表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第4巻:如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/24

EP,Autumn ~section2:『不自然な活字と、情動の視座』~

 瑠璃はアンティークのベルベットソファに深く背中を預け、目を閉じた。


 先ほど彼女は、この環境描写から『場所は必然的にあの吹き溜まり、旧市街のどこかということになる』と推測した。鉄の獣の足音とは、旧市街の外れを今も走っている旧式の貨物列車の走行音に違いないと。


 だが、瑠璃の完璧な論理回路は、その自らの初期推論に対して即座に異議を申し立てた。


(……いや、待て。旧市街という推論は、致命的な矛盾を孕んでおるな)


 パチリとアメジストの瞳を開き、瑠璃は思考を一段階深く潜らせた。


 まず、この稚拙で悪辣な犯罪を企てた犯人は誰か。


 営利目的の誘拐犯や、作家に異常な執着を持つストーカーの類ではない。もしそうであれば、このような手の込んだアイドルとのコラボ絵本が予定通りに出版され、全国の書店や通信販売の流通網に乗るはずがない。絵本は厳格なスケジュールの元で印刷され、サクタロウのようなファンの手元に何事もなく届いている。


 つまり、この絵本の制作工程そのものを完全に管理し、作家のスケジュールを支配できる立場の人間が犯人である。


(十中八九、出版社の担当編集者といったところじゃな)


 瑠璃は手帳の余白に『担当編集者』と力強い文字で書き込んだ。


 絵本作家と、今をときめく地下アイドル『GyoGyoっとラブ』のコラボレーション企画。話題性は抜群であり、莫大な利益を生むビジネスであることは想像に難くない。だが、当然ながらそのスケジュールは、アイドルのライブツアーやプロモーションの時期に合わせて厳格かつタイトに設定される。


 さらに今回は、ただの絵本ではなく、あのサクタロウですら手こずるほどの難解な『謎解き』を10個も物語の進行に合わせて組み込まなければならなかった。ギミックの考案、イラストとの整合性の確認、印刷所との特殊インクの打ち合わせ。通常の絵本制作の何倍もの労力と時間を要する、狂気のスケジュールであることは明白だ。


 締め切りに間に合わせるため、編集者が作家をホテルなどに隔離して執筆に専念させる、いわゆる「缶詰」と呼ばれる手法は出版業界では古くから存在する。しかし、今回のそれは常軌を逸していた。外部との連絡手段を絶たれ、過酷なノルマを課され、物理的に部屋に施錠されるなどの非合法な『軟禁状態』へとエスカレートしたのだ。


(愚かなことじゃ。編集者は、アイドルファンを惹きつける『謎解きギミックの完成度』と、何が何でも本を流通させるという『締め切り』にしか興味がなかったのじゃ。物語のテキストなど、謎と謎を繋ぐただの飾りに過ぎないと軽視しておった。だからこそ、桜木陽子はこの童話のテキスト部分という、最も灯台下暗しとなる場所に自らの置かれた凄惨な環境を滑り込ませた。編集者の目を掻いくぐるための、作家としての矜持と命を懸けた隠蔽工作じゃ)


 犯人が『締め切りに追われた担当編集者』であるならば、軟禁場所が『月見坂市の旧市街』であるという仮説は崩れ去る。


(旧市街は治安が悪すぎる。いくら狂った編集者であっても、自らの金の卵である絵本作家を、本物の犯罪者や不良がうろつく無秩序なスラム街の安宿に放置するようなリスクは冒さぬ。それに何より、旧市街のインフラは致命的じゃ。電力供給は不安定で頻繁に停電が起きるし、ネット環境も劣悪極まりない。デジタルで作画データのやり取りや、謎解きの複雑なギミックの設計を行わせる環境としては、あまりにも不適格すぎる)


 瑠璃は手帳に書いた『旧市街のどこか』という自らの走り書きを、二重線で無惨に消し去った。


 では、AIの監視がなく、かつ最低限のインフラと治安が維持されており、高架線のすぐ脇に古びたビジネスホテルが立ち並ぶ場所とはどこか。


 瑠璃の脳内に蓄積された、月見坂市周辺の広域都市計画データと鉄道路線図が瞬時に組み合わさり、一つの明確な座標を弾き出した。


(月見坂市の隣町、明野原市(あけのはらし)じゃな」


 月見坂市のように極端なスマート化もスラム化もしていない、ごくありふれた、少し寂れかけた地方都市。そこには、工場地帯へと続く貨物列車や旧式の通勤電車がひっきりなしに通過する古い高架線路があり、その高架下や沿線ギリギリには、出張の労働者などをターゲットにした窓の開かない旧式のビジネスホテルがいくつもへばりつくように建っている。清掃コストも削られ、錆とアンモニアの匂いが染み付いた、まさに絵本の描写と完全に一致する安宿街が存在するのだ。


 間違いない。桜木陽子は今、明野原市の高架沿いにあるビジネスホテルの一室で、担当編集者によって軟禁状態に置かれている。


 瑠璃は万年筆を置き、深く息を吐き出した。謎の全貌は、もはや彼女の手のひらの上に完全に収まっていた。


(見事なSOSじゃ。自らの苦痛と恐怖を、童話というオブラートに包み、活字の裏側に情動として刻み込んだ。並の人間であれば、ただの不気味な絵本として読み過ごすか、あるいはサクタロウのように謎解きゲームに夢中になって見落とすじゃろう。じゃが、この如月瑠璃の目は誤魔化せぬぞ)


 窓の外の暗闇に、AI制御のドローンが青い光の尾を引いて飛んでいくのが見えた。


 誰かを救いたいという正義感も、事件を解決して警察から感謝されたいという名誉欲も、瑠璃には一切ない。彼女の心を満たしているのは、ただ純粋に「ありえない場所にあったありえない文章」のルーツを特定し、その物理的な背景を論理的に解き明かしたという、冷たくも極上の達成感だけだった。


(さて、明日は少しばかり隣町まで足を伸ばすとしようかの。この絵本という物体が、本当にその劣悪な環境で生み出されたのか、わしの目で直接確かめねば気が済まん)


 瑠璃は手帳を閉じ、絵本の表紙を優しく撫でた。忠実な下僕であるサクタロウには、明日この事実を突きつけてやろう。推しのアイドルグッズに浮かれるあの間抜けな顔が、現実の凄惨な事件を前にどう歪むのか。それを見るのも、また一興である。


***


 翌朝。


 月見坂市の上空には、雲一つない完璧な秋晴れの空が広がっていた。新市街の気象コントロールシステムが、今日も市民にとって最適な湿度と温度を維持している。


 僕は、まるで足に羽が生えたかのような軽やかなステップで、1年2組の教室へと向かっていた。いつもなら、同年代の女子生徒たちとすれ違うだけで極度に緊張し、思考停止に陥って目を伏せて壁沿いを歩く僕だが、今日の僕には無敵のバリアが張られている。


 僕の右手にしっかりと握りしめられているのは、燦然と輝く非売品の激レアグッズ。地下アイドル『GyoGyoっとラブ』の絶対的センター、箱崎彩華ちゃんの特製アクリルスタンドである。


 昨日の夜、図書室で如月さんに『本を置いていけ』と理不尽に命じられた僕は、絵本を没収されたまま逃げるように帰宅した。自室のパソコンの前に座り、震える手で事務所の特設サイトにアクセスすると、如月さんが解き明かしてくれた文字と僕の持っていた文字を組み合わせた10文字のキーワード『しんかいのプリンセス』を入力した。


 結果は大正解だった。画面にはファンファーレの演出と共に『先着特典獲得!』の文字が踊った。


 そこからの月見坂市のスマートシティ構想の恩恵は凄まじかった。深夜0時に発送手続きが完了したという通知が来たかと思うと、今朝の6時半には、新市街と旧市街の境界に設置されているAI管理の自動配送ドローンボックスに、荷物が届けられていたのだ。僕はパジャマのまま、朝の日課である二匹の金魚への餌やりもそこそこに家を飛び出し、ボックスからこのお宝を回収してきたというわけだ。


 絵本は如月さんに没収されたままだが、結果的に目的のグッズが手に入ったのだから文句はない。


「おはようございます! 如月さん!」


 教室の窓際。自分の席で、今日も優雅に分厚い洋書を開いている如月さんを見つけるなり、僕は弾んだ声で駆け寄った。大きな声を出すのが苦手な僕が、クラスメイトの視線も気にせずに声を張るなんて、普段なら絶対にありえないことだ。


 如月さんはゆっくりと顔を上げ、アメジストの瞳で僕を冷ややかに見据えた。


「朝から騒々しい駄犬じゃな。わしの静寂を乱す権利を、いつお主に与えた」


「す、すいません! でも見てくださいよ、これ! 如月さんが昨日謎を解いてくれたおかげで、無事にゲットできたんです! 箱崎彩華ちゃんの激レアイラストのアクキー! しかもこれ、台座の部分が貝殻の形になっていて、ホログラム加工がめちゃくちゃ綺麗で……」


 僕が興奮気味にアクリルスタンドを顔の高さまで掲げると、如月さんはピシャリとそれを遮った。


「そのプラスチックの板切れの話はどうでもいい。お主の推し活など、わしの知的好奇心の足しにもならん」


 絶対零度の声に、僕はピタリと口を閉ざした。相変わらずの塩対応だが、僕にとっては如月さんは大恩人だ。彼女がいなければ、このアクキーは一生手に入らなかったのだから。


「えへへ、すいません。でも本当に感謝してるんです。如月さんは天才です。僕みたいな凡人じゃ、あの絵本の謎は絶対に解けませんでした」


 僕が深く頭を下げると、如月さんは洋書をパタンと閉じ、机の中から一冊の本を取り出した。昨日、僕が図書室に置いて帰るように命じられた、あの『うみのおひめさまをさがして』のコラボ絵本だった。


「ほれ、返してやろう」


 如月さんは絵本を机の上で滑らせ、僕の目の前で止めた。


「あっ、ありがとうございます。汚れたりしてないですよね? これも大事なコレクションなんで」


 僕が絵本を手に取ろうとした瞬間、如月さんの細く白い指が、絵本の表紙をバンッと押さえつけた。


「ひっ」


「サクタロウ。お主は本当に、与えられた餌にだけ飛びつく単細胞な生き物じゃな」


 如月さんの瞳の奥には、昨日図書室で僕を射抜いた時と同じ、氷のように冷たく、鋭い光が宿っていた。僕は直感的に悟った。彼女のこの目は、何かに『気付いてしまった』時の目だ。僕の背筋に冷たい汗が流れる。


「き、如月さん? どうかしたんですか?」


「お主は昨日、この絵本に仕掛けられた10個の文字の謎を解き明かし、そのプラスチックの板切れを手に入れて完全に満足しておるようじゃが。それはあくまで、出版社が用意した『表の謎』に過ぎん」


「表の謎? いや、でも全部解いて、答えも合ってましたし」


 如月さんは呆れたようにため息をつき、絵本から手を離した。そして、腕を組んで僕を真っ直ぐに見上げた。


「本当の謎は、この物語の中にある」


「……え?」


「昨日、お主がさっさと尻尾を巻いて帰った後、わしはこの絵本のテキスト部分を精査した。そして、ある決定的な異物を見つけたのじゃ。サクタロウ、この絵本の後半部分、主人公の魚が竜宮城を探す下りを開いて、声に出して読んでみろ」


「え、読むんですか? 今ここで?」


 僕は戸惑いながらも、言われた通りに絵本の後半ページを開いた。昨日は謎解きのギミックにしか興味がなくて、文章なんて斜め読みしかしていなかった。


「ええと……『くらい、くらい、うみのそこ。おひめさまをさがして、おさかなはすすみます。でも、そこに竜宮城はありませんでした。窓のない、分厚い鉄の扉が立ちはだかりました』……えっ?」


 僕は思わず声を止めた。


「構わん、続けろ」


「『上からは常に、地鳴りのような鉄の獣の足音が響いてきます。甘いお花の匂いは消え、錆とアンモニアの匂いがする冷たい床だけが広がっていました』……。なんですかこれ。鉄の扉? 獣の足音? 深海の童話になんか全然似つかわしくない……」


 僕は首を傾げた。いくらなんでも、絵本の表現として不自然すぎる。なんだかひどく無機質で、生々しいのだ。


「ようやく気付いたか、愚か者め。わしの『情動の視座』と『五感分析』が導き出した結論を教えてやろう。この活字の裏側には、アナログ原稿の段階で生じた極度のストレスと恐怖の痕跡――筆圧の乱れと線のブレが残されておった。この絵本の作者・桜木陽子は現在、何者かによって劣悪な環境に軟禁状態に置かれておる」


「なっ……軟禁!?」


 僕の声が裏返った。朝の教室に僕の素頓狂な声が響いたが、周囲の生徒たちは如月さんの冷たいオーラに怯えて誰もこちらを見ようとしない。


「誘拐やストーカー犯罪ではない。この異常なスケジュールで絵本の出版を強行し、お主が喜んで解いたような難解な謎解きギミックを無理矢理に組み込ませた張本人。すなわち、この絵本の担当編集者による非合法な『缶詰』じゃ」


「た、担当編集者が!? いや、いくらなんでもそんな犯罪みたいなこと」


「現に起きておるから、この絵本が存在するのじゃ。編集者は謎解きの完成度にしか興味がなく、物語のテキストなどまともに読んでおらんかった。だからこそ、桜木陽子は童話のテキストという盲点を突き、自らの置かれた凄惨な環境を、情動というインクに乗せて密かに書き記した。これは外の世界へ向けた、命がけのSOSメッセージなんじゃよ」


 僕の手から、アクリルスタンドが滑り落ちそうになった。慌てて握り直すが、手汗でプラスチックの表面が滑る。昨日までの楽しい謎解きゲームが、突如として血の通った生々しい現実の事件へと変貌を遂げた瞬間だった。


 僕が心から楽しんでいた推し活の裏で、大好きなアイドルのコラボ絵本を描いてくれた作家本人が、今この瞬間も恐怖の中で震えているというのか。頭の中で、箱崎彩華ちゃんの笑顔と、暗い部屋で怯える作家の姿がぐちゃぐちゃに混ざり合う。


「そ、そんな……。じゃあ、早く警察に! 桜木先生がどこにいるか分からないと助けられないけど、でも……」


「場所ならすでに特定済みじゃ。この月見坂市ではない。AIの監視の目が届かず、インフラが死んでいる旧市街でもない。隣町、明野原市の高架沿いにある、錆とアンモニアの匂いがする旧式のビジネスホテルじゃ」


 如月さんは一切の迷いなく断言した。あの異常な文章だけで、そこまでの物理的な座標を割り出したというのか。彼女の『五感分析』と論理的推論に狂いがないことは、これまでの経験で僕が一番よく知っている。


「明野原市のビジネスホテル……。如月さん、どうするんですか! 早く大人に言わないと!」


 僕がパニックになって声を上げると、如月さんは優雅に席から立ち上がり、制服のブレザーの埃を払うような仕草を見せた。その表情には、誰かを救うという使命感など微塵も存在しない。


「何を慌てておる。わしはただ、この絵本という物体が、本当にその劣悪な環境で生み出されたのか、そのルーツを自らの目で確かめたいだけじゃ。人助けなどという下等な動機で動くつもりは毛頭ない」


 彼女は冷酷なまでに美しい顔で、僕を見下ろした。


「放課後、明野原市へ向かうぞ、サクタロウ。下僕として、しっかりとわしの護衛と荷物持ちを務めるのじゃな」


 僕の平和な推し活は、完全に終わりを告げた。手の中にある箱崎彩華ちゃんのアクリルスタンドが、なんだかひどく冷たく、重たいもののように感じられた。僕たちは今日、日常のすぐ隣にある狂気の淵へと足を踏み入れることになる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ