第21話:大賢者アルドスのティータイム
王都ノザリアのほぼ中心に位置する幻獣管理庁――通称『幻管庁』は、白亜の石材を惜しみなく使った壮麗な建物だ。
空を仰ぎ見るような高い天井、磨き抜かれた石床。そこには、国の運営を支える役人たちが、分厚い書類や魔導具を抱えて忙しなく行き交っている。
その整然とした回廊に、場違いなほど優雅で、それでいて圧倒的な存在感を放つ一頭の銀狼がいた。
「わふぅ……」
モップが、退屈そうにあくびをした。
サイズに縮めているとはいえ狼の二倍はある体躯。その白銀の毛並みから漏れ出る魔力は、すれ違う役人たちの本能を激しく揺さぶる。
道を行く人々は、壁に押し退けられるように、そっと壁際に寄って道を空けていく。その瞳には、畏怖と、それ以上の深い尊敬が宿っていた。
「いつ来ても、ここの石床はピカピカね。お掃除が行き届いていて気持ちがいいわ」
私はモップの隣を歩きながら、満足げに頷いた。
誰の邪魔も入らないように整えられた廊下を進み、突き当たりにある専用の魔導昇降機へと向かう。
一般の役人は立ち入ることすら許されない、大賢者アルドス様の執務室へと直通する専用の箱だ。
箱の中に入ると、柔らかな琥珀色の光が私たちを包み込んだ。
ふわ、と浮遊感が体を通り抜け、箱が静かに上昇を始める。窓の外には、上昇するにつれて広がる王都の街並みが、まるでジオラマのように小さくなっていく。
「さあ、モップ。毛並みを整えて。アルドス様に失礼がないようにね」
「わふん……(あの老人の部屋へ行く時だけ、主は少しだけ背筋を伸ばすな)」
モップが呆れたように尻尾を振った。
私にとってアルドス様は、単なる上司ではない。
魔力が弱く、生活魔法しか使えないという理由だけで『欠陥品』の烙印を押されていた私を、一人の専門家として見出し、この暮らしを与えてくれた、かけがえのない恩人なのだ。
昇降機の扉が開き、目の前に現れたのは、壁一面を埋め尽くす膨大な魔導書と、複雑な術式が投影された大きな窓が特徴的な執務室。
部屋の主は、大きなデスクの後ろで、柔らかな笑みを浮かべて待っていた。
「おお、ミヤコ。よく来たね。山道は大変だったろう」
白い髭を豊かに蓄え、慈愛に満ちた瞳をした老人。彼こそが、ノザリア王国のブレーンであり、大陸最高峰の知識を誇る大賢者アルドス様だ。
「アルドス様、お久しぶりです。お元気そうで安心しました」
「フォッフォッ、元気だけが取り柄の隠居老人だよ。……おや、モップ殿も相変わらず元気そうで何よりだ」
アルドス様が声をかけるより早く、モップは我が物顔で部屋の奥へと歩いていき、彼が愛用している最高級のベルベットソファにどっさりと寝そべった。
「こら、モップ! そこはアルドス様のお気に入りのソファでしょ? ちゃんと足元で大人しくしていなさい」
「構わんよ、ミヤコ。その幻獣に選ばれるのなら、このソファも本望というものだ。儂もお前のように、伝説のフェンリル・ヴォイドをクッション代わりにする贅沢を、一度は味わってみたいものだがね」
アルドス様は楽しげに肩を揺らし、慣れた手つきで茶器の用意を始めた。
執務室に、春の草原を思わせる爽やかで気品のある香りが立ち込めた。
アルドス様自らが淹れてくれたそのお茶は、一斤で銀貨数枚はするという最高級の茶葉だ。
私は、持参した手土産――山で採れた魔蜜オレンジで作ったピールチョコをテーブルに並べた。
「ふむ、実に良い香りだ。ミヤコの持ってくるお菓子は、王都のどんな名店よりも心が踊る。で、どうだ? 最近は」
「ありがとうございます。……最近の山は、とても穏やかですよ。先日は、赤兜熊の親子がお客さんとして来てくれました」
「ほう、あの気性の荒い災害級の赤兜熊がかい?」
「ええ。子供の赤兜熊の方が、呪詛ネズミを食べちゃったみたいで、呪詛の毛玉が体内に……。それをお掃除してあげたら、お礼に美味しい魚をたくさん置いていってくれました」
私はお茶を一口すすり、近況を語り続けた。
宝石竜の幼竜の鱗を磨いてあげたら、あまりの輝きにモップが眩しそうにしていたこと。
迷子の幼い幻獣たちが、お腹を空かせて店の庭に迷い込んできたこと。
アルドス様は、まるでおとぎ話を聞く子供のような純粋な瞳で、私の話に熱心に耳を傾けてくれた。
「君にかかれば、どんな恐ろしい幻獣も、ペットのようになるのだな。ミヤコ、君の『洗浄』は、単に汚れを落とすだけではない。解呪や浄化の類のようだな」
ふと、アルドス様の視線が窓の外、王宮の地下の方角へと向けられた。
窓から差し込む夕陽が、部屋の中に長い、重たい影を落とす。
「君のおかげで、無慈悲に廃棄される命は随分と減った。……けれど、宮廷錬金術師の連中は、未だに人工幻獣の研究を諦めてはおらんのだよ」
アルドス様の声に、先ほどまでの穏やかさが消え、苦い沈殿物が混じったような響きが宿る。
「彼らは、野生の幻獣を『不確実で御しがたいもの』だと蔑んでいる。……そして、人間が自分たちの好みの色や形、能力を自在に設計した、完璧な道具としての命を造り出そうとしている。あれは、人間ごときが踏み入れて良い領域ではないというのに……」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、小さな不快感がざわめいた。
それはかつて、ミヤコが子供の頃に育ったロシロ村での経験のように、居心地の悪い違和感だ。
「……どうして人間に都合の良い幻獣なんて、造ろうとするのかしら。私には理解できませんわ、アルドス様」
私は空になった茶器をそっと置き、凛とした声で言葉を継いだ。
「命に、完璧なんて言葉は必要ありません。ありのままの幻獣たちが、好きなように生きるのが一番なのに。……人間の思い通りにならないからといって、勝手に命を書き換えてしまうなんて。そんなの、何よりも不潔で、悲しいことだと思いませんか?」
アルドス様は、驚いたように私を見つめ、それから深く、深く頷いた。
「お前の言う通りだ。彼らは命を書き換え、上書きすることが進歩だと思い込んでいるのだよ。……かつて君が暴いてくれた『幻獣保護センター』の闇。あれも根源は、命をただの素材としてしか見ていない傲慢さから来ていた。……その実、その過ちは形を変えて、今もこの王都の底で燻り続けているのだ」
重苦しい空気を振り払うように、アルドス様がデスクの上から、ずっしりと重い大きな革袋を取り出した。
彼はそれを、慈しむような手つきで私の前に置いた。
「さて、湿っぽい話はこれまでにしよう。これが今月の給料だ。君の功績からすれば、これでも少ないくらいだがね」
革袋を開けると、中には飴色の光を放つ金貨が二十六枚、そして鈍く輝く銀貨が二千枚、ぎっしりと詰まっていた。
手のひらに乗せると、その圧倒的な重みが、自分がお店に来る幻獣たちを守ってきた時間の積み重ねのように感じられた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます。……これでまた、新しい魔石のブラシを試作できますわ。モップのトリートメントも、さらに良い素材が買えそうです」
「フォッフォッ、やはり君の頭の中は幻獣たちのことばかりだね」
アルドス様は笑いながら、一枚の羊皮紙を差し出した。
「明日は朝から、郊外の飼育施設での研修だ。君の講習を待ち侘びている者が、王都中から集まっている。……中には、君のやり方に異を唱えるような頑固者もいるかもしれんが、君は君のやり方で、彼らに『命の磨き方』を教えてやっておくれ」
「はい。飼育官のみなさんに、お掃除の楽しさをしっかり伝えてきます。……ピカピカになることの素晴らしさを知れば、きっと彼らもわかってくれるはずですから」
私は給料袋を大切に鞄へと仕舞い、立ち上がった。
モップもソファからゆらりと降り、出発の準備を整える。
明日から始まる研修。
そこではどんな幻獣と飼育官たちが待っているのか。
私は期待と、ほんの少しの不安を抱えながら、茜色に染まる王都の空を見つめた。




