第2話「部紹介というものは、こんなに怖いのか。」
正直、入学式というのは静かなものだと思っていた。厳粛なものだと思っていた。知り合いもほとんどいないまま来て、ちゃんと式を受けて、それで終わりのはずだ。
横を歩いている空に特に言うことはなかった。言ったところで何も変わらない。こういう言動をやめてほしいと思ったことは無数にあるし、実際に伝えたことも無数にあって、それでも何も変わらなかったという実績がある。変わらない。変わらないから今日がある。現に今も、厳粛であるはずの入学式の帰り道で、空は当然のように凪の腕を組んでいる。
「ねえ、部紹介見ようよ」
「帰る」
「え、もう?」
「もう」
「見てから帰ろうよ」
「要らない」
「なんで」
「入る部活ない」
「私はあるかもしれないじゃん」
凪は足を止めた。
空に「静かに生きたい」という概念があるかどうかは、長年いっしょにいてもよくわからない。存在しないのかもしれないし、存在するが別の言語で定義されているのかもしれない。
「お前が入る部活を考えるなら、お前だけで行け」
「凪も来てほしい」
「理由」
「いてほしいから」
それは理由ではない、と言おうとした。
空の顔を見た。
言うのをやめた。なんでやめたのかはよくわからない。
「……ちょっとだけだ」
「やった」
「喜ぶな」
空が喜んだ。
広場は人が多かった。
複数の部活やサークルがテントを出していて、旗を立てて、声をかけている。新入生はその間を歩いて、立ち止まったり素通りしたりしている。賑やかだった。音が多い。マイクを通した声、軽音楽部らしい演奏、誰かが鍋を持って歩いていた。料理系のサークルだろうか。
「あっちのテント見てみよ」
「行くな」
「弓道部だって」
「見るだけで終わるつもりがないだろ」
「凪は私のことわかってるね」
わかっているのではなく、結果を覚えているのだ。空がどこかに「見てみよ」と言って近づいたとき、だいたいにおいて何かが起きる。静かな何かであったためしがない。
凪はぶつからないように人の間を歩いた。空は隣を歩いている。
少し進むと、開けたスペースがあった。空手部の旗が見えた。テントの前に人が集まっていて、中心で何か動いている。
空手部の主将だろう、年上の学生が型を演じていた。構えがしっかりしている。足の運びが正確で、腰の位置が低い。基本が入っている体だ。単純に動きを見れば、きれいだと思う。ちゃんと練習してきた人間の、ちゃんとした動きだった。
見物の新入生が拍手をした。まあ拍手が出るのは当然だ。実際よかった。
主将が止まった。汗を拭いて、にやっとした。
「どうだ、お前ら。空手部はこんな感じだ。スポーツとして本格的にやりたい奴も、健康のためにやりたい奴も、護身術として覚えたい奴も、全部対応できる。何か文句があるなら俺と戦ってみろ」
笑いが起きた。「なんてね」とでも言いかける前だったかもしれない。
手が上がった。
主将の視線がそちらに向いた。周囲の視線も、いつの間にか凪と空のほうを向いていた。
「空、やめろ」
「好きだよ、凪」
「それは今関係ない」
「関係あるよ」
近くにいた新入生が小声で「ないだろ」と言った。隣の人間が小さく頷いた。
主将のほうを見た。主将は笑顔だった。ちゃんとした動きを演じた本人が、今は笑顔で新入生女子を見ている。
最初は戸惑いがあった。女子、という部分に一瞬間があった。それからよく見た。黒のワンピース越しに均整のとれた体型を、視線を上から下まで一度なぞった。もう一度なぞった。にやっとした。軽くいなしてやればいい、という顔になった。その「いなす」の中身が、凪には少し気になった。
気になったが、どうにもならなかった。空はもう前に出ていた。
ほんの少し前の出来事だが、少し離れたところに、四人組の学生がいた。上級生らしい一人に引率される形で、広場を見て回っているグループだ。空が手を挙げた瞬間、一人が小さく「あ」と言った。
「何?」
「いや……」
それだけで黙った。
主将が言った。
「……出てこい」
にやついていた。
「怪我したくなかったら戻っていいぞ」
「大丈夫です」
空はにこにこしていた。
主将が構えた。正しい構えだ。右足を引いて半身になり、両手を前後に揃えて、目線が真っ直ぐ空に向いている。体の重心が腰にあって、動き出しが速い姿勢だ。リーチは空より長い。体格もある。
「基本は寸止めだ。ただ、体に軽く触れたとしても、それは不可抗力ってことで」
にやついていた。周囲が微妙な空気になった。空はにこにこしていた。
ただ、主将がちゃんと練習してきた人間だということは、構えを見ればわかった。
主将が踏み込んだ。右中段突きだった。速い。体重が乗っている。腰から引いた力がちゃんと乗っている突きで、当たれば肋骨にひびが入る。
空が動いた。
右斜め前に半歩。
ふっと、死角に滑り込む感じだった。主将の右拳が空の耳の横を通る。通ったが空はそこにいた。空の左手が主将の右肘の内側に当たった。当てたというより、存在していた、という感じだ。方向だけが変わった。主将の体重が、自分の出した力のぶんだけ前に流れる。流れた先に床があった。
どさっ、と音がした。
主将が即座に立ち上がった。
「今のは……」
空はもう次の間合いにいる。ふわっと移動した感じで、気づいたらそこにいた。
周囲が反応した。全員ではなかった。一番近いところにいた男子学生が「え」と言った。少し離れたところの女子学生が遅れて「え?」と言った。さらに離れたところにいた眼鏡の学生が、自分が見たものを確認するように「何今の」と呟いた。
主将が仕切り直した。今度は左にフェイントを入れた。一呼吸あってから組みに来る。本格的な入りだった。さっきよりも低い重心で、腕を差しに来た。体格差を使う意志のある動きで、決まれば圧倒的に有利な体勢になる。
空が主将の腕を受けた。受けたというより、乗った、という感じだった。力の方向に逆らわない。逆らわないまま、重心の外側にすっと体重を預けた。
主将の踏み込みの力が、そのまま主将の転倒に変換された。
どたん、と音がした。さっきより大きかった。
主将の顔が変わった。にやつきが消えた。
四人組のほうで、一人が何か言った。別の一人が「え」と返した。それだけで黙った。
主将が立ち上がった。さっきまでの余裕はない。
「本気でいくぞ」
目が変わっていた。
左から入って右上段に回し蹴りを放った。速かった。腰が入っている。上段に正確に届く高さで、ちゃんと強い蹴りだった。
空の右足が動いた。ぬるっと、という感じだった。主将の軸足の外くるぶしの、斜め後方に滑り込む。黒のワンピースの裾がひるがえって、一瞬、足が見えた。普段であれば目が釘付けになるシチュエーションだったかもしれないが、そんなことはなかった。蹴り足が空間を蹴った。蹴ったが、空はそこにいなかった。主将の上体が外に流れた。支えるものがなくなった。
ぼたん、と音がした。
今度の周囲の反応はばらばらだった。「なんで」と言った学生と、「なんでまた」と言った学生と、「誰か説明して」と言った学生がいた。一人は何も言えなかった。もう一人は笑い出した。どういう感情なのかはよくわからなかった。
主将が三度目に立ち上がった。
息が上がっている。走ったわけではない。体力ではない。三回倒れたことの、理解が追いつかない種類の消耗だった。
それでも立ち上がった。目はまだ空を見ていた。
空が動いた。
主将の斜め後方から、するっと入った。左腕が主将の首の前を通る。右腕が後頭部を押さえた。リアネイキッドチョーク、さっきよりも精度が高かった。角度が正確で、引き込みが深くて、体重が乗っている。主将が両手で空の腕をつかんだ。外れなかった。外れない。均等に圧がかかり続けた。首の奥で、血流が止まりかけている感覚があった。
「空」
凪が言った。
空がぴたっと止まった。
主将の方を向いてにこっとした。
「ありがとうございました」
圧力が消えた。
主将はしばらくその場に立っていた。意識はある。体も動く。ただ、自分がどういう状態だったのかを理解するのに、少し時間がかかった。
十数秒後に気づいた。
詰んでいた。
少し離れたところで、四人組が小声で話していた。
「やっぱりあの子だ……総合の『最強のじゃじゃ馬天女』」
上級生らしい一人が言った。落ち着いた声だった。確認するような口調だった。総合、というのは総合格闘技(MMA)のことだ。
「あんなモデルみたいな子だったの? じゃあ、あの隣は?」
別の一人が、凪の方を見ながら言った。
「調教師だ」
「調教師」
「あの調教師しかあのじゃじゃ馬を止められない。格闘技やってる奴なら知ってる」
一人が凪を見た。凪を見て、また空を見て、また凪を見た。
「え。あのボヤーっとしてるのが『最凶の調教師』?」
「強そうじゃないじゃん」
「じゃあ、おまえ闘ってみるか」
上級生が静かに言った。
「俺は対戦を見たことがあるが、えげつなかったぞ」
それだけ言って黙った。
誰も続きを言わなかった。
主将はまだ、現実を受け入れられていなかった。




