第5話「弟子というものは、こんなに目立つのか。」
音無凪の望みはひとつだ。静かに生きたい。
何度でも言う。静かに生きたい。派手なことは要らない。目立つことも要らない。大学に来て、授業を受けて、飯を食って、帰る。それだけでいい。それだけを望んでいる。その望みがなぜ叶わないのかについては、理由がある。理由は二つある。
一つは速水空だ。
もう一つは、今日から増えた。
芦田錠が、凪の三歩後ろを歩いている。
経緯を説明する。
昨日の午後、ボクシング部の体育館から出ようとしたところで、芦田に呼び止められた。
「待ってください」
振り返ると、芦田が立っている。さっきまで床に倒れていた人間とは思えない顔で。真剣な目で見つめていた。
「なんだ」
「俺を弟子にしてください」
凪は三秒黙った。
「断る」
「なんでですか」
「弟子を取る気がない」
「なんでですか」
「こっちが聞きたい」
「お願いします」
「お願いされても困る」
「アニキ」
アニキ。
凪は芦田を見た。真顔だ。冗談を言っている顔ではない。年上の顔をしていない。どう見ても凪より年上の、インカレチャンピオンの顔をしていない。そしてインカレチャンピオンの発言でもない。
「お前、俺より年上だろ」
「それはそうですけど」
「年上に弟子入りされる意味がわからない」
「アニキは強い。俺はアニキに負けた。負けた相手に弟子入りするのは当然です」
当然なのか。この論理は当然なのか。あまりにも突き抜けている発言の答えが見つからないまま、芦田がもう一度「アニキ」と言った。
結論から言うと、断り切れなかった。
なぜ断り切れなかったのかは、自分でもよくわからない。芦田の目が真剣すぎたせいかもしれないし、空がそばで「よかったね、凪」とにこにこしていたせいかもしれない。空がにこにこしていたのが一番いけなかった気がする。あの顔を見ると、何かを言う気が削がれる。それは昔からそうだ。
いずれにせよ、今日から芦田錠は凪の弟子になった。
凪は迷惑している。
キャンパスを歩いている。
右側に空がいる。腕を絡めている。いつものことだ。
左後方三歩に芦田がいる。184センチ、リーチ191センチ、強面、肩幅が壁みたいに広い。どう見ても大学生に見えない。歩いているだけで周囲が避ける。芦田自身は特に何もしていない。ただ歩いているだけだ。それでも避けられる。体格と顔がそういうことをさせる。
凪の周囲だけ、人が少ない。
静かといえば静かだが、これは凪が望んでいた静けさではない。
「アニキ」
「なんだ」
「今日の練習、何時からですか」
「決まってない」
「決めてください」
「そもそもお前のコーチではない」
「弟子のことを教えるのが当然ですよね」
「弟子を取った覚えはない」
「昨日、弟子にしてくれました」
芦田が繰り返す。全く同じトーンで、全く同じ言葉を。これは長期戦になる、と凪は思った。根拠はある。昨日の時点でこのやりとりを十二回やった。十二回やって、凪は一度も芦田を納得させられなかった。芦田の「昨日、弟子にしてくれました」には岩みたいな質感がある。どこにも隙がない。
「……放課後でいい」
「ありがとうございます、アニキ」
空が凪の腕をぎゅっとした。
「よかったね、凪」
「よくない」
「新しい仲間じゃん」
「仲間じゃない」
「姉さん、アニキのことよろしくお願いします」
芦田が空に言った。空が振り返って「任せて」と言う。二人の間で何かが完結していた。凪は関与していない。
前から歩いてきた男子学生のグループが、三メートル手前で進路を変えた。芦田を見た瞬間だ。芦田は何もしていない。ただ歩いているだけだ。
凪はため息をついた。
昼食の時間になった。
食堂に入ろうとしたところで、入口付近にいた学生が数人、さりげなく道を開ける。芦田のせいだ。芦田は「すみません」と言いながら通った。律儀で、曲がったことが嫌いな人間の「すみません」だった。
三人で席に着いた。
三人で、というのが既に問題だ。昨日まで凪の昼食は一人だった。正確には空がいたので一人ではなかったが、空はともかくとして、芦田が加わった時点で絵面が変わる。凪と空と芦田が横並びで食堂に座っている。周囲の視線が集まっているが、誰も直接見ない。横目で見る。
「アニキは何食べるんですか」
「A定食」
「俺もそれにします」
「別にお前が何を食おうと俺には関係ない」
「一緒がいいんで」
一緒がいい。その発想がどこから来るのかが凪には理解できなかった。昨日まで面識がなかった相手に対して、一緒がいい、という感情がどこから湧いてくるのか。
空がからあげを二個、凪の皿に乗せた。いつもそうだ。
「姉さん、俺にもください」
「はい」
空が芦田の皿にもからあげを二個乗せた。芦田が「ありがとうございます」と言う。妙に礼儀正しい。さっきまでインカレチャンピオンだった人間とは思えない素直さだった。
空の皿からからあげが消えた。空はからあげ定食を頼んでいた。なんのために頼んだのかは、よくわからなかった。
凪は味噌汁を飲んだ。熱い。
「アニキ」
「なんだ」
「昨日の試合なんですけど」
「試合じゃない」
「俺の左フックに合わせて右を出しましたよね」
「合わせたわけじゃない」
「でも入りましたよね」
「結果としてそうなった」
芦田がしばらく黙って、箸を置いた。
「俺、あの右が見えなかったんですよ」
「そうか」
「選手権勝ち抜いて、プロにも声かけてもらって、速い右なら大体見えるようになったと思ってたんですよ」
「そうか」
「見えなかった」
繰り返す。悔しそうに。本当に悔しそうに。そもそも外すつもりだったとは、とても言える顔つきではなかった。
「フックを出した瞬間、もう当たってたんですよ。出した瞬間に。フックが届く前に右が来てた。そんなことある?」
「お前のフックに入るタイミングで肩を開いた。向こうから乗ってきた」
「それって——」
「お前の踏み込みの速さを利用した。それだけだ」
芦田がまた黙った。今度は長い。
「アニキ、やっぱり弟子にしてください」
「さっきから断ってる」
「弟子にしてください」
頑なだった。どこにも隙がない。スポーツマンらしく、諦めるということを知らない。
午後の講義が終わった。
凪が建物を出ると、入口の前に芦田が立っている。待っていたのはわかるが、問題はその立ち方だ。腕を組んで、壁にもたれて、遠くを見ている。映画のワンシーンみたいな立ち方だった。ただし、年下の新入生をアニキと呼び弟子にしてくださいと懇願している登場人物の立ち方ではない。
芦田の周囲だけ、人がいない。半径二メートルが空いていた。
「待っていたのか」
「はい」
「講義、出なかったのか」
「出ました。終わってからここで待ってました」
「何分待った」
「三十分くらいですかね」
凪は何も言わなかった。
「アニキの講義、時間割見たんで」
「なんで俺の時間割を知っている」
「調べました」
「どうやって」
「事務室の一番若い女の子ですが、じつは俺の」
「やめろ」
「すいません」
素直に謝る。これが芦田錠という人間だ。曲がったことが嫌いで、素直で、情に厚い。女性が絡まなければ、おそらくまともな人間だった。昨日のナンパの件がなければ、凪はこいつを普通に評価していたかもしれない。
空が凪の腕を絡めてきた。どこから来たのかは把握していなかった。
「好きだよ、凪」
「なんだこのタイミング」
「照れちゃって!」
空が言った。
「姉さん」
芦田が空に軽く頭を下げた。
「アニキ、行きましょう」
「どこへ」
「練習です」
「お前の練習に付き合う義理は——」
「アニキ」
完全にスポ根に巻き込まれた。
ボクシング部の体育館に着いた。
部員が何人かいた。昨日とほぼ同じ顔ぶれだ。凪たちが入ってきたのを見て、全員の動きが一瞬止まる。止まってから、誰かが「また来た」と言った。抑揚がない。昨日の一件で何かが吹っ切れた人間の声だった。
「アニキ、ミット持ってもらえますか」
「持ち方を知らない」
「教えます」
「インカレチャンプがミット素人を相手にするつもりか」
「アニキ」
返答に詰まるときはアニキで返すようになった。スポ根。
結局、ミットを持つことになった。なぜそうなったのかは、途中から考えるのをやめた。芦田の「アニキ」にはなぜか劇画調の文字が入る。
ミットをはめた。芦田が構える。
正しい構えだ。昨日見た構えよりどこか落ち着いている。昨日は凪を軽く見ていた分だけ、構えにも隙があった。今日は違う。顎が引いてある。肘の位置が正確だ。重心が低い。これがインカレチャンピオンの本来の構えだった。
「いきます」
ジャブが来た。
速い。昨日も速かったが、今日はもう一段速い。本気の左ジャブだ。ミットがぱんっと鳴った。
続けて右ストレート。腰が入っている。体重が乗っている。ミットを通して圧力が来た。これは本物だ、と凪は思った。昨日の試合では、凪は芦田の右が届く前に外していた。だからわからなかったが、正面から受けるとこれだけの圧がある。
ジャブ、右、左フック。三連打だ。
ぱんっ、どんっ、ぱしっ。
一打ごとに質が違う。ジャブは速さ、右は重さ、フックは角度だ。三種類の攻撃を三種類の質で打ち分けている。これがインカレを勝ち抜いた人間の打ち方だった。
部員が見ていた。さっきまでの「また来た」という空気が変わっている。芦田が本気でミットを打つのを、黙って見ていた。そこには師弟愛のような空気すら感じられた。感じていたのは部員だけであるが。
「止めて」
芦田がぴたっと止まった。息が上がっていない。まだ全然余裕がある。
「右の踏み込み、もう半歩前で打て」
「え」
「踏み込みが浅い。だから重さが乗り切らない」
芦田が黙った。
「今の右でも十分重いと思ってるだろ」
「……はい」
「もう半歩踏み込んだらどうなるか試してみろ」
芦田が構えた。踏み込む。右を打った。
どんっ、という音が、さっきより低くなった。
芦田が目を開く。
「……重い」
「そうだ」
「全然違う」
「半歩の差だ」
芦田がしばらく自分の右手を見てから、凪を見た。
「アニキ、ありがとうございます」
「礼を言うな。俺はただ見ていただけだ」
「見ていただけで気づくのがすごいんですよ」
「……続けろ」
続けた。
ぱんっ、どんっ、どんっ、ぱしっ。音が変わっていた。さっきより全体的に重い。芦田が何かを掴んだ音だった。
部員の一人が隣の部員に小声で言った。
「あの人、何者」
「音無さん?」
「うん」
「知らない。でも昨日、錠さんを一発で」
「それは知ってる。そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「ミット持っただけでああなる? 普通」
誰も答えなかった。
一時間後、練習が終わった。
芦田が汗を拭きながら凪のところに来た。
「アニキ」
「なんだ」
「俺、世界獲ります」
唐突だった。唐突だったが、芦田の目は本気だ。冗談を言っている目ではない。さっきのミットの話の延長線上にある目だった。
「そうか」
「アニキに負けて、初めてわかったことがある」
「聞いてない」
「俺、まだ全然強くないっす」
凪は何も言わなかった。
「選手権獲って、プロにも声かけてもらって、自分が強いと思ってた。でも昨日、アニキに一発でノックアウトされて——」
「その話はいい」
「アニキ」
「世界を獲るかどうかは知らない。ただ、さっきの踏み込みは正しかった」
芦田が黙る。
「それだけだ」
「……はい」
「帰れ」
「はい。ありがとうございました、アニキ」
芦田が深く頭を下げた。それから空のほうを向いた。
「姉さん、アニキのことよろしくお願いします」
「任せて」
空がにこにこ言った。また二人の間で何かが完結した。凪は関与していない。
芦田が体育館を出た。出際に部員たちに「お疲れ」と言う。部員たちが「お疲れ様です」と返した。普通のやりとりだった。
部員の一人が、芦田が出ていった扉をしばらく見てから、凪のほうを向いた。
そういえば、と凪は思った。芦田はこのボクシング部の部員だ。ここは芦田の体育館だ。なぜ部員である芦田が先に帰って、部外者である凪が残っているのか。構造がおかしい。おかしいが、誰も指摘しなかった。芦田も指摘しなかった。凪も今まで気づかなかった。
「あの、音無さん」
「なんだ」
「錠さん、変わりましたね」
「そうか」
「なんか……いい顔してる」
知らんがな、とは言えなかった。
すごく青春していた。悦に浸っていた。それはわかる。わかるが、俺を巻き込まないでくれ、と凪は思った。俺は静かに生きたい。誰かの青春の踏み台になりたいわけではない。なりたくないのになっている。なぜそうなっているのかを説明しようとすると、また最終的に空に行き着く。
空が腕を絡めてきた。
「好きだよ、凪」
凪は前を向いた。何か言おうとして、やめた。
体育館を出る。外はもう夕方で、西の空が赤い。
静かに生きたい。
明日も芦田は来る。あの劇画調の「アニキ」がそう言っている。言葉ではなく、全身で言っている。
幼馴染だから、と思った。
「好きだよ、凪」
空がもう一回言った。
「さっきも言った」
「また言いたくなった」
「……帰るぞ」
空がぎゅっと腕に力を込めた。芦田が来る前と、力の強さが変わっていない。いつもと同じだ。それがなぜか、少しだけ、ほんの少しだけ——
いずれ凪は明日は芦田から逃げようと思っている。




