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第4巻:如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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EP,Winter ~section5:『二つのチョコレートと、下駄箱の奇跡』~

 二月十四日。バレンタインデー当日。


 月見坂市の新市街にそびえ立つ如月学園高等部は、朝からまさに阿鼻叫喚の様相を呈していた。

 AIによって最適化された快適な空間であるはずの校内は、生徒たちの過剰な熱気と情動によって、完全に制御不能なカオス空間へと変貌している。


 廊下の片隅では、本命チョコを貰ってガッツポーズを決め、周囲の男子から羨望と嫉妬の眼差しを浴びる勝者がいる。一方で、昼休みが終わっても机に突っ伏したまま、一つも貰えなかった現実を受け入れられずに魂を抜かれている敗北者がいる。さらには、義理チョコの数だけでマウントを取り合い、無意味な虚勢を張り合う者たちまで。

 人間の承認欲求と生殖本能が、カカオの加工品という物理的なアイテムを媒介にして、これほどまでに剥き出しになる日も他にないだろう。


 そんな喧騒を横目に、僕はと言えば、当然ながら完全なる『敗北者』の側に属していた。

 非モテ代表であり、同世代の女性に対する免疫が皆無な僕にとって、靴箱や机の中に可愛らしい小箱が入っているという奇跡は、宇宙の誕生からやり直しても起こり得ない事象である。


(……分かってた。分かってたけどさ)


 僕は自分の席で、斜め前に座る少女の背中を、今日だけで何度目か分からないほど盗み見ていた。


 如月瑠璃。


 彼女の周囲だけは、この狂騒のバレンタインにあっても、絶対零度の結界が張られているように静まり返っていた。艶のある漆黒の髪を揺らし、彼女はただ黙々と、分厚い古い文献のページを捲っている。

 周囲の男子たちも、彼女の圧倒的な美貌に視線を奪われながらも、誰一人として不用意に近づこうとはしない。話しかけた瞬間に、冷徹な論理の刃で切り捨てられる未来が見えているからだ。


 当然、僕に対して何かを渡す素振りなど微塵も見せない。

 そもそも、彼女の頭の中に『バレンタイン』という概念が存在しないことは、数日前の図書室でのやり取りで痛いほど思い知らされている。


(やっぱり、無理か……)


 僕の頭の片隅にあった1ミリ以下の淡い期待は、時間の経過とともに完全に霧散し、深い落胆へと変わっていった。


 やがて放課後を告げるチャイムが鳴り、僕たちはいつものように、喧騒から逃れるようにして旧校舎の図書室へと移動した。

 オレンジ色の西日が差し込む図書室は、新市街の狂騒が嘘のように静まり返っている。微かな埃の匂いと、静寂。

 如月さんは定位置であるアンティークの椅子に座り、今日も机の上に広げた得体の知れないガラクタを、銀のルーペで睨みつけていた。


 僕もいつも通り、こたつに入ってタブレットを開き、彼女の指示に従ってAI検索をかけたり、記録を取ったりしていた。

 いつも通りの、主と助手の平和な日常。バレンタインの『バ』の字も存在しない、完全に切り離された空間だ。


「サクタロウ。その部品の裏に刻まれた製造番号を読み上げよ。どうやら、このネジの規格は昭和初期の……」


 淡々と指示を出す彼女の横顔を見つめながら、僕は小さく息を吐いた。


(これでいいんだ。如月さんからチョコをもらうなんて、そもそも僕の立場からして身の程知らずすぎる)


 僕は彼女の『助手』であり『下僕』だ。それ以上でも以下でもない。この静かな図書室で、彼女の突拍子もない謎解きに付き合っている時間こそが、僕にとっての何よりの特権なのだから。


 そう自分に言い聞かせ、タブレットの画面に視線を落とした、その時だった。


「……ふむ。今日はここまでにしよう」


 不意に、如月さんが銀のルーペを机に置き、パタンと古い革の手帳を閉じた。


「え? まだ外は明るいですよ? いつもなら、ルーツが完全に解明されるまでテコでも動かないのに……」


 僕が驚いて顔を上げると、如月さんはすでに鞄を手に取り、立ち上がっていた。


「わしの頭脳が、本日の情報処理の限界を告げておるのじゃ。それに、今日は少し……その、帰ってやらねばならんことがある」


 如月さんはなぜか、ほんのわずかに視線を泳がせ、足早に図書室の出口へと向かった。


「あ、如月さん! お疲れ様です……って、もう行っちゃった」


 バタン、と重厚な扉が閉まる音が響き、図書室には僕一人だけが取り残された。

 いつもなら、僕が戸締まりをするまで本を読んで待っているか、あるいは「駄犬はさっさと片付けを終わらせるのじゃ」と急かしてくるのに。今日の彼女は、どこか様子がおかしかった。


(帰ってやらなきゃいけないこと……? 如月コンツェルンの仕事の手伝いとかかな)


 一人になった僕は、オレンジ色の夕日に照らされながら、机の上のガラクタと、高級なティーカップを片付けた。鞄にタブレットや『魚魚ラブ』のグッズを詰め込み、図書室の鍵を閉める。

 冷たいコンクリートの渡り廊下を歩きながら、僕はどっと押し寄せてきた疲労と寂しさに肩を落とした。


 結局、僕の十六歳のバレンタインは、何の波乱も奇跡も起きないまま、静かに幕を下ろそうとしている。


 新校舎のエントランスに向かい、自分のクラスの下駄箱の前に立つ。

 周囲には、部活帰りの生徒たちの姿がまばらにあるだけだ。僕はため息をつきながら、自分の靴箱の扉に手をかけた。

 そして、無造作に扉を開けた瞬間。


 ――コロン。


 僕の足元に、可愛らしいラッピングが施された小箱が二つ、転がり落ちてきた。


「…………え?」


 僕は完全に思考が停止し、そのまま石像のように固まった。

 夕日が差し込む下駄箱の前。埃っぽいタイルの上に、どう見ても『バレンタインのチョコレート』としか思えない形状の物体が、二つ。

 幻覚か? バレンタインの狂騒にあてられた僕の脳が、ついに都合の良い幻視を見せ始めたのか?


 僕は震える手を伸ばし、その二つの箱を拾い上げた。

 確かな質量。そして、微かに漂う甘いカカオの香り。幻覚ではない。物理的に、僕の靴箱の中に、これが存在していたのだ。


 一つ目の箱は、上品な淡いグリーンの包装紙に包まれ、金色のリボンがかけられていた。添えられた小さなメッセージカードには、流れるような美しい達筆で、こう書かれている。


『いつも瑠璃がお世話になってます。光太郎くんへ 翡翠より』


「ひ、翡翠さんから……!」


 コンツェルンの経理を担う、あの美しくて優しいお姉さんからだ。義理チョコ、あるいは感謝の印だとしても、飛び上がるほど嬉しい。


 そして、僕は心臓が早鐘のように打ち鳴るのを感じながら、もう一つの箱に視線を移した。

 それは、黒いシックな包装紙に、真紅のリボンが不器用に結ばれた小箱だった。

 添えられているのは、見覚えのある古い万年筆のインクで書かれた、たった一言の短いメッセージ。


『下僕へ』


「…………っ!!!!」


 声にならない絶叫が、僕の喉の奥で爆発した。

 間違いない。この尊大で、所有欲に満ちた、しかしどこか不器用な文字。

 如月さんだ。あの、恋愛にも行事にも一切の興味を持たない孤高の天才美少女が、僕のために、チョコレートを用意してくれていたのだ。


 今日一日の落胆が、すべて壮大な前振りであったかのように、僕の全身の細胞が歓喜に震えた。

 可能性1ミリ以下だったはずの奇跡が、現実の物理現象として僕の手の中にある。


「よっしゃああああああっ!!」


 僕は誰の目も気にせず、夕日の差し込むエントランスで、人生最大のガッツポーズを決めた。

 周りにいた部活帰りの生徒たちが驚いてこちらを見ていたが、そんなことはどうでもよかった。僕は大切な二つの箱を鞄の一番安全な場所にしまい込むと、靴を履き替え、旧市街の団地にある自宅を目指して、これまでの人生で最も軽やかな足取りで走り出した。


 早く帰って、開けたい。

 如月さんが、僕のためにどんなチョコを選んでくれたのか。

 期待で胸が張り裂けそうだった。この時の僕は、あの不器用なリボンの中に、物理法則と情動が暴走した『恐るべき代物』が封印されていることなど、知る由もなかったのだ。


 旧市街の入り組んだ路地を、僕は息を切らして駆け抜けた。

 普段なら長く感じる家までの道のりも、今日ばかりは足が羽でも生えたように軽い。冷たい二月の夜風が火照った頬を撫でていくが、鞄の中に鎮座する二つの小箱の重みが、僕の体温を異常なまでに引き上げていた。


「ただいま!」


 勢いよく錆びた鉄の扉を開け、自宅である団地の一室に転がり込む。


「……おう、おかえり。なんだ光太郎、随分と慌ただしいな」


 居間のこたつでテレビを見ていた父親の定光(さだみつ)が怪訝な顔でこちらを振り向いたが、僕は「ちょっとね!」とだけ返し、水槽の中で泳ぐ二匹の金魚に挨拶もそこそこに、自分の六畳間へと飛び込んだ。


 バタン、とドアを閉め、机の前のパイプ椅子に座り込む。

 ドクン、ドクンと、心臓の音が鼓膜の奥でうるさいほどに鳴っていた。僕は震える手で鞄を開け、中から二つの箱を机の上に恭しく並べた。


 淡いグリーンの包装紙に包まれた、翡翠さんからの箱。

 そして、黒い包装紙に不器用な真紅のリボンが結ばれた、如月さんからの箱。


「……夢じゃない。本当に、物理的に存在してる」


 人生初のバレンタインチョコレート。しかも、あの如月姉妹からだ。

 僕はまず、高ぶる感情を落ち着かせるように、翡翠さんからの箱を手に取った。

 金色のリボンを丁寧に解き、包装紙を開く。中から現れたのは、まるでデパ地下の高級ショーケースに並んでいるかのような、完璧な装飾が施された四つのトリュフチョコレートだった。


「すごい……お店で売ってるやつと全く見分けがつかない」


 僕は一つをつまみ上げ、口に放り込んだ。

 パリッとした薄い表面のチョコレートが割れると、中から濃厚で滑らかなガナッシュが溶け出してくる。絶妙な甘さが口いっぱいに広がった。


「美味しい……。翡翠さん、本当にすごいな」


 コンツェルンの経理を束ねる完璧なお姉さんは、お菓子作りにおいても完璧なプロフェッショナルだった。僕は残りの三つを大切に箱に戻し、深い感謝の念を抱きながら、いよいよ『本命』へと向き直った。


 黒い包装紙に、真紅のリボン。

 添えられたカードには、古い万年筆のインクで『下僕へ』という、如月さんらしい尊大な一言。

 僕は唾を飲み込み、不器用に結ばれたそのリボンに指をかけた。


(あの如月さんが、僕のために……)


 普段は料理など全くしないだろうあの孤高の天才美少女が、僕のために、不器用ながらも作ってくれたのだ。

 それだけで、奇跡という言葉では足りないほどの価値がある。


 ゆっくりと包装紙を開き、黒い箱の蓋を持ち上げる。

 中に入っていたのは――ゴツゴツとした、かなり歪な形のチョコレートの塊だった。


 色は鈍い漆黒。表面は滑らかさとは程遠く、何かの岩石のように削られた跡が無数に残っている。トリュフやハート型といった、一般的なバレンタインの意匠とは完全に無縁の、ただの『歪な塊』。

 だが、その無骨な姿を見た瞬間、僕の視界は一気に滲んだ。


「如月さん……」


 不器用な彼女が、僕のために一生懸命作ってくれたのだ。この歪な形の一つ一つが、彼女の努力の結晶であり、僕に向けられた不器用な感情そのものだった。

 世間のどんな高級チョコレートよりも、僕にとってはこれが一番の宝物だ。


「ありがとう、如月さん。もったいなくて食べられないけど……でも、しっかり味わいますね」


 僕は涙ぐみながら、その塊を両手でそっと持ち上げた。

 ずっしりとした重みがある。どこからかじろうかと、僕はその塊をゆっくりと裏返した。


 ――その瞬間。

 僕の思考回路は、完全に、そして致命的なエラーを起こして停止した。


「……………………ぇ?」


 涙で潤んでいた視界に、強烈な異物感が飛び込んできた。

 裏返したチョコレートの表面。そこには、ただの岩石のような表側とは全く異なる、狂気じみたまでの執念で『彫刻』された、緻密な造形が刻み込まれていたのだ。


 無数の深いシワが刻まれた、窪んだ眼窩。

 無機質でありながら、どこか人間を嘲笑うような、不気味極まりないアンティークの顔面。

 そして、その裂けたような口元には、なぜかピンク色に着色されたチョコレートが、ペロリとはみ出すように造形されている。絶妙な塩気を連想させる色合いと質感は、間違いなく『生ハム』だった。


「ひっ……!」


 その異様なビジュアルを見た瞬間、僕の脳裏に、ある強烈な記憶がフラッシュバックした。


 あれは以前、僕と父さんが、如月コンツェルン社長である如月さんのお父さんから、紗霧島の別荘に招待された時のことだ。

 夕食後、如月さんと二人でテラスで涼んでいた時、そこにあった椅子に、ポツンと『それ』は座らされていた。


 幼少期に社長から贈られたものの、全く興味を示さなかった如月さんによって別荘の蔵に封印されていた、フランス人形(ビスクドール)

 それを、別荘を管理しているお爺さんの孫娘が勝手に持ち出し、友達として遊んでいたのだ。しかし、彼女が本島へ引っ越すことになり、別れる前の『紗霧島での最後の晩餐』という名目で、あろうことか最高級の生ハムをその人形の口に無理やりねじ込んでいた――という、恐ろしくもシュールな事件。


『生ハムを咥えた、ビスクドール』。


 如月瑠璃という天才の脳内で、あの忘れがたい記憶という『ルーツと情動』が完璧に抽出され、チョコレートというキャンバスの上で物理的に顕現した、文字通りの暗黒芸術(ダークアート)だったのだ。


「うわあああああああああああああああっ!!!」


 手の中の呪物と目が合った瞬間、僕の口から、団地の窓ガラスをビリビリと震わせるほどの絶叫が迸った。僕はたまらず、そのチョコレートの塊を机の上に放り投げ、椅子ごと後ろに転げ落ちた。


「こら光太郎! うるさいぞ!! 何事だ!!」


 隣の居間から、薄い壁越しに父さんの怒鳴り声が飛んでくる。


「ご、ごめんなさい! なんでもない、なんでもないから!!」


 僕は床に這いつくばったまま、机の上の『それ』から目を逸らすように頭を抱えた。

 全身の震えが止まらない。

 天国から地獄。人生最大の喜びは、たった数秒で、人生最大のトラウマのフラッシュバックへと見事に上書きされてしまったのだ。


「如月瑠璃……あなたって人は、本当に……っ!」


**


 同じ頃。

 月見坂市の新市街にそびえる、如月邸。

 外界の騒音を一切遮断した静寂の寝室で、天蓋付きの豪奢なベッドに横たわっていた瑠璃は、ふと手元の分厚い洋書から視線を上げた。


 窓の外には、冬の澄んだ夜空に浮かぶ月が見える。

 彼女の脳裏に浮かんでいたのは、あの完璧な計算と情動の視座に基づいて削り出した、自身の至高の芸術品――『生ハムを咥えたビスクドールの顔』だった。


(今頃、あの駄犬はどのような物理的反応を示しておるかの……)


 自身の与えた強烈な『思い出の形』を前にして、あの下僕はどのような論理的帰結を見せるのか。

 それは如月瑠璃という主がもたらした、彼にとっての絶対的な情動の揺らぎである。


 瑠璃は、月明かりに照らされた寝室で、一人静かに微笑んだ。

 アメジストの瞳を細め、唇の端を吊り上げるその姿は、可憐な美少女というよりも、純粋で残酷な悪魔のように美しかった。


 バレンタインデー。

 それは、月見坂市の旧市街と新市街で、全く異なる二つの悲鳴と微笑みを生み出しながら、静かに更けていくのだった。



~如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』 fin~



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