第19話:トリミング店のお金事情・月に一度の王都へ
朝霧が、まだ深い藍色を残した森の裾野を白く縁取っていた。
ひんやりとした大気が、開け放した窓から滑り込んでくる。私は小さく身震いしながら、木製のカウンターに置かれた道具たちへ視線を落とした。
山あいにひっそりと佇む私の店、『ミヤコ幻獣トリミング店』。
ここには、街の喧騒も、王都の慌ただしさも届かない。聞こえてくるのは、時折揺れる梢の音と、足元で丸まっている看板犬の寝息だけ。
(さて、今日はお出かけ前に、道具の手入れを済ませてしまわないとね)
私は、使い込まれた猪の毛のブラシを手に取った。
毛の一本一本にまで魔力が馴染んだそのブラシは、朝の光を浴びて、琥珀色に優しく透き通っている。
指先で毛並みをなぞると、しっとりとした弾力が返ってきた。
道具が汚れていては、幻獣たちの命の輝きは磨けない。
それは、私がかつて『幻獣保護センター』の廃棄処理係として働いていた頃から、自分に課している絶対の鉄則だった。
あの場所では、道具も、幻獣たちも、ただの消耗品のように扱われていた。
泥にまみれ、呪いに蝕まれ、ボロ雑巾のように打ち捨てられていく命。
その悲しみを知っているからこそ、私は自分の手に馴染む道具たちを、宝物のように手入れし続けている。
シャッ、シャッ……。
ハサミの刃を研ぐ微かな金属音が、清らかなしじまの中に響く。
仕上げに、特製の椿油のオイルを一滴。
弾けるような酸っぱい香りがふわりと広がり、私の心をぴんと引き締めた。
「よし、これでブラシもハサミも準備万端。あとは、研修で使う石鹸ね」
棚の奥から、真っ白な箱を取り出す。
中には、重曹と濃縮した聖水を混ぜた、私特製の「一点シミ抜きペースト」が整然と並んでいた。
これさえあれば、大抵の汚れは綺麗に洗い流せる。
王都へ行けば、また新しい素材を補充できるはず。そう思うと、少しだけ足取りが軽くなるのを感じた。
「ふあぁ……わふっ」
庭先で、銀色の大きな塊がゆらりと立ち上がった。
看板犬のモップだ。
朝露を纏った彼の白銀の毛並みは、登り始めた太陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。
伝説の『終焉の獣――フェンリル・ヴォイド』。
王都の宮廷錬金術師たちが聞けば腰を抜かすようなその正体も、私の前では、ただのブラッシング好きの大型犬でしかない。
「モップ、おはよう。ブラッシングするよー。王都へ行くんだから、看板犬がボサボサじゃ格好がつかないでしょ?」
私が呼びかけると、モップは「わふん」と短く鳴いて、私の足元にドスンと座り込んだ。
大きな頭を私の膝に預け、うっとりと目を細める。
私はミスリル製の大きなスリッカーブラシを構え、彼のふかふかの毛並みに分け入った。
(相変わらず、最高の手触り……。指に絡みつくこの温かさは、どんな高級な絹よりも心地よいわ)
ガシガシと、遠慮のない音を立てて梳いていく。
モップは時折、気持ちよさそうに喉を鳴らし、しっぽでトントンと地面を叩いた。
災禍の幻獣と呼ばれる彼が、私の旅のお供をしてくれるのは安心だ。
ブラッシングを終えると、私は彼専用の、丈夫な革製の鞍と荷物袋を用意した。
モップは自分から首を差し出し、装備を整えるのを手伝ってくれる。
「ありがとう、モップ。今回も荷物持ち、お願いね。……でも、そんなに張り切らなくてもいいのよ? 今回はちょっとした用事と、お給料を貰いに行くだけなんだから」
私の言葉に、モップは「わふぅ……」と、どこか呆れたような溜息をついた。
支度の合間に、私は鞄の奥から一通の書状を取り出した。
差出人は、ノザリア王国の大賢者アルドス様。
国のブレーンであり、かつて不遇の身だった私を今の『宮廷幻獣飼育官』へと引き上げてくれた、恩人でもある。
書状には、今回の給料の内訳が流麗な文字で記されていた。
自然幻獣の保護に対する手当て、銀貨1,000枚。
希少種の生態調査、銀貨1,000枚。
若手やベテラン飼育官への講習、銀貨300枚。
そして、私の役職給が銀貨500枚。
合計、銀貨2,800枚。……金貨に直せば、ちょうど28枚。
(金貨28枚……。銀貨にしたら、2,800枚分のお仕事かぁ)
一般の騎士の年俸をゆうに数倍は超えるその額面を見ても、私にはあまり実感が湧かない。
金貨28枚。
それは私にとって、新しいトリミングの道具、最高級の薬草オイルを仕入れ、モップに美味しいお肉を奮発してもお釣りがくる、そんな「たっぷりのお小遣い」という感覚だった。
「お掃除の仕方を教えるだけで、こんなにたくさんお金をいただけるなんて、ありがたいわ。王都の幻獣たちも綺麗になるし、一石二鳥ね」
私はふふ、と独り言を漏らしながら、金貨数枚を小銭入れに移した。
私が研修で教える知識。それは、幻獣を「兵器」や「家畜」として飼育するだけではなく、心を持った「家族」として扱うための、ささやかな工夫の積み重ね。
けれど、そのささやかな知識を喉から手が出るほど欲しがっている飼育官たちが、王都には何百人も待っている。
(みんな、ちゃんとブラシを洗っているかしら。毛玉をそのままにして、幻獣たちが痒い思いをしていないかしら……)
一度心配し始めると、居ても立ってもいられなくなる。
私にとって、王都遠征の真の目的は、給料よりもむしろ、彼らのお世話環境をチェックすることにあるのかもしれなかった。
太陽が完全に稜線を越え、山あいの景色を眩しい黄金色に塗り替えた。
私は店の戸締まりを慎重に行い、看板を軽く拭ってから、モップの背を叩いた。
「さあ、行きましょうか、モップ!」
「わふっ!」
モップが力強く地面を蹴り、私たちは山道を下り始めた。
空はどこまでも高く、澄み渡っている。
ひんやりとした朝の風が頬を撫で、旅の始まりを祝福してくれているようだった。
足取りの軽いモップの後を追いながら、私は遥か遠くに見える王都の尖塔を見つめた。
一ヶ月に一度の、賑やかな都。
そこには、私を待っている幻獣たちと、私の話に目を輝かせる飼育官たちがいる。
もちろん、道中で美味しいスイーツを見つけるのも忘れてはいけない。
お給料を貰ったら、モップと一緒に、市場で一番の贅沢をするつもりだ。
「今回はどんな幻獣に会えるかしら。……みんな、ピカピカにしてあげなくちゃね」
私は鼻歌を口ずさみながら、軽やかなステップで坂道を下っていく。
これから王都で、国の均衡を揺るがすような恐ろしい事態が待ち受けているなんて。
今の私は、これっぽっちも思っていなかった。
ただ、目の前の美しい森と、相棒の銀色の背中だけを見つめて、私は一歩を踏み出す。
山あいに響く二つの足音は、朝の光の中に溶けて消えていった。




