第3話「押しているのに、崩せない。」
試合当日の朝、凪はなぜ自分がここにいるのかを改めて考えた。
考えた結果、全部空のせいだという結論になった。いつもそうなる。出発点に戻るたびに空がいる。なぜそうなっているのかを説明しようとすると複雑になるので、説明しない。とにかく今日、凪は女子サッカーの試合の監督をする。なぜかそういうことになっている。
グラウンドへの道を、空と並んで歩いた。空が腕を絡めている。いつものことだ。いつものことすぎて、もう指摘する気にもなれない。
「今日、楽しみ」
「そうか」
「楽しみじゃないの、凪」
「監督は楽しむものじゃない」
「なんで」
「責任があるからだ」
空がしばらく考えてから「じゃあ凪は責任を楽しんでる」と言った。
凪は何も言わなかった。
違う、とは言い切れなかった。言い切れなかった理由を考え始めて、考えるのをやめた。そういう話じゃない。そういう話にしない。
相手校がすでにグラウンドに来ていた。
ウォームアップの動きが揃っている。ベンチ含めて三十人近くが同じリズムで動いている。パスを出す音、受ける音、ステップの音。ひとつひとつが正確だ。連携が染み込んでいる。練習量の差が、見ているだけで伝わってくる。
こちらの十人は、それを見ていた。
黙って見ていた。見ながら、各自が何かを考えていた。「勝てるか」という考えと「やるしかない」という考えが混在しているのが、背中の緊張具合でわかった。
砂原恵が立花律を見た。にこっとした。
「久しぶり。体調悪いって聞いたけど」
「問題ないです」
「そう。無理しないでね」
笑顔だった。悪意のある笑顔ではない。心配している笑顔だ。それが余計だった。律にとって、悪意のない「無理しないで」は、悪意のある挑発より刺さる。格差を格差と思っていない人間の笑顔だった。
空が「あ、きれいな人いる」とふらっと砂原の方向を向いた。
凪が空の肩をつかんだ。「こっちに来い」
「えー」
「来い」
引っ張った。砂原が「……誰あれ」と隣に聞いた。隣が「わかんない」と答えた。「助っ人らしい」「ふうん」。砂原は三秒だけ空を見た。それで終わった。
まだその程度だった。
芦田と東はグラウンドの外のフェンス沿いに立っていた。
「アニキ……」と東が言った。
「落ち着け」と芦田が言った。
「落ち着いてます」
「落ち着いてない」
「いや落ち着いてます。ただ、相手がなんか、すごく」
「見るな」
「え」
「相手を見ると飲まれる。アニキたちを見ろ」
東がこちらを見た。凪が立花に何か言っている。立花がうなずいている。空が空を見上げていた。
「……なんか、大丈夫な気がしてきました」
「そうだ」
「なんでですか」
「アニキがいるから」と芦田が言った。理由としてそれ以上の説明はなかった。
キックオフ。
強豪校がボールを持った。
横へのパスが速い。一本、二本、三本。リズムが一定だ。乱れない。こちらのプレスが嚙み合わない。寄せようとすると、その前に出ている。
「待て」
凪が言った。立花が後ろに伝えた。
「トリガーまで追うな。引いていい」
部員が止まった。引いた。ブロックを作った。中央に人が集まる。
強豪校が中央を使おうとした。入れない。外に回した。
右サイドからクロスが上がった。
ぼんっ、と音がした。立花が跳ね返した。
また繋がれた。また外に出てきた。また跳ね返した。
砂原が「なんで中に入れないの」と言った。苛立ちではなく、確認する口調だった。隣の部員が「中、固いな」と言った。「外から行く」「クロスで崩す」「それでいい」
計算している。計算が正しい。強豪校の判断は間違っていない。中が固ければ外から使う。クロスを入れ続ければいずれ崩れる。こちらの体力が先に尽きる。それが彼女たちの正解だ。
凪にはそれがわかっている。わかっているから、動じない。
空がライン間で動いていた。ボールが来ない。来ないが、動いている。砂原の視野の端に、空の動きが何度か引っかかった。引っかかったが、まだ優先度が低い。中央を固めている相手に、ライン間を使わせなければいい。そう判断した。正しい判断だった。今は。
二十分が経った。スコアレス。
強豪校のポゼッションが続いている。シュートが三本打たれていた。二本は枠の外。一本はGKがセーブした。決定機が一度あったが、立花が体を張った。右腕でブロックした。痛かったはずだ。律は顔に出さなかった。
こちらは何もできていない。ポゼッションを取れていない。ボールを持つと前に出せない。奪ったら縦に早く出す、という指示通りにやろうとしているが、縦のコースが塞がれている。
強豪校ベンチから声が上がり始めた。「もっと前から行って」「ゴリゴリ行っていい」「もう崩れるから」
そう思うのは正しい。崩れるはずだった。
「いまのままでいい」
凪が言った。「SBの戻りを見ておいて。右が少し遅い」
立花が後ろに流した。
砂原がもう一度空を見た。今度は少し長く見た。
「……あいつ、誰」
隣が「知らない。でも」と言った。
「でも?」
「動き方が変。一般人じゃない」
砂原がうなずいた。「マークつけて」
空への対応が一段上がった。マーカーが一人つく。空の自由度が下がる。それが正しい対処だった。
しかし。
マーカーが一人動いた。ということは、その分だけ中盤に穴が開いた。一人が空の後ろに張り付いた分、別の場所が薄くなった。
「今だ」
凪が言った。「縦に入れろ」
一本のパスが縦に入った。
空がワンタッチで前を向いた。
マーカーが来た。もう一人来た。三人目が来た。三人が集まった。
空の中で、何かが切り替わった。
三人が来た。三人が来たということは、三人分の場所が空いたということだ。人が動けば、その分どこかが空く。どこかに誰かがいる。
左サイドを見た。空いていた。
パスを出した。
受けた部員がシュートを打った。
枠の外に出た。
「……いま何が起きた」と砂原が言った。
誰も答えなかった。答えられる人間が、その場にいなかった。
砂原の顔から、「調整試合」という空気が消えた。
前半終了のホイッスルが鳴った。
スコアレス。
強豪校の選手たちがベンチに戻っていく。首をかしげながら戻っていく。「なんで崩れないんだろ」という顔をしている。何かが想定と違う、という顔だ。
なんで崩れないのかは、凪にはわかっている。崩させなかった。穴を最初から設計して、穴以外は入れなかった。穴に誘導して、穴のところで跳ね返した。崩れないように作った。
それを説明する必要はない。
「前半、よくやりました」
凪は立花に言った。
立花が「やれましたか?」と聞いた。
「やれました」
立花が短くうなずいた。目が赤くはなかった。赤くなる手前の目だった。こらえているのではなく、まだそこまで来ていない目だ。試合の途中の顔をしている。
部員たちがその周りに集まってきた。息が上がっている。脚が重そうだ。水を飲む手が少し震えている部員が一人いた。それでも誰も座らなかった。全員立ったまま、凪の方を向いた。
「後半の話をします。五分で終わります」
凪が言い始めた。
芦田がフェンス越しに、東に小声で言った。
「いけるぞ」
「え、前半何もできてなかったじゃないですか」
「それでいい」
「それでいいんですか」
「まだ後半がある。向こうが崩せなかった分、焦る。焦ったほうが負ける」
東はグラウンドを見た。立ったまま話を聞いている十人と、淡々と話す凪が見えた。空だけが少し離れたところでボールを足元で転がしながら、グラウンドのどこかを見ていた。何を考えているのかは、東にはわからなかった。
なぜか東も「いける気がする」と思った。
なぜそう思うのかは、東にもわからなかった。




