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音無凪は静かに生きたい。でも速水空が許さない。 /  作者: よんまるよん
入学編

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第6話「こんなに測定結果がおかしいことってあるか。」

 近藤(こんどう)は体力測定の担当を十一年やっている。


 十一年だ。十一年というのは短くない。短くないどころか、それなりに長い。長い時間をかけて、近藤はこの仕事のだいたいを把握した。把握したと思っていた。思っていたが、それは今日までの話だ。今日以降は違う。今日以降の近藤は、「体力測定の担当を十一年やっている」という肩書きに、一文を付け加えなければならない。


 「それでも、見たことのないものがあった」という一文を。


 発端は、朝だった。



 体力測定というのは、毎年四月に行われる。新入生が対象で、グラウンドに集めて、順番に計測していく。五十メートル走、握力、立ち幅跳び、反復横跳び、ハンドボール投げ、長座体前屈。全部で六種目だ。六種目をこなせば終わり。終わったら記録用紙を回収して、集計して、提出する。シンプルだ。毎年同じことをやっている。毎年同じように終わる。


 はずだった。


 今年の四月は、そうならなかった。


 グラウンドに新入生が集まってきたとき、近藤はいつも通り準備をしていた。計測器のチェック、記録用紙の確認、担当者への指示。やることは決まっている。決まっていることをこなしていたら、視界の端に、少し気になる学生がいた。


 女子学生だ。黒髪をひとつに結んで、黒のジャージを着ている。背は高くない。体型は細い。細いが、整いすぎている。顔の作りが、近藤がこれまでの十一年で測定してきた学生の中で、おそらく一番整っていた。おそらく、というのは正確ではないかもしれない。確実に、と言っていい。黒のジャージを着ているだけで絵になる。何もしていないのに様になっている。ただ立っているだけで、周囲の空気が少し変わっていた。ただ、立ち方も違う。違うというのは、外見の話とは別の意味だ。重心の位置が見ていてわかる、という意味だ。重心がどこにあるかわかる立ち方をしている人間は、普通は少ない。たいていの学生は、ただ立っている。この学生は、立っている場所を知っている立ち方をしていた。


 まあ、そういうことだ——と、この時点の近藤は思っていた。


 その女子学生の少し後ろに、男子学生が一人いた。ぼんやりしている。特に何も考えていなさそうな顔だ。その男子学生が、女子学生に何か言った。遠くて聞こえなかった。女子学生が何か答えた。男子学生がまた何か言った。女子学生がうなずいた。


 短いやりとりだった。内容は聞こえなかった。ただ、やりとりの後、女子学生の顔が「わかった」という顔になった。なったが、その「わかった」が何を意味するのかは、この時点の近藤にはわからなかった。


 思っていたのが、間違いだった。



 最初の種目は五十メートル走だった。


 学生をスタートラインに並べて、順番に走らせる。計測器のスイッチを入れて、笛を吹いて、タイムを記録する。これを繰り返す。何度も繰り返してきた作業だ。単純だ。単純なはずだった。


 問題の女子学生の番が来た。


 スタートラインに立った。構えた。笛を吹いた。


 走った。


 タイムを確認した。


 もう一度確認した。


 計測器を軽く叩いた。変わらなかった。当然だ。計測器は正直だ。正直に、今起きたことを表示している。


「あの、もう一回走ってもらえますか」


「え、なんで?」


「確認のために」


「機械壊れてる?」


「壊れてはいないと思います」


 壊れていない。正常だ。正常に動いている機械が、正常に計測した結果がこれだ。これが正常な結果だ。それが問題だった。


 もう一回走ってもらった。


 同じだった。


 六秒三。


 男子のトップが六秒一だった。近藤は今日の測定が始まってから、男子学生が何人走ったかを覚えている。覚えているのは、六秒台で走った学生が今日一人だけだったからだ。一人だけの、男子学生のトップタイムが六秒一。それと同じ水準のタイムを、この女子学生は出した。しかも、息が上がっていない。上がっていないどころか、走ったことをもう忘れている顔だ。


「遅くない?」と学生が言った。


 近藤は一瞬、聞き間違えたかと思った。


「……速いです」


「でも全力じゃないよ?」


 全力じゃない。


 近藤は隣の担当者に小声で言った。


「男子のトップが六秒一だったんだが」


「……はい」


「女子でこれは」


「……何なんですかね」


 わかりません、というのは正直な答えだった。近藤にもわからなかった。わからないまま、記録用紙に数字を書いた。紙は正直だった。正直に、六秒三という数字を受け入れていた。近藤にはまだ受け入れられていなかったが、紙はそういうことを気にしない。紙は正直だ。



 次は握力測定だった。


 グリップを学生に渡す。学生が握る。数字が出る。記録する。これだけだ。これだけのことだ。これだけのことのはずだった。


 近藤が問題の女子学生にグリップを渡した。学生は受け取って、左手に持って、右手に持ち替えた。重さを確かめるような動作だった。こういう動作をする学生をあまり見たことがない。たいていはただ握る。


 握った。


 ぴーっ。


 エラー音が出た。


 近藤は機械を確認した。エラー表示が出ている。測定上限オーバーだ。今日は女子の測定なので、上限五十キロの機械を使っている。一般女性の平均が二十五キロ前後、上位アスリートでも四十キロ台というのが相場のはずだ。五十キロで上限に達する機械がエラーを出した。どこまで超えているかは、わからない。


 機械の不具合かと思った。思ったので、予備を出した。同じメーカー、同じ型番、今年の四月に校正済みのものだ。


「こちらでもう一度」


「壊れてた?」


「……壊れてはいないと思いますが」


 学生が握った。


 ぴーっ。


 同じエラー音がした。


 近藤は机の上に両手をついた。そうしないといけない気がした。理由は説明できない。ただ、そうしないといけない気がした。


「壊したな」と、どこかから声がした。


 振り返ると、測定エリアの外に男子学生が一人立っていた。特に表情がない。ぼんやりしている。女子学生と一緒に来た学生か、あるいは通りがかりか。どちらかはわからなかった。


「壊した? 本当に?」と女子学生が聞いた。驚いている顔ではなかった。純粋に確認している顔だった。


「壊れていない」と男子学生が言った。「お前の握力が上限を超えた」


「そうなんだ」


「そうだ」


 そうなんだ、で終わった。女子学生はそれ以上気にしていなかった。


 近藤は「計測不能として記録します」と言った。消え入りそうな声だった。自分でそう思った。



 立ち幅跳びは、着地位置を確認しに行って、足が止まった。


 測定ラインの外だった。


 巻き尺を当てると、二百五十センチ前後はある。女子の平均が百七十センチ台で、国内トップ選手でも二百センチ前後のはずだ。


 近藤は担当者と顔を見合わせた。


「どこから測りますか」と担当者が言った。


「踏み切りラインから」と近藤が言った。


 担当者が巻き尺を当てた。二百五十センチ前後、と言った。記録用紙に数字を書いた。書いてから、二人でその数字を見た。


 近藤と担当者は、どちらも何も言わなかった。


 言葉が見つからなかったというより、言葉を探す気力が少し減っていた。五十メートル走と握力で、すでに何かを消耗していた。消耗したぶんだけ、立ち幅跳びに割ける気力が減っていた。そういうことだ。そういうことなのだが、こうなるとは思っていなかった。



 反復横跳びは、カウンターを持った手が途中で止まった。


 止まったのは近藤の手だ。


 止まった、というのは、押せなくなったということだ。動きに手が追いつかない。女子学生が左右に動く速度に対して、近藤の指が動く速度が、物理的に追いつかない。ぴゅっぴゅっという靴底の音だけが規則正しく続いている。その音のたびにカウンターを押すという作業が、途中から不可能になった。


 止まった手を持て余しながら、二十秒が経つのを待った。


 笛を吹いた。


「何回でしたか」と学生が聞いた。


「百四回以上は確かです」と近藤は言った。


「以上?」


「途中から数えられなくなったので」


「ふうん」


 ふうん、で終わった。不満そうでも誇らしそうでもなかった。ただの情報として受け取っている顔だった。百四回以上という数字を、ただの情報として受け取れる人間が、この世界にどれだけいるのかを近藤は考えた。考えたが、答えが出る前に次の種目の準備をしなければならなかった。


 少し離れたところで、見ていた学生が何人かスマートフォンを出していた。検索している。一人が画面を見て「あ」と言った。声だけ出して黙った。


 近藤も後で調べようと思った。今は調べる気力がなかった。気力は有限だ。今日の近藤の気力は、すでにかなりの部分を消耗していた。



 ハンドボール投げの前に、近藤は少し後ろに下がった。


 なぜ下がったのかは説明できない。説明できないが、下がったほうがいい気がした。理由を求められても困る。十一年の勘だ。十一年でそういう勘が育った。育った勘が、今日初めて、後ろに下がれと言った。


「普通に投げればいいですか」と学生が聞いた。


「はい、普通に」と近藤は言った。


 今思えば、この返答が間違いだった。「普通に」という指示を出す前に、「普通」の定義を確認するべきだった。確認しなかった。十一年で一度も「普通に」という指示が問題になったことがなかったからだ。十一年で一度も問題にならなかった指示が、今日初めて問題になった。十一年というのは長いようで、まだ足りなかったのかもしれない。


 ボールがネットを越えた。


 越えてから、さらに飛んだ。


 グラウンドの外側に向かっていった。外側の植え込みを越えたところで、ぼすっという音がした。ボールが見えなくなった。


 全員が止まった。


 止まった、というのは文字通りの意味だ。動いていた人間が全員、動くのをやめた。グラウンドの空気が一瞬、固まった。固まってから、ゆっくりと溶けていった。溶けていったが、元の空気とは少し違った。何かが変わった後の空気だった。


「取ってきます」


 自分の口から言葉が出た。


 植え込みに向かって歩いた。歩きながら、今日という日のことを考えた。五十メートル走、握力、立ち幅跳び、反復横跳び、ハンドボール投げ。五種目で五回、近藤の常識が更新された。更新というか、上書きというか、あるいは破壊に近かった。


 植え込みの向こうに、ボールがあった。泥がついていた。近くで作業していた業者の男性が、怪訝な顔でこちらを見ていた。


「すみません」と近藤は言った。


 業者は何も言わなかった。言葉が見つからない顔をしていた。近藤にも言葉が見つからなかった。二人でしばらく、泥のついたボールを見た。


 共感というのは、こういうときに生まれるのかもしれない、と近藤は思った。思ったが、口には出さなかった。



 最後の種目は長座体前屈だった。


 マットに座って、足を伸ばして、箱の板を押す。柔軟性を測る。シンプルだ。


 女子学生がマットに座った。足を伸ばした。前に屈んだ。


 数字を確認した。


 七十センチだった。


 今日初めて、異常に高い数字が出た。


 近藤は少し混乱した。満点ラインが六十六センチのはずだ。それを四センチ上回っている。ネット上でたまに見かける非公式の最高記録が八十センチ台だという話を、近藤はどこかで読んだことがある。その水準に近い数字が、今日この測定で出た。


 近くにいた女子学生が何人か、今日初めて羨ましそうな顔をしていた。「なにそれ」と言っている声が聞こえた。「反則じゃん」という声も聞こえた。うなずいている気配があった。


 その声だけで、今日という日が少しだけ普通に戻った気がした。


 少しだけだが。



 測定が全部終わった。


 近藤は記録用紙を手に持ったまま、しばらくグラウンドに立っていた。


 五十メートル走・六秒三(全力ではないと本人談)。握力・計測不能(二台)。立ち幅跳び・二百五十センチ前後(記録欄外)。反復横跳び・百四回以上(途中から計測不能)。ハンドボール投げ・測定不能(ボール回収に要した時間・約三分)。長座体前屈・七十センチ。


 この記録用紙を、どう処理するか。


 そういう問いが、頭の中にある。


 隣に担当者が来た。


「どう記録しますか」


「わからない」


「上に相談しますか」


「……そうだな」


「前例ないですよね」


「ない」


「ないですよね」


「ないな」


 二人でもう一度記録用紙を見た。紙は正直だ。正直に、今日起きたことを記録している。問題は、この正直な記録を正式な書類としてどう扱うかだ。十一年で、そういう問題に直面したことはなかった。十一年の経験が、今日に限っては役に立たなかった。


 グラウンドの出口のほうに目をやると、女子学生が歩いていくのが見えた。ジャージ姿で、黒髪を結んだまま、歩いている。隣に男子学生がいた。さっき「壊れていない」と言った、ぼんやりした男子学生だ。女子学生が腕を絡めて歩いている。男子学生のほうは、普通に歩いている。


 普通に。


 今日一番難しい言葉だった。


 普通に、というのが、今日これだけのことが起きた後では、何を意味するのかがよくわからない。普通の基準が、今日の測定で少し動いた気がする。動いた後の基準がどこにあるのかは、まだわからない。


 近藤は記録用紙をファイルに挟んだ。


 来週、シャトルランが残っている。


 今から、少し憂鬱だった。


 少し、というのは、本当は少しではないかもしれなかった。ただ、少し、と思っておかないと、今夜眠れなくなる気がした。だから少し、と思うことにした。


 グラウンドに風が吹いた。


 春の風だった。普通の、春の風だった。


 今日一番、普通のものだった。

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