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後宮の爪紅師は、妃たちの嘘を剥がす 〜異世界転生ネイリスト、呪いの指先から宮廷陰謀を暴きます〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第十話 黒を飾る爪紅師

「“黒を飾る爪紅師を差し出せ。さもなくば、次は皇子ではなく皇弟の爪を黒くする”」


 その文は、短かった。


 短いのに、部屋の中の温度を一気に下げるには十分だった。


 怜月殿下の執務室に戻された文は、薄い灰色の紙に書かれていた。飾り気はない。香も焚きしめられていない。女官たちが使う柔らかな文紙ではなく、政務で使われる硬い紙に近い。


 墨は黒ではなく、少しだけ青みを帯びている。


 鉄の匂い。


 前に朱夏が言っていた、あの匂いだ。


 私は卓の上に置かれた文を見下ろしながら、手を握ったり開いたりしていた。


 怖い。


 自分の名前は書かれていない。


 けれど、誰を指しているかは明らかだった。


 黒を飾る爪紅師。


 清貴妃の黒爪を、夜桃花の意匠へ変えた私。


 敵は見ていた。


 あるいは、すでに報告を受けていた。


「凛花」


 小鈴が隣で、いつになく真面目な声を出した。


「ねえ、本当に殿下のそばを離れないでね」


「離れたくても離れられないと思う」


「冗談じゃなくて」


「うん。分かってる」


 小鈴の顔は青い。


 でも、私の前に半歩出るように立っていた。


 守れるわけがないのに。


 それでも、そうしてくれるのが小鈴だった。


 梨春と杏児も、部屋の隅で身を寄せ合っている。朱夏は黒く塗り替えた爪を袖の中に隠し、明珠は卓の向こうで文を睨んでいた。


 怜月殿下だけが、動かない。


 感情を全部、氷の下に閉じ込めたような顔をしている。


「殿下」


 私は文から目を離さずに言った。


「これは、本当に清貴妃様のもとへ届いたのですか」


「白蓮宮の内庭に落ちていた」


「誰が見つけました?」


「梨春の同僚の女官だ」


 梨春が顔を上げた。


「香奈です。今は白蓮宮に残っています。あの子は、清貴妃様の寝所には入れません。内庭の掃除係です」


「その香奈さんは、文に触りましたか」


「触っていません。落ちているのを見つけて、すぐ上の女官を呼んだと聞きました」


「上の女官は?」


 怜月殿下が控えていた宦官へ視線を送る。


 宦官は頭を下げて答えた。


「白蓮宮の副女官長、葉泉でございます。葉泉が布で包み、こちらへ届けました」


 副女官長。


 清貴妃付きの女官長は、香油事件で拘束されている。今の白蓮宮では、その下の葉泉が動いているらしい。


 私は文を見た。


「文が内庭に落ちていた、というのが不自然です」


「なぜ」


 怜月殿下が問う。


「白蓮宮へ脅迫文を届けたいなら、もっと目立つ場所に置くはずです。清貴妃様の寝台近くとか、化粧箱の中とか、香炉の下とか」


「見つかりやすい場所だな」


「はい。でも内庭の掃除係が見つける場所に落としたなら、偶然を装いたかったのかもしれません」


 明珠が頷いた。


「あるいは、掃除係に拾わせたかったかだね」


 梨春の顔が強張る。


「香奈が疑われるのですか」


「まだ疑っていません」


 私は言った。


「ただ、文を見つける役目にされた可能性があります」


 梨春は唇を噛んだ。


 自分と同じだと思ったのだろう。


 香油を使わされた杏児。


 菓子を運ばされた梨春。


 文を見つけた香奈。


 今回の黒幕は、直接手を汚さない。


 後宮で一番弱いところへ仕事を落とし、その人の手を使って事件を進める。


 それが、腹立たしかった。


「文を拝見しても?」


 私が聞くと、怜月殿下は短く頷いた。


「触るな」


「分かっています」


 私は布越しに文の端を少しだけ持ち上げた。


 紙は硬い。


 政務紙に似ているが、少し薄い。上等すぎるものではない。役所で大量に使われる紙かもしれない。


 墨は鉄胆墨。


 そして、折り目。


 三つ折り。


 左の端だけ、わずかに斜めにずれている。


「左利き……?」


 私は呟いた。


 怜月殿下がすぐに反応する。


「なぜそう思う」


「折り目の力の入り方です。右端より左端の方が強く潰れています。左手で押さえて折ったように見えます」


「文を書いた者が左利きとは限らない」


「はい。折った人が左利きかもしれません」


 私は文の下部を見る。


 墨の最後の払いが少しだけ上へ跳ねている。


 でも、これは筆跡を隠そうとしている。


 わざと硬い文字にしている。


「字は偽装しています。ただ、最後の文字だけ少し急いでいます」


「最後の文字?」


「“黒くする”の“る”です。筆の止めが甘い。書いた人は冷静なふりをしていますが、最後だけ感情が出た」


「怒りか」


「たぶん、焦りです」


 小鈴が顔をしかめる。


「焦ってる人が、こんな怖い文を書くの?」


「怖がらせる必要があったから、焦ったのかもしれない」


「何それ」


「凛花を差し出せ、という文は、私たちを動かすためのものです。でも文を出すのが早すぎます」


 怜月殿下の目が細くなる。


「早すぎる?」


「はい。私が黒爪を夜桃花に塗り替えたのは、つい先ほどです。それなのにもう文が届いている。つまり、黒幕側は白蓮宮の中から、すぐに情報を受け取れる位置にいる」


「白蓮宮内に内通者がいる」


「はい。でも、文の内容は急ごしらえに見えます」


 明珠が文を覗き込む。


「確かに、脅し文としては雑だね。もっと品よく呪いを匂わせることもできるだろうに」


「品よく脅す必要ありますか」


 小鈴が言うと、明珠は真顔で答えた。


「後宮ではあるよ」


「嫌な場所……」


「今さらだね」


 私は文を元の位置へ戻した。


「これは、こちらを焦らせるための文です。私を差し出すことが目的とは限りません」


「では目的は何だ」


 怜月殿下が問う。


「私たちを、朱夏さんと爪紅帳から引き離すこと」


 朱夏の肩がわずかに震えた。


 怜月殿下が文から視線を上げる。


「陽動か」


「はい」


「ならば、お前を差し出すふりをする」


 即答だった。


 部屋中が固まった。


 私も固まった。


「……はい?」


「差し出すふりだ」


「ふりでも嫌です」


「捕まえるためだ」


「捕まる側の気持ちをもう少し考えてください」


 小鈴が強く頷いた。


「そうです! 殿下、凛花を餌にするの早すぎます!」


「餌になると言い出したのは凛花だ」


「前回と今回では餌の鮮度が違います!」


「鮮度?」


 怜月殿下が本気で少し困惑した顔をした。


 こんな時なのに、小鈴の比喩が妙な方向へ行っている。


 明珠が堪えきれずに笑った。


「いいね、この子。恐怖で口が回る」


「褒めてませんよね!」


「褒めてるよ。後宮で怖い時に喋れるのは才能だ」


 小鈴は泣きそうな顔で私を見る。


「凛花、やだって言って」


「やだ」


「軽い!」


「本当にやだけど」


 怜月殿下は私を見た。


「嫌なら別案を出せ」


「出します」


 私が即答すると、怜月殿下は黙った。


「……あるのか」


「今、考えます」


「ないのか」


「少し待ってください」


 明珠がまた笑った。


 しかし、笑ってばかりもいられない。


 文の狙いが陽動なら、こちらが慌てて動くと相手の思うつぼだ。


 でも何もしなければ、次の手が来る。


 私を差し出すふり。


 危険だ。


 だが、使える。


 問題は、私が本当に捕まらない形にできるか。


 私は朱夏の手を見た。


 さきほど塗った黒爪。


 青銀粉を仕込んだ追跡用の爪紅。


 そして、爪紅帳。


「朱夏さん」


 私が呼ぶと、朱夏は顔を上げた。


「あなたに次の文が来るとしたら、どこですか」


「厨房裏の薪置き場か、古井戸の石の下です」


「二か所?」


「はい。急ぎの文は薪置き場。返事を求める文は古井戸です」


「今回、敵は私を差し出せと言っている。なら、返事を求めるはずです」


 怜月殿下が言う。


「古井戸か」


「はい。そこへ、“凛花を差し出す”と返事を置きます」


 小鈴が悲鳴みたいな声を出した。


「やっぱり差し出す方向じゃない!」


「本当に差し出すわけじゃないよ」


「“ふり”って言いながら、後宮は本当にしてくるの!」


 説得力がありすぎる。


 私は少し困った。


 怜月殿下が小鈴を見る。


「お前は凛花をよく見ているな」


「同室ですから!」


「なら、凛花が本当に危なくなったら分かるか」


「分かります!」


「ではお前も来い」


「しまった!」


 小鈴は頭を抱えた。


「何で私、口を開いたの……!」


 杏児が小さく言う。


「私も、行きます」


「杏児さん?」


「香油の件で、私は一度使われました。今度は、こちらから使われるふりをします」


 梨春も続く。


「私も。香奈が文を見つけたなら、白蓮宮の女官として確認したいです」


 二人の声は震えている。


 けれど、さっきより弱くなかった。


 自分の手が利用されたことに、怯えるだけではなく怒り始めている。


 私はそれが少し嬉しくて、でも同時に怖かった。


 怒りは人を立たせる。


 けれど、後宮では立った人から狙われる。


「全員で動くと目立ちます」


 私は言った。


「だから、役を分けましょう」


 怜月殿下が椅子に座り直した。


「言え」


「朱夏さんは、敵の指示を受け続けているふりをします。古井戸に返事を置く役です」


「朱夏一人では危険だ」


「私が少し離れて同行します」


 小鈴がまた口を開きかけたので、先に言った。


「小鈴も一緒に」


「言う前に巻き込まれた!」


「私一人より自然だから」


「自然って何!」


「爪紅師と下級女官が夜にこそこそ歩いていたら怪しいけど、爪紅師と騒がしい下級女官なら、迷子っぽい」


「私の存在を何だと思ってるの」


「頼れる騒がしさ」


「褒め方!」


 怜月殿下が、ほんのわずかに口元を押さえた。


 笑った。


 たぶん笑った。


 小鈴もそれを見て目を丸くする。


「殿下、今笑いました?」


「笑っていない」


「笑いましたよね」


「見間違いだ」


「凛花、見た?」


「見た」


「凛花」


 怜月殿下の声が低くなる。


「見落とすなと言われたので」


 明珠が机を叩いて笑った。


 この状況で笑うのは不謹慎かもしれない。


 でも、笑いがなければ、怖さで手が動かなくなる。


 私は作戦を続けた。


「梨春さんは、白蓮宮で香奈さんから文を見つけた時の状況を聞いてください。できれば、誰が近くにいたかも」


「分かりました」


「杏児さんは、香油の瓶を渡された時の文や包みのことを思い出してください。朱夏さんの文と共通点があるかもしれません」


「はい」


「明珠様は」


「私はここで帳を守るよ」


 明珠が先に言った。


「どうせ誰か来る。爪紅帳を燃やしたい奴は、一人じゃないだろうからね」


「危険です」


「老いぼれを気遣う余裕があるのかい」


「あります」


 明珠は一瞬、言葉を詰まらせた。


 それから苦笑する。


「ほんと、変わったね」


「夢で性格が少し太くなりました」


「太くなりすぎだ」


 怜月殿下が静かに言った。


「明珠には護衛を置く」


「いらないよ」


「置く」


「殿下、あんた昔から頑固だね」


「お前もだ」


「誰に似たんだか」


 明珠がそう言うと、怜月殿下は一瞬だけ黙った。


 華姚妃。


 彼の母。


 たぶん、その名が二人の間に落ちた。


 けれど誰も口にしなかった。


 口にしない優しさもある。


「私は?」


 小鈴が自分を指さした。


「凛花と一緒に古井戸へ行くのは分かったけど、何をすればいいの?」


「周囲を見て」


「見るだけ?」


「小鈴は人の顔色を見るのが上手いから」


「え」


 小鈴が瞬きをした。


「私が?」


「うん。さっきから、誰が怖がってるか、誰が怒ってるか、すぐ気づいてる」


「それは……怖いから周り見てるだけ」


「それが大事」


 私は小鈴の手を見た。


 水仕事で荒れた手。


 でも、指先の動きは細かい。


 人の気配に敏感な手だ。


「私は爪を見る。小鈴は顔と足元を見て」


「足元?」


「逃げたい人は、顔より先に足が逃げるから」


 小鈴は真剣な顔で頷いた。


「分かった」


 怜月殿下が私を見る。


「お前は、人を使うのが上手いな」


「使っているつもりはありません」


「では何だ」


「お願いしています」


「後宮では、それを使うと言う」


「嫌な場所ですね」


「今さらだ」


 本当に今さらだった。


     *


 古井戸は、後宮の北東にあった。


 今は使われていない。


 石で囲われ、蓋が半分割れ、周囲には背の低い草が生えている。昼間でもあまり人が近づかない場所らしい。


 夜になると、なおさらだった。


 空には細い月が出ていた。


 回廊の灯りは遠い。


 小鈴は私の袖を掴みながら、歯を食いしばっている。


「凛花」


「うん」


「私、やっぱりこの作戦嫌い」


「私も」


「じゃあ何でやってるの」


「他に思いつかなかった」


「正直すぎる!」


 その少し前を、朱夏が歩いている。


 彼女は逃げたことになっている。


 だから、身なりも整えず、顔を布で隠し、急いでいるように歩いていた。


 もちろん一人ではない。


 見えない位置に怜月殿下の護衛がいる。


 怜月殿下本人も、近くにいるはずだ。


 姿は見えない。


 けれど、どこかで見ている気配がする。


 それが安心なのか、逆に緊張するのか、自分でもよく分からない。


「ねえ」


 小鈴が囁いた。


「殿下、本当に近くにいるの?」


「たぶん」


「たぶんって」


「姿を見せないのが仕事らしいから」


「怖い人って、見えてても見えなくても怖いのね」


「便利ではある」


「凛花、ちょっと殿下に慣れてきてない?」


「慣れたくはない」


「手遅れかも」


 そんな会話をしているうちに、朱夏が古井戸の前へ膝をついた。


 石の隙間に、短い文を差し込む。


 内容は単純だ。


『爪紅師を渡す。場所と時を示せ』


 もちろん、怜月殿下が用意したものだ。


 紙には、朱夏の黒爪に仕込んだ青銀粉が少しだけつくようにしてある。相手が文を開けば、指先に移る。


 文を差し込んだ朱夏は、何事もなかったように立ち上がった。


 その瞬間だった。


 草の向こうで、何かが動いた。


 小鈴の手に力が入る。


「凛花」


「見えた?」


「足」


「どこ」


「井戸の向こう、石灯籠の影。顔は見えないけど、足がこっち向いてる」


 私は息を殺した。


 小鈴は本当に見ていた。


 怖がっているだけではなかった。


 石灯籠の影。


 確かに、衣の裾の端が見える。


 下級女官の灰色ではない。


 医官の白でもない。


 深い青。


 政務官か、宦官の上役が着る色に近い。


 朱夏は気づいていないふりをして歩き出す。


 私たちも少し遅れて動く。


 その時、石灯籠の影から手が伸びた。


 文を取る。


 右手。


 火傷はない。


 細い手。


 だが、爪が妙に短い。


 切り揃えられているというより、噛まれている。


 私は目を凝らした。


 青銀粉が、爪の端に移る。


 成功だ。


 相手は文を懐へ入れ、音もなく去ろうとした。


 だが、そこで朱夏が振り返った。


「待って」


 予定にない。


 私は心臓が跳ねるのを感じた。


 朱夏は、震える声で言った。


「あの子は無事なの?」


 影が止まる。


 返事はない。


「答えて。私は、言われた通りにした」


 小鈴が私の袖を強く掴む。


「凛花、これやばいよね」


「うん」


 影の人物が、ゆっくりと朱夏へ向き直った。


 顔は布で隠れている。


 だが、声は低かった。


「余計な口を利くな」


 男の声。


 いや、若い男ではない。


 年を重ねた、低い声。


 朱夏が一歩近づく。


「あの子に会わせて」


「立場を忘れたか」


「忘れるものですか。十年、忘れたことなどありません」


「ならば黙れ」


 影の人物が手を上げた。


 何かを投げる。


 その瞬間、黒い影が横から飛び出した。


 怜月殿下だった。


 彼の袖が、投げられた小さな包みを弾く。


 包みが地面に落ち、白い粉が散った。


「下がれ!」


 怜月殿下の声が飛ぶ。


 朱夏がよろめく。


 私は小鈴の手を引いて後ろへ下がった。


 影の人物は逃げようとした。


 だが、回廊の陰から護衛が現れ、退路を塞ぐ。


 もう一方からも衛兵。


 完全に囲まれている。


 怜月殿下は地面の粉を見た。


「凛花」


「触らないでください」


 私は叫ぶように言った。


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 怜月殿下の手が止まる。


 私は息を切らしながら近づき、落ちた粉を見た。


 白い。


 でも、清貴妃の菓子に使われた粉とは違う。


 もっと細かい。


 月明かりを受けて、冷たく光っている。


「白月粉……?」


 明珠の言葉を思い出す。


 十年前、華姚妃の爪を磨いた粉。


 影の人物は、朱夏にこれを投げようとした。


 口封じか。


 それとも、また黒爪を作るつもりだったのか。


「捕らえろ」


 怜月殿下が命じた。


 護衛が影の人物を押さえつける。


 布が剥がれた。


 現れた顔を見て、朱夏が息を呑んだ。


 梨春も、いつの間にか後方から来ていたらしく、顔を青くした。


「……陶医官」


 その名を聞いて、私は思い出す。


 白蓮宮で清貴妃を診ていた年配の医官。


 額に汗を浮かべ、「毒とも病とも断じかねる」と言った男。


 彼だった。


 陶医官は、押さえつけられながらも怜月殿下を見上げた。


 その目は怯えていなかった。


 むしろ、怒っていた。


「殿下」


「陶英」


 怜月殿下の声が冷える。


「十年前も、母を診たな」


「診ました」


「そして今日、清貴妃も診た」


「はい」


「偶然か」


 陶医官は薄く笑った。


「後宮に偶然などございますか」


 その一言で、空気が凍った。


 私は陶医官の手を見た。


 爪が短い。


 噛んでいる。


 しかし、翠蘭の爪とは違う。


 翠蘭は不安で噛む人だった。


 陶医官の爪は、苛立ちを押し殺すために噛まれた爪だ。


 そして、左手の中指の爪の端に、青銀粉がついている。


 私たちの罠にかかった。


「文を書いたのは、あなたですね」


 私が言うと、陶医官は初めてこちらを見た。


「お前が、黒を飾った爪紅師か」


 その声には、はっきりとした憎しみがあった。


「なぜ、私を?」


「爪は黒くあるべきだった」


「どういう意味ですか」


「黒爪は、罪の印だ。飾ってよいものではない」


「罪?」


 私は一歩前に出た。


 怜月殿下が軽く手で制する。


 危ない、という意味だ。


 でも、聞かなければならない。


「清貴妃様に、何の罪があるのですか」


「妃は皆、罪を持つ」


 陶医官の声は静かだった。


「寵愛を受ける罪。子を宿す罪。血を残す罪。後宮とは、罪を花で隠す場所だ」


「それは医官の言葉ではありません」


「医官だから知っているのだ」


 彼は笑った。


「女たちは皆、自分だけは無垢だと思っている。だが、後宮で無垢な女などいない。華姚妃も、清貴妃も、南妃も、麗妃も」


 怜月殿下の目が暗くなる。


「母を侮辱するな」


「侮辱ではありません。真実です」


 陶医官は怜月殿下を見た。


「殿下もまた、あの方の罪から生まれた」


 空気が割れた。


 怜月殿下が動くより早く、私は声を出していた。


「違います」


 自分でも驚いた。


 陶医官の目がこちらへ向く。


「何が違う」


「子供は、親の罪から生まれるものではありません」


 声が震えていた。


 怒りで。


 怖さで。


 たぶん、前世の記憶で。


「誰かの都合で産まれたことを罪にされるなんて、おかしいです」


 陶医官は私を睨んだ。


「下級爪紅師が、何を知る」


「知りません」


 私は言った。


「でも、爪を見る仕事をしています」


「だから何だ」


「爪は、その人が生きてきた跡です。罪の印なんかじゃありません。黒く塗ったから罪人になるわけじゃない。割れたから汚れているわけでもない。傷があるから、生きてきたんです」


 陶医官の顔が歪んだ。


 怜月殿下は、何も言わなかった。


 ただ、私の横に立っていた。


 それが不思議と心強かった。


「陶英」


 怜月殿下が低く言った。


「十年前、母に何をした」


 陶医官は黙った。


「答えろ」


「……私は、診ただけです」


「嘘だ」


 私が言った。


 陶医官が私を睨む。


「何を根拠に」


「あなたの爪です」


「また爪か」


「はい」


 私は彼の左手を指さした。


「中指の爪だけ、表面が薄く削れています。医官が薬を量る時の癖ではありません。何か細かい粉を紙で包む時、爪で何度も押さえた跡です」


 陶医官の顔が動く。


「今回の文を折ったのも、粉を包んだのもあなたです。十年前も、白月粉か月鉱水を扱っていたのではありませんか」


「黙れ」


「黙りません」


 小鈴が後ろで「凛花……!」と小さく叫ぶ。


 でも、止まれなかった。


「あなたは医官です。なら、本当の死因を知っていたはずです。黒爪が死因ではないことも、爪が目くらましに使われたことも」


 陶医官の表情から、わずかに余裕が消えた。


 怜月殿下が一歩近づく。


「母の死因は何だ」


「……」


「陶英」


「言えば」


 陶医官の声が低くなる。


「殿下は、後宮を焼くことになります」


「すでに十年前に焼けた」


 怜月殿下の声も低い。


「今度は、灰の下を掘るだけだ」


 陶医官は怜月殿下を見た。


 しばらく、二人は黙っていた。


 そして陶医官は、ぽつりと言った。


「華姚妃様は、産後の衰弱で亡くなられた」


「産後?」


 怜月殿下の声が変わった。


「やはり、子は生まれていたのか」


「女児でした」


 陶医官は笑った。


「皇子ではなかった。だから、あの方の価値は消えた」


 朱夏が震えた声で言う。


「黙って」


「黙るものか。十年、黙った。私は黙り続けた。だが、その沈黙で何が守られた? 誰が救われた? 後宮は何も変わらない」


「だから、清貴妃様に同じ黒爪を?」


「思い出させるためだ」


「誰に」


 私が問うと、陶医官は私を見た。


「忘れた者たちに」


「華姚妃様の死を?」


「そうだ」


「では、あなたは真犯人ではない」


 私が言うと、周囲の空気が変わった。


 怜月殿下も、朱夏も、明珠も、私を見る。


 陶医官の目が細くなる。


「何を」


「あなたは黒爪を再現しようとした。でも、十年前の死因を隠したい人ではない。むしろ、掘り起こしたい人です」


 陶医官は黙った。


「あなたは清貴妃様を殺す気はなかった。黒爪を作り、十年前の事件を思い出させ、怜月殿下に爪紅帳を開かせたかった」


「……」


「でも、それなら私を差し出せという文は変です。私を消したいのではなく、私を引っ張り出したかったのではありませんか」


 陶医官の唇が動く。


 笑った。


「本当に、厄介な爪紅師だ」


 怜月殿下の声が冷える。


「陶英。お前の目的は何だ」


 陶医官は空を見上げた。


 細い月が、古井戸の上にかかっている。


「華姚妃様の女児を、見つけることです」


 朱夏が叫んだ。


「やめて!」


「もう隠せない、朱夏」


 陶医官は彼女を見た。


「隠し続けた結果が、この十年だ。あの子は人質にされ、名も与えられず、生きているのか死んでいるのかも分からない。ならば、後宮全体を揺らすしかない」


「だから清貴妃様を利用したのですか」


 私は言った。


「梨春さんや杏児さんを巻き込んで、翠蘭様を脅して、南妃様や紅玉宮に罪をかぶせようとして?」


「必要なことだった」


「違います」


「何が違う」


「あなたは、十年前にされたことを繰り返している」


 陶医官の顔が、初めてはっきり歪んだ。


「女官を使い、弱みを握り、爪に罪を塗る。あなたが憎んでいる相手と、同じことをしています」


「黙れ!」


 陶医官が叫んだ。


 その瞬間、護衛が彼をさらに押さえつける。


 白い粉の包みが、もう一つ懐から落ちた。


 月明かりの中で、それが冷たく光る。


 怜月殿下は陶医官を見下ろした。


「陶英。お前を拘束する」


「構いません」


 陶医官は荒い息を吐きながら笑った。


「私はもう、役目を果たした」


「何?」


「殿下は知った。華姚妃様の子が、もう一人生きている可能性を。これで、後宮は動く」


 嫌な予感がした。


 私は思わず周囲を見回す。


 小鈴も同じように、顔を強張らせていた。


「凛花」


「何かいます」


 私は囁いた。


 怜月殿下がすぐに反応する。


「どこだ」


「分かりません。でも、今の会話を誰かが聞いています」


 小鈴が石灯籠の向こうを見る。


「あっち」


「見えた?」


「足じゃない。布。木の陰に、衣の裾」


 怜月殿下が護衛に目配せする。


 護衛が走る。


 しかし、その影は逃げ足が速かった。


 木立の向こうへ消える。


 追いかけた護衛の声が遠くで響いた。


「逃げられました!」


 陶医官が笑った。


「遅い」


 怜月殿下の顔が氷のようになる。


「誰だ」


「さあ」


「陶英」


「私にも分かりません。ですが、これだけは分かる」


 陶医官は、地面に押さえつけられたまま言った。


「黒幕は、今ので知りました。殿下が、華姚妃様の女児の存在に辿り着いたことを」


 朱夏が崩れるように膝をついた。


「そんな……」


 私は歯を食いしばった。


 陶医官は黒幕ではない。


 黒爪を再現した実行者の一人。


 十年前の真相を暴くために、今の妃たちを傷つけた男。


 許せない。


 けれど、彼の行動で、さらに危険なものが動き出してしまった。


 怜月殿下が私を見る。


「凛花」


「はい」


「今夜から、お前は私の監察下に置く」


「また命令ですか」


「命令だ」


「拒否権は?」


「ない」


「でしょうね」


 私は古井戸の縁を見た。


 そこに、逃げた影が触れたのか、ほんのわずかに青銀の粉が残っていた。


 相手にも印はついた。


 まだ追える。


「殿下」


「何だ」


「逃げた人にも、粉がついています」


 怜月殿下の目が鋭くなる。


「見つけられるか」


「爪か袖口を見れば」


「なら探せ」


「はい」


 私は、もう嫌ですとは言わなかった。


 怖い。


 逃げたい。


 でも、今逃げた影の先に、華姚妃の女児がいるかもしれない。


 十年前に名を奪われた子がいるかもしれない。


 それに、今回傷つけられた清貴妃も、南妃も、翠蘭も、梨春も、杏児も、朱夏も。


 誰もまだ救われていない。


 黒く塗られた爪は、夜桃花に変えられる。


 でも、塗り替えただけでは終わらない。


 爪の下に残る傷を見なければ、本当の意味では整えられない。


 怜月殿下は、古井戸の向こうに広がる闇を見ていた。


 その横顔には、怒りと痛みと、十年分の決意が重なっていた。


「陶英を連れて行け」


 彼が命じる。


 護衛たちが陶医官を引き立てる。


 陶医官は去り際、私を見た。


「爪紅師」


「はい」


「黒は、簡単には落ちない」


「知っています」


 私は答えた。


「でも、落ちない黒も、意味は変えられます」


 陶医官は一瞬だけ目を見開き、それから何も言わずに連れて行かれた。


 夜風が吹いた。


 古井戸の周りの草が揺れる。


 私は自分の爪を見た。


 凛花の短い爪。


 御園真白だった頃とは違う、異世界の下級爪紅師の手。


 だけど、この手でできることがある。


 爪紅を塗る。


 嘘を剥がす。


 傷を隠すのではなく、傷の意味を変える。


 怜月殿下が静かに言った。


「戻るぞ」


「どちらへ」


「白蓮宮だ。清貴妃に、陶英のことを伝える」


「その前に」


「まだ何かあるのか」


「私の爪を少しだけ塗らせてください」


 怜月殿下がこちらを見る。


「なぜ」


「私は名指しされました。なら、狙われる爪紅師として分かりやすくしておいた方がいい」


「危険を増やす気か」


「逆です」


 私は道具箱から、薄い銀と桃花色を取り出した。


「黒を飾る爪紅師。相手がそう呼ぶなら、その印をこちらで作ります。偽物の標的です」


 小鈴が呻いた。


「凛花、また自分を餌にしてる」


「今回は飾り餌」


「言い方!」


 怜月殿下は呆れたように私を見た。


「お前は、自分の危うさを理解しているのか」


「しています」


「本当にか」


「たぶん」


「信用ならない」


「私も少しそう思います」


 怜月殿下は深く息を吐いた。


「……好きにしろ。ただし、私の見える場所で塗れ」


「はい」


 私は古井戸の石に道具箱を置き、自分の左小指に、ごく小さな夜桃花の印を描いた。


 桃花色の上に、細い黒。


 その横に、銀の線。


 清貴妃の爪と同じ意匠。


 でも、ほんの少し違う。


 銀線の端に、青銀粉を混ぜてある。


 私に触れた者にも、印が残るように。


「できました」


 小鈴が私の爪を見て、泣きそうな顔で言った。


「綺麗なのが、余計に嫌」


「うん」


「危ない印なのに、綺麗」


「だから使える」


 怜月殿下も、私の爪を見た。


 その目に、一瞬だけ複雑なものがよぎる。


「黒を飾る爪紅師、か」


「嫌な呼び名です」


「だが、覚えやすい」


「殿下まで言わないでください」


 怜月殿下は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「行くぞ、凛花」


「はい」


 私は小さな夜桃花を描いた爪を握った。


 敵はまだ見えない。


 けれど、爪先に印はつけた。


 こちらももう、ただ見ているだけではない。


 後宮の嘘を剥がすために、私は自分の爪にも色を塗った。


 夜に咲く、黒い桃花の色を。

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