第18話:深紅の騎士と、鈍感な店主
洗い場に立ち込めていた黒い瘴気が完全に晴れ、代わりに満ちたのは、弾けるように瑞々しい「魔蜜オレンジ」の香りだった。
グレンは、その甘酸っぱい湯気の中で、信じられない光景を目の当たりにしていた。
死を待つだけだった相棒、グリー。
その黄金色の羽毛が、ミヤコの差し出す温かな風を受けて、一本、また一本と命を吹き返すように立ち上がっていく。
濡れた重みから解き放たれ、本来の神々しさを取り戻したその姿は、夕陽の残光を吸い込んで眩いばかりの輝きを放っていた。
「よし、完璧! 見て、グリーちゃん。貴方の羽、とっても綺麗よ」
ミヤコが満足げに微笑み、グリーの首筋に「ふわふわトリートメント」を丁寧に塗り込んでいく。
彼女の指先が通るたび、羽毛はとろけるような滑らかさを取り戻し、魔法のヴェールを纏ったかのように艶やかに光り輝く。
先ほどまで腐敗に侵されていた傷跡は、今や跡形もなく塞がり、そこには新しい、柔らかな産毛が芽吹いていた。
「クルルッ、クルルル……!」
グリーが嬉しそうに喉を鳴らし、甘えるようにミヤコの頬を擦った。
その瞳には、先ほどの濁りなど欠片もなく、命の喜びが溢れている。
グリーはそれから、背後で見守っていた白銀の巨狼――モップに向き直ると、誇り高い幻獣としての敬意を示すように、その大きな翼をそっと下げた。
「わふん」
伝説の終焉獣は、鼻先で小さく息を漏らし、どこか誇らしげに目を細めた。
「俺の主は凄いだろう」とでも言いたげな、その泰然自若とした態度。
グレンは、自分の目から再び溢れそうになる熱いものを、必死に堪えていた。
(救われた。……俺の、たった一人の家族が……)
世界の理を書き換えるような、圧倒的な浄化の奇跡。
それを成し遂げた少女は、今、何事もなかったかのようにブラシを片付け、エプロンの汚れを気にしている。
そのつつましくも尊い横顔に、グレンの胸の奥で、経験したことのないほど激しい感情が渦を巻いていた。
店先に出ると、空は燃えるような茜色に染まっていた。
影が長く伸び、森全体が深い橙色のベールに包まれる、美しい黄昏時。
グレンは、傍らに控えるグリーの背に手を置き、静かにミヤコに向き直った。
グレンはその場に深く膝を折り、王国の騎士として、一人の男として、最上級の最敬礼を捧げた。
「ミヤコ殿。……貴女は、俺とグリーの命の恩人だ。この御恩、騎士の名に賭けて、一生忘れない」
グレンは、震える手でミヤコの右手をそっと取った。
石鹸の香りがする、小さくて温かな手。
彼は、手の甲に触れるか触れないかの距離で優しく、誓いの口づけを落とした。
「改めて誓わせてもらいたい。……何かあったら、必ず俺を呼んでくれ。たとえ火の中、水の中、騎士団の全戦力を率いて、貴女の平穏を護りに馳せ参じる! 俺の残りの人生は、今日この瞬間から、貴女に捧げられたものだと思ってほしい!」
その双眸には、感謝を越えた、射抜くような熱い思慕が宿っていた。
グレンの心臓は、鎧の下で今にも張り裂けそうなほど激しく鳴っている。
己の魂を預けるにふさわしい、唯一無二の主を見つけたに等しい、揺るぎない確信。
けれど、そんな彼の決死の覚悟を受け取ったミヤコは、朗らかな、春風のような笑顔を返した。
「まあ、心強い。ええ、ありがとうございます、グレン様。困った時は、ぜひお願いしますね」
ミヤコは、グレンの手に重ねるようにして、もう片方の手を添えた。
「ちょうど、来週の大掃除で、重たい棚をいくつか動かしたかったところなんです。騎士様たちの力があれば助かりますわ。大きな男の人が何人もいれば、あっという間に片付きますもの」
「た、棚……? ああ、そうか……棚、だな……」
グレンは、一瞬だけ動きを止めた。
国家を護る最強の騎士団が、大掃除の家具移動要員。
あまりにも斜め上の、けれど彼女らしい実用的な返答に、グレンの頬が熱を帯びて赤く染まっていく。
自分の命がけの告白に近い誓いが、スカされている現実に、彼は言いようのない敗北感と、それ以上に深い愛おしさを覚えた。
◆
騎士様は、何度も何度もこちらを振り返りながら、山道を降りていった。
夕映えに照らされた彼の横顔は、遠目に見ても、茹でた海老のように真っ赤だった。
「あらあら……。グレン様、大丈夫かしら」
私は、遠ざかっていくグリフォンの背中を見送りながら、少しだけ心配になった。
あんなに顔を赤くして……。
きっと、怪我のせいで熱でも出ちゃったのかもしれない。
「やっぱり、氷嚢の一つでも持たせてあげれば良かったわ。騎士様って、ああ見えて意外とお身体がデリケートなのね」
「わふっ……(鈍感もここまでくれば才能だな……)」
足元で、モップが深いため息を吐くように鼻を鳴らした。
彼はラグの上にドスンと座り、悟りを開いたような慈悲深い目で私を見上げている。
「何よ、モップ。そんな顔をして。貴方もお腹が空いた? さあ、中に入ってお掃除の続きをしましょう。お客さんは帰られたけれど、私たちがやるべきことは、まだ山積みなんだから」
私はモップの銀色の頭をひと撫でして、開け放っていたドアを閉めた。
家の中には、まだグリーを洗った時の、甘酸っぱいオレンジの残り香がたゆたっている。
ランプの灯火が、穏やかに室内を照らしていた。
私はエプロンの袖を再び捲り、血と泥で汚れてしまったタオルを、洗濯桶の中へ放り込んだ。
「さて……。明日まで置いておくと、これ、取れないシミになっちゃうわ。大急ぎで洗濯しなきゃ。不潔なものは、お家の中には置いておけませんもの」
ジャブジャブ、という小気味よい水の音。
魔法の泡が、今日の激動をすべて吸い取っていく。
「ねぇ、モップ。明日も、もっとピカピカな一日にしましょうね」
洗濯桶の中で真っ白に蘇るタオル。
私はそれを力強く絞り、夜風の通る窓辺に干した。
山あいの小さな店に、いつもの平和が戻ってくる。
不潔なものは、許さない。
それが私のルールであり、私の世界を護るための、たった一つの魔法なのだから。
オレンジの香りに包まれて、私は明日のお掃除プランを立て始めた。
――――――ଘ(੭ˊウˋ)੭✧あとがき✧――――――
胸キュン、胸キュン!




