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第4巻:如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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EP,Winter ~section3:『未開封のワインボトルと、16年前の記憶』~

 二月十二日。バレンタインデーの二日前。


 如月学園高等部の校内は、いよいよ制御不能な熱帯夜のような様相を呈してきていた。廊下ですれ違う生徒たちの足取りはどこか浮き足立ち、誰もが目に見えない甘い空気に酔わされているかのようだ。

 非モテ代表を自認し、同世代の女子に対する免疫が皆無である僕、朔光太郎にとっては、その空気自体がもはや有毒ガスに近い。逃げるようにして新校舎を後にした僕は、冷たいコンクリートの渡り廊下を抜け、いつもの『避難所』へと足を向けた。


 新市街の喧騒と、AIによって最適化された最新鋭の設備から完全に切り離された場所。旧校舎の図書室だ。

 重厚な木製の扉を押し開けると、微かな埃と古い紙の匂い、そして最高級のダージリンティーの香りが漂ってきた。


「サクタロウ。そこの遮光カーテンを半分だけ閉めよ。西日の入射角が五度ズレておる。対象物の正確な屈折率が測定できん」


 挨拶もそこそこに、部屋の中央から唐突な命令が飛んできた。

 勝手に持ち込まれたアンティークの椅子に深く腰掛けた如月さんは、こちらに視線すら向けず、机の上に置かれた『あるもの』を鋭い瞳で睨みつけていた。


「入射角って……はいはい、分かりましたよ」


 僕は鞄を放り出し、言われた通りに窓際のカーテンを調整した。オレンジ色の西日が細い帯となって、机の中央だけをスポットライトのように照らし出す。

 その光の先に鎮座していたのは、いつもの道端で拾ってくるような得体の知れないガラクタではなく、明らかに異質な物体だった。


「……如月さん。それ、ワインボトルですよね? 僕たち、未成年ですよ。いくら何でも学校に酒類を持ち込むのはマズいんじゃ……」


「中身を飲んでアルコールを摂取しようというのではない。ただの物理的な観察対象じゃ」


 如月さんはティーカップをソーサーに置き、光の帯の中に置かれたワインボトルを指し示した。


「昨日の夕方、姉と共に月見坂グランド百貨店へ赴いた際、地下のエレベーターの床で拾得したものじゃ」


 僕は息を呑み、ボトルの前に身を乗り出した。

 かなり古いヴィンテージもののようだ。フランス語で書かれたラベルは経年劣化で微かに黄ばんでおり、ボトルの口はコルクで固く塞がれ、その上から蠟のような封印シールがしっかりと被せられている。誰がどう見ても、完全なる『未開封』の状態だ。中には、琥珀色に近い深いボルドーの液体がたっぷりと満たされていた。


「百貨店のエレベーターに、未開封のワイン……。まあ、誰かが落としたか、置き忘れたんでしょうけど……それがどうかしたんですか?」

「お主は本当に表面的な事象しか捉えられんのだな。もっとよく、ボトルの『中』を観察するのじゃ」


 言われて、僕はボトルの腹の部分、琥珀色の液体の奥へと視線を凝らした。

 絞られた西日が曲面ガラスを透過し、液体の内部をぼんやりと照らし出している。


「……え?」

 僕は自分の目を疑い、思わず眼鏡の位置を直した。そして、もう一度、ボトルの底のほうを覗き込む。


 そこには、一枚の『銀色の硬貨(コイン)』が沈んでいた。


「な、なんですかこれ……っ! コインが、ワインの中に入ってる!?」


 僕は慌ててボトルの口径と、中にあるコインのサイズを交互に見比べた。

 明らかに、中のコインの方が大きい。どう考えても、この狭いボトルの口から硬貨を入れることは物理的に不可能だ。ボトルを切断して繋ぎ合わせたような不自然な継ぎ目も一切ない。


「えっ、どうやって入れたんですか!? コルクも封も手つかずですよね? ボトルの中に船の模型を入れるボトルシップみたいな技術……いや、でも口より大きい金属の塊はどうやっても入りませんよ! もしかして、マジックの道具とか……空間転移的な……!?」


「手品や魔法など、この世には存在せん。あるのは物理現象と、それを利用した人間の作為だけじゃ」


 混乱する僕を尻目に、如月さんは呆れたようなため息をついた。

 彼女はコートのポケットから、純白の『白い手袋』を取り出し、華奢な手にはめる。そして、銀のルーペを取り出すと、対象物を物理的に解体する冷徹な眼差しに切り替わった。


「まず、大前提の視点が間違っておる。この硬貨は、ボトルの『中』に入っているわけではない」


「え? でも、確かにワインの中に沈んで……」


「ガラスの屈折率と、ボトルの形状、そして液体の質量が生み出す見事な錯覚じゃよ。サクタロウ、このボトルの底を、下から触ってみるがよい」


 促されるまま、僕はボトルの底面に手を伸ばした。

 ワインボトルの底は平らではなく、内側に向かって大きく山なりにへこんでいる。


「……あっ!」


「そうじゃ。ワインボトル特有の『パント』と呼ばれる深い窪みじゃな。硬貨は瓶の中ではなく、この外側の窪み(パント)の奥底に、透明な樹脂のようなもので強力に接着されておるのじゃ」


 如月さんは白い手袋をした指先で、ボトルの表面を軽く叩いた。


「瓶を立てて斜め上から見下ろすと、曲面ガラスと琥珀色の液体が分厚いレンズの役割を果たす。その結果、光の屈折によって、外側の底に貼り付けられた硬貨の像が前方に押し出され、まるで『瓶の中の液体に硬貨が浮いている』ように見えるのじゃよ。人間の視覚のバグを利用した、極めてアナログで古典的な錯覚トリックというわけじゃな」


「なるほど……!」


 僕は感嘆の声を漏らした。言われてみれば、ボトルの底のへこみの奥に、確かにコインが貼り付けられている感触がある。種を明かされれば単純なことだが、初めて見た時のインパクトは絶大だった。

 見事な物理的観察眼だ。如月さんは、この不可解な現象を、いとも容易く論理的な事象へと解体してしまった。


「すごい……完全に魔法だと思いましたよ。でも、どうしてわざわざこんな手の込んだ細工を? しかも、なんで百貨店のエレベーターの中に置いてあったんでしょう。誰かを驚かせるためのマジックの小道具だとしたら、随分と手が込んでいますよね」


 僕の疑問に対し、如月さんはルーペを置き、懐から古い革の手帳を取り出した。


「そこから先は、わしの『情動の視座』と、お主の出番じゃ、サクタロウ」


 如月さんのアメジストの瞳が、面白くてたまらないといったように細められた。


「この硬貨をよく見ろ。ただのコインではない。そして、ワインのラベルのヴィンテージの年数。これらが示す事実を、お主の得意とするその薄っぺらい情報端末で炙り出すのじゃ」


 僕は促されるまま、使い慣れたタブレットのカメラアプリを起動し、マクロ撮影モードに切り替えた。

 西日のスポットライトの中、ワインボトルの底面、つまり窪み(パント)の奥に強力に貼り付けられた硬貨にレンズを限界まで近づける。画面越しに拡大された銀色の硬貨の表面には、細かいレリーフと、そして製造年を刻んだ小さな数字が浮かび上がっていた。


「……見えました。外国の記念硬貨みたいですね。刻印されている製造年は……今からちょうど十六年前です」


「ほう。ならば次は、そのボトルの表に回ってラベルの年号を読み上げるのじゃ」


 如月さんはティーカップを傾けながら、面白そうに唇の端を吊り上げた。

 僕はタブレットを下ろし、今度は色褪せたフランス語のラベルに目を凝らす。筆記体で書かれたシャトーの名前の下に、はっきりとした数字が印字されていた。


「ヴィンテージの年数も……十六年前です。製造からちょうど十六年経ったワインということになりますね」


「十六年前の記念硬貨と、十六年モノのヴィンテージワイン。この二つの事象が交差する意味が、お主には分かるか?」


「十六年前……」


 僕はその数字を口の中で反芻し、ふと、ある事実に思い至った。


「それって、僕たちと同じ年齢じゃないですか。高校一年生の、十六歳」


「御名答じゃ」


 如月さんは満足げに頷き、机の上で白い手袋をした指を組んだ。


「ヨーロッパなどでは、子供が生まれた年に、その『生まれ年のワイン』を買い求め、成人や結婚といった人生の節目まで大切に保管しておくというロマンチックな風習があるそうじゃ。そして、同じ年に鋳造された記念硬貨。これらは明らかに、特定の個人の『生誕』を祝し、その成長と共に時間を重ねてきたモノじゃな」


「なるほど……。じゃあ、これは誰かの十六歳の誕生日プレゼント、ってことですか? でも、お酒が飲めるのは二十歳からですよね」


「そこが、この錯覚トリックの『情動』の肝じゃ」


 如月さんは組んだ指を解き、再び銀のルーペを手の中で転がした。


「ワインはまだ飲めない。だが、十六歳という年齢は、子供から大人へと向かう重要な節目でもある。そこで贈り主は、未開封のワインボトルの底に、生まれ年の硬貨を仕込んだ。ワインという『未来の楽しみ』の中に、硬貨という『現在までの軌跡』を、視覚的な錯覚トリックを使って閉じ込めたのじゃよ。飲めずとも飾って楽しめる、極めて気の利いた、そして深い愛情が込められた細工じゃな」


 如月さんの口から紡がれる推理は、冷徹な物理分析から一転して、驚くほど人間味のある温かい物語へと変貌していた。

 しかし、彼女自身の声色は相変わらず、ただ数式を解き明かす学者のように淡々としている。彼女にとって人間の情愛すらも、モノのルーツを構成する『パズルのピース』の一つに過ぎないのだ。


「……すごい。そんな想いが詰まったプレゼントだったんですね。でも、それならどうして、月見坂グランド百貨店のエレベーターなんかに置き忘れたりしたんでしょう?」


 僕が疑問を口にすると、如月さんは少しだけ呆れたように息を吐いた。


「サクタロウ、お主のその情報端末は、ただの文鎮か? 点と点が繋がったのなら、あとは全体像を俯瞰するだけじゃ。百貨店、十六歳の誕生日、そしてこのボトルの『重量』を計算に入れよ」


「重量……あっ!」


 僕はワインボトルを両手で持ち上げてみた。分厚いガラス瓶にたっぷりの液体、さらに細工まで施されているのだ。見た目以上にずっしりとした重みがある。


「このプレゼントを用意したのは、おそらく十六歳を迎える孫を溺愛している祖父母じゃ。月見坂グランド百貨店の最上階には、展望レストランが入っておる。そこで孫娘――あるいは孫息子と、誕生日の食事の約束をしていたのじゃろう」


 如月さんの言葉に合わせるように、僕の頭の中で一つの情景が鮮明に組み上がっていく。


「高齢の身体で、この重いボトルを家から大事に抱えてきた。だが、エレベーターに乗った際、腕の疲労から、ほんの一瞬だけボトルを床の隅に置いたのじゃ。そして、目的の階に到着し、扉が開いた瞬間……待ちわびていた孫の姿が見えたのか、あるいは食事への期待からか、床に置いた重荷の存在を完全に思考から欠落させてしまった」


「……そして、そのままエレベーターを降りてしまった」


「そういうことじゃ。悪意も事件性も皆無。ただ、愛する者に会えたという『過剰な情動』が、物理的な記憶の欠落を引き起こした。それが、このありえないモノが、ありえない場所にあった真の理由じゃよ」


 見事だった。

 ただの錯覚を利用した不思議なワインボトルが、僕の目の前で、お爺ちゃんの不器用で温かい愛情の結晶へと姿を変えたのだ。


「……ちょっと、調べてみます」


 僕は急いでタブレットを操作し、月見坂市のローカルなSNS掲示板や、百貨店の落とし物情報を検索するAIツールを走らせた。

 キーワードは『月見坂グランド百貨店』『落とし物』『ワイン』『誕生日』。

 数秒後、AIが一件のSNSの投稿をピックアップして画面に表示した。


『拡散希望:昨日、月見坂グランド百貨店のエレベーターで、祖父が私への誕生日プレゼント(古いワインボトル)を置き忘れてしまいました。祖父は【大事なものを失くした】とひどく落ち込んでいます。もし見かけた方がいらっしゃれば……』


「如月さん! ありました! 昨日の夜に投稿されたものです。お爺さん、やっぱりすごく落ち込んでるみたいで……」


 僕が興奮気味にタブレットの画面を見せようとすると、如月さんはふと目を伏せ、小さく息を吐いた。


「……ふむ。事象の全容とモノのルーツは完全に解体された。最早、このボトルをわしの手元に置いておく物理的な理由は完全に消失したな」


 如月さんはそう言うと、古い革の手帳を開き、万年筆で今回の『鑑定結果』を書き込み始めた。サラサラというペン先の音だけが、図書室に響く。

 視線を落としたまま、彼女は静かに指示を出した。


「サクタロウ。お主がその端末で相手に連絡を取り、百貨店のサービスカウンター経由で返却できるよう手配をしておけ。もしお主の処理能力を超えるようであれば、我が家の使用人の誰かに命じて百貨店まで届けさせてもよいが……まあ、黒田には任せられんがな。あやつは余計な感情移入をして、届け先で大号泣しかねん」


「あはは……確かに、黒田さんならやりかねないですね。大丈夫です、僕の方でちゃんと持ち主と連絡をつけておきます」


 誰かの悲しい物語をハッピーエンドに導くことすら、如月さんにとっては『謎解きの副産物』でしかない。彼女はただ、ルーツが判明した不要なものを、最も論理的で適切なルートで本来の場所へ戻すよう指示しただけだ。その一切ブレない姿勢には、もはや清々しさすら覚える。


「うむ。それが終わったら、お主が持ってきたその安っぽいポテトチップスの袋を開けよ。脳のカロリーを消費したゆえ、塩分の補給が必要じゃ」


 僕は苦笑しながらワインボトルを丁寧に鞄にしまい、タブレットでメッセージを打ち始めた。

 一件落着だ。

 窓の外では、西日が沈みかけ、月見坂市の空が深い群青色に染まり始めている。僕は、見ず知らずのお爺ちゃんと孫の笑顔を想像しながら、少しだけ温かい気持ちでキーボードを叩いた。


 ――この時、僕は完全に失念していたのだ。

 明日がバレンタインの前日であり、この目の前でポテトチップスを要求している孤高の天才美少女が、現在進行形で『料理』という名の恐るべき爆弾を抱え込んでいるという、絶対的な事実を。



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