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第4巻:如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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19/24

EP,Winter ~section1:『針だらけの鬼の面と、淡い期待』~

 二月に入ると、月見坂市の空気は一段と張り詰めた冷たさを帯びる。

 新市街はAIによって気温から湿度、果てはビル風の通り道に至るまで完璧に計算され、最適化されたスマートシティである。街路樹の葉の揺らぎ一つとってもプログラムされたかのような整然さを見せるこの街では、季節の移ろいすらも巨大な無菌室のディスプレイを眺めているような錯覚に陥ることがある。

 しかし、どれほど環境が高度なテクノロジーによって制御されていようと、この時期の高校生たちの内側に吹き荒れる熱気や動揺までは管理しきれないらしい。


 バレンタインデー。

 そのたった七文字の響きだけで、如月学園高等部の空気はどこか甘く、そして酷く落ち着きのないものに変貌していた。


 昼休みの教室は、見えない熱帯夜のように息苦しい。廊下や教室の隅では、女子生徒たちが密やかな声でラッピングの色や手作りのレシピについて相談を交わし合っている。一方の男子生徒たちはと言えば、『自分にはそんな商業的な行事など関係ない』という冷めたポーズを必死に作りながらも、その実、誰かの視線を期待して落ち着きなく肩を揺らしているのだ。中には、わざとらしく自分の机の中を何度も確認する者すらいる。


 そんな浮ついた喧騒の中で僕は、自分の席から斜め前の席に座る少女の背中をぼんやりと眺めていた。


 如月瑠璃。


 僕のクラスメイトであり、月見坂市の経済の心臓部を担う如月コンツェルンの社長令嬢であり、そして僕の絶対的な『主』である。

 彼女の周囲だけは、まるで絶対零度の結界が張られているように静まり返っていた。彼女はクラスメイトたちのざわめきなど全く鼓膜に届いていないかのように、分厚い古い文献に視線を落としている。


 入学当初、その圧倒的な可憐さに引き寄せられ、自信過剰な男子生徒たちが何人も彼女に言い寄ったことがあった。しかし、結果はすべて同じだった。話しかけた途端に立ち去られるか、あるいは彼女の恐るべき論理的思考と冷徹な言葉によって完膚なきまでに論破され、泣きながら去っていくかのどちらかだ。中には二度と立ち直れなくなった者もいると聞く。

 他人の評価や世間の流行に全く興味がない彼女にとって、恋愛などという非合理的な感情は、観察対象にすらならないのだ。当然、バレンタインという行事も彼女の脳内辞書には存在しない。


 非モテ代表を自認し、同世代の女性と少しでも身体的な接触があれば即座に思考停止に陥ってしまう僕にとって、バレンタインは蚊帳の外を通り越して、もはや別次元のイベントである。過去にいじめられていた経験もあり、学校生活において目立つ行動を避けてきた僕には、義理チョコすら無縁の人生だった。

 しかし、そんな僕であっても、ほんのわずかな――それこそ天文学的な確率の夢物語を、頭の片隅で妄想してしまう悲しい男の性というものがあった。


(もしかしたら、如月さんからチョコが貰えたり……しないよな、うん)


 ありえない。それは物理法則が逆転するのと同じくらいありえないことだ。彼女にとって僕は、せいぜい便利な助手か、よく働く下僕、あるいは忠犬に過ぎない。恋愛感情など生まれる余地はない。分かっているのに、無意識のうちにそんな甘い期待を抱いてしまう自分がひどく滑稽に思えた。


 やがて、放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。

 途端に、如月さんは流れるような美しい所作で本を閉じ、鞄を手に取って教室を出て行く。クラスメイトたちは相変わらず彼女の存在感に圧倒され、自然と道を開けた。

 僕は慌ててタブレットとガジェット類を鞄に突っ込み、彼女の背中を追うように教室を飛び出した。主の歩調に遅れまいと小走りでついていく僕は、誰の目から見ても滑稽な忠犬にしか見えないだろう。


 新市街の喧騒と、最新鋭の設備が整った新校舎から完全に切り離された場所。それが僕たちの拠点である『旧校舎』だ。

 冷たいコンクリートの廊下を抜け、埃の匂いが微かに漂う図書室の重厚な扉を開ける。

 そこには、僕より一足先に到着した如月さんが、すでに定位置についてくつろいでいた。


 彼女が勝手にこの旧校舎の図書室を占拠し、持ち込んだアンティークの家具や高級な茶器、そしてこの季節の特等席であるこたつのおかげで、ここはすっかり僕たちの快適な隠れ家と化している。図書委員でもないのに我が物顔でここを使っているが、誰も文句を言う者はいない。


「遅いぞ、サクタロウ。下駄箱での靴の履き替えに何秒もたついておるのじゃ。主の歩調を計算し、先回りして扉を開けるのが助手の役目であろう」


「すみません、如月さん。クラスの男子が廊下で変に群れてて、通り抜けるのに手間取っちゃって……」


 僕は苦笑しながら言い訳をし、こたつの向かい側に潜り込んだ。冷え切った指先を擦り合わせながら、ふと、机の中央に置かれた『本日の鑑定品』に視線を落とし――僕は思わず息を呑んだ。


「……うわ。何度見ても、直視したくない不気味さですね、それ。今日はずいぶんとヘビーなものを拾ってきましたね」


「そうか? わしには、極めて論理的な物理現象と生活の痕跡の集合体にしか見えんがの」


 如月さんはアンティークのティーカップを片手に、涼しい顔で答えた。

 机の上のトレイに鎮座していたのは、鈍い黒光りを放つ『鋼鉄の鬼の面』だった。

 お祭りの屋台で売られているようなチープなプラスチック製ではない。ずっしりとした質量を感じさせる分厚い鉄の塊だ。しかし、問題なのはその材質ではない。

 その鋼鉄の面の額から頬、顎に至るまで、無数の『縫い針』が剣山のようにびっしりと突き刺さっていたのだ。


 薄暗い図書室の照明を反射してギラギラと光るその姿は、中世の拷問器具か、あるいは誰かを呪い殺すための禍々しい呪具にしか見えない。分厚い鋼鉄にこれほどの数の針を『突き刺す』など、異常な執念と人間離れした腕力がなければ不可能だ。

 この旧校舎の裏手で拾ってきたというその重々しい物体は、どう考えても警察に届けるべきヤバい代物だった。


「如月さん、やっぱりこれ、誰かを呪うための鉄人形的なアレじゃないですか? 触らない方がいいですよ、絶対に呪われますって」


「馬鹿を言え。非現実的なオカルトで思考を停止させるなと、何度言えば分かるのじゃ。お前は本当に駄犬じゃの」


 如月さんは呆れたようにため息をつくと、常に持ち歩いている銀のルーペを取り出し、鋼鉄の鬼の面に顔を近づけた。

 対象物を物理的に、そして情動的に解体していく、彼女の『鑑定』が始まる合図だった。


 薄暗い図書室の照明の下、如月さんのアメジストの瞳が、銀のルーペ越しに鋼鉄の鬼の面を舐めるように這っていく。

 彼女は常に持ち歩いている軍手をはめた指で面の輪郭をなぞり、次いで、同じく愛用の銀の匙を取り出した。そして、面の額にびっしりと林立する針の一本に向け、匙の柄の先を軽く弾くように当てた。


 チリン、という硬質な音が図書室に響く。

 弾かれた針はパタリと面の上に倒れ――次の瞬間、カチッという微かな音を立てて、再び面の表面にピタリと吸い付き、直立した。


「え……?」


「よく観察するのじゃ、サクタロウ。そもそも、これほど分厚い鋼鉄の塊に、このような極細の針を物理的に貫通させることなど、工場用の油圧プレスでも使わん限り不可能じゃ。この針は面に『刺さっている』のではない」


 如月さんは涼しい顔で言い放ち、軍手をした指で針を数本まとめてつまみ上げた。針はわずかな抵抗を見せた後、あっさりと面から引き離された。


「磁力じゃよ。この鬼の面は、ただの鋼鉄ではない。非常に強力な磁力を持った『磁鉄鉱』、あるいは人為的に着磁された金属塊じゃ。そして、この針はすべて和裁で使われる高級な『絹針』。つまり、針は面に刺さっているのではなく、強力な磁力によって『垂直に引き寄せられ、立っているように見えているだけ』なのじゃ」


「磁力……! だから、刺さっているように見えたんですね」


 言われてみれば、針の根本は金属にめり込んでいるのではなく、表面のわずかな凹凸に吸い付いているだけだった。呪いの儀式でも何でもない、ただの物理法則の現れだ。


「和裁の職人は、作業中に畳や床に落ちた細かい針を安全に拾い集めるため、強力な磁石を使うことがある。旧市街の職人であれば、ただの味気ないプラスチックの磁石ではなく、こういった魔除けの意匠が施された古い鉄の文鎮などを磁化させて、長年道具として愛用していてもおかしくはない」


「なるほど……磁石の針拾い器だったんですね。でも、どうしてこんなに大量の針をくっつけたまま、外に落ちてたんですか?」


 如月さんは制服のポケットから古い懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けて文字盤を一瞥した。


「今日の日付を言ってみよ」


「えっと、二月十日ですけど」


「二月八日は『針供養』の日じゃ」


 如月さんはパタンと懐中時計を閉じ、古い革の手帳を机に置いた。


「折れたり曲がったりした古い針を、豆腐やこんにゃくに刺して供養し、裁縫の上達を願う古くからの行事じゃな。旧市街の神社でも毎年行われておる。この面にくっついている絹針をルーペで見れば、どれも極度に使い込まれておることが分かる。針の頭には微かな錆が浮き、布の繊維が絡みついておるものもある」


 そこまで語ると、如月さんはふっと息を吐き、結論を口にした。


「つまりこういう事じゃ。旧市街の和裁の職人が、供養に出すための古い針をこの磁石の面にまとめてくっつけ、仮の針山として持ち歩いていた。だが、神社の帰りにでも、鞄からこぼれ落としてしまった。ただそれだけの、極めて日常的な事象じゃよ」


 呪いでも何でもない。旧市街に住む誰かが、長年連れ添った道具を供養するために持ち歩き、うっかり落としてしまっただけの、平和な結末。

 重厚な鋼鉄の禍々しさが、如月さんの物理的観察眼と、モノのルーツを辿る『情動の視座』を通した途端、どこか温かみのある日常の風景へと見事に反転したのだ。


「……すごい。事件性ゼロですね」


 僕は安堵の溜息をつき、手元のタブレットを開いた。如月さんはデジタル機器を極端に嫌うため、こういった記録やAIを使った情報整理は僕の役目だ。検索をかけると、確かに旧市街の神社で二日前に針供養の神事が行われていたというローカルニュースがヒットした。


「さて、本日の鑑定は終了じゃ。拾得物としての構造は完全に解体した」


 如月さんは完全に興味を失ったように、鬼の面を机の端へ乱雑に追いやった。謎を解き明かすことだけが彼女の唯一の目的であり、落とし主の事情に寄り添ったり、感謝されたりすることには全く関心がない。後は僕が旧市街の交番にでも届けておくしかないだろう。


 静寂が戻った図書室。窓の外では、冬の夕日が旧校舎を深いオレンジ色に染め上げ始めている。

 僕はやかんを火にかけ、如月さんのために紅茶の準備を始めた。高級な茶葉の香りが、埃っぽい図書室の空気を上書きしていく。

 お湯が沸くまでの僅かな時間、僕はふと、校内に蔓延していたあの浮ついた空気を思い出した。


(……今なら、少し機嫌が良いかもしれない)


 一呼吸置き、僕は努めてさりげないトーンを作って、背を向けたまま口を開いた。


「そういえば如月さん。今週末の十四日って、何の日か知ってますか?」


「十四日?」


 如月さんはティーカップの縁を指でなぞりながら、小首を傾げた。


「何か歴史的な発見でもあった日かの? それとも、旧市街でまた珍しい骨董市でも開かれるのか?」


「……いや、そういうんじゃなくて。もっとこう、世間一般的に、みんながソワソワするような……学校中の男子も女子も、そわそわしてるじゃないですか」


 僕の精一杯のパスに対し、如月さんの瞳は、まるで路傍の石でも見るかのように冷え切っていた。


「世間一般の俗物どもが騒ぐ行事など、わしの知る範疇にはない。人の目や他人の評価に縛られ、資本主義の商業戦略に踊らされるなど、人生の時間の無駄じゃ」


「……はい」


「そんなことよりサクタロウ。今日はお前が淹れた紅茶が少し薄いぞ。茶葉の蒸らし時間が五秒は足りておらん。助手のくせに主の舌を満足させられんとは、全く役に立たん駄犬じゃな」


 完全に、絶望的なまでに興味ゼロだった。

 普通の女子高生が好むものに一切関心がない彼女の耳には、バレンタインという単語すら登録されていないらしい。僕の1ミリ以下の淡い期待は、バレンタインを目前にして、先ほどの鋼鉄の鬼の面よりも冷たく、無残にも木端微塵に打ち砕かれたのだった。


 僕は肩を落とし、「……はい、すみません。新しく淹れ直しますね」とだけ返し、二杯目の紅茶の準備にとりかかった。

 旧校舎の図書室は、いつも通りの、残酷なまでに平和な日常に包まれていた。



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