第1話「なぜか女子サッカー部に空がいる。」
音無凪が一人で歩ける日は、だいたい空が講義で別行動の日だ。
今日はそれだった。一限から三限まで、空と時間割がかぶっていない。つまり三コマぶん、凪は平和だった。歩いていても誰かに飛びかかられず、声をかけられず、「好きだよ凪」が降ってくることもなく、ただ構内を移動するだけで移動できる。それが積み上がると小さな幸福になる。小さいが確かだ。
昼過ぎ、食堂から外に出た。春の日差しが気持ちいい、という感想はあまりないが、悪くはない。人が少ない道を選んで歩いた。正確には「人が少ないルートを把握している」だけで、今は意識もしていない。もう習慣だ。
女子サッカー部の練習場の近くを通りかかったのは、偶然だ。
ボールを蹴る音がしていた。短い声。ホイッスル。走る音。凪は特に見ていない。競技場の端を通り過ぎながら横目に入るものが入っているだけで、立ち止まる気は一切なかった。
立ち止まらなかった。
のに、気がついたら凪の足が少し遅くなっていた。
フェンス越しに、背の高い女子学生が選手たちと話していた。日焼けした肌、短く切った黒髪。キャプテンか、それに近い人間だろうというのは、他の部員との距離感を見ればわかった。深刻な顔で話している。深刻な顔というのは二種類あって、「どうしよう」という顔と「どうするか決めた」という顔だ。あれは後者だった。
あ、関係ない、と凪は思った。
前を向いた。
二秒後にまた横目に入ってきたが、それも無視した。前を向いて歩いた。
時系列を少し戻す。
二週間前のこと。
強豪私立大学の女子サッカー部から練習試合の申し込みが来た。相手のキャプテンが砂原恵だとわかった瞬間、立花律は「やる」と返事をした。
学内ではちょっとした話題になった。毎年全国に出るような相手と試合できるというのは、普通に名誉だ。律にとってはそういう話ではなかったが、それはどうでもよかった。
県選抜で一緒だったとき、砂原にプレーを否定されてから、ずっと引っかかっている。向こうは覚えていないだろう、というのは、律自身がよくわかっていた。それが一番むかつく。だから試合をやる。
試合は二週間後だった。
そして試合二日前の夜、合宿施設の夕食が当たった。
翌朝、動ける人間が激減していた。
監督。コーチ。ベンチに入る予定だったメンバー。次々と脱落した。壮絶だった。最初に発症した部員が「おなかが」と言って倒れたのが午前六時で、二時間後には男子トイレまで借りていた。トイレ前の廊下に座り込んでいる部員が三人いた。一軍メンバーは四人しか残っていない。二軍から六人。合計十人。一人足りない。
「キャプテン、どうします」
部員の一人が律に聞いた。律は一瞬だけ「中止」という言葉を頭に浮かべた。本当に一瞬だけ。
浮かべて、消した。
「試合、やります」
誰に言うでもなく言った。廊下にいた部員が静止した。三人が律を見た。二人がうなずいた。一人はまだ壁に手をついていた。体の具合がやや悪いのか、ただ眠いのか、どちらかはわからなかったが、それでも律を見てから、ゆっくりうなずいた。
砂原に「試合できません」という電話をしている自分の声を、律は想像した。
やめた。
残った十人でポジションを組み直し、急ぎの練習を始めようとしていたとき、空がてくてく歩いてきた。
練習場の端、芝の外側の通路だ。特に目的地がある歩き方ではない。何かを食べながら歩いていて、ちらっとこちらを見て、また前を向いて、また見た。律はその視線に気がついた。
速水空という名前を律は知っていた。入学式の一件は学内に広まっていた。あのとき律は広場の端から見ていた。空手部の主将が倒れる様子を、最初は何が起きているかよくわからないまま見ていて、地面に沈んだあたりでようやく把握した。そのとき空が「好きだよ、凪」と言って、相手の男子学生が「帰るぞ」と言った。
律の中で、もしかして、という考えが浮かんだ。
「……あの」
声をかけた。空が振り返った。思ったより顔が整っていて、一拍だけ律は黙った。にこにこしていた。
「助っ人として、試合に出てもらえませんか」
言ってから、律は自分でも少し驚いた。説明が何もなかった。状況も、相手も、試合の日程も。いきなりお願いだけした。
「いいよー」
即答だった。食べていたものを手に持ったまま、まったく迷わず言った。条件確認もない。内容確認もない。「いいよー」だった。
律は一瞬、返答に詰まった。
「……サッカーをご存知ですか」
「ルールはだいたい」
「だいたい」
「うん」
一応確認した。答えはだいたいだった。
律は少し考えた。しかし入学式のあれを見ていたから、「ルールはだいたい」は気にならなかった。
「監督も兼ねて私がやりますので、よろしくお願いします」
「あ、凪がやるよ」と空が言った。
「凪さん?」
「監督とか」
律が止まった。
「え」
「いけると思う」
「あの、ご本人の意向は」
「大丈夫」
「……大丈夫というのは」
「凪が来てくれれば大丈夫だと思う」
律は「本人が知らないんじゃないか」という考えが頭をよぎった。よぎったが、空があまりにも確信のある顔をしていたので、口には出せなかった。
「……音無さん、ですよね」
「そう」
「あの、ご本人は」
「もう声かけてくるね」
空が歩き出した。食べながら歩き出した。
律は呼び止めそびれた。
凪が飯を食っているとき、空が横に座った。
いつもの席だ。凪の左斜め前に座るのが空の習慣で、その習慣にはすでに対抗する気力がない。食堂のこのテーブルの、この椅子は、空にとって自分の場所だ。特に言葉にしていないが、そういうことになっている。凪にとってはそうなっていないが、主張が通ったことがない。
「ねえ凪」
「なんだ」
「明日暇?」
「なんだ」
もう一回「なんだ」と言ったのは、明日が暇かどうかより「なんの話をするつもりか」が先に来たからだ。空が明日の予定を確認するときは、だいたい何かある。
「女子サッカーの監督やって」
「帰る」
立ち上がろうとした。空が手首を軽くつかんだ。
立てなかった。
手首をつかまれただけだ。握力で圧しているわけでもない。それなのに立てないのは、つかむ力の入れ方が的確すぎて、どう動いても次の対処が先に来るとわかっているからだ。凪が動けば空も動く。その次の手が全部見えている。それが骨の奥まで叩き込まれている。幼馴染というのは時に呪いだ。
「監督って何をする」
「試合の指示とか」
「わかるわけない」
「凪ならわかると思う」
「なぜ」
「なんとなく」
なんとなく。一番困る理由だ。否定できない。
「相手は誰だ」
「強い大学らしいよ」
「こっちのチームが食中毒で10人しか動けなくて。だから私に助っ人に来てほしいって」
「10人しかいないのか」
「うん。食中毒で」
凪が眉を上げた。
「うん。でも凪がいれば大丈夫だと思う」
「なぜ」
「なんとなく」
同じ理由だった。理由と呼ぶには薄すぎるが、空の言い方に迷いがない。迷いがないのは困る。迷いがある人間の主張は「それは違うと思う」で返せるが、迷いがない人間には「違う」が刺さらない。経験則だ。
「……相手の映像を見ないと話にならない」
言ってから、「しまった」と思った。
やる気があるような発言をしてしまった。
「やった」と空が言った。
手首が解放された。食堂の喧騒が戻ってきた。トレーの上の飯がまだそこにある。
なぜ言ったのか、自分でもよくわからなかった。
立花律がどんな顔で試合に臨もうとしているか、凪は見ていない。見ていないが、さっきの女子サッカー部の練習場で、深刻な顔で話していたキャプテンの後ろ姿が、なぜか一回だけ頭をよぎった。
関係ない、と思った。
思ったのに、よぎった。
関係ない、とまた思った。
翌日、凪は空に連れられて女子サッカー部の練習場に来た。
断れたはずだ。断れなかったわけではない。ただ、来ていた。なぜ来たかというと、手順として「相手の映像を先に見る」という言質を取られていたからだ。取られたのは自分のせいだ。
立花律が出迎えた。日焼けした肌、短い黒髪。昨日、練習場の外で遠目に見た人間だった。部員十人が後ろに並んでいる。
「音無凪です。よろしくお願いします」
短かった。凪は余計なことを言わない習慣がある。習慣というか、余計なことを言うと状況が複雑になるので、言わないほうが結果的に楽だという経験則だ。
沈黙があった。
「……あの、監督経験は」
「ない」
「サッカーの」
「見る程度です」
また沈黙があった。
部員の一人が隣に小声で言った。「これ大丈夫?」。隣が「わかんない」と返した。
凪は特に気にしなかった。十人を見ていた。見ているというより、確認している感じで、一人ずつを順番に。視線が足首のあたりで一回止まる。重心を見ている。目の動きを見ている。正確に言うと、自分でも何を見ているかをそこまで言語化していないが、体が重心のある場所を自動的に探す。
「少し走ってもらえますか」
凪が言った。「体力測定みたいに本気じゃなくていい。普通に」
部員が走った。凪は黙って見ていた。メモを取らない。見ているだけ。
五分後。
一人ずつポジションを指定した。聞いた後、立花がおずおずと言った。「あの、中西さんはいつも右サイドバックなんですが」「左のほうが合います」「でも本人が」「本人に聞いてみてください」
立花が中西に確認した。中西が少し考えてから言った。「……言われてみれば、左のほうが踏み込みやすい気がします」
立花が凪を見た。
凪はもう次の部員を見ていた。「動き出しのとき、右足に乗るのが速い。右軸のほうが自然です」と別の部員に言っている。
なんでわかるんだ、という顔を立花がした。でも口には出なかった。
「相手の練習映像を見たい」
凪が言った。立花が「……取れますか?」と聞いた。「誰かに頼めますか」
立花が部員を見た。全員が、なんとなく視線をそらした。体調不良の人間がまだいる。試合前日に余計な動きはしたくない。各自、そういう正当な理由があった。
沈黙が続いた。
練習場の外から声がした。
「姉さん!」
東巧海だった。ボクシング部の一年生で、芦田の後輩だ。空に会いに来ていたらしく、手を振りながら近づいてきた。
凪が東を見た。
「お前は誰だ」
「ボクシング部の東です!」
「なんで来た」
「姉さんに呼ばれて」
空が「私が呼んだの。なんか使えるかなと思って」と言った。
凪は東を見た。少し間があった。
「今日これから、私立大学のサッカー場でスパイ活動をしてきてください」
「え」東が固まった。「スパイ、活動?」
「相手チームの練習を撮影してきてほしい」
「え、あの、それって」
空が東を見た。「お願い」
「……わかりました」
東が「やった役に立てる」という顔をした。立花が「……大丈夫かな」という顔をした。
空が「大丈夫だよ」と言った。その根拠はたぶんなかった。
部員が解散した後、立花が残った。
「あの」
「なんですか」
「本当に、できますか」
凪は立花を見た。少し考えてから言った。
「何が聞きたいんですか」
「試合に、勝てますか」
ちゃんと聞く人間だ、と凪は思った。「できますか」という曖昧な問いかけを自分で言い直した。たぶん、さっきまでも「できますか」と聞こうとしたんじゃなくて「勝てますか」と聞きたかったんだが、それを直接聞くのが怖かっただけだ。
「映像を見ないとわかりません」
「わかりませんか」
「相手の映像を見てから答えます」
立花がしばらく黙った。
「……わかりました」
嘘を言わない人間だ、と律は思った。思ったが口には出さなかった。「勝てる」という言葉を根拠なく言われるより、条件付きの返答のほうが、なぜかましだった。
凪は立花を見ていた。意地が顔に出ている人間だ。折れないタイプ。十人しかいない状態で試合をやると決めた人間の顔は、こういう顔をしている。
どうするかは映像を見てから、と凪は思っていた。思っていたが、なぜかもうすでに構造を考えていた。
どこかに穴がある。穴があれば、そこを突けばいい。
空が「帰ろっか」と言いながら凪の腕に絡みついてきた。体温が高い。歩幅が合わない。引きずられる感じで歩き出した。
「好きだよ、凪」
凪は前を向いたまま「……監督をやらされている間は言うな」と言った。
「なんで」
「集中できない」
空が少し間を置いてから「じゃあ試合終わったら言う」と言った。




