第3話「静かに生きたかった、という話。」
ざわめきはまだ続いていた。
主将が立っている。立っているが、目がまだどこかに行っている。凪はそれを見て、それから空を見た。空はにこにこしていた。詫びも試合も全部済んだことという顔だった。
凪が主将のところへ歩いた。
深々と頭を下げた。
「俺がついていながら、すいません」
主将が目を瞬かせた。
「……お」
やっと声が出た。
「おう」
今日初めてまともな声が出た、という顔だった。人間に戻りかけている。
「いや、その……」
言いかけて止まった。何を言えばいいのか、まだ整理がついていなかった。
空が凪の横に来た。にこにこしていた。
凪が頭を下げていた間、空が何をしていたのかは見ていなかった。主将がやっと人間に戻りかけていた理由も、正直よくわからなかった。
「ねえ凪、昨日の夜の技さあ」
「ああ? 今ここでいうな」
「やっぱり効くね。角度がちゃんとはまった」
「今ここでいうな」
主将がまた遠くなった。
周囲の反応はばらばらだった。固まった人が何人か、赤面して一歩下がった人が何人か、聞こえなかったふりをした人が一人。一人だけ首を傾けて、何かを真剣に考えていた。
「凪って上になるの好きだよね」
凪は小声で返した。
「……うるさい」
主将が口を開いた。何も出てこなかった。
「下からだと凪には絶対勝てないんだよね」
「グラップリングの話だ、うるさい」
「また今夜やろ」
「飯食ってからにしろ、うるさい」
周囲の新入生が小声でやりとりをしていた。
「……ねえ、これって」
「聞こえなかったことにしよ」
「でも」
「聞こえなかったことにしよ」
凪は周囲を見た。
「ちがうちがう、俺たち幼馴染だし、俺なんて地味だし」
周囲が何人かこちらを見ていた。言えばわかってもらえると思っていたが、顔を見る限りそうでもなかった。
反応はばらばらだった。「いや」と言いかけてやめた人がいた。固まったまま動かなくなった人がいた。一人だけ「え、地味?」という顔をして、隣の人間に「地味?」と確認した。隣の人間が「そこじゃないと思う」と言った。
空手部の主将が深くため息をついた。
長かった。今日という一日を全部吐き出すような、長いため息だった。ため息の終わりに、ようやく自分の顔が戻ってきた。
凪は広場の端に立っていた。
看板に「新入生歓迎」と書いてある。
誰に言うわけでもなく、一人で言った。
「せめて初日だけでも静かに生きたかった」
「好きだよ、凪」
空が横にいた。
凪はしばらく黙った。
「……帰るぞ」
「どこ行くの」
「帰る」
「一緒に行く」
「来るな」
「嫌」
来た。来るとわかっていたが来た。
凪が歩き出すと、空が当然のように腕を絡めてきた。
後ろで声がしていた。
気づいたら空手部の主将が、さっきの四人組と混ざっていた。いつの間に混ざったのかはわからない。
「勧誘する?」
「どっち?」
「どっちも?」
沈黙があった。
「え、誰が組手とか相手すんの」
「俺やだ、マジでやだ」
「俺も」
「俺も」
主将も黙った。
「やめとこう」
それで全員一致した。部の垣根は関係なかった。実務的な話として、全員が同じ結論に達した。
桜並木に入った。
さっきより花びらが落ちている。石畳に散っていて、風が少し出てきたせいか、また一枚が落ちるところだった。人が減っていた。式典が終わって外に出てきた人間は今はまだ広場のほうにいて、こちらはしんとしている。
靴底が石畳を踏む音がした。凪の、それから空の。歩幅が揃っていた。
「ねえ凪」
「なんだ」
「今日も会えてよかった」
凪は何も言わなかった。
言おうとして、やめた。
空が上を向いた。
「きれいね」
桜を見ていた。見上げているので顔が傾いている。首の線が出て、黒髪が肩から流れている。光の角度がよかったのか、肌が透けるように白くて、目を離しにくかった。桜は今日がちょうどよかった。白みがかったピンクで、厚みがあって、光が透けていた。ただ、空を見ていたのか桜を見ていたのか、自分でもよくわからなかった。
凪は前を向いた。
「きれいね」
空がもう一回言った。
今度は上を向いていなかった。
「そうだな、きれいだな」
凪は前を向いたまま言った。
凪は桜のことを言っていたのだろう。たぶん。




