第十一話 夜桃花の爪は、誰を誘う
白蓮宮へ戻った時、夜はさらに深くなっていた。
後宮の灯籠は、昼間の華やかさを忘れたように、細く淡い光だけを石畳へ落としている。回廊の朱塗りの柱も、夜の中では血の色に近い。
私は自分の左小指を何度も見そうになって、そのたびに意識して視線を逸らした。
桃花色の上に、細く黒い線。
その横に銀。
清貴妃の爪に描いた夜桃花と同じ意匠。
けれど私のそれには、明珠の青銀粉がほんのわずかに混ぜてある。触れた者に、見えない印を残すための爪紅。
自分の爪を罠にする。
前世の私が聞いたら、何を馬鹿なことを、と言っただろう。
ネイルは、人を少しだけ前に向かせるためのものだった。
なのに今、私は爪で敵を誘おうとしている。
「凛花」
隣で小鈴が囁いた。
「爪、見すぎ」
「見てない」
「見てる。怖い時の私と同じ顔してる」
「小鈴は怖い時、自分の爪を見るの?」
「私は爪じゃなくて出口を見る」
「今は?」
「出口が多すぎて逆に怖い」
確かに、夜の後宮はどこへでも逃げられそうで、どこにも逃げられない。
回廊は複雑に分かれ、庭木の影は濃く、簾の向こうに誰がいるか分からない。目に見える通路が、すべて安全とは限らなかった。
怜月殿下は先頭を歩いている。
陶医官はすでに別の護衛に連れて行かれた。朱夏は明珠の部屋へ戻され、厳重に見張られている。明珠も爪紅帳とともに保護されることになった。
それでも安心できない。
逃げた影がいる。
陶医官の会話を聞き、華姚妃の女児の存在を黒幕へ伝えようとしているかもしれない者。
そして、その者の袖か指先には、青銀粉がついている。
見つけるなら今夜だ。
遅れれば、洗い流される。
「殿下」
私は怜月殿下の背中へ声をかけた。
「何だ」
「逃げた人は、すぐ手を洗うでしょうか」
「洗うだろうな」
「では水場を押さえた方がいいです」
怜月殿下が振り返った。
「水場?」
「後宮内で、夜に人目を避けて手を洗える場所です。厨房、洗い場、庭の水盤、井戸。それから、妃殿の内庭にも水鉢があります」
「すでに厨房と薪置き場は押さえた」
「白蓮宮の内庭は?」
怜月殿下は目を細めた。
「なぜ白蓮宮だ」
「逃げた影は、古井戸の近くにいました。でも脅迫文は白蓮宮に届いた。内通者が白蓮宮の中にいるなら、逃げたあと白蓮宮へ戻るかもしれません」
「清貴妃の近くに戻ると?」
「はい。外へ逃げるより、中に紛れた方が安全です」
怜月殿下は短く頷き、護衛に指示を出した。
「白蓮宮の水場をすべて見張れ。今夜、手を洗った者、衣の袖を濡らした者を記録しろ。騒ぐな」
護衛が走る。
私はその背中を見送りながら、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
自分の言葉で、人が動く。
怖いことだった。
前世のサロンなら、私の一言で変わるのは爪の色くらいだった。
ここでは、人の運命が動く。
「凛花」
怜月殿下が言った。
「はい」
「お前は、その顔をやめろ」
「どの顔ですか」
「自分の言葉で誰かが傷つくのではないかと考えている顔だ」
私は言葉に詰まった。
小鈴が隣で小さく「あ、分かる」と呟く。
「考えます」
「考えるなとは言っていない」
「では」
「考えたうえで、止まるな」
怜月殿下の声は、夜の石畳のように冷えていた。
でも、その冷たさの下に、別のものがある気がした。
この人も、そうやって止まらないようにしてきたのだ。
十年。
母の爪紅帳を抱えたまま。
「殿下は」
私は思わず言った。
「ずっと、そうしてきたのですか」
小鈴がまた私の袖を引いた。
今それ聞く? という顔だった。
怜月殿下は足を止めなかった。
「そうするしかなかった」
「疲れませんか」
「疲れたと言えば、誰かが代わるのか」
「……代われません」
「なら聞くな」
突き放す言い方だった。
けれど、私は少しだけ分かってきた。
この人は、聞かれたくないわけではない。
期待したくないのだ。
誰かが代わってくれることも、誰かが分かってくれることも。
期待すると、失った時に痛いから。
「でも、手入れくらいはできます」
私が言うと、怜月殿下が横目でこちらを見た。
「何の話だ」
「爪の話です」
「今か」
「疲れた手でも、爪の手入れはできます」
「私の手を見たがるな」
「見たいです」
「正直すぎる」
「爪紅師ですので」
怜月殿下は、呆れたように息を吐いた。
小鈴が後ろで小さく笑う。
その笑い声があったから、夜の回廊が少しだけ現実に戻った。
*
白蓮宮では、清貴妃がまだ起きていた。
寝台の上で背を起こし、夜桃花に塗り替えた爪を灯りにかざしている。黒は消えていない。だが、銀線が入ったことで、そこにはもう呪いではなく意志が宿っていた。
南妃もいた。
帰ったはずなのに、当たり前のように清貴妃の部屋の椅子に座っている。
深い藍の衣。
銀線の入った爪。
相変わらず、近づくなという印を堂々と出している人だった。
「遅かったですね」
南妃が言った。
「後宮の夜道は、思ったより入り組んでいまして」
私が答えると、清貴妃が軽く眉を上げた。
「あなた、南妃様に普通に返すのね」
「普通ではありません。かなり緊張しています」
「見えないわ」
「見えないようにしています」
南妃は扇で口元を隠した。
「ますます欲しいわ、この爪紅師」
「差し上げません」
清貴妃が即答した。
「あなたのものでもないでしょう」
「今夜、私の爪を救った子です」
「なら、私の疑いも晴らした子です」
「私の方が倒れていた分、優先権があります」
「倒れたことを取引に使うのはどうかと思いますわ」
「使えるものは使います」
小鈴が私の耳元で囁いた。
「このお二人、元気だね」
「本当に」
怜月殿下が短く言った。
「陶英を捕らえた」
その一言で、二人の妃の表情が変わった。
清貴妃の目が細くなる。
南妃の扇が止まる。
「陶医官を?」
清貴妃が言う。
「ええ。十年前にも華姚妃様を診ていた方ですね」
私が言うと、清貴妃は静かに息を吐いた。
「やはり」
「心当たりが?」
「清貴妃様」
南妃が横から声を挟む。
「今さら美しく黙っても遅いわよ」
「南妃様に言われると腹が立ちます」
「腹を立てる元気があるなら話せます」
「本当に嫌な方」
「あなたほどでは」
二人の会話は刺々しい。
だが、どこかで互いを支えている。
清貴妃は夜桃花の爪を見つめ、やがて口を開いた。
「陶医官は、私の体調不良を最初に懐妊の兆しと言いました」
寝殿が静まる。
「正式な診断ではありません。ただ、そうかもしれないと」
「それを誰かが聞いていた?」
私が問うと、清貴妃は頷いた。
「医官は、葉泉に薬湯の支度を命じました」
「副女官長の葉泉さんですね」
「ええ。葉泉は昔から白蓮宮にいる女官です。慎重で、口が堅い」
南妃が冷たく言った。
「口が堅い女官ほど、誰に口を開くかで価値が決まるわ」
「南妃様」
「事実でしょう」
清貴妃は否定しなかった。
私は梨春へ視線を向けた。
「梨春さん。葉泉様は、香奈さんから文を受け取った方でしたよね」
「はい」
梨春は緊張した顔で答える。
「香奈が内庭で文を見つけ、葉泉様を呼びました。葉泉様が布で包み、殿下へ届けるようにと」
「葉泉様は、文に触れましたか」
「布越しだったと思います。ただ……」
「ただ?」
梨春は迷ったように清貴妃を見た。
清貴妃が静かに言う。
「話しなさい」
「葉泉様は、文を見たあと、手を洗っていました」
部屋の空気が張り詰めた。
怜月殿下が問う。
「どこで」
「白蓮宮の内庭の水鉢です。文に触れたから穢れを落とすと」
南妃が扇を閉じる。
「早いわね」
「はい」
私は頷いた。
「青銀粉がついていたなら、そこで落とした可能性があります」
「しかし、文を見つけた直後だ。古井戸で逃げた影とは時間が合うか?」
怜月殿下が問う。
「合わないかもしれません。葉泉様が古井戸にいたとは限りません。ただ、葉泉様は文を受け取った時にも手を洗っている。つまり、手に何かがつくことを恐れている」
清貴妃の顔色が悪くなる。
「葉泉は、長く私に仕えてきました」
「分かっています」
私は清貴妃の爪を見た。
夜桃花。
黒を飾りに変えた爪。
けれど、その指先は少し震えている。
「でも、近い人ほど利用されます」
清貴妃は目を伏せた。
「……そうね」
南妃が小さく言った。
「後宮では、信頼は鍵になります。守る鍵にも、刺す鍵にも」
その言葉には、妙な実感があった。
南妃にも、誰かに裏切られた過去があるのかもしれない。
「葉泉を呼ぶ」
怜月殿下が言った。
清貴妃は一瞬、唇を噛んだ。
だが止めなかった。
「呼んでください」
「いいのか」
「私が止めれば、葉泉はさらに疑われます」
「お前は強いな」
怜月殿下が言うと、清貴妃は苦笑した。
「強く見せる爪にしてもらいましたから」
私の方を見てそう言う。
少しだけ胸が温かくなった。
けれど、その温かさはすぐに冷えた。
葉泉が呼ばれたからだ。
副女官長・葉泉は、落ち着いた女性だった。
年は三十代半ばくらい。白蓮宮の女官らしく、淡い白梅色の爪紅を塗っている。衣も控えめで、髪飾りも少ない。
だが、部屋に入ってきた瞬間、私は違和感を覚えた。
手が綺麗すぎる。
この時間に水を使ったなら、指先にもっと湿り気があるはずだ。あるいは、布で拭いた跡が残るはずだ。
でも、葉泉の手は乾いていた。
乾きすぎている。
急いで何かの粉を落とし、香粉で誤魔化した手。
「葉泉」
清貴妃の声は静かだった。
「こちらへ」
「はい、貴妃様」
葉泉は膝をついた。
動きに乱れはない。
訓練された女官の所作だ。
怜月殿下が言う。
「文を見つけた時のことを話せ」
「内庭の石榴の木の下に落ちておりました。掃除係の香奈が見つけ、私を呼びました。私は布で包み、殿下へ届けるよう手配いたしました」
「その後、手を洗ったな」
「はい。得体の知れぬ文でございましたので」
「何を恐れた」
「呪いに関する文かもしれないと」
南妃が冷たく笑った。
「ずいぶん可愛らしい理由ね」
葉泉は表情を変えない。
「後宮では、用心に越したことはございません」
「用心深い人は、そもそも素手で触れないわ」
「布越しでございました」
会話が滑らかすぎる。
用意してきた答えのようだった。
私は葉泉の爪を見た。
白梅色。
薄い。
清楚。
だが、左手の小指だけ、爪紅の艶が違う。
塗り直したばかりだ。
しかも、その小指の縁に、ほんのわずかに銀の粉が残っている。
青銀粉。
古井戸の影に触れた人物。
あるいは、文を処理した人物。
どちらにせよ、何かに触れている。
「葉泉様」
私が声をかけると、葉泉の視線がこちらへ向いた。
「あなたが、凛花ですね」
名前を知っている。
当然か。
でも、その声には妙な平坦さがあった。
「はい」
「黒を飾る爪紅師」
小鈴が隣で息を呑む。
清貴妃の目が鋭くなる。
南妃が扇を閉じた。
怜月殿下の声が冷えた。
「その呼び名を、どこで聞いた」
葉泉は一瞬だけ沈黙した。
短い。
けれど、失敗だった。
「宮内で噂になっております」
「早い噂だな」
「後宮の噂は早いものです」
「それは今日、何度も聞いた」
怜月殿下が一歩近づく。
「白蓮宮に届いた文を見た者しか、その呼び名は知らない」
「殿下へお届けする前に、内容を確認いたしましたので」
「布越しに包んだだけではなかったのか」
葉泉の目が、ほんのわずかに揺れた。
清貴妃の指先が震える。
私は葉泉の小指を見続けた。
「葉泉様」
「何でしょう」
「左手の小指を見せていただけますか」
「なぜです」
「爪紅師ですので」
「私は今、爪を整える必要はありません」
「整えるのではなく、確認したいのです」
葉泉の声が少しだけ低くなる。
「下級爪紅師が、副女官長の手を検めるのですか」
私は答えに詰まった。
そこへ、清貴妃が言った。
「見せなさい」
葉泉が清貴妃を見る。
「貴妃様」
「私の爪を救った子です。その子が見たいと言うなら、見せなさい」
「……承知いたしました」
葉泉は左手を差し出した。
綺麗な手だった。
ただし、綺麗に整えすぎている。
私は近づき、小指の爪を見る。
白梅色の上に、透明な艶。
その縁に、本当にわずかな青銀粉。
洗ったのだろう。
でも、爪の裏までは落ちていない。
「青銀粉が残っています」
私が言うと、葉泉の顔が初めて強張った。
怜月殿下が問う。
「何の粉だ」
「今夜、古井戸で文を受け取った者につくよう仕掛けた粉です」
部屋の空気が凍った。
清貴妃の顔が白くなる。
「葉泉……」
「違います」
葉泉は即座に言った。
「私は古井戸になど参っておりません」
「では、どこでついたのですか」
「分かりません」
「文を洗った時では?」
私が言うと、葉泉は私を睨んだ。
「何を」
「古井戸にいた人から文を受け取った。あるいは、その人が持ち帰った文に触れた。だから粉がついた」
「証拠にはなりません」
「はい」
私は頷いた。
「でも、嘘の形にはなります」
葉泉の表情が、静かに崩れた。
怒り。
恐怖。
それから、諦め。
「貴妃様」
葉泉は清貴妃を見た。
「私は、あなた様を害するつもりはありませんでした」
清貴妃は目を閉じた。
「それは、聞き飽きたわ」
葉泉の肩が震える。
「本当です」
「本当なら、なぜ黙っていたの」
「言えなかったのです」
「皆そう言う」
清貴妃の声は静かだった。
「杏児も、梨春も、翠蘭も、朱夏も、あなたも。皆、言えなかったと言う。では誰が言えるの? 誰が、私の周りで起きていることを、私に言ってくれるの?」
葉泉は答えられなかった。
清貴妃の夜桃花の爪が、布の上でかすかに震えている。
怒っている。
傷ついている。
それでも、泣かない。
「葉泉」
南妃が低く言った。
「あなたは清貴妃様を守るために黙っていたの? それとも、清貴妃様に知られたくなくて黙っていたの?」
葉泉は唇を噛んだ。
その問いは鋭かった。
守るための沈黙。
隠すための沈黙。
同じ黙るでも、意味は違う。
「……文を受け取りました」
葉泉が言った。
「古井戸にいた者からではありません。白蓮宮の内庭に戻った時、すでに私の部屋に置かれていました」
「誰から」
怜月殿下が問う。
「分かりません。ただ、そこにはこうありました。清貴妃様の懐妊疑惑を公にされたくなければ、文を殿下へ届けろ、と」
「つまり、脅迫文を届けるよう命じられた」
「はい」
「なぜ言わなかった」
清貴妃が問う。
葉泉は膝をついたまま、額を床につけた。
「貴妃様のお腹に、もし御子がいらしたら……その噂が広まるだけで、あなた様は狙われます。だから、私が一人で処理すればと」
「一人で処理?」
清貴妃の声が冷えた。
「その結果、私の爪は呪いにされ、梨春も杏児も巻き込まれ、凛花まで狙われたのよ」
「申し訳ございません」
「謝罪は、便利ね」
清貴妃の声が、怜月殿下の言葉と重なった。
私は胸が痛くなった。
謝罪は便利だ。
そこで話が終わる。
でも、終わらせてはいけない。
「葉泉様」
私は聞いた。
「あなたの部屋に置かれていた文は?」
「燃やしました」
「灰は?」
葉泉が少しだけ顔を上げる。
「水鉢に」
「手を洗ったのは、その灰を流したからですか」
「……はい」
これで繋がった。
葉泉は古井戸の影ではない。
だが、逃げた影から届いた文に触れた。
だから青銀粉がついた。
つまり、影は白蓮宮内部に文を入れられる人物か、その協力者だ。
「文は、どんな紙でしたか」
「灰色の硬い紙。鉄のような墨の匂いがしました」
同じだ。
政務紙。
鉄胆墨。
怜月殿下が言う。
「白蓮宮に文を入れられる者を調べる」
「殿下」
私は首を横に振った。
「調べるべきですが、すぐ大きく動くのは危険です。葉泉様に文が届いたなら、また届くかもしれません」
葉泉が顔を上げる。
「私を囮にするのですか」
「はい」
葉泉の顔が強張った。
清貴妃がすぐに言う。
「駄目よ」
「貴妃様」
「葉泉は私に黙っていた。でも、これ以上私の女官を餌にするのは嫌」
その言葉に、葉泉の目が揺れた。
彼女は裏切った。
少なくとも、黙っていた。
それでも清貴妃は「私の女官」と言った。
葉泉の爪先が震える。
その白梅色の爪に、青銀粉がきらりと光った。
「清貴妃様」
私は静かに言った。
「餌ではなく、返事を書く役です」
「同じことではなくて?」
「違います。餌は置かれるだけです。でも返事を書く人は、選べます」
清貴妃は私を見た。
「あなた、言葉の塗り方も覚えてきたのね」
「後宮にいると、嫌でも」
南妃が薄く笑う。
「悪くないわ。葉泉、あなたが文を書くのよ。清貴妃様は脅しに屈したと見せかける。凛花を差し出す準備をしている、と」
小鈴がまた顔を青くする。
「やっぱり凛花を差し出す話に戻ってる!」
「ふりです」
南妃は涼しい顔で言った。
「ふりが本当になるのが後宮なんです!」
「この子、よく分かっているわね」
「褒められても嬉しくありません!」
清貴妃がほんの少し笑った。
その笑みは疲れていたけれど、完全には折れていなかった。
「葉泉」
清貴妃は言った。
「あなたに命じます」
「はい」
「今度は、一人で抱えないこと。文が来たら、私に見せなさい。私が弱いと思うなら、それはあなたの間違いです」
葉泉の目から涙が落ちた。
「貴妃様……」
「泣くのもあと。私、今日はそればかり言っているわね」
「すみません」
「謝罪もあと」
清貴妃は夜桃花の爪を見せるように、手を軽く上げた。
「私はまだ、折れていません」
葉泉は深く頭を下げた。
その背中を見ながら、私は思った。
清貴妃は、ただの被害者ではない。
彼女は自分の宮を取り戻そうとしている。
呪いでも、脅しでもなく、自分の言葉で。
怜月殿下が静かに言った。
「葉泉は白蓮宮内で監視下に置く。ただし表向きは通常通り動かせ」
「承知いたしました」
葉泉が答える。
その時、南妃が私の左小指を見た。
「凛花」
「はい」
「その爪、近くで見せて」
私は少し迷ったが、手を差し出した。
南妃は私の爪をじっと見つめる。
「清貴妃様の夜桃花と似ているけれど、銀の流れが少し違う」
「はい」
「何か仕込んでいるわね」
私は答えなかった。
南妃は楽しそうに笑う。
「答えなくていいわ。爪紅師の秘密でしょうから」
清貴妃が眉を上げる。
「南妃様。凛花に勝手に近づかないでください」
「あなた、少し独占欲が出てきたわよ」
「命を狙われている爪紅師です。管理が必要です」
「管理と言うと殿下と同じ発想になりますよ」
「それは嫌ね」
怜月殿下が無表情で言った。
「聞こえている」
「聞こえるように言いました」
南妃は立ち上がる。
「私も戻ります。こちらも宮内を調べます。もし青銀粉のついた者が南宮に紛れていたら、首根っこを掴んで差し出しますわ」
「生かしておけ」
怜月殿下が言う。
「努力します」
「南妃」
「分かっています。殺しません。少し泣かせるだけにします」
「それも控えろ」
「注文が多いわね」
南妃は去り際、私の横で足を止めた。
「凛花」
「はい」
「黒を飾る爪紅師という呼び名、悪くないわ」
「私は嫌です」
「嫌がるくらいが、よく似合う」
「褒めていますか」
「もちろん」
信用できない。
南妃は笑みを残して去っていった。
清貴妃は彼女の背中を見送り、ぽつりと言った。
「本当に嫌な方」
「でも、信じていらっしゃるのですね」
私が言うと、清貴妃は少しだけ目を逸らした。
「嫌いな相手の方が、嘘の形を覚えやすいのよ」
それは、後宮らしい信頼の形だった。
*
葉泉が下がったあと、怜月殿下は私を白蓮宮の別室へ呼んだ。
小鈴もついて来ようとしたが、入口で護衛に止められた。
「私も行きます!」
「待て」
怜月殿下が言う。
「なぜですか!」
「凛花に話がある」
「一人にしたら危ないです!」
「私がいる」
「殿下も危ないです!」
小鈴の言葉に、護衛がぎょっとした。
怜月殿下は少しだけ目を細める。
「私が危ないとは」
「凛花をどんどん事件に巻き込むからです!」
それは正論だった。
私は思わず頷きかけて、怜月殿下に見られたので止めた。
「小鈴」
私は言った。
「大丈夫。すぐ戻る」
「戻らなかったら叫ぶから」
「うん」
「本気で叫ぶからね」
「分かった」
小鈴は不満そうにしながらも、廊下に残った。
別室には、怜月殿下と私だけになった。
灯りは一つ。
机も椅子も簡素。
白蓮宮の中とは思えないほど静かだった。
「凛花」
「はい」
「左手を出せ」
私は一瞬迷い、それから夜桃花の小指を差し出した。
怜月殿下は、私の爪を見た。
触れはしない。
ただ見る。
その視線は、思ったより優しかった。
いや、優しいというより、慎重だった。
壊れやすいものを見る目。
「怖くないのか」
彼が聞いた。
「怖いです」
「ではなぜ塗った」
「必要だと思ったので」
「必要なら、自分を危険に晒すのか」
「殿下に言われると、説得力がありすぎます」
怜月殿下は黙った。
少しだけ気まずい沈黙だった。
私は自分の爪を見た。
「前の……いえ、夢の中で」
「夢?」
「はい。夢の中で、私はたくさんの人の爪を塗っていました」
もう隠しきれない気がしていた。
全部を話すつもりはない。
でも、何かを話さなければ、自分の中で前世の記憶と凛花の今が裂けてしまいそうだった。
「その人たちは、爪が綺麗になると少し元気になりました。会社へ行けそうだとか、彼に会えそうだとか、明日はちゃんと笑えそうだとか。爪一本で人生が変わるわけではないのに、少しだけ息がしやすくなるんです」
怜月殿下は黙って聞いている。
「だから、清貴妃様の黒爪を見た時、嫌でした。あれは、人を怖がらせるための爪でした。誰かを罪人にするための爪でした」
「だから変えた」
「はい」
「自分の爪も」
「はい」
私は笑おうとして、少し失敗した。
「私の爪が怖がらせるために使われるなら、先に自分で意味を決めておこうと思いました」
怜月殿下は、しばらく私の爪を見ていた。
「意味を決める、か」
「はい。黒は罪だと誰かが決めたなら、黒は夜に咲く花だと、こちらで決めてもいいはずです」
「強引だな」
「爪紅は、少し強引なくらいが綺麗な時もあります」
「それは爪紅師の理屈か」
「たぶん」
怜月殿下は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「母も、似たようなことを言った」
私は顔を上げた。
「華姚妃様が?」
「ああ。黒が嫌いなのではない、と。黒を罪だと決める者が嫌いなのだと」
胸の奥が、静かに震えた。
華姚妃。
十年前に黒爪にされた妃。
彼女は、ただ怯えて死んだ人ではない。
爪紅帳を残し、息子に託し、爪の意味を誰かへ渡そうとした人。
「殿下」
「何だ」
「華姚妃様の爪も、いつか塗り替えられると思います」
「死者の爪をか」
「記録の中で」
私は言った。
「黒爪の妃ではなく、爪紅帳を残した妃として」
怜月殿下は、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。
長い時間のあと、彼は静かに言った。
「凛花」
「はい」
「お前を後宮監察付き爪紅師とする」
私は固まった。
「……今、何と?」
「後宮監察付き爪紅師だ」
「そんな役職、ありますか」
「今作る」
「雑では?」
「必要だ」
「私は下級爪紅師です」
「だから都合がいい。妃の爪にも、女官の爪にも近づける」
「利用する気満々ですね」
「そうだ」
即答された。
清々しいほどだった。
私は深く息を吐いた。
「拒否権は」
「ない」
「ですよね」
「ただし」
怜月殿下は私を見た。
「お前が条件を出すことは許す」
「では、小鈴を巻き込みすぎないでください」
「もう巻き込まれている」
「そこを何とか」
「努力する」
「努力では不安です」
「では、守る」
短い言葉だった。
私は一瞬、返事に困った。
怜月殿下は目を逸らさなかった。
「小鈴も、梨春も、杏児も、明珠も、朱夏も。お前が条件に出した者は守る」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。私も必要だから守る」
「そこは嘘でも優しさと言ってください」
「嘘は嫌いだ」
「でしょうね」
私は少しだけ笑った。
怜月殿下も、ほんのわずかに口元を緩めた。
その時、廊下の外で小鈴の声がした。
「凛花! 大丈夫!? まだ生きてる!?」
私は思わず吹き出した。
怜月殿下が眉をひそめる。
「騒がしいな」
「頼れる騒がしさです」
「なるほど」
怜月殿下が扉を開けると、小鈴が勢い余って倒れ込みそうになった。
「わっ」
「何をしている」
「聞き耳……ではなく、警備です!」
「聞き耳だな」
「警備です!」
小鈴は必死だった。
私は彼女の手を取った。
「戻ろう」
「何か変なことされてない?」
「役職が増えた」
「何で!?」
小鈴の叫びが、夜の白蓮宮に響いた。
それを聞いて、清貴妃の寝所の方から、かすかに笑い声がした気がした。
こんな夜なのに。
呪いも、脅迫文も、十年前の死も、まだ何も終わっていないのに。
誰かが少し笑えた。
そのことが、不思議と大切に思えた。
私は左小指の夜桃花を見る。
黒は、まだある。
消えない。
でも、意味は変えられる。
後宮の夜は深い。
けれど、爪先ほどの小さな花でも、闇に印をつけることはできる。




