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音無凪は静かに生きたい。でも速水空が許さない。 /  作者: よんまるよん
女子サッカー編

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7/10

第1話「なぜか女子サッカー部に空がいる。」

 音無(おとなし)(なぎ)が一人で歩ける日は、だいたい空が講義で別行動の日だ。


 今日はそれだった。一限から三限まで、空と時間割がかぶっていない。つまり三コマぶん、凪は平和だった。歩いていても誰かに飛びかかられず、声をかけられず、「好きだよ凪」が降ってくることもなく、ただ構内を移動するだけで移動できる。それが積み上がると小さな幸福になる。小さいが確かだ。


 昼過ぎ、食堂から外に出た。春の日差しが気持ちいい、という感想はあまりないが、悪くはない。人が少ない道を選んで歩いた。正確には「人が少ないルートを把握している」だけで、今は意識もしていない。もう習慣だ。


 女子サッカー部の練習場の近くを通りかかったのは、偶然だ。


 ボールを蹴る音がしていた。短い声。ホイッスル。走る音。凪は特に見ていない。競技場の端を通り過ぎながら横目に入るものが入っているだけで、立ち止まる気は一切なかった。


 立ち止まらなかった。


 のに、気がついたら凪の足が少し遅くなっていた。


 フェンス越しに、背の高い女子学生が選手たちと話していた。日焼けした肌、短く切った黒髪。キャプテンか、それに近い人間だろうというのは、他の部員との距離感を見ればわかった。深刻な顔で話している。深刻な顔というのは二種類あって、「どうしよう」という顔と「どうするか決めた」という顔だ。あれは後者だった。


 あ、関係ない、と凪は思った。


 前を向いた。


 二秒後にまた横目に入ってきたが、それも無視した。前を向いて歩いた。



 時系列を少し戻す。


 二週間前のこと。


 強豪私立大学の女子サッカー部から練習試合の申し込みが来た。相手のキャプテンが砂原(すなはら)(めぐみ)だとわかった瞬間、立花(たちばな)(りつ)は「やる」と返事をした。


 学内ではちょっとした話題になった。毎年全国に出るような相手と試合できるというのは、普通に名誉だ。律にとってはそういう話ではなかったが、それはどうでもよかった。


 県選抜で一緒だったとき、砂原にプレーを否定されてから、ずっと引っかかっている。向こうは覚えていないだろう、というのは、律自身がよくわかっていた。それが一番むかつく。だから試合をやる。


 試合は二週間後だった。


 そして試合二日前の夜、合宿施設の夕食が当たった。



 翌朝、動ける人間が激減していた。


 監督。コーチ。ベンチに入る予定だったメンバー。次々と脱落した。壮絶だった。最初に発症した部員が「おなかが」と言って倒れたのが午前六時で、二時間後には男子トイレまで借りていた。トイレ前の廊下に座り込んでいる部員が三人いた。一軍メンバーは四人しか残っていない。二軍から六人。合計十人。一人足りない。


「キャプテン、どうします」


 部員の一人が律に聞いた。律は一瞬だけ「中止」という言葉を頭に浮かべた。本当に一瞬だけ。


 浮かべて、消した。


「試合、やります」


 誰に言うでもなく言った。廊下にいた部員が静止した。三人が律を見た。二人がうなずいた。一人はまだ壁に手をついていた。体の具合がやや悪いのか、ただ眠いのか、どちらかはわからなかったが、それでも律を見てから、ゆっくりうなずいた。


 砂原に「試合できません」という電話をしている自分の声を、律は想像した。


 やめた。



 残った十人でポジションを組み直し、急ぎの練習を始めようとしていたとき、空がてくてく歩いてきた。


 練習場の端、芝の外側の通路だ。特に目的地がある歩き方ではない。何かを食べながら歩いていて、ちらっとこちらを見て、また前を向いて、また見た。律はその視線に気がついた。


 速水(はやみ)(そら)という名前を律は知っていた。入学式の一件は学内に広まっていた。あのとき律は広場の端から見ていた。空手部の主将が倒れる様子を、最初は何が起きているかよくわからないまま見ていて、地面に沈んだあたりでようやく把握した。そのとき空が「好きだよ、凪」と言って、相手の男子学生が「帰るぞ」と言った。


 律の中で、もしかして、という考えが浮かんだ。


「……あの」


 声をかけた。空が振り返った。思ったより顔が整っていて、一拍だけ律は黙った。にこにこしていた。


「助っ人として、試合に出てもらえませんか」


 言ってから、律は自分でも少し驚いた。説明が何もなかった。状況も、相手も、試合の日程も。いきなりお願いだけした。


「いいよー」


 即答だった。食べていたものを手に持ったまま、まったく迷わず言った。条件確認もない。内容確認もない。「いいよー」だった。


 律は一瞬、返答に詰まった。


「……サッカーをご存知ですか」


「ルールはだいたい」


「だいたい」


「うん」


 一応確認した。答えはだいたいだった。


 律は少し考えた。しかし入学式のあれを見ていたから、「ルールはだいたい」は気にならなかった。


「監督も兼ねて私がやりますので、よろしくお願いします」


「あ、凪がやるよ」と空が言った。


「凪さん?」


「監督とか」


 律が止まった。


「え」


「いけると思う」


「あの、ご本人の意向は」


「大丈夫」


「……大丈夫というのは」


「凪が来てくれれば大丈夫だと思う」


 律は「本人が知らないんじゃないか」という考えが頭をよぎった。よぎったが、空があまりにも確信のある顔をしていたので、口には出せなかった。


「……音無さん、ですよね」


「そう」


「あの、ご本人は」


「もう声かけてくるね」


 空が歩き出した。食べながら歩き出した。


 律は呼び止めそびれた。



 凪が飯を食っているとき、空が横に座った。


 いつもの席だ。凪の左斜め前に座るのが空の習慣で、その習慣にはすでに対抗する気力がない。食堂のこのテーブルの、この椅子は、空にとって自分の場所だ。特に言葉にしていないが、そういうことになっている。凪にとってはそうなっていないが、主張が通ったことがない。


「ねえ凪」


「なんだ」


「明日暇?」


「なんだ」


 もう一回「なんだ」と言ったのは、明日が暇かどうかより「なんの話をするつもりか」が先に来たからだ。空が明日の予定を確認するときは、だいたい何かある。


「女子サッカーの監督やって」


「帰る」


 立ち上がろうとした。空が手首を軽くつかんだ。


 立てなかった。


 手首をつかまれただけだ。握力で圧しているわけでもない。それなのに立てないのは、つかむ力の入れ方が的確すぎて、どう動いても次の対処が先に来るとわかっているからだ。凪が動けば空も動く。その次の手が全部見えている。それが骨の奥まで叩き込まれている。幼馴染というのは時に呪いだ。


「監督って何をする」


「試合の指示とか」


「わかるわけない」


「凪ならわかると思う」


「なぜ」


「なんとなく」


 なんとなく。一番困る理由だ。否定できない。


「相手は誰だ」


「強い大学らしいよ」


「こっちのチームが食中毒で10人しか動けなくて。だから私に助っ人に来てほしいって」


「10人しかいないのか」


「うん。食中毒で」


 凪が眉を上げた。


「うん。でも凪がいれば大丈夫だと思う」


「なぜ」


「なんとなく」


 同じ理由だった。理由と呼ぶには薄すぎるが、空の言い方に迷いがない。迷いがないのは困る。迷いがある人間の主張は「それは違うと思う」で返せるが、迷いがない人間には「違う」が刺さらない。経験則だ。


「……相手の映像を見ないと話にならない」


 言ってから、「しまった」と思った。


 やる気があるような発言をしてしまった。


「やった」と空が言った。


 手首が解放された。食堂の喧騒が戻ってきた。トレーの上の飯がまだそこにある。


 なぜ言ったのか、自分でもよくわからなかった。


 立花律がどんな顔で試合に臨もうとしているか、凪は見ていない。見ていないが、さっきの女子サッカー部の練習場で、深刻な顔で話していたキャプテンの後ろ姿が、なぜか一回だけ頭をよぎった。


 関係ない、と思った。


 思ったのに、よぎった。


 関係ない、とまた思った。



 翌日、凪は空に連れられて女子サッカー部の練習場に来た。


 断れたはずだ。断れなかったわけではない。ただ、来ていた。なぜ来たかというと、手順として「相手の映像を先に見る」という言質を取られていたからだ。取られたのは自分のせいだ。


 立花律が出迎えた。日焼けした肌、短い黒髪。昨日、練習場の外で遠目に見た人間だった。部員十人が後ろに並んでいる。


「音無凪です。よろしくお願いします」


 短かった。凪は余計なことを言わない習慣がある。習慣というか、余計なことを言うと状況が複雑になるので、言わないほうが結果的に楽だという経験則だ。


 沈黙があった。


「……あの、監督経験は」


「ない」


「サッカーの」


「見る程度です」


 また沈黙があった。


 部員の一人が隣に小声で言った。「これ大丈夫?」。隣が「わかんない」と返した。


 凪は特に気にしなかった。十人を見ていた。見ているというより、確認している感じで、一人ずつを順番に。視線が足首のあたりで一回止まる。重心を見ている。目の動きを見ている。正確に言うと、自分でも何を見ているかをそこまで言語化していないが、体が重心のある場所を自動的に探す。


「少し走ってもらえますか」


 凪が言った。「体力測定みたいに本気じゃなくていい。普通に」


 部員が走った。凪は黙って見ていた。メモを取らない。見ているだけ。


 五分後。


 一人ずつポジションを指定した。聞いた後、立花がおずおずと言った。「あの、中西さんはいつも右サイドバックなんですが」「左のほうが合います」「でも本人が」「本人に聞いてみてください」


 立花が中西に確認した。中西が少し考えてから言った。「……言われてみれば、左のほうが踏み込みやすい気がします」


 立花が凪を見た。


 凪はもう次の部員を見ていた。「動き出しのとき、右足に乗るのが速い。右軸のほうが自然です」と別の部員に言っている。


 なんでわかるんだ、という顔を立花がした。でも口には出なかった。


「相手の練習映像を見たい」


 凪が言った。立花が「……取れますか?」と聞いた。「誰かに頼めますか」


 立花が部員を見た。全員が、なんとなく視線をそらした。体調不良の人間がまだいる。試合前日に余計な動きはしたくない。各自、そういう正当な理由があった。


 沈黙が続いた。


 練習場の外から声がした。


「姉さん!」


 (あずま)巧海(たくみ)だった。ボクシング部の一年生で、芦田の後輩だ。空に会いに来ていたらしく、手を振りながら近づいてきた。


 凪が東を見た。


「お前は誰だ」


「ボクシング部の東です!」


「なんで来た」


「姉さんに呼ばれて」


 空が「私が呼んだの。なんか使えるかなと思って」と言った。


 凪は東を見た。少し間があった。


「今日これから、私立大学のサッカー場でスパイ活動をしてきてください」


「え」東が固まった。「スパイ、活動?」


「相手チームの練習を撮影してきてほしい」


「え、あの、それって」


 空が東を見た。「お願い」


「……わかりました」


 東が「やった役に立てる」という顔をした。立花が「……大丈夫かな」という顔をした。


 空が「大丈夫だよ」と言った。その根拠はたぶんなかった。



 部員が解散した後、立花が残った。


「あの」


「なんですか」


「本当に、できますか」


 凪は立花を見た。少し考えてから言った。


「何が聞きたいんですか」


「試合に、勝てますか」


 ちゃんと聞く人間だ、と凪は思った。「できますか」という曖昧な問いかけを自分で言い直した。たぶん、さっきまでも「できますか」と聞こうとしたんじゃなくて「勝てますか」と聞きたかったんだが、それを直接聞くのが怖かっただけだ。


「映像を見ないとわかりません」


「わかりませんか」


「相手の映像を見てから答えます」


 立花がしばらく黙った。


「……わかりました」


 嘘を言わない人間だ、と律は思った。思ったが口には出さなかった。「勝てる」という言葉を根拠なく言われるより、条件付きの返答のほうが、なぜかましだった。


 凪は立花を見ていた。意地が顔に出ている人間だ。折れないタイプ。十人しかいない状態で試合をやると決めた人間の顔は、こういう顔をしている。


 どうするかは映像を見てから、と凪は思っていた。思っていたが、なぜかもうすでに構造を考えていた。


 どこかに穴がある。穴があれば、そこを突けばいい。


 空が「帰ろっか」と言いながら凪の腕に絡みついてきた。体温が高い。歩幅が合わない。引きずられる感じで歩き出した。


「好きだよ、凪」


 凪は前を向いたまま「……監督をやらされている間は言うな」と言った。


「なんで」


「集中できない」


 空が少し間を置いてから「じゃあ試合終わったら言う」と言った。

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