第2話「偵察というものは、こんなに大変なのか。」
東巧海は、スパイ活動というものを舐めていた。
正確には「スパイ活動をすることになる」とは思っていなかった。姉さんに呼ばれて練習場に行ったら、知らない間に私立大学の偵察を命じられていた。断る隙がなかった。空が「お願い」と言った瞬間、断る選択肢が東の頭から消えた。「お願い」の一言でそうなるのは問題があると思うが、空が言うと「お願い」の密度が違う。なんというか、断ったあとの罪悪感の重量がすでに見えている。
だから来た。
強豪私立大学、グラウンド裏のフェンス沿いに、東はしゃがんでいた。
練習が始まっていた。整然としている。パスの速さが違う。トラップの音が違う。走るコースが迷いなく、全員が同じ絵を共有しているような動き方だ。東はボクシング部なので細かいことはわからないが、「本物だ」という感触はある。
スマートフォンを構えた。
撮れている。順調だ。このまま十五分撮って帰ればいい。凪に渡せばいい。自分の仕事はそれだけだ。
フェンスに肘が当たった。
がしゃん、と音がした。
マネージャーらしい部員が振り返った。目が合った。スマートフォンを構えたまま、フェンス越しにしゃがんでいる男が一人。どう見ても怪しい。
「変な人いる!」
一声で伝播した。練習が止まった。数人がこちらを向いた。
「ちょっと待て!」
東は走った。本気で走った。後ろから複数の足音がついてきた。サッカー部の走り方だ。真っすぐ速い。体重移動が無駄ない。普通に速い。ボクシング部のフットワークで方向を変えながら、路地を二回曲がって、交差点を渡って、どうにか撒いた。
ベンチに座って、息を整えながら思った。変態だと思われた。
大学正門から少し離れた公園のベンチで、東は動画を確認した。
息が上がっている。走力の差があった。ボクシング部のフットワークで逃げ切ったが、あれはかなりギリギリだった。しかも追いかけてきた相手の走り方が、本物のサッカー部の走り方だった。真っすぐ速い。体重移動が無駄ない。競技者の走り方だ、と東は思った。本気で追いかけてきている。
動画を再生した。
最初の三分は撮れていた。ちゃんと映っている。その後は逃げながら撮っていたので、空と足元と地面が断続的に映っていた。木の幹が五秒映っていた。なぜか自分の顔が二秒映っていた。
合計十五分の動画のうち、まともなのは冒頭の三分だけだった。
東は凪にメッセージを送った。「一応撮れました」
返事が来た。「戻ってきてください」
東はベンチから立ち上がった。
空き教室に四人が集まった。凪、空、芦田錠、東だ。芦田は呼ばれていない。呼ばれていないが来ていた。「アニキの行くところには俺もいる」という理屈で最近どこにでもついてくる。凪は迷惑している。芦田は気にしていない。立花律は部員の練習があるので後から来る。
「お疲れ、東」
空が言った。東の顔が少し緩んだ。
「追いかけてきたんですよ、姉さん。普通に」
「大丈夫だった?」
「なんとか。でも映像が」
「見せろ」
凪が手を出した。東がスマートフォンを渡した。
再生した。
止めた。
戻した。
また再生した。別のところで止めた。
誰も喋らなかった。凪が画面を見ているとき、部屋の空気が少し変わる感じがする。会話の余地がない感じではなく、余計なことを言う気が失せる感じだ。芦田は腕を組んで黙っている。東は自分の動画の出来が心配で黙っている。空はにこにこしながら黙っている。理由が全員違う。芦田だけが東に小声で「走るとき顎が上がりすぎだ。アッパーをもらうぞ」と言った。東が「今それですか」と返した。芦田が「今だからだ」と言った。
五分が過ぎた。
「ハイラインです」
凪が画面から目を上げた。
「え」と立花が言った。立花はいつの間にか教室に来ていた。
「最終ラインが高い。中盤が前がかりで、トランジションに一瞬空く。SBが攻撃参加する癖がある。右SBは戻りが少し遅い」
「……三分しかまともに映ってないのに」と東が言った。
「あれば十分です」
東が自分のスマートフォンを受け取った。画面には足元と空が断続的に映っていた。これで何かわかるとは、東にはまったく思えなかった。思えなかったが、凪が言ったのでたぶん本当なのだと思うことにした。根拠は「凪が言ったから」だけだ。根拠としては薄いが、薄い根拠でも今は受け入れられる気がした。あのスパーリングを見てから、凪が「わかる」と言うことへの信頼係数が上がっていた。
「……勝てますか」
立花が聞いた。昨日と同じ質問だ。今度は映像を見た後に聞いた。
凪が少し間を置いた。
「勝てます」
室内が静止した。
芦田が「おお」と言った。東が「マジですか」と言った。空がにこにこしていた。
立花は何も言わなかった。表情は変わらなかった。変わらなかったが、何かが変わったのは、立花の目を見ていればわかった。
凪が「よくやりました」と言った。東が「ありがとうございます、アニキ」と言った。凪が「アニキって言うな」と言った。「すみません」と東が言った。凪が「次の準備があります」と立花に言って席を立った。
部屋を出る前に一度だけ立ち止まった。
「立花さん」
「はい」
「明日、朝から練習できますか」
「できます」
「わかりました」
出ていった。
残った四人の間に、少しの間があった。
「……アニキって何者なんですか」と東が言った。
芦田が「俺にもわからん」と言った。正直な返事だった。
翌朝、練習場には全員が揃っていた。
昨日よりは体調が戻っていた。まだ本調子じゃない部員が二人いた。それでも動ける部員は全員来た。律は前日夜に「無理するな」と言っていたが、全員来た。考えてみれば、あの夜を生き延びた十人だ。腹が強い。
凪が教室と同じ話を練習場でもした。黒板はないので、スマートフォンの画面に図を描きながら説明した。
「基本は4-4-1-1です。GKの前に最終ライン四枚、中盤四枚、1トップとトップ下の二枚が前」
「守備のコンセプトは三つ。中央を閉じる。外に誘導する。奪ったら縦に早く出す」
「相手は中央から崩すのが得意です。中央を閉じれば外に逃がせる。外からのクロスは跳ね返せる」
「前から行かない。引いて待つ」
部員の一人が「守りっぱなしですか」と言った。
「守りながら奪いに行きます。ただし全員で行かない。トリガーを決めます」
「トリガー?」
「後ろ向いたら行く。ボールが止まったら行く。それ以外は行かない」
立花が「正直に言います」と言った。「うちの守備、自信ないです」
凪が少し間を置いた。「知っています。だから中央封鎖だけに絞りました。一個だけできれば、他はついてきます」
部員たちの顔が少し変わった。最初は「難しそう」という顔だった。「一個だけ」という言葉で、少しだけ顔が変わった。全員ではない。二人か三人だった。それでいい、と凪は思った。最初から全員が変わる必要はない。
「空のポジションはトップ下です」
空が「うん」と言った。
「基本、自由でいい」
「うん」
「一つだけ覚えてほしいことがあります」
「なに?」
「前を向いた瞬間に仕掛けろ。迷うな」
空がうなずいた。
「三人来たら、どこかが空く」
「うん」
「そこに誰かがいるから、そこに出せ」
「わかった」
空の「わかった」は、他の返事より少し違う声だった。「うん」と「わかった」は同じ意味に聞こえるが、前者は受け取った合図で、後者は本当に理解した合図だ。その区別が凪にはわかる。幼馴染だからかどうかは知らないが、わかる。
「空が三人引きつければ、誰かが空きます。そこを使ってください」
立花が全員を見た。全員が立花を見た。
「やります」と立花が言った。部員が順番に頷いた。全員が揃ったわけではない。タイミングがバラバラで、最後に頷いたのは昨日からずっと体調が悪そうだった部員だった。一番遅かったが、一番深かった。
凪は「練習を始めましょう」と言った。
芦田が練習場の外のフェンスに寄りかかっていた。腕を組んで見ていた。隣に東が立っていた。
「……アニキ、なんか、本当に勝てそうな気しません?」
「する」と芦田が言った。「なんでかはわからん」
「なんでかわかんないのにするんですか」
「する」
東は前を見た。練習が始まっていた。ボールを蹴る音がした。走る音がした。凪が立花の隣に立って、短く何か言っている。立花がうなずく。また凪が言う。また立花がうなずく。そのリズムが、なぜか落ち着いている。
東にはわからなかった。わからないが、芦田と同じように「なんとなく勝てる気がする」という感覚が、じわじわと来ていた。
練習が終わった後、立花が凪の隣に立った。
他の部員はもう引き上げていた。空はまだグラウンドの端でボールを蹴っていた。一人で蹴っている。ゴールに向かって蹴るのではなく、壁に蹴って、跳ね返りをトラップして、また蹴る。それを黙々と繰り返していた。
律はそれを少し見ていた。
蹴り方が変だ、と思った。おかしい、というのではなく、見慣れた蹴り方と何かが違う。どこが違うのか説明できない。ただ音が変だ。ボールが壁に当たる音と、トラップするときの音が、律が知っている音と少し違う。
「……あの人、本当にルールだいたいなんですか」
凪に聞いた。
「だいたいだと思います」
「なんで確認しないんですか」
「大丈夫だからです」
律は凪を見た。凪は空を見ていた。空はまだボールを蹴っていた。
「……音無さんは、昔からああいう感じですか」
「どういう感じですか」
「いや、その」
律は言葉を探した。「なんでもできる」とか「すごい」とかではない。そういう言葉ではなく、もっと別の何かを聞こうとしていたが、言葉が見つからなかった。
「言葉が見つかりません」
「なんとなくわかりますが、大丈夫なんです」と凪が言った。
それで会話が終わった。
二人でしばらく空を見ていた。
壁に当たるボールの音が続いていた。トラップするたびにボールが吸い付くような音がする。律は一回、目を細めた。あの音はちょっとおかしい、とまた思った。
「練習ありがとうございました」
凪が言って、帰り支度を始めた。
「こちらこそ」
律は凪を送り出した後、もう少し練習場に残った。空がまだ蹴っていた。
明日、試合だ。
当たり前のことを当たり前に思った。でも、今日まで「試合だ」とこんなに普通に思えなかった。何かが変わっていた。理由を探すと、全部あの地味な二年生に行き着く気がした。それが少し悔しかった。
空が壁に向かってシュートを打った。ボールが壁の同じ場所に当たった。
もしかしていけるかもしれない、と律は思った。根拠はなかった。なかったが、確かにそう思った。




