第4話「空が、試合の意味を理解する。」
ハーフタイムの十分間は、短い。
グラウンドの端に十人が集まった。全員立ったまま凪を見ている。息が上がっている。膝に手をついている部員が二人いた。水を飲む手が止まらない部員が一人いた。疲弊している。それでも全員が凪の方を向いていた。空だけが少し離れたところで、ボールを足でくるくると転がしながら立っている。息は上がっていない。
「後半、相手は前から来ます」
凪が言った。声は低く、速くもなく遅くもない。
「今まで崩れなかったぶん、焦っています。プレスが速くなる」
「どうするんですか」と部員の一人が聞いた。
「同じです。ただ、SBが上がったら迷わず縦に入れる。そこが増える」
凪は一通り説明してから、空を見た。
「空」
「うん」
「後半、ライン間がもっと広くなる」
空が「……うん」と言った。普通の「うん」より少し間があった。
「わかるか」
「わかる」
凪が少し間を置いた。
「わかってたのか」
「さっきの一回で」
立花が空を見た。「さっきの一回で、って何を」という顔だった。前半の終わり際、空が縦パスを受けてから三人を引きつけてパスを出した場面のことだろう、とは想像がついた。でも「あの一回で何がわかったのか」が、立花にはわからなかった。
空は説明しなかった。にこにこしていた。
立花は空を見てから、凪を見た。凪は特に驚いた顔をしていない。当然だ、という顔をしていた。
この人、本物だ、と律は思った。
なんとなく、という根拠しかなかった。でも確かにそう思った。
後半が始まった。
砂原が「前から行くよ」と言った。強豪校がプレスをかけてきた。
こちらのビルドアップが詰まった。相手が前から来ている。どこにも出せない。
「無理するな。GKまで戻していい」
凪が言った。GKにボールが戻った。相手がさらに追いかけてくる。GKがボールを持ったまま、どこに出すかを探している。
「SB出てきた。縦」
一本の縦パスが入った。
空がトラップした。
音がした。ぴたっ、という音だ。ボールが吸い付く音。律はその音を聞いて、昨日練習場で空がひとりでボールを蹴っていたときの音を思い出した。あのときも同じ音がしていた。
ここから。
空が振り向いた。
一人目が右から来た。空が右足のアウトサイドでボールを外に出した。一人目がそちらに体重を移した。次の瞬間、空はインサイドで同じボールを逆方向に引き戻した。ダブルタッチ。一人目の重心が完全に逆を向いた。空はその隙間を通り抜けた。
二人目が正面から来た。距離が近い。間合いが詰まっている。空が右足でボールを右外側に出した。二人目がそちらに反応した。空は右足のアウトサイドで、そのボールを今度は自分の後ろ側に巻き込んだ。エラシコ。二人目の体が空振りになった。空はもう一人目が来た方向とは逆に抜け出していた。
三人目が来た。今度は角度を消しに来た。空の進行方向を先読みして前に出てきた。
空が左足を大きく前に踏み出した。体が左に向く。三人目がそちらに反応した。その瞬間、空は体の向きはそのままに、右足でボールを逆方向へ送り出した。クライフターン。体と進行方向が完全に逆になった。三人目が止まれなかった。
三人が集まった。
空が顔を上げた。
左が空いていた。右も空いていた。右のほうに走り込んでいる部員がいる。左は空いているが、誰もいない。
空は右に出した。
右の部員がボールを受けた。ゴール前に走り込んでいる。GKが前に出てきた。距離が縮まる。右か左か。部員が右足を振り抜いた。コースを突いた。GKの手が届かなかった。
ゴールに入った。
ネットが揺れた音がした。
グラウンドが一瞬止まった。
鳥が飛んでいる音が聞こえた気がした。そんな音は実際には聞こえないが、それくらい静かな一瞬があった。
先に動いたのは、こちらの部員たちだった。
「入った!」
誰かが叫んだ。声がばらばらに上がった。律は何も言わなかった。言葉が出なかった。口が開いたまま止まっていた。
砂原が「……なんで右に出るとわかったの」と言った。
空にはわかっていた。三人が集まった瞬間、グラウンド全体が見えていた。左に誰もいないのも、右に走り込んでいる部員がいるのも、見えていた。三人に囲まれたまま、全部見えていた。
誰も答えられなかった。答えられる人間が、その場にいなかった。
空がこちらのベンチに戻ってきた。部員たちが口々に言っている。「すごい」「どうやったの」「見えた?」。空はにこにこしながら「楽しい」と言った。それだけ言った。
凪が「次の準備をしろ」と部員に言った。
先制してから、強豪校が変わった。
前がかりになった。プレスが激しくなった。一人一人の動きの強度が上がっている。怒っているのではなく、本気になっている。ここまで来て負けるわけにはいかない、という圧力が体の動き方に出ていた。
SBが攻撃参加する回数が増えた。右SBが上がったまま戻ってこない。
「ライン五メートル落とせ」
凪が言った。立花が後ろに伝えた。
「SB一枚前。右の裏を使う」
強豪校が中央から崩そうとする。SBが前に出ているぶん、右の裏が広い。こちらが引いているぶん、スペースがある。
空が低い位置まで下りてきた。ボールを受けた。前を向いた。
右の裏が広かった。
走り込んだ部員にパスを出した。
シュートが打たれた。
外れた。
でも打てた。
律は「いける」と思った。思った瞬間に、それを感じた。今まで半信半疑だったのが、信のほうに傾いた。なんでと聞かれても答えられないが、確かに傾いた。
強豪校のベンチが動いた。監督が選手交代を指示した。砂原がベンチに向かって歩きながら、交代で入る選手と短く話している。プレーが止まっている間、砂原がスタッフの言葉に耳を傾けていた。
凪は遠くからその様子を見ていた。焦っている。距離があってもわかった。試合前の「調整」という空気が消えている。崩せると思っていたものが崩れなかった。それどころか先制された。そういう顔をしていた。
凪はそれを確認してから、立花に言った。
「最後まで同じです」
立花がうなずいた。
なぜか凪はここにいた。
女子サッカーの試合の監督をしている。グラウンドの端に立って、指示を出している。十人の女子学生と空が凪の言葉を待っている。なぜそうなっているのかを説明しようとすると、また最終的に空に行き着く。行き着いたところで解決しないので、今は考えない。
考えている場合ではない、というのが正確だった。
試合が再開した。
強豪校が戻ってきた。陣形が少し変わっていた。中盤が前に出てきた。前からの圧力を強める気だ。こちらのビルドアップを潰しに来る。
「変えてきた」
立花がラインの際まで出てきた。凪が短く声をかけた。「中盤が前に出てきます。GKへのバックパスを狙われる。GKはワンタッチで出す練習をしていますか」
「していません」
「ならGKには返さない。SBで回してください」
立花がうなずいてすぐにポジションに戻った。凪の指示が立花を経由してグラウンドに伝わる。立花の声で伝わるから、部員が受け取る。その仕組みが今日の試合の間に自然にできていた。
強豪校がプレスをかけてきた。
こちらのSBがボールを持った。中盤が寄ってくる。SBが逆サイドに展開した。逆サイドのSBが受けた。前を向いた。縦のコースを探した。
「縦ーー!!」と凪が叫んだ。珍しく、叫んだ。
行けた。一本の縦パスが入った。空がトラップした。
ぴたっ、と吸い付く音がした。
三人が来た。
空が止まらなかった。
一人目が正面から来た。空が右足のインサイドでボールを左に流した。一人目がそちらに体重を移した。空はそのまま右足で引き戻さなかった。左足で前に運んだ。一人目の重心が完全に逆を向いた。ヒールフェイント。空はその横をすり抜けた。
二人目が斜め前から来た。角度を消しに来ている。空が一歩下がった。間合いが空く。二人目が前に出た。出た瞬間、空の体が半身になった。右足でボールを右外側に出した。二人目がそちらに動いた。空はインサイドで同じボールを左後ろに引き戻した。スクープターン。二人目が空振りになった。空はもう前を向いていた。
三人目が来た。今度は距離を置いて来た。前の二人がどうなったか見ていた。慎重に来た。
慎重に来た、ということは、止まる準備をしている、ということだ。
空がアクセルを踏んだ。
真っすぐ突っ込んだ。三人目が後退した。その瞬間、空が左足で急ブレーキをかけた。三人目の体が完全に止まれなかった。空はその一瞬で右側をすり抜けた。
三人が集まった。
空が顔を上げた。
右は埋まっていた。左が空いていた。左の深いところに走り込んでいる部員がいた。
空は左に出した。
受けた部員がゴール前に持ち込んだ。GKが前に出てきた。シュートを打った。
GKが横っ飛びで弾いた。
こぼれ球が転がった。別の部員が詰めた。シュートを打った。
ゴールポストに当たった。入らなかった。
強豪校のGKが拾った。
凪は「今のでいい」と言った。誰に言うでもなかった。
芦田がフェンスの外から「うわああ」と叫んだ。東が「惜しかったですね」と言った。芦田が「ああ」と言った。二人とも、それ以上何も言わなかった。
残り十分になった。
こちらの部員の足が重くなっていた。強豪校のプレッシャーは本物だ。一本一本のパスが速く、一人一人のプレスが強い。前半から積み上がった消耗が、体だけでなく判断にも乗ってくる。それでも誰一人止まっていなかった。動き続けている。
強豪校もきつそうだ。前半から走り続けているのはお互いさまだ。ただ、強豪校の場合はきつい上に「なぜ崩れないのか」という疑問が加わっている。体力の消耗と精神的な疲弊が重なっている。
砂原が「もう一回整理するよ」と声をかけた。味方に向けて言っている。落ち着かせようとしている。キャプテンとして、きちんと機能している。
強豪校がボールを持った。中央から入ろうとする。入れない。外に回す。クロスが上がった。立花が跳ね返した。
また中央から入ろうとした。入れない。外に回した。
こちらがボールを拾った。
「縦」と凪が言った。
縦に出た。空に入った。
空が受けた瞬間、砂原が「9番!」と叫んだ。
二人が来た。三人目が来た。
空は今日何度も同じ場面を経験していた。三人来た。どこかが空く。その空いた場所に誰かがいる。
今回は右だった。
右に出した。
受けた部員がシュートを打った。
GKが横っ飛びで弾いた。
コーナーキックになった。
「よし」と凪が言った。
コーナーキックを蹴った。ニアに入った。立花が頭で合わせた。ポストに当たった。入らなかった。
強豪校がクリアした。
律は息を吐いた。膝に手をつきたかった。つかなかった。
残り五分。
「押せ」と凪が言った。「向こうの足が止まってきた。スペースがある」
強豪校の動きが重くなっていた。引いたのではなく、足が動かなくなってきている。こちらが前に出る。
ボールを繋いだ。前に出た。
空がライン間で受けた。振り向いた。ゴール前にスペースがあった。
ドリブルで持ち込んだ。GKが前に出てきた。GKと一対一になった。
空がシュートを打った。打つ瞬間、DFが体を預けてきた。ファールまがいの当たりだった。芯を外した。
GKがセーブした。GKはボールを抱えずに素早く前に蹴り出した。最初から狙っていた。カウンターの布石だった。
ボールが前に出た瞬間、強豪校が走り出した。全員だった。引いていた分を取り戻すように、一気に前に出てきた。
「来るぞ!!」
凪が叫んだ。
クロスが上がった。GKが弾いた。こぼれ球が転がった。強豪校のDFすら前に詰めてきた。ポジションを捨てて来ていた。ゴール前はがら空きだった。誰もいなかった。
しかし、空が戻ってきていた。
どこから来たのかわからなかった。トップ下のポジションから全速力で戻っていた。強豪校のDFより一歩早く、ボールに飛び込んだ。体ごとぶつけた。ボールがラインの外に出た。
コーナーキックになった。
タイムアップのホイッスルが鳴った。
勝った。
しばらく、誰も動かなかった。
こちらの部員が何人か崩れ落ちた。膝をついた。座り込んだ。一人が泣いていた。泣いているのに声が出ない。口を押さえて、肩が震えている。
律は泣かなかった。
泣かなかったが、目が赤くなっていた。どうにもならない。
砂原がこちらに歩いてきた。立花の前に立った。しばらく律を見た。
「……やるじゃん」
「覚えてましたか」
少し間があった。
「覚えてる。県選抜のとき、あんたのポジショニングが気になって声かけたんだよ」
律の胸の中で何かが動いた。否定されたと思っていた。ずっとそう思っていた。
「……気になったんですか」
「うん。直してほしかっただけ。嫌いだったわけじゃない」
律はしばらく何も言えなかった。
「また試合しましょう」
砂原が少し目を細めた。「今度は負けない」
「負けません」と律は言った。
空が「楽しかった!」と言いながら砂原に近づいた。砂原が空を見た。
「……あなた、サッカーいつからやってるの?」
「今日が初めてです」
砂原が止まった。
「ほんとは格闘技の人です」と空が言った。
「格闘技の人がなんであんなに」
「凪が好きだから」
砂原が律を見た。律が砂原を見た。
「……そういう話じゃないよね」と砂原が言った。
「そういう話じゃないですね」と律が言った。
凪は「幼馴染なので」と言った。
二人が同時にため息をついた。
砂原が空を見た。今度は違う目で見た。
「……すごかった」
「楽しかった」と空が言った。
砂原が少し笑った。
東が芦田に「どうでしたかアニキ」と話しかけていた。
「えらかった」と芦田が言った。
「え、俺ですか」
「お前じゃない。サッカー部の子たちが」
「ああ」東がうなずいた。「えらかったですね」
「お前もえらかった」
「え、俺も?」
「偵察行ったろ」
「あ。でも追いかけられて」
「それでもえらい」と芦田が言った。「ただし」
「ただし?」
「顎が上がってたぞ。逃げるときに」
「今それですか」
「今だからだ」
東は「はあ」と言ってグラウンドを見た。部員たちがばらばらに喜んでいる。泣いている部員がいる。砂原と話している律がいる。空がにこにこしている。凪が「帰る」という顔をしている。
「芦田さん」
「なんだ」
「俺、なんか、今日来てよかったです」
芦田が「そうだな」と言った。それ以上の説明はなかった。
立花が凪に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「よくやりました」
「私じゃないですよ」
「全員です」
律は顔を上げた。凪は普通の顔をしていた。感動した様子もなく、特別何かを感じている様子もなく、ただ普通だった。
「……音無さんは、今日どうでしたか」
凪が律を見た。
「なんですか」
「なんか、感想とかないんですか」
少し間があった。
「勝てると思っていたので、勝てました」
「それだけですか」
「それが全部です」と凪が言った。
律がため息をついた。笑いがこみ上げてきた。泣くか笑うかどちらかだったが、笑いが先に来た。
「もうやりません」と凪が言った。
「……え」
「次から普通に戦ってください」
「あの、またお願いできないですか」
「できません」
「なぜ」
「静かに生きたいので」
律が「……そういう人なのか」という顔をした。そういう人だった。
帰り道。
グラウンドを出たところで、空が凪の腕を絡めた。体温が高い。いつもそうだ。歩幅が合っている。これもいつもそうだ。
「好きだよ、凪」
凪はしばらく黙った。
「……今日は疲れた」
「ごはん食べよ」
「飯か」
「うん。おいしいもの食べよ」
凪が何か言おうとした。やめた。
「……どこがいい」
「凪が決めて」
「わかった」
「あ、でも和食がいい」
「……」
「あと駅から近いとこ」
「……」
「あとおいしいとこ」
「注文が多すぎる」
凪がため息をついた。
空が腕に力を込めた。体温が高い。歩幅が合っている。
静かに生きたい、と凪は思った。
思ったが、今日はそこまで悪くなかった気がした。




