第4話「なぜかリングにいる凪。」
音無凪は今、ボクシングのリングの上に立っている。
なぜか。
理由は説明できる。できるが、説明したくない。説明すると自分がいかに理不尽な被害者であるかが浮き彫りになって、それはそれで虚しいからだ。ただ言えることは一つ——この状況を作ったのは凪ではない。凪は悪くない。断じて悪くない。そのことだけは声を大にして主張したい。主張したいが、対角のコーナーには芦田錠がいる。インカレミドル級チャンピオン。プロにも一目置かれる、日本人離れした体格のボクサー。百八十四センチ、リーチ百九十一センチ。そんな人間を前にして声を大にして何かを主張している場合ではなかった。
時間を少し巻き戻す。
発端は昼過ぎだった。
食堂を出たところで、凪は速水空が立ち止まっているのに気づいた。立ち止まっているどころか、知らない男子学生に話しかけられていた。長身で肩幅が広く、顔に根拠のある自信が宿っている。スポーツをやっている人間の体格というのはわかった。何のスポーツかはわからなかったし、知りたくもなかった。
凪は少し離れたところで待つことにした。
すぐ終わると踏んでいた。
終わらなかった。
男子学生の声が次第に大きくなってきた。声が大きくなるというのは、たいていろくでもない前兆だ。凪は仕方なく近づいた。
「だから客観的に見て、そいつより俺のほうがかっこいいだろ」
「うーん」
「うーんってなんだよ」
「凪のほうが好きだし」
「好みじゃなくて客観的な話をしてる」
「客観的に見ても凪のほうが好き」
空の返答は完璧だった。論理的に反論不可能という意味ではなく、この会話を永遠に終わらせないという意味で完璧だった。空が凪のほうが好きだと言い続ける限り、どんな客観的指標を持ち出しても話は噛み合わない。男子学生は気づいていないようだったが、これは詰んでいる。
男子学生が凪に気づいた。
「お前が音無か」
「そうだ」
「芦田錠だ。インカレミドル級チャンピオン」
「そうか」
「ボクシングで俺に勝ったら彼女は返してやる」
凪は空を見た。空はにこにこしていた。悪びれる素振りが一ミリもなかった。この展開を予期していなかったというより、この展開に問題があるとそもそも認識していない顔だった。
「返してもらわなくていい」
「え?」
「そもそも人を返す返さないという話をしている時点でおかしい。空は物じゃない」
芦田の顔が微妙な感じになった。正論を言われたときの顔だった。正論だとわかってはいるが引けない、という種類の顔でもあった。
「……じゃあ勝負なしか」
「そうだ」
「そうか」
終わった、と凪は思った。
思ったが、終わらなかった。
「まあ、お前が逃げるなら仕方ないけどな」
逃げる。
凪はその言葉を頭の中で一回転がした。転がした結果、別に逃げでも何でもないという結論が出た。正しい結論だった。帰るのは逃げではない。そもそもこの勝負に乗る義理がない。凪は何も悪くない。
「……わかった。やる」
口から出ていた。
なぜ。
凪は自分の口を疑った。疑ったが遅かった。芦田はもうにやっとしていた。売り言葉に買い言葉とはこのことだ。静かに生きたい人間が一番やってはいけないやつだ。わかっている。わかっているのにやった。
「凪」
空が言った。
「なんだ」
「ありがとう」
「礼を言うな。お前が余計なことを言わなければこうならなかった」
「え、私何か言った?」
言った。絶対に言った。この展開の起点はお前だ——と凪は言おうとして、空の顔を見て、やめた。本当に心当たりがない。これは演技ではない。速水空という人間は、自分が何を言ったか本当にわかっていないのだ。わかっていないまま毎回こうなる。そしてそのたびに凪が割を食う。これが四月のできごとだということが、凪には信じられなかった。入学してまだ四日しか経っていない。
ボクシング部の体育館というのは、凪にとって初めての場所だった。
リングがある。ロープが三段。コーナーポストが四本。部員が十人前後、壁際に並んでこちらを見ていた。話を聞きつけて集まってきた連中だろう。誰一人として止める気配がないのは、芦田錠がインカレチャンピオンだからだ。止める必要がないと思っている。そりゃそうだ。この状況を外から見れば、止める必要はない。止めるべきは別のところにある——という指摘は、今さらしても意味がなかった。
「グローブ貸してやる」
芦田がロッカーから出してきた。凪はそれを受け取った。
部員の一人が、入口近くに立っている空に声をかけた。
「あの、止めなくていいんですか」
「え、なんで」
「インカレチャンピオンですよ」
「うん」
「だからやばいですよ」
「凪がやるって言ったから」
部員が凪のほうを見た。凪は聞こえなかったことにした。
別のところで、部員同士の小声のやりとりが聞こえた。
「音無って、あの音無?」
「調教師とかいう?」
「名前だけ聞いたことある」
「強いの?」
「知らない。でも入学式の空手部の話、聞いた?」
「聞いた」
「あの隣にいたのがこいつらしい」
凪はリングに上がった。聞こえなかったことにした。
ここで正直に言っておくと、凪は負けるつもりだった。
理由は単純だ。負ければ空は芦田と付き合うことになる。付き合えば、空は芦田のほうへ行く。空が芦田のほうへ行けば、凪の隣は空く。隣が空けば、静かな生活が始まる。
完璧な計算だった。
我ながら最低だとは思った。思ったが、静かに生きたいという気持ちに免じて許してほしかった。
芦田が構えた。
さすがにきれいな構えだ。左肩が前に出て、顎が引いてある。肘が脇腹に近く、重心が低い。インカレチャンピオンは伊達ではない。凪はそれを見て、素直にそう思った。
ゴングの代わりに部員の誰かが「始め」と言った。
芦田がジャブを出した。踏み込みながらの左ジャブ、距離を詰めながら軌道を確かめる丁寧な打ち方で、リーチが長いぶんだけ射程も広い。凪はスリッピングアウェーで外した。
あ、遅い。
断っておくが、これは芦田のジャブが遅いという話ではない。芦田の左ジャブは十分以上に速い。インカレチャンピオンの看板は本物だ。ただ、凪の感覚においては——来る前にわかる。どこに来るかが見える。これは凪が生まれつきそういう感覚を持っているというだけの話で、芦田が遅いわけではなかった。芦田は悪くない。
二発目も外れた。芦田の目が変わった。
三発目、ジャブからの左フックにつないできた。踏み込んで距離を潰す意志のある入りで、体重が乗っていた。速い。これは速い。凪はその踏み込みの方向に半歩体を開いた。
カウンターを装って、うまく外して、うまくもらって負けよう。
そう思って、右を少し前に出した。
芦田の顔面に当たった。
ごんっ、と音がした。
芦田がキャンバスに倒れた。どすん、と音がした。
沈黙。
凪はグローブをはめた右手を見た。
当てるつもりはなかった。合わせただけだった。距離感を確かめるつもりで、軽く出しただけだった。当たるとは思っていなかった。
当たった。
レフェリー代わりの部員が固まっていた。固まったまま、芦田が倒れているキャンバスを見ている。見ているが動かない。何をするべきかわかっていない——というより、今起きたことをまだ処理しきれていない顔だった。
芦田は仰向けになっていた。目は開いている。体を起こそうとしているが、まだ起き上がれていない。首がどうこうではなく、単純に再起動中という様子だった。
部員たちの反応はばらばらだった。前に出た人間が二人、出口の方向を向いた人間が一人、口を開けたまま石になった人間が三人。
「え」と一人が言った。
「え?」と別の一人が五秒遅れて言った。
「今の何」
「わかんない」
「見えた?」
「見えてない」
「俺も見えてない」
「インカレチャンピオンが一発で?」
誰も答えなかった。答えられる人間がその場にいなかった。
芦田がやっと上体を起こした。頭を押さえながら「なんで」と呟いた。自分自身に向けた言葉のようだった。
凪はリングから降りた。グローブを外し、リングシューズを返した。受け取った部員が「あの」と言いかけて、やめた。
負けるつもりだったのに。
計画が、完全に崩れた。
「かっこいいよ、凪」
体育館の出口で、空が待っていた。いつから来ていたのかは知らない。凪がリングから降りるのを見ていたのか、終わってから来たのか、確認する気にもなれなかった。
「……ああ」
「かっこいいよ、凪」
「聞こえた」
「もう一回言いたい」
「聞こえてる」
「かっこいいよ、凪」
「三回目だぞ」
「かっこいいから三回言った」
廊下に出た。空がついてくる。歩幅が合っている。これはいつものことだ。
「ねえ凪、今の右どこから出したの」
「フックに入ってきたとこ」
「カウンター?」
「……まあそうなる」
「当たると思ってた?」
「思ってなかった。向こうのフックを外しながらもらいに——」
凪は途中でやめた。
空が凪を見ていた。にこにこしていたが、目が少し細くなっていた。
「もらいに?」
「……踏み込みに合わせて肩を開いたら、そのまま乗った」
「ふうん」
「それだけだ」
「ふうん」
空がもう一回言った。同じ言葉だったが、最初と温度が違った。凪は前を向いた。
「……それってカウンターより速いじゃん」
「そういうことになった」
空が三秒黙った。凪の体感では三十秒だった。
「かっこいいよ、凪」
「話を聞いてたか」
「聞いてた。かっこいいから言った」
凪はため息をついた。
静かに生きたかった。入学四日目にして、すでに三回は静かに生きられていない。今日もそうなった。しかも今日にいたっては、負けることで静かな夜を手に入れようとした計画が、体が勝手に動いたせいで瓦解した。体が勝手に動いた。凪の体は凪の計画より正直だった。それが今日一番の問題だったかもしれない。
幼馴染だから、と思った。
幼馴染だからこういうことになる——というのは、正確には正しくない。幼馴染であることと今日の一件に直接の因果があるかというと、ない。ないが、幼馴染でなければそもそもここにいないし、ここにいなければ今日はなかった。原因を辿ればそこに行き着く。全部幼馴染に集約される。
「ねえ凪」
「なんだ」
「今日も会えてよかった」
凪は前を向いたまま歩いた。
何か言おうとした。やめた。言葉がいくつか出かかって、全部引っ込んだ。引っ込んだ理由は特にない——というのは嘘かもしれないが、嘘かどうか確かめる気にもなれなかった。
「かっこいいよ、凪」
「もういい」
「まだ言い足りない」
「足りてる」
「足りてない」
空が腕に力を込めた。ぎゅっとした。体温が高い。いつもそうだ。
凪は振りほどかなかった。
振りほどかなかった理由は——幼馴染だから、と凪は思った。
さっきもそれを思ったことに、廊下を曲がりかけたところで気づいた。なんで二回思ったのかはわからない。わからないまま、静かな夜はまた明日に持ち越された。




