えた。
相手は封を開けない。
文を取っただけで、すぐに懐へ入れようとした。
青銀粉がつかない。
駄目だ。
封を開けないなら、粉が移らない。
「……開けて」
思わず小さく呟いた。
しかし、黒手袋の人物は開けなかった。
そのまま扉の内側へ戻ろうとする。
怜月殿下の護衛が動こうとした気配があった。
だが、それより早く柳皓が声を出した。
「お待ちください」
黒手袋の手が止まった。
柳皓の声は震えていた。
それでも続けた。
「返事を、この場で確認せよとのことでした。相手が従ったかどうか、私が見届けろと」
嘘だ。
でも、上手い嘘だった。
黒手袋の人物が、ゆっくりと柳皓へ顔を向ける。
顔は深いフードで隠れている。
声がした。
「余計なことを言うようになったな、柳皓」
低い声。
男の声に聞こえるが、作っている。
喉を潰すような、わざと低くした声だ。
柳皓の喉が動いた。
「私も、失敗すれば妹が危ういので」
「妹を思うなら黙れ」
「だからこそ、確認が必要です」
沈黙。
私は柳皓の手を見た。
爪先が白い。
怖いのだ。
けれど、逃げていない。
黒手袋の人物は、文を取り出した。
封へ指をかける。
開く。
青銀粉が、黒い絹の指先に移った。
見えた。
月明かりに、ほんの一瞬だけ銀が光った。
その瞬間、怜月殿下が動いた。
「捕らえろ」
低い声が夜を裂く。
護衛たちが一斉に飛び出した。
黒手袋の人物は素早かった。
文を投げ捨て、文書庫の扉へ戻ろうとする。だが内側から別の護衛が扉を押さえた。退路が塞がれる。
小鈴が私の袖を引いた。
「凛花、下がって!」
「うん」
下がろうとした。
だが、黒手袋の人物が腰から何かを抜いた。
小刀ではない。
細い針のようなもの。
爪紅師が使う細筆よりも短く、医官の針よりも太い。
黒い針。
狙いは柳皓だった。
「柳皓さん!」
私は叫んだ。
柳皓が振り返る。
遅い。
黒手袋の人物の腕が振られる。
その寸前、黒い袖が割って入った。
怜月殿下だった。
彼は黒手袋の手首を掴み、針を叩き落とす。
石畳に落ちた針が、乾いた音を立てた。
護衛が黒手袋の人物を押さえ込む。
フードが外れた。
現れたのは、女だった。
年は四十前後。
顔立ちは整っているが、頬が痩せている。目元には濃い疲労が刻まれていた。
私はその顔に見覚えがなかった。
だが、小鈴が小さく息を呑んだ。
「……文書庫の典籍女官、蘭玉様」
典籍女官。
後宮と政務院の文書を管理する役職。
女官でありながら、政務紙や鉄胆墨、古い記録に触れられる立場。
つまり、すべてに繋がる。
怜月殿下が女を見下ろす。
「蘭玉」
その声には、驚きがほとんどなかった。
候補に入っていたのだろう。
蘭玉は押さえつけられながらも、怜月殿下を睨んだ。
「殿下こそ、このような夜更けに文書庫裏とは」
「その黒い手袋を外せ」
「嫌です」
「命令だ」
「命令でも」
蘭玉の声は震えていなかった。
黒手袋の指先には青銀粉がついている。
証拠はある。
でも、彼女は手袋を外さない。
頑なすぎる。
「殿下」
私はそっと声をかけた。
「何だ」
「無理に外す前に、理由を聞かせてください」
蘭玉の目が私へ向く。
鋭い。
黒手袋越しでも、彼女の手が強張るのが分かった。
「あなたが、夜桃花の爪紅師」
「凛花です」
「名乗る必要はないわ。あなたの爪はもう見た」
私は左小指を見た。
夜桃花。
この人も、私を見ていた。
「蘭玉様」
「様はいらない」
「では、蘭玉さん」
彼女の目が少しだけ揺れた。
肩書きではなく名で呼ばれることに慣れていないのかもしれない。
「手袋を外したくないのは、爪を見られたくないからですか」
「当然でしょう。あなたは爪を見る」
「はい」
「なら、見せるわけがない」
正直すぎる。
黒幕なら、もう少し誤魔化す気がする。
この人は、爪を見られること自体を本気で恐れている。
「爪に、何か塗られていますか」
私が問うと、蘭玉の顔がわずかに歪んだ。
答えは出た。
「黒ですか」
「……」
「それとも、割れた爪の印?」
蘭玉が息を呑んだ。
怜月殿下の目が鋭くなる。
「凛花」
「はい。この人の手袋の指先、形が少し不自然です。親指だけ厚い。爪に何か貼っているか、爪そのものが変形しているのかもしれません」
「外せ」
怜月殿下が再び命じる。
蘭玉は唇を噛んだ。
しかし今度は、抵抗しなかった。
ゆっくりと黒い手袋を外す。
その下の手を見て、小鈴が小さく悲鳴を漏らした。
蘭玉の爪は、すべて黒かった。
ただ黒いだけではない。
爪の表面に、細かな文字のような線が刻まれている。
墨ではない。
刃物か針で、爪に直接彫られた跡。
その上から黒い爪紅が塗られている。
痛々しい。
私は思わず息を詰めた。
「これは……」
蘭玉は手を引こうとした。
だが、私は首を横に振った。
「見せてください」
「嫌だと言ったら?」
「無理にとは言いません。でも、見なければ何も分かりません」
「分かってほしくないのよ」
「では、なぜ文を受け取りに来たのですか」
蘭玉は黙った。
「あなたは黒幕の指示を受けている。でも、その黒幕を守りたい人の手には見えません」
蘭玉の目が細くなる。
「手だけで、よく喋る子ね」
「すみません」
「謝るくらいなら黙りなさい」
「黙ると危ないので」
小鈴が後ろで小さく頷いた。
「それは本当にそう」
蘭玉は私の後ろにいる小鈴を見て、少しだけ呆れたような顔をした。
「下級女官まで連れて、殿下は何をなさっているのです」
「私の護衛です」
私が言うと、小鈴が胸を張った。
「頼れる騒がしさ担当です」
「……何それ」
蘭玉の顔から、一瞬だけ力が抜けた。
ほんの一瞬。
その隙に、私は彼女の爪を見る。
黒い爪紅の下。
刻まれた線。
文字ではない。
数字だ。
いや、日付。
爪一本ずつに、小さく日付のような印が刻まれている。
右手の親指。
十年前の日付。
華姚妃が死んだとされる日。
人差し指。
火事の日。
中指。
怜月殿下が帳を持ち出した日。
左手の小指。
今日の日付。
私は背筋が冷えた。
「これは、記録です」
私が呟くと、蘭玉の顔色が変わった。
怜月殿下が問う。
「記録?」
「はい。爪に日付が刻まれています。文書ではなく、自分の爪に」
文書庫の典籍女官。
記録を扱う女。
けれど、紙の記録は書き換えられる。焼かれる。消される。
だから彼女は、自分の爪に刻んだのか。
消されない記録として。
「蘭玉」
怜月殿下の声が少し低くなる。
「お前は十年前、何を記録した」
蘭玉は笑った。
疲れた笑いだった。
「何も」
「嘘だ」
「記録上は、何も」
「お前自身の爪には残っている」
蘭玉の笑みが消えた。
「殿下。記録係は、書けと言われたことを書きます。消せと言われたものを消します。残すなと言われたものは残しません。それが役目です」
「だから爪に残したのか」
「紙に残せなかったからです」
その声には、十年分の諦めがあった。
「では、あなたは黒幕ではないのですね」
私が言うと、蘭玉は私を見た。
「誰が黒幕かなど、あなたたちは本当に知りたいの?」
「知りたいです」
「知れば、後宮だけでは済まない」
「今日は何度もそう言われました」
「なら、そろそろ理解しなさい」
「理解しています」
「いいえ。あなたはまだ分かっていない」
蘭玉は黒い爪を握った。
「この後宮で一番恐ろしいのは、妃でも宦官でも医官でもない。記録を決める者よ」
怜月殿下の目が暗くなる。
「誰だ」
蘭玉は答えなかった。
代わりに、爪を私の前へ差し出した。
「読めるなら読みなさい、夜桃花の爪紅師」
挑発ではなかった。
助けを求める声に近かった。
私は彼女の爪に顔を近づけた。
刻まれた細い線。
黒爪で隠された日付。
それぞれの爪に、点が一つ、二つ、三つ。
ただの日付ではない。
棚番号?
文書庫の書架番号?
「これ、日付だけではありません」
私は言った。
「点の数が違います。文書庫の棚を示している?」
蘭玉の瞳が揺れた。
当たりだ。
「右親指、十年前の日付、点が三つ。第三棚。人差し指、火事の日、点が一つ。第一棚」
小鈴が小声で言う。
「爪に文書庫の場所を刻んでるってこと?」
「たぶん」
怜月殿下が護衛に言った。
「文書庫を開けろ」
「なりません!」
蘭玉が叫んだ。
その声は初めて本気で乱れた。
「今開ければ、仕掛けが動きます!」
「仕掛け?」
「文書庫の奥、第三棚の下には油紙が仕込まれています。無理に開ければ火が回る」
明珠の部屋での爪紅帳。
十年前の火事。
また、記録を焼く仕掛け。
怜月殿下の顔が氷のようになる。
「誰が仕込んだ」
蘭玉は震えた。
「私ではありません。私は、見つけた。でも外せなかった」
「なぜ報告しなかった」
「報告先が、仕掛けた側だったら?」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
蘭玉は続ける。
「私は典籍女官です。文書を守るのが役目。でも、守るべき文書の中身を決めるのは私ではない。十年前、華姚妃様の記録は消された。私は消せと言われた。逆らえなかった」
「誰に」
怜月殿下が問う。
蘭玉の口が動く。
だが、声は出ない。
恐怖。
爪の黒より深い恐怖。
私は彼女の手を見る。
薬指の爪だけ、刻みが新しい。
今日、刻まれたものだ。
まだ血が乾ききっていない。
今日の日付。
点は四つ。
第四棚。
「殿下」
「何だ」
「先に第四棚を見てください。今日の記録です。たぶん、黒幕に関わるものがあります」
「罠ではないか」
「罠かもしれません。でも、蘭玉さんは今日、自分の爪にこれを刻んだ。かなり痛かったはずです。それでも刻んだのなら、見つけてほしい記録がある」
蘭玉は俯いた。
涙はない。
けれど、その手が震えていた。
「……第四棚の下から二段目」
彼女は掠れた声で言った。
「黒い紐で綴じた薄い帳です」
怜月殿下が護衛へ合図する。
ただし、今度は慎重だった。
扉を開ける前に、蘭玉に仕掛けの位置を確認させる。護衛たちは火種や油紙を避けながら文書庫へ入った。
長い時間に感じた。
実際には、ほんのわずかだったのかもしれない。
小鈴が私の袖を掴み、耳元で囁く。
「凛花、爪に記録するって痛いよね」
「痛いと思う」
「何でそこまでして」
「紙が信用できなかったから」
「後宮、紙も信用できないの?」
「たぶん」
「嫌な場所……」
何度目か分からない言葉だった。
でも、何度でも思う。
嫌な場所だ。
美しいのに、嫌な場所。
やがて護衛が戻ってきた。
手には、黒い紐で綴じた薄い帳。
怜月殿下がそれを受け取り、開いた。
私は横から覗いた。
そこには、妃の名も爪紅の色も書かれていなかった。
かわりに、人名と役職。
十年前、華姚妃の宮に出入りした者。
その中の一人に、赤い印がついていた。
大司礼官、郭静。
怜月殿下の顔が変わった。
南妃がいれば、きっと扇を閉じただろう。
清貴妃がいれば、夜桃花の爪を握っただろう。
私は凛花の記憶を探る。
大司礼官。
宮廷儀礼と後宮記録の最終確認を担う重職。
妃の格、宴の記録、皇子皇女の出生記録にも関わる。
つまり。
記録を決める者。
「この人が」
私が呟くと、蘭玉が目を閉じた。
「黒幕かどうかは分かりません」
「でも、十年前の記録を消せる」
「はい」
「華姚妃様の女児の存在も、消せる」
「はい」
怜月殿下は帳を握りしめた。
「郭静は今、皇帝の儀礼顧問だ。後宮の外にいる」
「外……」
私は息を呑んだ。
後宮内の陰謀では終わらない。
陶医官が言った通りだった。
後宮だけでは済まない。
「なぜ今、この帳を出したのですか」
私は蘭玉に聞いた。
彼女は私を見た。
「あなたが黒を飾ったから」
「え?」
「清貴妃様の爪が黒くなったと聞いた時、また十年前と同じことが起きると思った。でもあなたは、その黒を呪いにしなかった」
蘭玉の黒い爪が、月明かりを受ける。
「黒を別の意味に変えられるなら、私の爪に刻んだ黒も、誰かが読んでくれるかもしれないと思った」
胸が詰まった。
私が清貴妃にした夜桃花は、噂を変えるためのものだった。
でも、それは別の人の沈黙も動かしていた。
蘭玉は、十年間爪に記録を刻んでいた。
誰にも読まれない記録を。
でも、黒が罪ではなくなる瞬間を見て、差し出したのだ。
「蘭玉さん」
「何」
「爪、手入れさせてください」
小鈴が「今?」という顔をした。
でも、蘭玉は笑わなかった。
驚いた顔をしている。
「私の爪を?」
「はい。刻んだ記録は消しません。でも、割れないように整えます」
「私は罪人かもしれないのよ」
「それは殿下が決めます」
私は彼女の黒い爪を見た。
「でも、爪が割れて記録が読めなくなったら困ります」
蘭玉は、しばらく私を見ていた。
それから、小さく笑った。
「優しいのか、実利的なのか分からない子ね」
「両方でお願いします」
怜月殿下が低く言った。
「蘭玉は監視下に置く。だが、今は連れて戻る」
「処罰は」
蘭玉が聞く。
「まだだ」
「なぜ」
「お前の爪を読む必要がある」
その言葉に、蘭玉の表情がわずかに崩れた。
泣きそうに見えた。
泣かなかったけれど。
怜月殿下は、黒い紐の帳を閉じた。
「郭静を調べる」
「殿下」
私は言った。
「すぐには動かない方がいいです」
「理由は」
「大司礼官ほどの立場なら、こちらの動きも見ています。蘭玉さんが捕まったことを知られれば、証拠を消されるかもしれません」
「ではどうする」
「蘭玉さんは、文を受け取ったあと逃げたことにします」
小鈴が頭を抱えた。
「また逃げたことにする!」
「後宮、逃げたことにする人が増えていくね」
「凛花、冷静に言わないで」
怜月殿下は少し考え、頷いた。
「いいだろう。蘭玉は表向き逃亡。文書庫の帳は私が密かに預かる」
「あと、蘭玉さんの爪の記録を写したいです」
「写せるのか」
「はい。爪の形ごと」
前世のネイルカルテを思い出す。
手の写真を撮り、爪の状態を記録し、次回の施術に備える。
ここに写真はない。
でも、絵は描ける。
凛花の手先なら。
「爪紅師の記録として写します」
蘭玉が言う。
「紙は信用できないわ」
「なら、複数作ります。一つは殿下に。一つは清貴妃様に。一つは明珠様に。全部消すのは大変です」
小鈴がぽつりと言った。
「凛花、だいぶ後宮っぽくなってきた」
「褒めてる?」
「半分」
「もう半分は」
「心配」
私は少しだけ笑った。
それはたぶん、正しい。
私自身も心配だった。
自分がどんどん後宮のやり方を覚えていくことが。
けれど、覚えなければ守れない。
怜月殿下が言った。
「戻るぞ」
「はい」
私は左小指の夜桃花を見た。
黒を飾る爪紅師。
夜桃花の爪紅師。
まだ、その名に慣れたわけではない。
でも今夜、黒い手袋の記録係は、自分の爪を差し出した。
黒が罪ではなく、記録になると信じて。
文書庫の裏で、風が吹いた。
古い紙の匂いが揺れる。
十年前に消された記録が、少しずつ戻り始めている。
だが、その先にいるのは大司礼官。
後宮の外にいる、記録を決める者。
爪紅を剥がした先に、今度は宮廷そのものの壁が立っている。
私は道具箱を抱え直した。
爪は、嘘をつかない。
でも、記録は嘘をつく。
ならば今度は、嘘をついた記録の爪を探す番だ。




