第10話:生活魔法・体内すすぎ(インナー・クレンジング)
山あいに佇む私のトリミング店に辿り着いた頃、辺りは濃い藍色の帳に包まれていた。
私は子熊を清潔な寝床へ横たえると、すぐにキッチンへと向かった。
「さて……まずは、特製シロップを作らないとね」
棚から取り出したのは、琥珀色の米油と、しっとりとした質感の蜜蝋。
米油は、詰まりを滑りやすくするための良質な潤滑剤。
蜜蝋は、荒れてしまった胃壁を優しくコーティングして守るための保護剤だ。
私はこれらを小鍋に入れ、弱火でゆっくりと温めていく。
さらにそこへ、とろりとした黄金色のはちみつをたっぷりと加えた。
解呪の効果を持つ苦いハーブの煎じ薬を、飲みやすく、そして体力を回復させるための魔法のスパイスだ。
「よし、美味しそうな匂い。これならきっと、嫌がらずに飲んでくれるはずよ」
木のスプーンで混ぜ合わせると、立ち上ったのはお日様のような甘く香ばしい香り。
私は出来上がった黄金色の液体を、清潔な哺乳瓶へと丁寧に注ぎ込んだ。
トリミング台の上に寝かされた子熊は、浅い呼吸を繰り返し、まだ苦しそうにお腹を波打たせている。
傍らでは、三メートルを超える親熊が、不安そうに大きな鼻をぴくぴくと震わせていた。
「大丈夫よ、お母さん。今からこの子の中を『お掃除』するからね」
私は子熊を抱き上げ、哺乳瓶の先をその小さな口元へ運んだ。
甘いはちみつの香りに誘われたのか、子熊は本能的に吸い付き、黄金色のシロップを飲み込み始める。
「さあ、まずは胃の中をふやかしましょうね……。泡立ち、汚れ浮かし」
私は両手に、淡い桃色の光を纏わせた。
生活魔法と消毒魔法を複雑に編み込んだ、私独自の特別な魔力。
それがシロップに乗り、子熊の体内へと優しく浸透していく。
「――『生活魔法・体内すすぎ』」
本来は、繊細なクリスタル製の花瓶の内側や、入り組んだ細いパイプの中を洗浄するための魔法。
私の魔力は子熊の胃袋にこびりついた『影ネズミ』の呪いの残滓を、ひとまとめの「汚れ」として認識し、泡で包み込んでいく。
油の潤滑効果によって、それまで癒着していた禍々しい塊が、ツルリと滑るようにして出口へと誘導されていった。
「よし、手応えあり……。さて、効果が出るまで少し時間がかかるわね。その間に――」
私は、不安げに見守る親熊へと向き直った。
彼女の全身は、乾燥して固まった泥と、子供の看病のせいで、自分の毛づくろいをしていなかったのだろう。絡まった毛玉で酷い有様だ。
「お母さんも、今のうちに『お風呂』に入りましょうか! 子熊ちゃんが良くなった時に、綺麗なお母さんで迎えてあげたいでしょ?」
親熊は呆気にとられたような顔をしていたけれど、私の「不潔への拒絶」は止まらない。
私は特製のオレンジ洗剤を泡立て、巨大なブラシを手に取った。
バサバサだった赤い毛並みを、温かなシャワーと泡で丹念に磨き上げる。
泥が落ち、本来の鮮やかな深紅の毛がふわふわと蘇っていく。
あまりの心地よさに、親熊はいつの間にかうっとりと目を細め、最後には私の胸にボフッ、と大きな頭を預けて甘えてきた。
「ふふ、とっても綺麗。……あら、モップ。そんなに拗ねないの」
端っこで不機嫌そうに尻尾をパタパタさせている銀狼を宥めながら、私は子熊の様子を伺った。
不意に、子熊の体が大きく跳ねた。
「――っ、来るわよ! ほら、もうすぐ出るわよ……えいっ!」
私が背中を優しく叩くと、子熊は「ゲプッ」と、小さな体に似合わない大きなげっぷをした。
それと同時に。
その口から、形を失った真っ黒な煙の玉が、勢いよく飛び出した。
それは子熊の命を蝕んでいた、影ネズミの呪いの核。
空中で異様な叫び声を上げ、逃げ場を求めてうねる漆黒の塊。
けれど、それを逃がすほど、うちの看板犬は甘くない。
「――カブリッ」
待機していたモップが、電光石火の動きでその煙を一口で咬み砕いた。
霧散する黒い瘴気。
モップは「ん、ピリッとしていて意外と美味いな」と言わんばかりの涼しい顔で、ぺろりと唇を舐めた。
「きゅう……っ、きゅうう!」
呪いが消え、子熊の瞳に生気が戻った。
パンパンだったお腹は元通りになり、呼吸は深く、穏やかになる。
その体から溢れ出した魔力の光が、バサバサだった毛をフカフカの質感へと一瞬で変えていった。
「良かった……。お掃除完了ね」
私は、安心しきって眠りについた子熊の柔らかな頭を、そっと撫でた。




