EP,Winter ~section4:『フリルのエプロンと、不器用な情動』~
二月十三日。バレンタインデーの前日。
明日に決戦を控えた如月学園高等部の校内は、もはや一つの巨大な生き物のように、脈打つような熱気と緊張感に包まれていた。
放課後のチャイムが鳴り響くや否や、生徒たちはそそくさと鞄を掴んで教室を飛び出していく。最後の買い出しに向かう女子生徒たち、そして明日への無駄な期待を胸に秘めて身だしなみを整えに帰る男子生徒たち。
そんな喧騒をよそに、僕は一人、静まり返った旧校舎の廊下を歩いていた。
非モテ代表であり、同世代の女性に対する免疫が皆無な僕にとって、明日のイベントはただやり過ごすだけの嵐に過ぎない。僕の放課後の居場所は、甘い匂いのする新市街のカフェでもなければ、ファンシーショップでもない。
「如月さん、お疲れ様です。今日は少し遅くなっ――」
重厚な扉を押し開け、いつものように声をかけた僕の言葉は、宙に浮いたまま消えた。
誰もいない。
いつもなら部屋の中央に置かれたアンティークの椅子に深く腰掛け、西日を浴びながら古い文献を読んでいるか、あるいは持ち込まれた拾得物を銀のルーペで睨みつけているはずの、絶対的な主の姿がなかった。
「……珍しいこともあるもんだな」
僕は図書室の中を見渡した。
こたつの電源は入っておらず、彼女が愛用している高級なティーカップも、戸棚の中に綺麗に片付けられている。どうやら、今日は最初からここへ来るつもりがなかったらしい。
コンツェルンの社長令嬢である彼女のことだ。僕のような一般市民には想像もつかないような、急な家の用事や、財界のパーティーの準備でも入ったのだろう。あるいは、旧市街のどこかで、とんでもない『ありえないモノ』を発見して、一人でルーツの解体に没頭しているのかもしれない。
いずれにせよ、助手の僕に何も告げずに姿を消すのは、彼女の気まぐれな性格を考えればそう珍しいことではない。
「まあ、如月さんに限って、明日のバレンタインの準備で忙しい、なんてことは絶対にあるわけないしな」
その可能性だけは、物理法則が逆転してもあり得ないと断言できる。
あの徹底して他人の目や世間の行事を軽蔑している孤高の天才美少女が、キッチンでチョコレートを溶かしている姿など、想像しただけで世界が崩壊しそうだ。
僕は一人で図書室の簡単な片付けを済ませ、戸締まりをすると、冬の夕日に照らされながら学校のエントランスへと向かった。
明日、自分が直面する驚愕の事態など露知らず、旧市街の団地で待つ二匹の金魚に餌をやらなければ、などと呑気なことを考えながら。
**
一方その頃。
新市街の一等地に広大な敷地を構える、如月邸。
一流レストランの厨房をそのまま移設したかのような、最新鋭のAIとプロ用の設備が完備された巨大なシステムキッチンの中心に、その少女は立っていた。
「……姉よ。わしはなぜ、己の美学に反するこのような布切れを身に纏わねばならんのじゃ」
大理石のアイランドキッチンの前に立ち、瑠璃は極めて不機嫌そうに自身の姿を見下ろした。
普段の彼女は、漆黒のロングストレートヘアを下ろし、クラシカルなゴシックドレスや、隙のないブレザーの制服を完璧に着こなしている。
しかし今の彼女の姿は、普段の孤高な令嬢のイメージを根底から覆すものだった。
邪魔になる長い黒髪は、背中の高い位置で一つにまとめられ、見慣れないポニーテールになっている。白く細い首筋が露わになり、彼女の年齢相応のあどけなさを引き立てていた。
そして何より目を引くのが、制服のブラウスとスカートの上から身につけている『エプロン』である。
翡翠がわざわざこの日のために用意したそれは、ただの調理用エプロンではない。漆黒の厚手のリネン生地をベースにしながらも、肩紐から胸元、そして裾にかけて、繊細で幾重にも重なる純白のレースフリルがたっぷりとあしらわれている。背中の腰の位置で大きなリボンを結ぶ、クラシカルなメイド服とゴシックドレスを融合させたような、恐ろしく可愛らしいデザインだった。
「あら、とっても似合ってるわよ、瑠璃。お料理は形から入るのが基本でしょう? 汚れを防ぐための物理的な防具でもあるし」
隣に並んで立つ長身の翡翠は、自身もシンプルなカフェエプロンを身につけながら、妹の姿を見て満足げに頷いた。
「防具というなら、完全な耐熱・防弾繊維のケブラー素材で十分じゃ。なぜこのような、構造的にも無駄な装飾が大量に付着した布を……」
「いいからいいから。可愛いエプロンを着ると、不思議と愛情もこもるものなのよ? 光太郎くんのために、完璧なチョコを作るんでしょう?」
その名を出されると、瑠璃は反論の言葉を飲み込み、ギリッと奥歯を噛み締めた。
そうだ。あの駄犬が、姉の作ったチョコレートに鼻の下を伸ばし、忠誠心を揺るがすような事態だけは、主として絶対に阻止せねばならない。
瑠璃は一つ深呼吸をし、まな板の上に置かれた製菓用の高級クーベルチュールチョコレートのブロックを、冷徹なアメジストの瞳で睨みつけた。まるで、それが解体すべき不可解な拾得物であるかのように。
「……姉よ。テンパリングにおけるカカオバターのV型結晶の生成温度は、四十五度から二十七度へ急冷し、再び三十一度へ昇温させることで安定する。この熱力学的なプロセスは、既にわしの頭脳にインプットされておる」
「ええ、理論は完璧ね。でも、料理は理屈だけじゃないのよ。さあ、まずはそのチョコを細かく刻むところからよ」
翡翠は包丁を差し出した。
瑠璃はそれを受け取ると、ゆっくりと刃を構え、チョコレートのブロックに狙いを定めた。
「……カカオマスの分子結合を物理的に切断する。最適な入射角は……ここじゃ!」
ダンッ!!
大理石のキッチンに、まるで丸太を叩き割るような凄まじい音が響き渡った。
瑠璃が渾身の力を込めて振り下ろした包丁は、チョコレートのブロックを真っ二つに叩き割り、その衝撃で大小の破片がキッチンのあちこちに弾け飛んだ。
「ちょっと瑠璃! 力任せに叩き切らないで! もっとこう、体重を乗せてスッと刃を入れるのよ!」
「ええい、煩い! 物質の硬度に対する物理的なアプローチとしては間違っておらんはずじゃ! なぜこの茶色い塊は、こうも予測不能な軌道で砕け散るのじゃ!」
「瑠璃、包丁を持つ手に力が入りすぎなのよ。もっと肩の力を抜いて……」
完璧な頭脳と圧倒的な論理的思考力を持つ天才美少女は、こと『料理』というアナログな作業を前にして、ひどく不器用な等身大の少女へと成り下がっていた。
フリル付きの可愛らしいエプロンを粉だらけ、いや、チョコの欠片だらけにしながら、瑠璃の壮絶な戦いが幕を開けた。
如月邸の巨大なシステムキッチンは、開戦からわずか数十分で、凄惨な戦場と化していた。
「姉よ、温度計の数値が〇・五度ズレておる! 湯煎の温度が高すぎる。これではカカオバターの結晶が完全に崩壊してしまうではないか!」
「ちょっと瑠璃、焦らないで! ボウルにお湯が入ったら一貫の終わりなんだから、そんなに激しくかき混ぜないの!」
大理石のカウンターには、飛び散ったクーベルチュールチョコレートの飛沫が点々とこびりついている。
普段はどんな複雑な物理現象や難解な古文書を前にしても涼しい顔を崩さない瑠璃が、今は必死の形相でゴムベラを握りしめ、ボウルの中の粘性のある液体と格闘していた。
漆黒のリネン生地に純白のレースフリルがたっぷりとあしらわれたクラシカルなエプロンには、すでに幾つもの茶色い染みが付着している。完璧に結い上げられていたはずの黒髪のポニーテールも、後れ毛が数本、汗ばんだ白い首筋に張り付いていた。
料理とは、物理と化学の連続である。
温度管理、質量の配分、乳化のタイミング。それらの要素を完璧な数式として頭脳にインプットしているはずの瑠璃にとって、チョコレートのテンパリングなど、本来であれば実験室での単純作業と同義であるはずだった。
しかし、彼女の天才的な頭脳は、食材という有機物を前にすると、なぜか己の身体機能との間に深刻な通信エラーを引き起こすのだ。
「……くっ、なぜじゃ。熱力学の法則に従い、二十七度まで急冷したはずなのに、この粘度は計算と合わん! 室内の湿度が〇・二パーセント上昇したせいか!?」
「ただ混ぜ方が足りてないだけよ、瑠璃。もっと手首のスナップを利かせて、空気を入れないように滑らかに……そう、そんな感じ」
翡翠の的確なフォローと、隣でつきっきりで行われる監視(という名の軌道修正)のおかげで、今回はかつて如月家を地獄の底へと突き落とした『暗黒物質』の生成だけは免れていた。
ボウルの中のチョコレートは、かろうじて美しい艶を取り戻し、テンパリングの成功を示す滑らかなリボン状の軌跡を描いて落ちるようになっていた。
「……ふぅ。カカオバターのV型結晶の安定化に成功したぞ。やはりわしの計算に狂いはなかったな」
「私が横でずっと温度調整してたからでしょ。まったく、冷や汗かいたわ」
瑠璃は額に浮かんだ汗を、フリルエプロンの袖口で無造作に拭った。その拍子に、彼女の白い頬にちょこんとチョコレートの汚れが付着したが、本人は全く気付いていない。孤高の天才美少女の、あまりにも等身大で不器用な姿だった。
「さて、ここからが本番じゃな。型に流し込む作業に移る」
「型なら、そこに可愛いハート型とか、トリュフ用の丸いシリコンモールドを用意してあるわよ。光太郎くんにあげるんだから、やっぱり見た目も可愛く……」
「馬鹿を言え」
翡翠が差し出したピンク色の可愛らしい型を一瞥し、瑠璃は極めて冷徹に、そして力強く首を振った。
「球体やハート型などという、数学的に凡庸で、無機質な幾何学模様に何の意味がある。ましてや、大量生産されるシリコンモールドに流し込んだだけの造形など、モノとしてのルーツも、情動の視座も存在せんではないか。そのような無価値な塊を、わしの所有物であるあの駄犬に与えるわけにはいかん」
瑠璃の瞳の奥で、再び『ありえないモノ』を鑑定する時と同じ、あの異常なまでの探究心と情熱の炎がチロリと燃え上がった。
彼女はボウルの中のチョコレートを、大きな平たいバットの上にドロリと流し込んだ。そして、キッチンツールの中から、ペティナイフと、細かい作業用の竹串、さらにはなぜかピンセットまでを取り出し、両手に構えた。
「ちょ、ちょっと瑠璃? 何をするつもり……?」
「決まっておる。この素材を用いて、真に意味のある『造形』を、わし自身の物理的なアプローチによって削り出すのじゃ」
そこからの数時間は、もはや料理というよりも、狂気を孕んだ彫刻家の作業だった。
瑠璃は固まりかけたチョコレートの塊に向かい合い、ペティナイフで少しずつ不要な部分を削り落とし、竹串を使って表面に執拗なまでに細かい溝や模様を刻み込んでいく。
彼女の脳内には、明確な完成予想図が存在しているらしい。だが、横で見ている翡翠には、それが一体何なのか、なぜそれほどまでに禍々しいオーラを放ち始めているのか、全く理解できなかった。
「……ここの曲面は、もう少し角度が必要じゃな。そして、この部分のシワの寄り方……物理的な重力を考慮し、さらに深く刻み込む……」
ブツブツと呪文のように呟きながら、ピンセットで繊細なパーツを継ぎ接ぎしていく妹の姿に、翡翠は次第に得体の知れない恐怖を覚え始めていた。
あの『暗黒物質』の時とは違う。今回は間違いなくチョコレートの匂いがしているし、毒性もないはずだ。しかし、瑠璃がその手で削り出している『何か』の造形は、バレンタインという愛の告白のイベントには、あまりにも、あまりにも不釣り合いな不気味さを醸し出していた。
さらに数時間が経過した。
窓の外はすっかり暗くなり、月見坂市の新市街を照らす人工的な夜景が窓ガラスに反射している。
「……完成じゃ」
ペティナイフを置き、瑠璃は大きく息を吐き出した。
その顔には、難解な古代遺跡の暗号を解読した時のような、あるいは極めて難解な物理の数式を解き明かした時のような、深い満足感と疲労が入り混じっていた。
大理石のカウンターの中央。銀のトレイの上に置かれたそれは、到底チョコレートの素人が作ったとは思えないほどの異常な熱量と、無駄なまでのディテールが詰め込まれた『歪な塊』だった。
だが、その塊が放つ異様な存在感は、見る者の精神を削るような、正体不明のプレッシャーを放っていた。
隣で一部始終を見守っていた翡翠は、その完成品のビジュアルを正面から直視し、思わず数歩後ずさった。
冷徹な数字の計算においては右に出る者のいない彼女の頭脳が、目の前の造形物の意味を処理しきれず、完全にフリーズしている。
「る、瑠璃……」
翡翠は少し引きつった声で、信じられないものを見るような目を向けた。
「それ……本当に、光太郎くんにあげるの……?」
バレンタインデーの贈り物。それは一般的に、愛情や感謝、あるいは親愛の情を示すための甘いお菓子であるはずだ。
しかし、銀のトレイの上に鎮座するそれは、どう控えめに客観視しても、相手に呪いをかけるための供物か、あるいは何かトラウマを植え付けるための嫌がらせにしか見えなかった。
だが、当の製作者である瑠璃は、頬にチョコレートの汚れをつけたまま、フリルエプロンの胸を誇らしげに張り、自信に満ちたアメジストの瞳で姉を見返した。
「当然じゃ」
瑠璃は不敵に、そして非常に満足げに唇の端を吊り上げた。
「あやつの思い出でもあるからの。ただ甘いだけの凡庸な菓子など、わしが与える意味がない。これは、モノに宿る想いとルーツを表現した、至高の芸術じゃよ」
それは、サクタロウという所有物に対する、彼女なりの極めて歪んだ、しかし紛れもない『情動』の顕現だった。
明日、この禍々しい塊を靴箱から発見した時、あの駄犬は一体どのような顔をして、どのような論理的帰結を見せるのか。
その光景を想像し、瑠璃はキッチンの中で一人、悪魔のように美しく、そして楽しげに微笑んだ。




