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音無凪は静かに生きたい。でも速水空が許さない。 /  作者: よんまるよん
入学編

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3/10

第3話「静かに生きたかった、という話。」

 ざわめきはまだ続いていた。


 主将が立っている。立っているが、目がまだどこかに行っている。凪はそれを見て、それから空を見た。空はにこにこしていた。詫びも試合も全部済んだことという顔だった。


 凪が主将のところへ歩いた。


 深々と頭を下げた。


「俺がついていながら、すいません」


 主将が目を瞬かせた。


「……お」


 やっと声が出た。


「おう」


 今日初めてまともな声が出た、という顔だった。人間に戻りかけている。


「いや、その……」


 言いかけて止まった。何を言えばいいのか、まだ整理がついていなかった。


 空が凪の横に来た。にこにこしていた。


 凪が頭を下げていた間、空が何をしていたのかは見ていなかった。主将がやっと人間に戻りかけていた理由も、正直よくわからなかった。


「ねえ凪、昨日の夜の技さあ」


「ああ? 今ここでいうな」


「やっぱり効くね。角度がちゃんとはまった」


「今ここでいうな」


 主将がまた遠くなった。


 周囲の反応はばらばらだった。固まった人が何人か、赤面して一歩下がった人が何人か、聞こえなかったふりをした人が一人。一人だけ首を傾けて、何かを真剣に考えていた。


「凪って上になるの好きだよね」


 凪は小声で返した。


「……うるさい」


 主将が口を開いた。何も出てこなかった。


「下からだと凪には絶対勝てないんだよね」


「グラップリングの話だ、うるさい」


「また今夜やろ」


「飯食ってからにしろ、うるさい」


 周囲の新入生が小声でやりとりをしていた。


「……ねえ、これって」


「聞こえなかったことにしよ」


「でも」


「聞こえなかったことにしよ」


 凪は周囲を見た。


「ちがうちがう、俺たち幼馴染だし、俺なんて地味だし」


 周囲が何人かこちらを見ていた。言えばわかってもらえると思っていたが、顔を見る限りそうでもなかった。


 反応はばらばらだった。「いや」と言いかけてやめた人がいた。固まったまま動かなくなった人がいた。一人だけ「え、地味?」という顔をして、隣の人間に「地味?」と確認した。隣の人間が「そこじゃないと思う」と言った。


 空手部の主将が深くため息をついた。


 長かった。今日という一日を全部吐き出すような、長いため息だった。ため息の終わりに、ようやく自分の顔が戻ってきた。



 凪は広場の端に立っていた。


 看板に「新入生歓迎」と書いてある。


 誰に言うわけでもなく、一人で言った。


「せめて初日だけでも静かに生きたかった」


「好きだよ、凪」


 空が横にいた。


 凪はしばらく黙った。


「……帰るぞ」


「どこ行くの」


「帰る」


「一緒に行く」


「来るな」


「嫌」


 来た。来るとわかっていたが来た。


 凪が歩き出すと、空が当然のように腕を絡めてきた。



 後ろで声がしていた。


 気づいたら空手部の主将が、さっきの四人組と混ざっていた。いつの間に混ざったのかはわからない。


「勧誘する?」


「どっち?」


「どっちも?」


 沈黙があった。


「え、誰が組手とか相手すんの」


「俺やだ、マジでやだ」


「俺も」


「俺も」


 主将も黙った。


「やめとこう」


 それで全員一致した。部の垣根は関係なかった。実務的な話として、全員が同じ結論に達した。



 桜並木に入った。


 さっきより花びらが落ちている。石畳に散っていて、風が少し出てきたせいか、また一枚が落ちるところだった。人が減っていた。式典が終わって外に出てきた人間は今はまだ広場のほうにいて、こちらはしんとしている。


 靴底が石畳を踏む音がした。凪の、それから空の。歩幅が揃っていた。


「ねえ凪」


「なんだ」


「今日も会えてよかった」


 凪は何も言わなかった。


 言おうとして、やめた。


 空が上を向いた。


「きれいね」


 桜を見ていた。見上げているので顔が傾いている。首の線が出て、黒髪が肩から流れている。光の角度がよかったのか、肌が透けるように白くて、目を離しにくかった。桜は今日がちょうどよかった。白みがかったピンクで、厚みがあって、光が透けていた。ただ、空を見ていたのか桜を見ていたのか、自分でもよくわからなかった。


 凪は前を向いた。


「きれいね」


 空がもう一回言った。


 今度は上を向いていなかった。


「そうだな、きれいだな」


 凪は前を向いたまま言った。


 凪は桜のことを言っていたのだろう。たぶん。

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