EP,Autumn ~section4:『狂気の編集者と、漆黒の守護者』~
ジリリリリリリリリリッ!
明野原市の高架沿いにある、錆びついた旧式ビジネスホテルの105号室。
カビと埃の匂いが充満する薄暗い廊下に、如月さんが迷いなく押したインターホンの音が、まるで非常ベルのようなけたたましさで鳴り響いた。
分厚い鉄の扉の向こう側から漏れ聞こえていた、強迫的なキーボードのタイピング音と、ヒステリックな男の怒鳴り声が、その音を境にピタリと止んだ。
僕の心臓は、先ほど頭上を通り過ぎていった貨物列車の轟音よりも激しく、肋骨を突き破りそうな勢いで早鐘を打っていた。
胃の奥が冷たく縮み上がり、膝がガタガタと情けなく震える。無理もない。不良や怖い人が極端に苦手な僕にとって、犯罪者が潜む部屋のインターホンを真正面から鳴らすなど、狂気の沙汰以外の何物でもないのだ。
今すぐ回れ右をして、駅まで全力疾走で逃げ帰りたい。だが、僕の絶対的な主である如月さんは、深いボルドーカラーのニットとキャメル色のトレンチコートという優雅な秋の装いのまま、退屈そうに鉄の扉を見つめているだけだった。彼女の華奢な背中からは、微塵の恐怖も感じられない。
「き、如月さん……。本当に、開くんでしょうか。居留守を使われるんじゃ……」
僕が震える声で囁くと、如月さんはアメジストの瞳を細め、冷ややかに口角を上げた。
「開くに決まっておる。相手は極限の締め切りに追われ、精神に異常を来している状態じゃ。このような劣悪な環境で、不意に外部からのノイズ――それも、本来なら絶対に来るはずのない来客を告げる音を鳴らされれば、正常な判断能力などとうに失っている脳は、パニックと苛立ちを抑えきれなくなる。確認せずにはいられないのじゃよ。自分の完璧な『缶詰計画』に、一体どんなバグが生じたのかとな」
彼女の冷徹な心理分析を裏付けるように、鉄の扉の向こう側で、ドスンドスンという重く乱暴な足音が近づいてくるのが聞こえた。
ガチャリ、と、金属製の重いチェーンロックが外される音がした。
続いて、油の切れた蝶番がギギギと不快な悲鳴を上げ、分厚い鉄の扉が、外側に向かってゆっくりと押し開かれた。
その瞬間、むせ返るような強烈な異臭が、部屋の中から廊下へと溢れ出してきた。
古い配管から漏れ出す錆の臭い。清掃の行き届いていないユニットバスから漂うアンモニアの臭い。だがそれ以上に強烈だったのは、何日も風呂に入っていないであろう人間の酸っぱい体臭と、大量に消費されたカフェイン飲料や栄養ドリンクの甘ったるい化学的な匂いが混ざり合った、淀みきった「狂気の匂い」だった。
「……なんだ、てめえら」
扉の隙間から現れたのは、まるで地獄の底から這い出してきた亡者のような姿をした男だった。
年齢は三十代半ばだろうか。髪は鳥の巣のようにボサボサに乱れ、何日も剃っていない無精髭が顎を覆っている。ワイシャツの襟元は黄ばんでヨレヨレになり、ネクタイはだらしなく緩められていた。
だが何より異常だったのは、その目だ。
目の下にはどす黒い隈がべったりと張り付き、眼球は毛細血管が破裂したかのように真っ赤に充血している。その焦点の合っていないギラギラとした瞳は、過度の疲労とプレッシャー、そして大量のカフェインによって、完全にハイになっている人間のそれだった。
この男が、あの素晴らしい絵本を作り上げ、僕をあんなにも夢中にさせた謎解きギミックを強要した張本人。出版社の担当編集者。
「ルームサービスでも頼んだ覚えはねえぞ。ここは関係者以外立ち入り禁止だ、さっさと消えろ。こっちは一分一秒を争う修羅場なんだよ!」
男が苛立たしげに吐き捨て、乱暴に扉を閉めようとした。
だが、如月さんはその扉の隙間に、美しく磨き上げられたレザーブーツのつま先を、ガンッ!と容赦なくねじ込んだ。
「なっ……! お、お前、何しやがる!」
「サクタロウ、よく見ておけ。これが、あの美しい童話のテキストの裏側に潜んでいた、醜悪なルーツの正体じゃ。全く、見立て通りとはいえ、実際に目にすると知的好奇心を満たすどころか、ただの不快な汚物にしか見えんな」
如月さんは男の怒声などそよ風程度にしか感じていないように、扉の隙間から部屋の中へと冷徹な視線を滑らせた。僕も、彼女の肩越しに、その『地獄』の内部を垣間見た。
狭いシングルルームのベッドの上には、脱ぎ捨てられた衣服やコンビニ弁当の空き箱が散乱している。
そして、部屋の奥にある小さなライティングデスク。そこには、この部屋には全く似つかわしくない、最新のハイスペックなノートパソコンと、プロ用の巨大な液晶ペンタブレットが設置されていた。
そのデスクの周囲の床には、茶色い小瓶――数十本、いや、百本近いかもしれない栄養ドリンクの空き瓶が、まるで墓標のように無数に転がっている。
そして、そのデスクの前に、一人の女性が座っていた。
絵本作家、桜木陽子先生だ。
彼女は、あのポップでカラフルな深海の世界を描き出す天才クリエイターとは到底思えないほど、小さく、ひどく憔悴しきっていた。ボロボロのパーカーを羽織り、肩を震わせながら、モニターから放たれる青白い光を顔に浴びている。
彼女の頬には、はっきりと涙の跡が光っていた。泣きながら、それでも右手は機械のようにペンを握りしめ、液晶タブレットの上で狂ったような速度で線を引いている。画面上には、僕の推しである箱崎彩華ちゃんをはじめとする『GyoGyoっとラブ』のメンバーたちを模した、可愛らしい深海魚のキャラクターたちが描かれている。だが、それを作画している本人の姿は、魂を削り取られている奴隷そのものだった。
「あ……ああ……」
僕の口から、情けない呻き声が漏れた。
僕が歓喜し、心を躍らせて手に入れたあのアクリルスタンド。あのかわいいイラストは、こんな地獄のような場所で、涙と恐怖の代償として生み出されていたのだ。
リュックの中に入っているアクキーが、突然、鉛のように重く、そして酷く冷たいものに感じられた。僕は何も知らずに、この狂った大人が用意したゲーム盤の上で、無邪気に踊らされていただけだったのだ。
「おい、てめえら。ガキの分際でどこ見てんだ!」
編集者の男が、さらに声を荒げた。血走った目が、僕と如月さんをギョロギョロと舐め回すように見据える。
最初こそ、予期せぬ来訪者に動揺していた男だったが、目の前に立っているのが『小柄な女子高生』と、その後ろでガタガタと震えている『ひ弱そうな男子高生』の二人だけだと認識した瞬間、彼の態度は劇的に変化した。
得体の知れない恐怖が、大人としての浅ましいプライドと、狂気に裏打ちされた全能感へとすり替わったのだ。
「なんだ、てめえら。さてはあの地下アイドルの熱狂的なファンか? それとも桜木のストーカーか? どっからこのホテルの情報嗅ぎつけてきやがった。あぁ!?」
男は扉をさらに大きく開け放ち、威圧するように廊下へと半歩足を踏み出した。
「いいか、よく聞けクソガキども。俺はな、天下の出版社で、この世紀のビッグプロジェクトをたった一人で回してる超有能なプロデューサーなんだよ! お前らが喜んで解き明かしてるあの絵本の謎解きも、グッズの企画も、全部俺が寝る間を惜しんで考えてやってんだ!あの桜木とかいう女はな、絵を描くことしか能がねえんだよ! 俺がこうしてケツを叩いて、逃げ出さないように徹底的に『管理』してやらねえと、締め切り一つ守れねえクズなんだ! 俺が、俺の才能が、あいつを一流に引き上げてやってんだよ!」
男の口からは、唾液と共に、自己正当化と歪んだエリート意識が機関銃のように撒き散らされた。
僕は吐き気を覚えた。
嘘だ。あの絵本に仕掛けられた謎解きは、確かに複雑だったかもしれない。だが、物語のテキストの裏側に隠された、あの悲痛なSOSの文章。あれは絶対に、桜木陽子先生自身の悲痛な叫びだ。この男は、自分が彼女の魂を殺していることにすら気づいていない、ただのモンスターだ。
「さっさと失せろ! ここは俺とあいつの神聖な仕事場だ! これ以上俺の邪魔をするなら、親呼ぶぞ! 学校にも通報してやる! それともなんだ、痛い目見たいのか、あぁ!?」
男の怒声が、薄暗い廊下に反響する。
だが、如月さんは全く動じなかった。彼女は、男の顔についた唾を避けるようにわずかに顔をしかめると、冷たいアメジストの瞳で、まるで道端の這い虫を観察するような眼差しを向けた。
「……サクタロウ。先ほどわしは、こやつが精神に異常を来していると言ったが、訂正しよう。こやつはただの、能力不足で無能な凡人じゃ」
如月さんの静かで、しかし絶対的な冷酷さを持った声が、男の怒声を見事に切り裂いた。
「な、なんだと……?」
「自分のスケジューリング能力の欠如と、企画の見通しの甘さを棚に上げ、立場の弱い作家を物理的に軟禁することでしか事態を収拾できない無能。クリエイターへの敬意も、作品に対する情動の理解も持ち合わせておらん。お主がやったことと言えば、安宿の部屋の鍵を閉め、大声で喚き散らしながら栄養ドリンクの空き瓶を量産したことだけじゃ。事実、お主は気付いておらんかったじゃろう。自分が『管理』していると思い込んでいたその作家が、お主の目の前で、絵本のテキストという誰でも読める場所に、自らの軟禁状態を告発する見事なSOSを仕込んでいたことにな」
「……え?」
男の顔から、一瞬だけ表情が抜け落ちた。
自分の完璧な支配下にあったはずの人間が、自分の知らないところで外部とコンタクトを取っていたという事実。それは、彼の肥大化した自尊心を根底から破壊するのに十分な猛毒だった。
「窓のない分厚い鉄の扉。地鳴りのような鉄の獣の足音。錆とアンモニアの匂い。……全て、この安ホテルの物理的環境を正確に描写したルポルタージュじゃ。お主は謎解きのギミックという表面的なパズルにばかり気を取られ、その裏で作家が紡ぎ出した真のメッセージを見落としておった。愚かすぎて反吐が出るわ」
「ふ、ふざけんな! 何言ってやがる! 適当なこと抜かしてんじゃねえぞ、このクソアマ!」
如月さんの言葉が致命的な急所を突いたのだろう。男の顔は怒りで真っ赤に茹で上がり、こめかみには青筋が不気味に浮かび上がった。
完全に理性を失った男は、ターゲットを如月さんから、その後ろで震えている僕へと変えた。弱そうな男を痛めつけることで、自らの優位性を再確認しようとする、最低な人間の本能だった。
「 舐めた口利きやがって……痛い目みないとわからねぇようだな!」
男が身を乗り出し、僕の胸ぐらを掴もうと、汚れた両手を勢いよく伸ばしてきた。
黄色く変色した爪が、僕の顔に向かって迫ってくる。
逃げなければ。そう頭ではわかっているのに、僕の体は恐怖で完全に硬直していた。いじめられていた頃のトラウマがフラッシュバックし、喉の奥がヒューッと鳴るだけで、声すら出ない。
終わった。殴られる。胸ぐらを掴まれて、この悪臭のする部屋の中に引きずり込まれる。
僕はギュッと目を強くつむり、衝撃に備えた。
――しかし。
いつまで経っても、僕の胸ぐらを掴むはずの男の手は、僕の体に触れることはなかった。
「……あ?」
男の口から、間の抜けた声が漏れた。
恐る恐る目を開けると、男の両手は、僕の顔の数センチ手前で、まるで目に見えない分厚いガラスの壁にでもぶつかったかのように、ピタリと空中で静止していた。
違う。
男が自らの意思で止めたのではない。男の視線は、僕でも如月さんでもない、『僕たちの背後の、さらに上の空間』に釘付けになっていたのだ。
その時、僕は強烈な違和感に気づいた。
空気が、異常なほど冷たいのだ。
先ほどまで廊下に充満していたカビとアンモニアの悪臭が、突如として消え失せたような錯覚。代わりに、肌を刺すような、物理的な痛みを伴うほどの極寒の空気が、僕の背後から音もなく這い出してきていた。
それは、野生の草食動物が、背後に巨大な肉食獣が立っていることに気づいた時に感じる、本能的な『終わりの予感』そのものだった。
僕と如月さんの背後の、完全な死角。
そこから、一切の足音も、衣擦れの音すらも立てずに、巨大な漆黒の影が『スッ』と一歩、前に出た。
「…………」
黒田さんだった。
駅からの道中、如月さんの斜め後ろに付き従っていたはずの彼は、僕たちが男と対峙している間、気配というものを完全に消し去り、ホテルの薄暗い壁と同化していたのだ。プロのボディガードが持つ、常人離れしたステルス能力。
だが今、黒田さんはそのステルスを解き、圧倒的な自らの『存在』を、狂気の編集者の目の前に突きつけていた。
身長190センチ近い巨体。オーダーメイドの漆黒のスーツがはち切れんばかりに膨れ上がる、鋼の筋肉。
だが、男を硬直させていたのは、その物理的な大きさだけではなかった。
殺気だ。
一切の感情を排した、プロフェッショナルとしての純度100%の殺意。
黒田さんの瞳には、先ほどロータリーで見せたような、如月さんを心配して涙を流す暑苦しい男の面影は微塵もなかった。そこにあるのは、ただ自分の主の視界を遮る不快な障害物を、物理的に『排除』するためだけの、冷酷な機械のような眼光だった。
もし、この狂った編集者の指先が、あと一ミリでも如月さん、あるいはその後ろにいる僕に触れていれば、その瞬間、黒田さんは男の腕の骨を粉砕し、首の骨をへし折っていただろう。その明確な未来のビジョンが、言葉を介さずとも、暴力という圧倒的な圧力として男の脳髄に直接叩き込まれたのだ。
黒田さんは、何も言わなかった。
ただ無言で、僕たちの背後から、男を見下ろしているだけだ。
「あ……あ、あ……」
男の喉から、空気の漏れるような情けない音が鳴った。
彼の目が見開かれ、血走った眼球が恐怖で激しく痙攣している。先ほどまで振り翳していた大人のプライドも、狂気による全能感も、この『本物の暴力の化身』の前では、薄紙のように燃え尽きて消え去った。
ガタガタ、ガタガタガタッ!
男の全身が、まるで深刻な病にでも罹ったかのように激しく震え出した。限界まで見開かれた目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、口からはだらしない涎が垂れる。
そして。
男は一切の悲鳴すら上げることもできず、まるで操り人形の糸が切れたように、その場にヘナヘナと崩れ落ちた。
ドンッ、という鈍い音を立てて尻餅をつき、そのまま薄汚れたホテルの絨毯の上に、両手をついて四つん這いになる。
「ひぃっ……! 許し、ゆるして……! ああぁっ……!」
男はただ首を振り、完全に戦意を喪失して、幼児のように泣きじゃくり始めた。
パンチを一発も浴びていない。胸ぐらを掴まれたわけでもない。ただ『漆黒の守護者』が一歩前に出ただけで、狂気の編集者の精神は、文字通り木っ端微塵に粉砕されたのだった。
「全く。キャンキャン吠えるだけの、底の浅い狂気じゃな」
如月さんは、床に這いつくばって失禁すらしかけている男を見下ろし、心底退屈そうにため息をついた。
彼女の華奢な肩に羽織られたキャメル色のトレンチコートが、秋の冷たい風に微かに揺れる。
「黒田。その汚物をそこから退かせ。わしの視界に入れるな。靴が汚れる」
「御意」
黒田さんは短く、地を這うような低い声で答えると、片手で男のワイシャツの襟首を掴み、まるで羽虫でも払うかのように、軽々と廊下の隅へと投げ捨てた。男は抵抗する気力すらなく、壁際でガタガタと震えながら丸まっている。
「さて、と」
如月さんは、障害物の消えた105号室の入り口に立ち、ゆっくりと部屋の中を見渡した。
そこには、突然の事態に思考が追いつかず、ペンを持ったまま呆然とこちらを見つめている桜木陽子先生の姿があった。
「サクタロウ。答え合わせの総仕上げじゃ。中に入るぞ」
如月さんは、怯える作家の救出などというヒューマニズムには一切の興味を示さず、ただ自らの知的好奇心を満たすためだけに、その悪臭漂う密室へと、優雅な足取りで踏み込んでいったのだった。




