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後宮の爪紅師は、妃たちの嘘を剥がす 〜異世界転生ネイリスト、呪いの指先から宮廷陰謀を暴きます〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第十一話 夜桃花の爪は、誰を誘う

 白蓮宮へ戻った時、夜はさらに深くなっていた。


 後宮の灯籠は、昼間の華やかさを忘れたように、細く淡い光だけを石畳へ落としている。回廊の朱塗りの柱も、夜の中では血の色に近い。


 私は自分の左小指を何度も見そうになって、そのたびに意識して視線を逸らした。


 桃花色の上に、細く黒い線。


 その横に銀。


 清貴妃の爪に描いた夜桃花と同じ意匠。


 けれど私のそれには、明珠の青銀粉がほんのわずかに混ぜてある。触れた者に、見えない印を残すための爪紅。


 自分の爪を罠にする。


 前世の私が聞いたら、何を馬鹿なことを、と言っただろう。


 ネイルは、人を少しだけ前に向かせるためのものだった。


 なのに今、私は爪で敵を誘おうとしている。


「凛花」


 隣で小鈴が囁いた。


「爪、見すぎ」


「見てない」


「見てる。怖い時の私と同じ顔してる」


「小鈴は怖い時、自分の爪を見るの?」


「私は爪じゃなくて出口を見る」


「今は?」


「出口が多すぎて逆に怖い」


 確かに、夜の後宮はどこへでも逃げられそうで、どこにも逃げられない。


 回廊は複雑に分かれ、庭木の影は濃く、簾の向こうに誰がいるか分からない。目に見える通路が、すべて安全とは限らなかった。


 怜月殿下は先頭を歩いている。


 陶医官はすでに別の護衛に連れて行かれた。朱夏は明珠の部屋へ戻され、厳重に見張られている。明珠も爪紅帳とともに保護されることになった。


 それでも安心できない。


 逃げた影がいる。


 陶医官の会話を聞き、華姚妃の女児の存在を黒幕へ伝えようとしているかもしれない者。


 そして、その者の袖か指先には、青銀粉がついている。


 見つけるなら今夜だ。


 遅れれば、洗い流される。


「殿下」


 私は怜月殿下の背中へ声をかけた。


「何だ」


「逃げた人は、すぐ手を洗うでしょうか」


「洗うだろうな」


「では水場を押さえた方がいいです」


 怜月殿下が振り返った。


「水場?」


「後宮内で、夜に人目を避けて手を洗える場所です。厨房、洗い場、庭の水盤、井戸。それから、妃殿の内庭にも水鉢があります」


「すでに厨房と薪置き場は押さえた」


「白蓮宮の内庭は?」


 怜月殿下は目を細めた。


「なぜ白蓮宮だ」


「逃げた影は、古井戸の近くにいました。でも脅迫文は白蓮宮に届いた。内通者が白蓮宮の中にいるなら、逃げたあと白蓮宮へ戻るかもしれません」


「清貴妃の近くに戻ると?」


「はい。外へ逃げるより、中に紛れた方が安全です」


 怜月殿下は短く頷き、護衛に指示を出した。


「白蓮宮の水場をすべて見張れ。今夜、手を洗った者、衣の袖を濡らした者を記録しろ。騒ぐな」


 護衛が走る。


 私はその背中を見送りながら、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。


 自分の言葉で、人が動く。


 怖いことだった。


 前世のサロンなら、私の一言で変わるのは爪の色くらいだった。


 ここでは、人の運命が動く。


「凛花」


 怜月殿下が言った。


「はい」


「お前は、その顔をやめろ」


「どの顔ですか」


「自分の言葉で誰かが傷つくのではないかと考えている顔だ」


 私は言葉に詰まった。


 小鈴が隣で小さく「あ、分かる」と呟く。


「考えます」


「考えるなとは言っていない」


「では」


「考えたうえで、止まるな」


 怜月殿下の声は、夜の石畳のように冷えていた。


 でも、その冷たさの下に、別のものがある気がした。


 この人も、そうやって止まらないようにしてきたのだ。


 十年。


 母の爪紅帳を抱えたまま。


「殿下は」


 私は思わず言った。


「ずっと、そうしてきたのですか」


 小鈴がまた私の袖を引いた。


 今それ聞く? という顔だった。


 怜月殿下は足を止めなかった。


「そうするしかなかった」


「疲れませんか」


「疲れたと言えば、誰かが代わるのか」


「……代われません」


「なら聞くな」


 突き放す言い方だった。


 けれど、私は少しだけ分かってきた。


 この人は、聞かれたくないわけではない。


 期待したくないのだ。


 誰かが代わってくれることも、誰かが分かってくれることも。


 期待すると、失った時に痛いから。


「でも、手入れくらいはできます」


 私が言うと、怜月殿下が横目でこちらを見た。


「何の話だ」


「爪の話です」


「今か」


「疲れた手でも、爪の手入れはできます」


「私の手を見たがるな」


「見たいです」


「正直すぎる」


「爪紅師ですので」


 怜月殿下は、呆れたように息を吐いた。


 小鈴が後ろで小さく笑う。


 その笑い声があったから、夜の回廊が少しだけ現実に戻った。


     *


 白蓮宮では、清貴妃がまだ起きていた。


 寝台の上で背を起こし、夜桃花に塗り替えた爪を灯りにかざしている。黒は消えていない。だが、銀線が入ったことで、そこにはもう呪いではなく意志が宿っていた。


 南妃もいた。


 帰ったはずなのに、当たり前のように清貴妃の部屋の椅子に座っている。


 深い藍の衣。


 銀線の入った爪。


 相変わらず、近づくなという印を堂々と出している人だった。


「遅かったですね」


 南妃が言った。


「後宮の夜道は、思ったより入り組んでいまして」


 私が答えると、清貴妃が軽く眉を上げた。


「あなた、南妃様に普通に返すのね」


「普通ではありません。かなり緊張しています」


「見えないわ」


「見えないようにしています」


 南妃は扇で口元を隠した。


「ますます欲しいわ、この爪紅師」


「差し上げません」


 清貴妃が即答した。


「あなたのものでもないでしょう」


「今夜、私の爪を救った子です」


「なら、私の疑いも晴らした子です」


「私の方が倒れていた分、優先権があります」


「倒れたことを取引に使うのはどうかと思いますわ」


「使えるものは使います」


 小鈴が私の耳元で囁いた。


「このお二人、元気だね」


「本当に」


 怜月殿下が短く言った。


「陶英を捕らえた」


 その一言で、二人の妃の表情が変わった。


 清貴妃の目が細くなる。


 南妃の扇が止まる。


「陶医官を?」


 清貴妃が言う。


「ええ。十年前にも華姚妃様を診ていた方ですね」


 私が言うと、清貴妃は静かに息を吐いた。


「やはり」


「心当たりが?」


「清貴妃様」


 南妃が横から声を挟む。


「今さら美しく黙っても遅いわよ」


「南妃様に言われると腹が立ちます」


「腹を立てる元気があるなら話せます」


「本当に嫌な方」


「あなたほどでは」


 二人の会話は刺々しい。


 だが、どこかで互いを支えている。


 清貴妃は夜桃花の爪を見つめ、やがて口を開いた。


「陶医官は、私の体調不良を最初に懐妊の兆しと言いました」


 寝殿が静まる。


「正式な診断ではありません。ただ、そうかもしれないと」


「それを誰かが聞いていた?」


 私が問うと、清貴妃は頷いた。


「医官は、葉泉に薬湯の支度を命じました」


「副女官長の葉泉さんですね」


「ええ。葉泉は昔から白蓮宮にいる女官です。慎重で、口が堅い」


 南妃が冷たく言った。


「口が堅い女官ほど、誰に口を開くかで価値が決まるわ」


「南妃様」


「事実でしょう」


 清貴妃は否定しなかった。


 私は梨春へ視線を向けた。


「梨春さん。葉泉様は、香奈さんから文を受け取った方でしたよね」


「はい」


 梨春は緊張した顔で答える。


「香奈が内庭で文を見つけ、葉泉様を呼びました。葉泉様が布で包み、殿下へ届けるようにと」


「葉泉様は、文に触れましたか」


「布越しだったと思います。ただ……」


「ただ?」


 梨春は迷ったように清貴妃を見た。


 清貴妃が静かに言う。


「話しなさい」


「葉泉様は、文を見たあと、手を洗っていました」


 部屋の空気が張り詰めた。


 怜月殿下が問う。


「どこで」


「白蓮宮の内庭の水鉢です。文に触れたから穢れを落とすと」


 南妃が扇を閉じる。


「早いわね」


「はい」


 私は頷いた。


「青銀粉がついていたなら、そこで落とした可能性があります」


「しかし、文を見つけた直後だ。古井戸で逃げた影とは時間が合うか?」


 怜月殿下が問う。


「合わないかもしれません。葉泉様が古井戸にいたとは限りません。ただ、葉泉様は文を受け取った時にも手を洗っている。つまり、手に何かがつくことを恐れている」


 清貴妃の顔色が悪くなる。


「葉泉は、長く私に仕えてきました」


「分かっています」


 私は清貴妃の爪を見た。


 夜桃花。


 黒を飾りに変えた爪。


 けれど、その指先は少し震えている。


「でも、近い人ほど利用されます」


 清貴妃は目を伏せた。


「……そうね」


 南妃が小さく言った。


「後宮では、信頼は鍵になります。守る鍵にも、刺す鍵にも」


 その言葉には、妙な実感があった。


 南妃にも、誰かに裏切られた過去があるのかもしれない。


「葉泉を呼ぶ」


 怜月殿下が言った。


 清貴妃は一瞬、唇を噛んだ。


 だが止めなかった。


「呼んでください」


「いいのか」


「私が止めれば、葉泉はさらに疑われます」


「お前は強いな」


 怜月殿下が言うと、清貴妃は苦笑した。


「強く見せる爪にしてもらいましたから」


 私の方を見てそう言う。


 少しだけ胸が温かくなった。


 けれど、その温かさはすぐに冷えた。


 葉泉が呼ばれたからだ。


 副女官長・葉泉は、落ち着いた女性だった。


 年は三十代半ばくらい。白蓮宮の女官らしく、淡い白梅色の爪紅を塗っている。衣も控えめで、髪飾りも少ない。


 だが、部屋に入ってきた瞬間、私は違和感を覚えた。


 手が綺麗すぎる。


 この時間に水を使ったなら、指先にもっと湿り気があるはずだ。あるいは、布で拭いた跡が残るはずだ。


 でも、葉泉の手は乾いていた。


 乾きすぎている。


 急いで何かの粉を落とし、香粉で誤魔化した手。


「葉泉」


 清貴妃の声は静かだった。


「こちらへ」


「はい、貴妃様」


 葉泉は膝をついた。


 動きに乱れはない。


 訓練された女官の所作だ。


 怜月殿下が言う。


「文を見つけた時のことを話せ」


「内庭の石榴の木の下に落ちておりました。掃除係の香奈が見つけ、私を呼びました。私は布で包み、殿下へ届けるよう手配いたしました」


「その後、手を洗ったな」


「はい。得体の知れぬ文でございましたので」


「何を恐れた」


「呪いに関する文かもしれないと」


 南妃が冷たく笑った。


「ずいぶん可愛らしい理由ね」


 葉泉は表情を変えない。


「後宮では、用心に越したことはございません」


「用心深い人は、そもそも素手で触れないわ」


「布越しでございました」


 会話が滑らかすぎる。


 用意してきた答えのようだった。


 私は葉泉の爪を見た。


 白梅色。


 薄い。


 清楚。


 だが、左手の小指だけ、爪紅の艶が違う。


 塗り直したばかりだ。


 しかも、その小指の縁に、ほんのわずかに銀の粉が残っている。


 青銀粉。


 古井戸の影に触れた人物。


 あるいは、文を処理した人物。


 どちらにせよ、何かに触れている。


「葉泉様」


 私が声をかけると、葉泉の視線がこちらへ向いた。


「あなたが、凛花ですね」


 名前を知っている。


 当然か。


 でも、その声には妙な平坦さがあった。


「はい」


「黒を飾る爪紅師」


 小鈴が隣で息を呑む。


 清貴妃の目が鋭くなる。


 南妃が扇を閉じた。


 怜月殿下の声が冷えた。


「その呼び名を、どこで聞いた」


 葉泉は一瞬だけ沈黙した。


 短い。


 けれど、失敗だった。


「宮内で噂になっております」


「早い噂だな」


「後宮の噂は早いものです」


「それは今日、何度も聞いた」


 怜月殿下が一歩近づく。


「白蓮宮に届いた文を見た者しか、その呼び名は知らない」


「殿下へお届けする前に、内容を確認いたしましたので」


「布越しに包んだだけではなかったのか」


 葉泉の目が、ほんのわずかに揺れた。


 清貴妃の指先が震える。


 私は葉泉の小指を見続けた。


「葉泉様」


「何でしょう」


「左手の小指を見せていただけますか」


「なぜです」


「爪紅師ですので」


「私は今、爪を整える必要はありません」


「整えるのではなく、確認したいのです」


 葉泉の声が少しだけ低くなる。


「下級爪紅師が、副女官長の手を検めるのですか」


 私は答えに詰まった。


 そこへ、清貴妃が言った。


「見せなさい」


 葉泉が清貴妃を見る。


「貴妃様」


「私の爪を救った子です。その子が見たいと言うなら、見せなさい」


「……承知いたしました」


 葉泉は左手を差し出した。


 綺麗な手だった。


 ただし、綺麗に整えすぎている。


 私は近づき、小指の爪を見る。


 白梅色の上に、透明な艶。


 その縁に、本当にわずかな青銀粉。


 洗ったのだろう。


 でも、爪の裏までは落ちていない。


「青銀粉が残っています」


 私が言うと、葉泉の顔が初めて強張った。


 怜月殿下が問う。


「何の粉だ」


「今夜、古井戸で文を受け取った者につくよう仕掛けた粉です」


 部屋の空気が凍った。


 清貴妃の顔が白くなる。


「葉泉……」


「違います」


 葉泉は即座に言った。


「私は古井戸になど参っておりません」


「では、どこでついたのですか」


「分かりません」


「文を洗った時では?」


 私が言うと、葉泉は私を睨んだ。


「何を」


「古井戸にいた人から文を受け取った。あるいは、その人が持ち帰った文に触れた。だから粉がついた」


「証拠にはなりません」


「はい」


 私は頷いた。


「でも、嘘の形にはなります」


 葉泉の表情が、静かに崩れた。


 怒り。


 恐怖。


 それから、諦め。


「貴妃様」


 葉泉は清貴妃を見た。


「私は、あなた様を害するつもりはありませんでした」


 清貴妃は目を閉じた。


「それは、聞き飽きたわ」


 葉泉の肩が震える。


「本当です」


「本当なら、なぜ黙っていたの」


「言えなかったのです」


「皆そう言う」


 清貴妃の声は静かだった。


「杏児も、梨春も、翠蘭も、朱夏も、あなたも。皆、言えなかったと言う。では誰が言えるの? 誰が、私の周りで起きていることを、私に言ってくれるの?」


 葉泉は答えられなかった。


 清貴妃の夜桃花の爪が、布の上でかすかに震えている。


 怒っている。


 傷ついている。


 それでも、泣かない。


「葉泉」


 南妃が低く言った。


「あなたは清貴妃様を守るために黙っていたの? それとも、清貴妃様に知られたくなくて黙っていたの?」


 葉泉は唇を噛んだ。


 その問いは鋭かった。


 守るための沈黙。


 隠すための沈黙。


 同じ黙るでも、意味は違う。


「……文を受け取りました」


 葉泉が言った。


「古井戸にいた者からではありません。白蓮宮の内庭に戻った時、すでに私の部屋に置かれていました」


「誰から」


 怜月殿下が問う。


「分かりません。ただ、そこにはこうありました。清貴妃様の懐妊疑惑を公にされたくなければ、文を殿下へ届けろ、と」


「つまり、脅迫文を届けるよう命じられた」


「はい」


「なぜ言わなかった」


 清貴妃が問う。


 葉泉は膝をついたまま、額を床につけた。


「貴妃様のお腹に、もし御子がいらしたら……その噂が広まるだけで、あなた様は狙われます。だから、私が一人で処理すればと」


「一人で処理?」


 清貴妃の声が冷えた。


「その結果、私の爪は呪いにされ、梨春も杏児も巻き込まれ、凛花まで狙われたのよ」


「申し訳ございません」


「謝罪は、便利ね」


 清貴妃の声が、怜月殿下の言葉と重なった。


 私は胸が痛くなった。


 謝罪は便利だ。


 そこで話が終わる。


 でも、終わらせてはいけない。


「葉泉様」


 私は聞いた。


「あなたの部屋に置かれていた文は?」


「燃やしました」


「灰は?」


 葉泉が少しだけ顔を上げる。


「水鉢に」


「手を洗ったのは、その灰を流したからですか」


「……はい」


 これで繋がった。


 葉泉は古井戸の影ではない。


 だが、逃げた影から届いた文に触れた。


 だから青銀粉がついた。


 つまり、影は白蓮宮内部に文を入れられる人物か、その協力者だ。


「文は、どんな紙でしたか」


「灰色の硬い紙。鉄のような墨の匂いがしました」


 同じだ。


 政務紙。


 鉄胆墨。


 怜月殿下が言う。


「白蓮宮に文を入れられる者を調べる」


「殿下」


 私は首を横に振った。


「調べるべきですが、すぐ大きく動くのは危険です。葉泉様に文が届いたなら、また届くかもしれません」


 葉泉が顔を上げる。


「私を囮にするのですか」


「はい」


 葉泉の顔が強張った。


 清貴妃がすぐに言う。


「駄目よ」


「貴妃様」


「葉泉は私に黙っていた。でも、これ以上私の女官を餌にするのは嫌」


 その言葉に、葉泉の目が揺れた。


 彼女は裏切った。


 少なくとも、黙っていた。


 それでも清貴妃は「私の女官」と言った。


 葉泉の爪先が震える。


 その白梅色の爪に、青銀粉がきらりと光った。


「清貴妃様」


 私は静かに言った。


「餌ではなく、返事を書く役です」


「同じことではなくて?」


「違います。餌は置かれるだけです。でも返事を書く人は、選べます」


 清貴妃は私を見た。


「あなた、言葉の塗り方も覚えてきたのね」


「後宮にいると、嫌でも」


 南妃が薄く笑う。


「悪くないわ。葉泉、あなたが文を書くのよ。清貴妃様は脅しに屈したと見せかける。凛花を差し出す準備をしている、と」


 小鈴がまた顔を青くする。


「やっぱり凛花を差し出す話に戻ってる!」


「ふりです」


 南妃は涼しい顔で言った。


「ふりが本当になるのが後宮なんです!」


「この子、よく分かっているわね」


「褒められても嬉しくありません!」


 清貴妃がほんの少し笑った。


 その笑みは疲れていたけれど、完全には折れていなかった。


「葉泉」


 清貴妃は言った。


「あなたに命じます」


「はい」


「今度は、一人で抱えないこと。文が来たら、私に見せなさい。私が弱いと思うなら、それはあなたの間違いです」


 葉泉の目から涙が落ちた。


「貴妃様……」


「泣くのもあと。私、今日はそればかり言っているわね」


「すみません」


「謝罪もあと」


 清貴妃は夜桃花の爪を見せるように、手を軽く上げた。


「私はまだ、折れていません」


 葉泉は深く頭を下げた。


 その背中を見ながら、私は思った。


 清貴妃は、ただの被害者ではない。


 彼女は自分の宮を取り戻そうとしている。


 呪いでも、脅しでもなく、自分の言葉で。


 怜月殿下が静かに言った。


「葉泉は白蓮宮内で監視下に置く。ただし表向きは通常通り動かせ」


「承知いたしました」


 葉泉が答える。


 その時、南妃が私の左小指を見た。


「凛花」


「はい」


「その爪、近くで見せて」


 私は少し迷ったが、手を差し出した。


 南妃は私の爪をじっと見つめる。


「清貴妃様の夜桃花と似ているけれど、銀の流れが少し違う」


「はい」


「何か仕込んでいるわね」


 私は答えなかった。


 南妃は楽しそうに笑う。


「答えなくていいわ。爪紅師の秘密でしょうから」


 清貴妃が眉を上げる。


「南妃様。凛花に勝手に近づかないでください」


「あなた、少し独占欲が出てきたわよ」


「命を狙われている爪紅師です。管理が必要です」


「管理と言うと殿下と同じ発想になりますよ」


「それは嫌ね」


 怜月殿下が無表情で言った。


「聞こえている」


「聞こえるように言いました」


 南妃は立ち上がる。


「私も戻ります。こちらも宮内を調べます。もし青銀粉のついた者が南宮に紛れていたら、首根っこを掴んで差し出しますわ」


「生かしておけ」


 怜月殿下が言う。


「努力します」


「南妃」


「分かっています。殺しません。少し泣かせるだけにします」


「それも控えろ」


「注文が多いわね」


 南妃は去り際、私の横で足を止めた。


「凛花」


「はい」


「黒を飾る爪紅師という呼び名、悪くないわ」


「私は嫌です」


「嫌がるくらいが、よく似合う」


「褒めていますか」


「もちろん」


 信用できない。


 南妃は笑みを残して去っていった。


 清貴妃は彼女の背中を見送り、ぽつりと言った。


「本当に嫌な方」


「でも、信じていらっしゃるのですね」


 私が言うと、清貴妃は少しだけ目を逸らした。


「嫌いな相手の方が、嘘の形を覚えやすいのよ」


 それは、後宮らしい信頼の形だった。


     *


 葉泉が下がったあと、怜月殿下は私を白蓮宮の別室へ呼んだ。


 小鈴もついて来ようとしたが、入口で護衛に止められた。


「私も行きます!」


「待て」


 怜月殿下が言う。


「なぜですか!」


「凛花に話がある」


「一人にしたら危ないです!」


「私がいる」


「殿下も危ないです!」


 小鈴の言葉に、護衛がぎょっとした。


 怜月殿下は少しだけ目を細める。


「私が危ないとは」


「凛花をどんどん事件に巻き込むからです!」


 それは正論だった。


 私は思わず頷きかけて、怜月殿下に見られたので止めた。


「小鈴」


 私は言った。


「大丈夫。すぐ戻る」


「戻らなかったら叫ぶから」


「うん」


「本気で叫ぶからね」


「分かった」


 小鈴は不満そうにしながらも、廊下に残った。


 別室には、怜月殿下と私だけになった。


 灯りは一つ。


 机も椅子も簡素。


 白蓮宮の中とは思えないほど静かだった。


「凛花」


「はい」


「左手を出せ」


 私は一瞬迷い、それから夜桃花の小指を差し出した。


 怜月殿下は、私の爪を見た。


 触れはしない。


 ただ見る。


 その視線は、思ったより優しかった。


 いや、優しいというより、慎重だった。


 壊れやすいものを見る目。


「怖くないのか」


 彼が聞いた。


「怖いです」


「ではなぜ塗った」


「必要だと思ったので」


「必要なら、自分を危険に晒すのか」


「殿下に言われると、説得力がありすぎます」


 怜月殿下は黙った。


 少しだけ気まずい沈黙だった。


 私は自分の爪を見た。


「前の……いえ、夢の中で」


「夢?」


「はい。夢の中で、私はたくさんの人の爪を塗っていました」


 もう隠しきれない気がしていた。


 全部を話すつもりはない。


 でも、何かを話さなければ、自分の中で前世の記憶と凛花の今が裂けてしまいそうだった。


「その人たちは、爪が綺麗になると少し元気になりました。会社へ行けそうだとか、彼に会えそうだとか、明日はちゃんと笑えそうだとか。爪一本で人生が変わるわけではないのに、少しだけ息がしやすくなるんです」


 怜月殿下は黙って聞いている。


「だから、清貴妃様の黒爪を見た時、嫌でした。あれは、人を怖がらせるための爪でした。誰かを罪人にするための爪でした」


「だから変えた」


「はい」


「自分の爪も」


「はい」


 私は笑おうとして、少し失敗した。


「私の爪が怖がらせるために使われるなら、先に自分で意味を決めておこうと思いました」


 怜月殿下は、しばらく私の爪を見ていた。


「意味を決める、か」


「はい。黒は罪だと誰かが決めたなら、黒は夜に咲く花だと、こちらで決めてもいいはずです」


「強引だな」


「爪紅は、少し強引なくらいが綺麗な時もあります」


「それは爪紅師の理屈か」


「たぶん」


 怜月殿下は、ほんの少しだけ息を吐いた。


「母も、似たようなことを言った」


 私は顔を上げた。


「華姚妃様が?」


「ああ。黒が嫌いなのではない、と。黒を罪だと決める者が嫌いなのだと」


 胸の奥が、静かに震えた。


 華姚妃。


 十年前に黒爪にされた妃。


 彼女は、ただ怯えて死んだ人ではない。


 爪紅帳を残し、息子に託し、爪の意味を誰かへ渡そうとした人。


「殿下」


「何だ」


「華姚妃様の爪も、いつか塗り替えられると思います」


「死者の爪をか」


「記録の中で」


 私は言った。


「黒爪の妃ではなく、爪紅帳を残した妃として」


 怜月殿下は、何も言わなかった。


 けれど、その沈黙は冷たくなかった。


 長い時間のあと、彼は静かに言った。


「凛花」


「はい」


「お前を後宮監察付き爪紅師とする」


 私は固まった。


「……今、何と?」


「後宮監察付き爪紅師だ」


「そんな役職、ありますか」


「今作る」


「雑では?」


「必要だ」


「私は下級爪紅師です」


「だから都合がいい。妃の爪にも、女官の爪にも近づける」


「利用する気満々ですね」


「そうだ」


 即答された。


 清々しいほどだった。


 私は深く息を吐いた。


「拒否権は」


「ない」


「ですよね」


「ただし」


 怜月殿下は私を見た。


「お前が条件を出すことは許す」


「では、小鈴を巻き込みすぎないでください」


「もう巻き込まれている」


「そこを何とか」


「努力する」


「努力では不安です」


「では、守る」


 短い言葉だった。


 私は一瞬、返事に困った。


 怜月殿下は目を逸らさなかった。


「小鈴も、梨春も、杏児も、明珠も、朱夏も。お前が条件に出した者は守る」


「……ありがとうございます」


「礼は要らない。私も必要だから守る」


「そこは嘘でも優しさと言ってください」


「嘘は嫌いだ」


「でしょうね」


 私は少しだけ笑った。


 怜月殿下も、ほんのわずかに口元を緩めた。


 その時、廊下の外で小鈴の声がした。


「凛花! 大丈夫!? まだ生きてる!?」


 私は思わず吹き出した。


 怜月殿下が眉をひそめる。


「騒がしいな」


「頼れる騒がしさです」


「なるほど」


 怜月殿下が扉を開けると、小鈴が勢い余って倒れ込みそうになった。


「わっ」


「何をしている」


「聞き耳……ではなく、警備です!」


「聞き耳だな」


「警備です!」


 小鈴は必死だった。


 私は彼女の手を取った。


「戻ろう」


「何か変なことされてない?」


「役職が増えた」


「何で!?」


 小鈴の叫びが、夜の白蓮宮に響いた。


 それを聞いて、清貴妃の寝所の方から、かすかに笑い声がした気がした。


 こんな夜なのに。


 呪いも、脅迫文も、十年前の死も、まだ何も終わっていないのに。


 誰かが少し笑えた。


 そのことが、不思議と大切に思えた。


 私は左小指の夜桃花を見る。


 黒は、まだある。


 消えない。


 でも、意味は変えられる。


 後宮の夜は深い。


 けれど、爪先ほどの小さな花でも、闇に印をつけることはできる。

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