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第4巻:如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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EP,Winter ~section2:『完璧な令嬢と、因縁の暗黒物質』~

 二月十一日。バレンタインデーの三日前。


 月見坂市の新市街の中心にそびえ立つ、豪奢な外観を誇る高級デパートの地下食料品売り場は、尋常ではない熱気に包まれていた。

 AIによって完璧に空調管理され、常に快適な温度と湿度が保たれているはずの新市街にあって、この特設会場だけは完全に別次元の様相を呈している。濃厚なカカオの香りと、色とりどりのパッケージ、そして『限定品』という言葉に群がる人々の尽きることのない欲望が渦を巻き、目に見えない熱帯のような空気を形成していた。


 その喧騒の中心を、海が割れるように人々が道を譲って進む二人の少女の姿があった。

 一人は、170センチ近い長身に、タイトな黒のタートルネックとシックなスラックスを優雅に着こなした女性。艶のある漆黒の髪を高い位置でポニーテールにまとめ、その瞳は名の通り、透き通るような美しい翡翠の色をしている。

 彼女の名は如月翡翠。月見坂市経済の心臓部とも言える如月コンツェルンの経理・会計を一手に担う、数字のスペシャリストにして天才である。


「うーん、今年の社員用のチョコはどうしようかしら。第一営業部の人数を考えると、このベルギー産のクーベルチュールをベースにするのが一番コストパフォーマンスが高いわね。あとは役員用に、少し酸味の強いマダガスカル産カカオのものを……」


 翡翠は楽しそうに、しかし頭の中では恐るべき速度で原価計算と費用対効果を弾き出しながら、買い物かごへ次々と高級食材を入れていく。普段の業務では冷徹なまでに数字を追う彼女だが、根は優しい口調のお姉さんであり、こういった季節のイベントごとを密かに楽しむ愛らしい一面を持ち合わせていた。


 だが、その隣を歩くもう一人の少女は全く違った。


「……姉よ。わしはなぜ、このような下世話な喧騒に付き合わされねばならんのじゃ」


 長身の翡翠とは対照的に、147センチという小柄な体躯。しかし、そこから放たれる圧倒的な存在感は、周囲の大人たちを無意識のうちに怯ませていた。

 深い紫――アメジストの瞳は極度に不機嫌そうに細められ、サラサラのロングストレートヘアが歩くたびに美しく揺れる。上質なカシミヤのコートの下には、彼女の好むクラシカルなゴシックドレスが覗いていた。

 彼女もまた、姉の翡翠と同じく如月コンツェルンの社長令嬢である。ありえない場所にあるありえないもののルーツを探ることにのみ情熱を燃やす変わり者、如月瑠璃だ。


「いいじゃない、瑠璃。たまには姉妹で水入らずのお買い物も。それに、瑠璃だって美味しいチョコレートを食べるのは好きでしょう?」


「食べるのと、この群衆の中で脂汗を流しながらカカオの加工品を奪い合うのとは、全く別の物理現象じゃ。人間とは愚かな生き物よ。たかが糖分と脂質の塊に、己の承認欲求や生殖本能を絡めとり、無駄な時間と労力を消費しておる。市場のマーケティングと資本主義の奴隷になっていることにすら気付いておらん」


 瑠璃は腕を組み、冷ややかな視線で特設会場を一瞥した。他人の目や世間の評価に全く興味がない彼女にとって、バレンタインなどという行事は、壮大な無駄にしか見えなかった。

 だが、翡翠は瑠璃の毒舌を柳に風と受け流す。昔は犬猿の仲だった時期もあった二人だが、今は互いの才能を認め合う、非常に良好な姉妹関係を築いている。


「はいはい、おばあちゃんみたいな説教はそこまで。ほら、瑠璃の大好きなかためのプリンも、あそこの洋菓子店で買ってあげるから。カラメルは苦めのやつでしょ?」


「……む。分かっておるではないか」


「当然よ。それにしても……」


 翡翠は立ち止まり、陳列された色鮮やかな製菓用のトッピング材料を見つめながら、ふと思い出したように口を開いた。


「瑠璃は作らないの? チョコレート」


「馬鹿を言え」


 瑠璃は即座に、そして非常に強い語気で否定した。


 完璧な頭脳と、常人離れした五感分析能力、そして誰もが振り返る美貌。すべてを持ち合わせた完全無欠の令嬢である瑠璃だが、彼女にはたった一つ、決して触れてはならない絶対的なタブーがあった。

 それが『料理』である。


 数年前のある日のこと。瑠璃は、ふとした気まぐれから『料理など、分量と熱力学の完璧な計算さえあれば誰にでも可能じゃ』と豪語し、如月家の広大な厨房に立った。

 しかし、彼女の天才的な頭脳は、こと料理というジャンルにおいてのみ、なぜか致命的なバグを起こした。彼女の持つ『情動の視座』が、食材の組み合わせというキャンバスの上で暴走し、前衛的すぎる解釈を加えてしまったのだ。

 結果として鍋の中から生み出されたのは、光すらも吸い込むような漆黒の泥――後世に如月家で語り継がれる『暗黒物質(ダークマター)』だった。


 その日、如月家の壮麗なダイニングルームは文字通りの地獄と化した。

 毒味という名の犠牲となったのは、如月コンツェルン会長である祖父・弦十郎、社長の父・彰、社長秘書を務める母・菫、そして目の前にいる姉の翡翠である。

 一口食べた瞬間、普段は厳格な祖父の弦十郎が白目を剥いて椅子から転げ落ち、社長である父の彰は「……お迎えが来たようだ」と虚空に向かって震える手を伸ばし、母の菫は顔面を蒼白にしてトイレに駆け込んだ。翡翠に至っては、あまりの衝撃に自身の得意とする暗算能力が一時的に喪失し、「1たす1は……ゼロ……?」と譫言を繰り返す始末だった。


 さらに悲惨だったのは、瑠璃の専属ボディガードである黒田だ。

 40代後半にして筋骨隆々、如月家随一の凄腕である彼は、老執事のような落ち着きとは無縁の男である。主家の人々が次々と倒れる異常事態に直面した彼は、「お嬢様の御心意気、この黒田がすべて受け止めまするッ!」と、残った暗黒物質を涙ながらに一気食いしたのだ。もともと非常に涙もろい性格ではあったが、その時の彼の涙が、令嬢の健気な努力への感動から来るものなのか、それとも内臓への強烈な物理的ダメージから来るものなのか、誰にも分からなかった。

 結果、屈強な肉体を誇る黒田を含め、如月家の面々は三日三晩、原因不明の高熱と悪夢にうなされることとなったのである。


「……あれは、わしの計算ミスではない。食材の分子構造の結合係数が、当日の気圧と湿度によって予測不能な揺らぎを起こしただけじゃ」


 瑠璃は視線を逸らし、珍しく苦し紛れの言い訳を口にした。


「はいはい、そういうことにしておくわ。お爺様なんて、あれ以来カカオの匂いを嗅いだだけで胃薬を飲むようになっちゃったんだから。本当に大惨事だったわね」


 翡翠はクスリと笑いながら、製菓用の温度計をかごに入れた。


「でも、私が聞いているのは家族への話じゃないわ」


 翡翠色の瞳が、いたずらっぽく細められる。


「光太郎くんには、あげないの? ってこと」


 光太郎。朔光太郎――サクタロウ。

 その名を聞いた瞬間、瑠璃の歩みがピタリと止まった。


「……なぜ、わしがあのような駄犬に恵んでやらねばならんのじゃ。あやつはわしの助手であり、下僕。むしろあやつがわしに貢ぐのが筋というものじゃろう」


 瑠璃は不機嫌さを隠そうともせず、そっぽを向いた。

 サクタロウとの間に余計な感情など微塵もない。瑠璃にとって彼は、遊ぶのにちょうどいい玩具であり、自身の知的好奇心を満たすための便利な手駒に過ぎない。


 だが、翡翠はそんな瑠璃の態度を見透かしたように、わざとらしくため息をついた。


「そう? なら、私が光太郎くんにあげようかな。手作りで、とびっきり美味しいやつを」


「……なっ」


 瑠璃のアメジストの瞳が、驚きと、そして正体不明の不快感に見開かれた。


「……お主、あやつは未成年じゃぞ。犯罪の匂いがするぞ」


「あら、ただの感謝の印よ? いつも妹がお世話になってるお礼。光太郎くん、ああ見えて結構可愛いところあるし、私の完璧な手作りチョコを渡したら、きっと顔を真っ赤にして喜んでくれるわね。ふふっ、想像しただけで可愛らしいわ」


 翡翠は幼い頃から、瑠璃のお気に入りのものにちょっかいを出す傾向があった。それは昔の犬猿の仲だった頃の名残でもあり、今の良好な関係におけるちょっとしたスキンシップでもある。

 だが、今の瑠璃にとって、サクタロウは助手であり、忠犬であり、何よりも自分の『所有物』だった。


(……あの駄犬が、こやつの手作りチョコに鼻の下を伸ばすじゃと?)


 想像しただけで、胸の奥でドス黒いマグマのようなものが煮え滾るのを感じた。

 自分の所有物が、自分以外の者に手懐けられる。それは、如月瑠璃の強烈なプライドが絶対に許容できない事象だった。

 瑠璃は、ギリッと奥歯を噛み締め、翡翠を睨みつけた。


「……待て。わしが作る」


 喧騒に包まれた地下食料品売り場の片隅で、周囲の空気すらも凍りつかせるような、低く、しかし絶対的な意志を孕んだ瑠璃の宣言が響いた。

 その言葉を聞いた瞬間、翡翠は驚きに目を瞬かせ、次いで、口元を上品に手で覆って小さく吹き出した。


「ふふっ……あははっ! 瑠璃、本当に? あの『暗黒物質』の悲劇を繰り返すつもり?」


「笑い事ではないわ、姉よ。あの頃のわしとは違う。わしの完璧な五感分析と、物質の熱力学的な論理思考をもってすれば、カカオバターの結晶構造を均一化するテンパリング作業など、造作もないことじゃ」


 瑠璃は表情一つ変えず、淡々と、しかし極めて冷徹なトーンで言い放った。


「第一、わしの所有物である駄犬が、お主の作ったチョコなどという甘い毒牙にかかり、忠誠心を揺るがすような事態は、主として断じて看過できん。犬は主の与えたものだけを食むのが自然の摂理というものじゃ」


 それは嫉妬や照れ隠しなどという可愛らしい感情から来るものではない。あくまでも如月瑠璃という絶対的な主の、強烈なまでの所有欲とプライドの表れだった。自分の手駒であるサクタロウが、自分以外の者から与えられた甘い菓子に尻尾を振る。その事象そのものが、彼女の構築する完璧な世界におけるバグであり、許容し難い不快感を生み出しているのだ。

 とはいえ、自身の料理スキルの絶望的な欠如は、瑠璃自身が一番よく理解している。自身の能力をいかに客観的に鑑定してみても、一人で真っ当なチョコレートが完成する未来が全く見えないのも事実だった。


 瑠璃は一つだけ小さくため息をつき、誠に遺憾ながらという態度で、翡翠を静かに見上げた。


「……ふん。レシピと工程を、わしに教示せよ。分子レベルでの完璧な手順を要求する」


「ふふっ、素直でよろしい。いいわよ、お姉ちゃんが基礎からみっちり教えてあげる。光太郎くんのために、せいぜい頑張ることね」


 翡翠は楽しそうに微笑むと、買い物かごの中に、瑠璃用の製菓用チョコレートブロックと、精密な温度計、そしてラッピング用の小箱を滑り込ませた。

 瑠璃はかごの中のチョコレートを、まるで解読不能な古代言語の石版でも見るかのように、冷ややかな視線で見下ろしていた。


 数十分後。

 戦場のような地下食料品売り場での買い物を終えた二人は、喧騒から逃れるようにデパートの奥まった場所にあるVIP用・および車椅子優先のエレベーターホールへと向かった。

 分厚い木目調の扉が静かに開き、二人は誰も乗っていないカゴの中へと足を踏み入れる。


 外界の騒音は分厚い扉によって完全に遮断され、エレベーター内には静寂と、微かな高級フレグランスの香りだけが漂っていた。柔らかな間接照明が、床に敷き詰められたふかふかの絨毯を照らし出している。

 扉が閉まり、滑るような滑らかな挙動で、エレベーターが下降を始めた。


「あーあ、疲れた。でも、これで準備は万端ね。帰ったら早速、キッチンの準備をして……」


 翡翠が軽く背伸びをしながらそう言った、その時だった。


「なんじゃ、あれは」


 瑠璃の低い呟きが、密室の静寂を切り裂いた。

 彼女のアメジストの瞳は、チョコレート作りの憂鬱などすっかり忘れ去ったかのように、エレベーターの床の隅、手すりの影にひっそりと置かれた『あるもの』に釘付けになっていた。


 翡翠も釣られて視線を落とす。


「あら、忘れ物? ワインボトルみたいだけど……」


 そこにあったのは、一本の古いワインボトルだった。

 ラベルはフランス語で書かれており、経年劣化によって微かに黄ばんでいる。しかし、中には琥珀色に近い深いボルドーの液体がたっぷりと満たされており、ボトルの口はコルクで固く塞がれ、その上から蠟のような封印シールがしっかりと被せられていた。誰がどう見ても、完全なる『未開封』の状態である。


 だが、瑠璃の目を釘付けにしたのは、ボトルの外観でもヴィンテージの価値でもなかった。

 彼女はためらうことなく、高級ブランドのバッグの中から、常に持ち歩いている使い古された『軍手』を取り出し、華奢な両手にはめた。美しいゴシックドレスと無骨な軍手という恐ろしくアンバランスな出で立ちで、彼女は床にしゃがみ込み、そのワインボトルをそっと持ち上げた。


「よく見るのじゃ。このボトルの『中』を」


「中? ただのワインじゃないの……えっ?」


 翡翠は目を瞬かせた。

 エレベーターの柔らかな照明に透かされた、琥珀色の液体の底。

 そこには、明らかにボトルの口径よりも大きな、一枚の『銀色の硬貨(コイン)』が沈んでいたのだ。


「未開封のボトルの中に、口より大きな硬貨が入っている……?」


 翡翠の得意とする数学的、物理的な常識が、その光景を前にして軽くバグを起こす。ボトルを切断して繋ぎ合わせた痕跡はない。手品やイリュージョンの道具というわけでもなさそうだ。


「これは不純物(ノイズ)じゃ」


 瑠璃の唇の端が、三日月のように吊り上がった。

 その瞬間、彼女の脳内から『バレンタイン』や『手作りチョコレート』、そして『駄犬の忠誠心』といった俗世の事象は完全に消し飛んでいた。

 彼女の知的好奇心は、完全にこの『未開封のワインボトルに詰まったコイン』へと移行したのだ。


「ガラスの屈折率と、液体の質量……。いや、それだけではない。この硬貨そのものにも、何かルーツを示す情報が刻まれておるはずじゃ。なぜこのような精巧な細工が施されたボトルが、高級デパートのエレベーターの床に、誰に拾われることもなくポツンと置かれていたのか。その過程と理由、そして『ここにある情動』……」


 瑠璃は軍手をした手でボトルを大切に抱え込むと、自身のコートの懐から銀のルーペを取り出した。


「決まりじゃ。これはわしが持ち帰る。明日の放課後、あの駄犬をこき使って徹底的に解体・鑑定してくれるわ」


「ええっ? ちょっと瑠璃、それは拾得物なんだから、普通はデパートのサービスカウンターに届けるべきじゃ……」


「馬鹿を言え。そのような無機質なシステムに預けてしまえば、このモノがここにある『真の理由』が闇に葬られてしまうではないか。わしは、この不可解な事象の根源を知りたいのじゃ」


 チーン、という軽快な電子音と共に、エレベーターが1階に到着し、扉がゆっくりと開いた。

 瑠璃はワインボトルを抱えたまま、誰よりも早く、そして堂々とした足取りでエレベーターを降りていく。


「ちょっと、瑠璃! チョコレート作りはどうするのよ!」


 背後から追いかけてくる翡翠の声に、瑠璃は立ち止まり、静かに振り返った。

 その表情は顔を赤らめることも、感情を乱すこともなく、ただいつものように不遜で、揺るぎない自信に満ちていた。


「忘れてはおらん。家に帰るぞ、姉よ。帰宅次第、お主には予定通り、完璧な分子結合の手順を教示してもらうからの」


 かくして、バレンタインを目前に控えた如月瑠璃の手元には、料理という名の最大の試練と、知的好奇心を刺激してやまない新たな『謎』の両方がもたらされたのだった。



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