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音無凪は静かに生きたい。でも速水空が許さない。 /  作者: よんまるよん
入学編

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第1話 「静かな大学生活が入学式で終わった」

 音無(おとなし)(なぎ)の望みはひとつだ。静かに生きたい。


 派手なことは要らない。目立つことも要らない。大学に来て、授業を受けて、飯を食って、帰る。できれば誰にも絡まれずに。誰かの厄介事に巻き込まれることもなく、誰かの才能の余波で周囲がざわつく場にいることもなく、ただ穏やかに、本当に普通に。そういう生活を、凪はずっと夢見ていた。


 大学というのはそういう場所のはずだ。高校まではどうしても共同体が狭い。教室というのは逃げ場がない。だが大学は違う。人が多い。関わり方が薄い。授業だって選べる。自分の来歴を知っている人間がいなければ、凪は本当に、ただの地味な男子学生として四年間を過ごせるはずだった。


 その初日の入学式。桜並木は朝の光を通していた。


 四月の始め、構内の桜はちょうど見ごろで、風がないせいか花びらはほとんど落ちずにいる。石畳の端に数枚散っているだけで、頭上の枝はまだ重たいほど花をつけていた。人はもう多いが、静かだ。みんな一様に緊張した顔をして歩いていて、だから誰も無駄な声を出さない。そういうまとまった静けさが、凪はわりと好きだ。


 これが続けばいいと思った。


 続かなかった。


 首に腕が回ったのは、前から二番目の桜の木を過ぎたあたりだった。


 音はなかった。足音もなかった。背後の気配に凪が気づいたのは、腕が喉の前でがっちり固定されたのとほぼ同時だ。右腕が頸動脈の右側に、左の前腕が左側に。両側から均等に圧がかかる。腰が落ちていて、重心が低い。逃げ道がない。首が絞められているというより、頭部への血流が確実に止まっていく感覚がある。これは。


 リアネイキッドチョーク。しかもかなりきれいに決まっている。


 ふつうならここで落ちる。本当にふつうなら、数秒で意識が遠くなる。周囲は今頃まだ桜を見ているかメモを確認しているかで、こちらに気づいてすらいない。


 凪はため息をついた。


 右手で相手の右手首をつかむ。チョークの主軸になっている腕だ。肘の位置を基点に、少しだけ外向きに角度を変えながら、同時に体を半歩分、左斜め前にずらす。圧力の方向がわずかにずれる。隙間が生まれる。隙間に顎を入れながらさらに体ごと潜る。相手の重心が前にくずれかける。前にくずれたなら、それに逆らわないままもう半歩引いて、ぽとっと。


 背後で着地音がした。


 凪はそのまま前を向いた。


 周囲の反応は、すぐには来なかった。


 凪の横を歩いていた女子学生が、五歩ほど先で足を止める。振り返ろうとして、振り返らなかった。三歩先の男子学生は「え」と言って、続きが出てこない。何かあったのかと振り向いた学生が、何があったかわからないまま「転んだ?」と誰かに聞いた。「いや、なんか……」「なにが?」答えが返ってこないので聞いた人もよくわからないまま前を向く。


 空気が一瞬ふわっとした感じになって、それから元に戻った。


 凪が後ろを見ると、速水(はやみ)(そら)がにこにこしながら立っていた。桜を背負っている。


 空は立っているだけで絵になる。シンプルな黒のワンピース、さらっとした黒髪が肩より少し長く、顔の作りは整いすぎていて、体のラインはモデルというか、人がちゃんと仕事として描いた絵に近い。周囲の女子はほぼ全員スーツだが、空だけワンピースだった。普通なら浮くところだが、空が着るとただただ映える。何もしていないのに様になっている。それは昔からそうで、凪は特に何も思わなかった。周囲がさっきとは別の意味でぼんやりした。


 凪は言った。


「なぜここに来た。お前だったらもっとレベルの高いところを目指せただろ」


 周囲がざわっとした。


「……ここ私、第一志望なんだけど」


 誰かが小声で言った。隣の人間が「私も」と言った。さらに隣が「俺も」と言った。三人で顔を見合わせた。


「凪が入るから」


 周囲のざわつきがすうっと別の方向に変わった。「私も」と言った人間が口を開けたまま固まった。「俺も」と言った人間が前を向いた。最初に言った人間だけが「……え」と言って、続きが出てこなかった。


「好きだよ、凪」


 凪は前を向いて歩き出した。「好きだよ」という言葉が、すっかり慣習みたいなものになっている。たぶん。



 いつの間に並んでいたのかは不明だった。気づいたら空が隣を歩いている。歩幅が凪に合わせてあった。歩くのが速い人間の歩幅ではなかった。


「昨日練習したんだよ」


 凪は何も言わなかった。


「入る角度ちゃんと確認したのに」


 何も言わなかった。


「なんで外れたの?」


「外した」


「え、外せるの?」


「外した」


「どうやって」


「手首をつかんで角度を変えた」


「……角度?」


「なんでもない」


 空がしばらく黙った。十秒くらい。凪の体感では三十秒くらいだった。


「じゃあ次は別の入り方にしよ」


 やはりそうなった。何を言っても次があるのはわかっていた。この件については長年の実績がある。


 幼馴染だから、と凪は思った。


 幼馴染にはこういうやつがいることがある。悪意はない。むしろ善意に満ちている。ただ行動が常軌を逸している。それが積み重なって今日がある。格闘技が絡むとさらに逸してくる。これはもうそういうものなのだろうと思うようにしている。少なくとも、速水空という個体に関しては。


 桜並木が終わりかけていた。


 式典会場の建物が見えてくる。エントランスの前で係の学生が立っていて、プラカードを持って学科名を示している。凪の学科は左。空の学科は……確か、右だったはずだ。


「あっち」


 凪が顎で右方向を示した。空が確認するように遠くのプラカードを見る。


「そうだね」


「じゃあ」


「うん。好きだよ、凪」


 凪は列のほうへ向かいながら、返事をしたかどうかよくわからなかった。


 凪にしてみれば、またあとで、ぐらいの会話だ。



 会場は広かった。


 体育館ではなく、大型の講堂だ。パイプ椅子が整然と並んでいて、学科ごとに座る場所が決まっている。係の人間が入口で案内している。凪は指示に従って奥のほうの列に歩いた。


 隣に男子学生が座った。眼鏡をかけていて、背が高くて、落ち着いた様子だ。礼儀正しそうな顔をしている。凪としては特に何も思わなかったが、少なくとも変なことは起きそうにない。


 普通の朝だ。


 これが続けばいいと思った。


 途中でトイレに立った。式典が始まる前に済ませておこうと思ったからだ。


 戻ってきたら、……隣の席が変わっていた。


「好きだよ、凪」


 隣に空がいた。


 凪は空を見た。空はにこにこしている。


「なんでここにいる」


「凪の隣がよかった」


「学科が違う」


「うん」


「席が違う」


「うん」


「どうやって入った」


「隣の人に凪の彼女ですって言ったら席を譲ってくれた」


 凪は少し考えた。


「そんな嘘で席を移動しない」


「ちょっと睨んで手首を捻ったら譲ってくれた」


 凪はため息をついた。


「それが今あそこにいる人か」


「うん」


 元々いた男子学生を探すと、女子学生のかたまりの真ん中に座っていた。周囲の女子学生がぎょっとしている。男子学生は縮こまっていた。


 凪は視線を戻した。前方では係の人間が何か確認しているようだったが、式典はまだ始まっていない。周囲の男子学生が何人か、凪のほうを見ていた。みんな同じような目をしている。羨ましそうな顔だった。一人は凪と目が合った瞬間に「いや……」と言ってそのまま前を向いた。何に対して「いや」なのかは、聞くだけ無駄な気がした。


 幼馴染だから、と凪は小さく呟いた。


 式典が始まった。


 学長の挨拶があった。来賓の挨拶があった。真剣に聞こうとした瞬間、


「好きだよ、凪」


 小声だった。凪は正面を向いたまま言った。


「黙れ」


 小声だった。前の席の人間の肩がぴくっとした。振り返らない。賢明だと思った。


 学長の挨拶が続く。凪は正面を向いていた。空は凪の隣に座っている。静かだった。静かなのだが、いつ何が起きるかわからないという感覚が抜けない。空が静かにしているときほど、凪は油断できない。しかし、それ以外のことは特に起きなかった。結果として。


 式典は次第通りに進んで、何事もなく終わった。終わってから、ようやく肩の力が抜ける。


 出口に向かうとき、空が腕を組んできた。相変わらずだ。周囲からの視線が刺さる。羨望なのか妬みなのか、そのどちらでもあるような目だった。見なかったことにした。

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