EP,Autumn ~section1:『推しの絵本と、図書室の解読』~
月見坂市。AIによって完璧に管理され、あらゆる都市機能が最適化されたスマートシティである新市街。その中心に位置する如月学園の校舎は、どこを見渡しても塵一つ落ちていない。空調の温度設定から照明の照度にいたるまで、生徒たちの集中力や健康状態をAIが常にモニタリングし、自動で最適な環境へと調整を行うという徹底ぶりだ。窓の外には秋の深まりを告げるように色づき始めた街路樹の葉が見えるが、その落ち葉すらも清掃ロボットが即座に回収していくため、この新市街には『乱れ』というものが存在しない。
僕は、そんな無機質とも言える完璧な空間の中で、ひどく浮いた存在であるという自覚があった。なんせ僕が父親と二人で住んでいるのは、この新市街とは全くの別世界、時代に取り残された吹き溜まりのような旧市街の団地なのだから。錆びついたトタン屋根、迷路のように入り組んだ薄暗い路地、そして至る所に残る昭和の面影。AIの恩恵などほとんど届かないその場所で、二匹の金魚に餌をやるのが僕の毎日の日課だ。得意なことと言えばパソコンやAI活用、あとはゲームくらいのもので、スクールカーストとは無縁の場所にいる。
だが、今日の僕には都市の格差や自分の立ち位置など、どうでもよかった。目の前にある極めて重大なミッションをクリアするためには、どうしてもある人物の力が必要だったからだ。
「如月さん。お願いです、どうか僕を助けてください」
昼休みの喧騒から少し離れた、1年2組の教室の窓際。そこに座る少女は、まるで中世の西洋絵画からそのまま抜け出してきたかのような可憐さと、周囲の人間を一切寄せ付けない冷ややかなオーラを同時に放っていた。
艶のある黒髪のサラサラとしたロングストレートヘア。深く透き通るような、アメジストを思わせる紫色の瞳。身長147センチと小柄で、指定のブレザーを着ていてもどこかゴシックドレスを思わせる気品がある。彼女がただ黙って席で本を読んでいるだけで、クラスの男子たちは遠巻きに熱い視線を送っている。だが、誰一人として不用意に近づこうとはしない。過去に言い寄った男たちが悉く彼女の圧倒的な論理によって論破され、泣きながら去っていく姿を全員が目撃しているからだ。
如月瑠璃。月見坂市の実質的な支配者とも言える如月コンツェルンの社長令嬢であり、僕のクラスメイト。そして何より、僕を『忠犬』や『下僕』『助手』として扱う、規格外の観察眼を持った天才である。
僕は大きな声を出されることや、不良、怖い人が極端に苦手だ。そして何より、同世代の女性と少しでも身体的な接触があると思考停止してしまうという致命的な弱点を持っている。本来なら、如月さんほどの美少女など最も近づいてはいけない存在のはずだ。だが、不思議なことに僕たちの間には『主と従者』という絶対的な壁があり、さらには彼女自身が恋愛やファッション、コスメ、SNSといった『普通の女子高生が好むもの』に一切の関心を持たないため、僕も妙な安心感を持って接することができていた。
僕が両手で拝むようにして一冊の絵本を差し出すと、如月さんは机の上に置いていた謎の物体から視線を外し、不快そうに柳眉をひそめた。
「何じゃ、騒々しい」
彼女の口から紡がれるのは、その可憐な容姿からは想像もつかない古風な言葉遣いだ。
「サクタロウ。お主、ついに幼児退行でもしたのか。わしは今、昨日旧市街の公園の砂場で見つけた、誰のものともしれない卵焼きについて、それがどこで焼かれ、どう流通し、誰の手に渡って、なぜ砂場に放置されるに至ったのかという極めて重要な事案について思考を巡らせておるところじゃ。下僕の分際でわしの思索を邪魔するなど、万死に値するぞ」
「いや、万死って。砂場の卵焼きのルーツより、こっちの方が僕にとっては死活問題なんです。見てください、これ」
僕は絵本の表紙を彼女の目の前に突き出した。ポップでカラフルな深海の魚たちやサンゴ礁が描かれた表紙には『うみのおひめさまをさがして』という可愛らしいタイトルが丸文字で書かれている。そして帯には、僕の魂を激しく揺さぶる宣伝文句が躍っていた。
「僕が命を懸けて推している地下アイドル『GyoGyoっとラブ』、通称『魚魚ラブ』と、新進気鋭の天才絵本作家・桜木陽子先生の奇跡のコラボ絵本なんです。魚魚ラブはただのアイドルじゃないんです。深海からやってきた深海魚の化身というコンセプトを完璧に守り抜き、ライブでのパフォーマンスは圧巻の一言。特に僕の推しである絶対的センターの箱崎彩華ちゃんがですね、先日のライブで機材トラブルがあったにも関わらず見事なアドリブで場を繋ぎ、その圧倒的な歌唱力で観客全員を」
「推しの話はどうでもいい。要件を手短に言え」
絶対零度の声で即座に遮られ、僕は咳払いをした。同年代の女性に耐性がない僕だが、不思議なことに魚魚ラブのメンバー、特に箱崎彩華ちゃんのこととなると一切の緊張を感じない。僕がある過去から立ち直れたのも、父親のために前を向けたのも、彼女たちの底抜けに明るいパフォーマンスに救われたからだ。
「この絵本には、物語と連動した謎解きキャンペーンが仕掛けられているんです。絵本の中に全部で10個の難解な謎が隠されていて、一つの謎を解くごとに『ひらがな』か『カタカナ』が一文字手に入る。その10個の文字をすべて集め、意味のある10文字のキーワードとして正しい順番に並べ替え、事務所の特設サイトに入力すると、先着で魚魚ラブの非売品激レアアクリルスタンドと、桜木先生の直筆サイン入り特製ポスターが貰えるんです」
「くだらん。企業の底浅い販促活動に踊らされる消費者の典型じゃな。欲しいなら自分で解けばよかろう。わしを巻き込むな」
「それが、絵本のくせに異常に難易度が高いんです。大人たちがネットの掲示板で束になってかかっても、まだ完全解答が出ていない。僕も得意のパソコンを駆使して徹夜で頑張って、なんとか6個の謎までは解読しました。手に入れた文字は順不同で『か』『し』『ス』『い』『の』『ん』の6文字です」
「ならば残りの文字を適当に補ってアナグラムを推測すればよかろう。情報検索能力だけは無駄に高いお主のことじゃ、AIにでも計算させれば数通りの候補に絞れるはずじゃが」
「それができないんです。特設サイトの入力フォームは鬼畜仕様で、3回間違えたキーワードを入力すると、IPアドレスとシリアルコードが紐付けられてアカウントが完全にロックされ、応募権を永久に失うんです。今の手持ちの6文字だけじゃ、文字数が足りなすぎてどんな言葉になるか絶対に予測できない。確実に残りの4文字を手に入れないと、怖くて入力すらできないんです」
僕が涙目で訴えかけると、如月さんは深いため息をついた。そして面倒くさそうに絵本を受け取ると、パラパラと適当にページを捲り始めた。
「ふむ」
その瞬間、彼女のアメジストの瞳の奥で、何かが微かに鋭く光ったような気がした。彼女の視線は、カラフルな絵柄や物語の内容ではなく、紙の質感、印刷のインクの乗り方、製本の具合といった「物体としての構造」に向けられている。彼女の並外れた『物理的観察眼』が起動したサインだ。
「質の良い紙を使っておるな。インクの発色も、児童書にしては異様に金がかかっておる。綴じ方も頑丈じゃ。ただのアイドルグッズや一時的なキャンペーンの道具としては、少々オーバースペックな作りと言える。それに、この手触り」
如月さんの関心が、わずかに『アイドルグッズ』から『不可解な作りの拾得物』へとシフトしたのがわかった。彼女は常に、日常にあるありえないもの、そこにあるべきではないもののルーツを探ることに異常な執着を示す。
「放課後、いつもの場所へ来い。その無駄に精巧な作り、わしが少しだけ解剖してやろう」
そう言って、如月さんは再び砂場の卵焼きの観察に視線を戻した。僕は心の中で力強くガッツポーズを決め、放課後を待ちわびた。
放課後。新市街のピカピカの校舎から渡り廊下を抜け、旧市街との境界近くに建つ旧校舎へと足を運ぶ。カビと埃の匂いが漂う薄暗い廊下の突き当たりにある図書室。そこが、僕たち二人だけの特等席であり、彼女の非公式な『拠点』だった。
僕も如月さんも図書委員ではないのだが、彼女は勝手にここを占拠し、ありえない場所にあったありえないものを鑑定するラボとして使っている。室内には、彼女が実家から持ち込んだ年代物のアンティーク家具が所狭しと並べられている。マホガニーの重厚なデスク、ベルベット張りの一人掛けソファ、高級茶葉の入った豪奢な缶。冬に備えてか、部屋の隅にはすでにこたつまで勝手に配置されていた。
僕が図書室のドアを開けると、すでに特等席に腰を下ろした如月さんが、備え付けの湯沸かし器で沸かしたお湯を使い、ティーポットで優雅に紅茶を淹れているところだった。室内には芳醇な香りが充満している。
「遅いぞ、サクタロウ。主を待たせるとは良い度胸じゃ」
「すいません、ホームルームが少し長引いて。それより、早速お願いします」
僕はマホガニーのデスクに絵本を広げた。如月さんはアンティークのティーカップをソーサーにそっと置くと、着慣れた制服のブレザーの袖をわずかに捲り、常に持ち歩いているアイテムの一つである『銀のルーペ』をポケットから取り出した。
「まずは、お主が解けなかったという一つ目の謎があるページを開け」
言われるままに、僕は該当のページを開く。そこは海底神殿の巨大な迷路図が描かれたページだった。入り口から神殿の中心を目指す複雑怪奇な迷路で、ヒントは『行き止まりの数を数えよ』となっている。
「行き止まりを全部数えてみたんですが、全部で42個あって。42をどう文字に変換すればいいのかわからなくて」
如月さんは迷路図を一瞥しただけで、深くため息をついた。
「サクタロウ。お主は本当に、提示されたルールに素直に従う従順な下僕じゃな」
「えっ。だって、行き止まりを数えろって書いてあるし」
「それはただの目眩ましじゃ。迷路そのものに意味はない。文字通り迷わされているだけじゃ」
如月さんは持っていた銀の匙の柄の先で、迷路の壁ではなく、神殿のあちこちに描かれている装飾用の丸い柱を指し示した。
「この柱の配置を見てみろ。縦三つ、横二つの六つのマスの組み合わせで配置されておる箇所がいくつもあるじゃろう」
「縦三つ、横二つ。あっ、まさか」
「そうじゃ。点字の法則じゃよ。桜木陽子という作家は、以前視覚障害を持つ子どもたちのための触る絵本を手がけたことがあると、以前何かの記事で読んだ記憶がある。そのルーツを知っていれば、この規則的な点の並びが点字を模していることにすぐ気づくはずじゃ。迷路のルートなど完全に無視して、この柱の点字だけを左から拾い読みしてみろ」
僕は震える手でスマホを操作し、点字の五十音表を呼び出した。神殿の柱の配置を一つ一つ照らし合わせていく。
「第一のブロック、母音がエの段。第二のブロック、サ行。組み合わせると、『セ』だ。間違いない、点字で『セ』って書いてある」
「ふん、他愛もない。次じゃ」
「次はこれをお願いします」
僕が次に開いたのは、深海を模した真っ黒な背景に、無数の真っ赤な魚と青いクラゲが複雑に絡み合うように描かれたページだった。ヒントは『あかとおあおがまじわるとき、ことばがうかびあがる』。
「単純に赤と青が重なっている部分を読めばいいと思ったんですが、重なっている部分が多すぎて、文字の形にならないんです」
「愚か者め。それはお主がこれを『絵』として見ているからじゃ。これは印刷物じゃぞ。物質としての構造を理解せぬから真実を見落とすのじゃ」
如月さんは銀のルーペを右目に当て、ページに顔を限界まで近づけた。
「印刷における色の表現は、光の三原色ではなく色料の三原色、すなわちシアン、マゼンタ、イエロー、そしてブラックの四色、いわゆるCMYKの網点の集合体で構成される。このページの赤い魚はマゼンタとイエロー、青いクラゲはシアンとマゼンタのインクで刷られておるが、ふむ、なるほど。面白い趣向じゃ」
如月さんは顔を上げると、常に持ち歩いている懐中電灯を取り出し、絵本の裏側から強烈な光を当てた。
「サクタロウ、ここを表から覗き込んでみろ」
僕が言われた通りに絵本の表面を見ると、思わず大声を上げてしまった。
「ああっ。赤と青が重なっている部分の中で、特定の場所だけが真っ黒に浮かび上がってる」
「左様。網点の角度を変え、重なる部分の一部にだけ特殊な遮光インクが緻密に仕込まれておるのじゃ。普通に見ればただの紫色の交点じゃが、強めの光に透かすことで、その遮光インクがシルエットとして浮かび上がる仕組みじゃな。さあ、なんと書いてある」
光に透けたシルエットの点は、見事にカタカナの『プ』の形を成していた。
「すごい。これで『セ』と『プ』の2文字が判明しました。いよいよ後半戦です」
僕が開いた次のページには、意味不明な幾何学模様と、小さな星のマークがランダムに散りばめられていた。ヒントは『星たちを一つに集めよ』。
「星を線で結んで星座を作るのかと思ったんですが、線が交差しまくって真っ黒になるだけで」
如月さんは絵本を机に置き、今度はルーペを使わず、ポケットから取り出した軍手をはめた指先でページ全体を撫でるように触り始めた。目をつむり、指先の触覚だけに全神経を集中させているようだ。図書室は静まり返り、遠くでカラスの鳴き声が聞こえる。秋の少しひんやりとした空気が、彼女の黒髪をかすかに揺らした。
「なるほど。そういう仕掛けか」
如月さんは目を開けると、絵本そのものの構造に着目した。
「サクタロウ、この本は一般的な児童書に見られる中綴じではなく、無線綴じに近い強固な製本がされておる。そして、このページと次のページの間の糊付け部分、微かに隙間が空いておるのがわかるか」
「隙間。言われてみれば、少し遊びがあるような」
「紙の厚みも、このページだけわずかに薄い。そして何より、わしの指先がはっきりと捉えたぞ。印刷では絶対に見えない、極めて薄いスジ押し、つまり隠し折り目がこのページ自体に入っておるのじゃ」
「折り目」
「左様。星たちを線で結ぶのではない。星のマークが印刷された部分がぴったりと重なるように、このページ自体を物理的に折るのじゃ」
如月さんは軍手を外し、素手で絵本のページをつまんだ。そして、見えない折り目に沿って、ページを大胆にパタパタと三つ折りにし始めた。本を傷つけるような行為に僕はヒヤリとしたが、彼女の迷いのない手つきによって、ページは綺麗に折り畳まれた。
するとどうだろう。ランダムに散らばっていた意味不明な幾何学模様が、折り畳まれたことでピタリと繋がり、見事に一つの大きな文字を形成したではないか。
「『ン』だ。本自体を折り紙にするギミックだったなんて」
「平面の謎だと思い込んでいるうちは一生解けぬ。物体としての構造を理解していれば、造作もないことじゃ」
「これが最後の謎です」
最後の難関は、海底の森を描いたページだった。五線譜のように規則的にうねる海草の上に、大きさの異なる二種類の巻き貝が音符のように配置されている。ヒントは『海の音楽を聴け』。
「五線譜のようになっているから、音階をひらがなに変換する暗号かと思ったんですが、どう当てはめても意味のある言葉にならなくて」
「サクタロウ、お主は本当に視野が狭いのう。よく観察しろ。この貝殻、単に大きさが違うだけではないぞ」
如月さんは再びルーペを取り出し、貝殻のイラスト一つ一つを丹念に調べ始めた。
「貝には右巻きと左巻きがあるのは知っておるな。自然界の神秘じゃが、このイラストの貝殻は、大きい貝が右巻き、小さい貝が左巻きとして極めて正確に描き分けられておる。そして、海草の五線譜に配置されている位置。よく見れば、線の上か、線の間にしか置かれておらん」
「巻きの向きと、位置。それが音階じゃないなら、なんだっていうんですか」
「二進法じゃよ。あるいはモールス信号と言ってもいい」
「えっ」
「右巻きをトンすなわち短点、左巻きをツーすなわち長点とする。そして海草の線の位置で文字の区切りを示しておるのじゃ。最初のまとまりは、トン・ツー・トン。次は、トン・ツー。これを和文モールス信号に変換してみろ。お主、得意のガジェットを持っておるじゃろう」
僕は慌ててポケットからスマホを取り出し、和文モールスの変換表を素早く検索した。
「ええと、トン・ツー・トンは『リ』。あっ」
「そういうことじゃ。全く、絵本作家という人種は随分と回りくどい遊びをするものじゃな。音楽という先入観を植え付け、視覚的な記号を聴覚的な暗号へとすり替える。見事な手際じゃが、わしの物理的観察眼の前では児戯に等しいわ」
得意げに鼻を鳴らす如月さんを前に、僕はただひたすらに感嘆するしかなかった。
「やりました。如月さんが解き明かしてくれた『セ』『プ』『ン』『リ』の4文字と、僕が初めから持っていた『か』『し』『ス』『い』『の』『ん』の6文字。合計10文字。これを意味のある言葉にアナグラムで並び替えると」
僕は手元のメモ帳に手に入れた10個の文字を書き出し、パズルのピースを嵌めるように線を引いた。そして一つの確信的な言葉にたどり着いた。
「『しんかいのプリンセス』。間違いない、深海のプリンセスだ。アイドルのコンセプトとも完全に一致する。これで全部のキーワードが埋まりました。完璧です」
僕は興奮のあまり、図書室の中心で力強くガッツポーズをした。これで箱崎彩華ちゃんの限定アクキーとサイン入りポスターが手に入る。事務所の応募フォームは今日の23時59分までだ。今すぐネットで応募手続きをしなければ。
「如月さん、本当に、本当にありがとうございます。一生の恩に着ます。僕、これからすぐに帰ってパソコンから事務所の特設サイトで応募してきます。いやあ、さすが天才。如月さんに解けない謎はないですね」
僕はテンション最高潮のまま、机の上の絵本をリュックに突っ込もうとした。
しかし、その時だった。
「待て、サクタロウ」
如月さんの声が、先ほどまでの呆れたような響きから一変し、氷のように冷たく、鋭いものに変わっていた。
「えっ」
「その本を置いていけ」
「いや、でもこれ、僕の大事な推しグッズで、汚したり傷つけたりしたくないし」
「いいから置いていけと言っておるのじゃ。わしの言葉に逆らう気か、下僕」
アメジストの瞳が、僕を真っ直ぐに射抜いていた。彼女がこの目をしている時は、絶対に逆らってはいけない。その冷徹な眼光に逆らう気力など僕にあるはずもなく、僕は慌ててリュックから絵本を取り出し、デスクの上に戻した。
「わ、わかりました。じゃあ、僕は先に応募だけ済ませてきますから、終わったら必ず返してくださいね」
僕はそれだけ言い残し、逃げるように旧校舎の図書室を後にした。
**
光太郎の足音が廊下の奥へと消え、旧校舎の図書室に再び静寂が降りた。
一人残された如月瑠璃は、アンティークのベルベットソファに深く腰を沈め、マホガニーのデスクの上に残された絵本を静かに見つめていた。秋の夕暮れが窓から差し込み、彼女の艶やかな黒髪と白い肌をオレンジ色に染め上げている。
彼女の周囲を満たしていたのは、先ほどまでの謎解きゲームに向けられた呆れや退屈ではない。純粋な知的好奇心と、ある種の確信めいた疑念だった。
瑠璃は持っていた銀のルーペを一旦デスクに置き、代わりに懐中時計を取り出して時間を確認した。それから、ゆっくりと絵本の表紙を開き、1ページ目から再び丹念に読み始めた。
『うみのおひめさまをさがして』。
前半の物語は、深海の底にあるという美しい竜宮城を目指し、主人公の小さな魚が旅をするという、ごくありふれた童話の構成だった。【輝くサンゴの城】【真珠で作られた柔らかいベッド】【どこまでも透き通る青い水】。使われている言葉はどれも丸みを帯びており、子供向けに配慮された優しい表現が並んでいる。
しかし、ページが中盤を過ぎ、主人公が暗い海溝へと迷い込むあたりから、瑠璃の柳眉が微かに動いた。
彼女は懐から古い革の手帳と、愛用している万年筆を取り出した。亡き親友である皐月優奈から受け継いだ『情動の視座』。そして、旧市街で出会った山内かえでから教えを乞うた、モノに宿るルーツを読み解く力。それが今、完全に稼働し始めていた。
瑠璃は銀のルーペを右目に当て、物語のテキスト部分の活字を極限まで拡大して観察した。
「……文章の質感が、完全に狂っておる」
誰もいない図書室で、瑠璃の呟きが低く響く。
彼女が着目したのは、物語の展開そのものよりも、言葉の選び方と物理的な印刷の痕跡だった。後半のページに進むにつれ、活字の裏側にあるべきインクの均一さが崩れていた。印刷所に持ち込まれた元の原稿データ、あるいは手書きの文字の段階で、作者の指先が微細な震えを起こしていた痕跡が、文字の線のブレとして如実に表れている。
さらに、紙の表面に残る極めてわずかな窪み。これはデジタル入稿ではなく、アナログで強い筆圧をかけて書き殴った証拠だった。
瑠璃は手帳に、絵本後半の異常な描写を書き写していく。
『窓のない、分厚い鉄の扉が立ちはだかりました』
『上からは常に、地鳴りのような鉄の獣の足音が響いてきます』
『甘いお花の匂いは消え、錆とアンモニアの匂いがする冷たい床だけが広がっていました』
瑠璃の口角が、冷たい喜悦の形に吊り上がった。
童話の文脈において、【鉄の獣】や【アンモニアの匂い】などという表現は極めて異質である。これは想像力で書かれたファンタジーではない。作者の五感が捉えた現実の環境を、童話の皮を被せてそのまま書き写しただけの、生々しいルポルタージュだ。
「窓のない分厚い鉄の扉。常に響く鉄の獣の足音。錆とアンモニア」
瑠璃は万年筆を走らせながら、自らの記憶のデータベースと照合していく。月見坂市の新市街において、そのような劣悪な環境はAIによって完全に排除されている。となれば、場所は必然的にあの吹き溜まり、旧市街のどこかということになる。鉄の獣の足音とは、旧市街の外れを今も走っている旧式の貨物列車の走行音に違いない。
「この活字の裏側にある極度のストレスと恐怖状態。ペンの不自然な筆圧の乱れ」
瑠璃は手帳を閉じ、万年筆のキャップをカチリとはめた。
「桜木陽子。この絵本作家は今、極めて劣悪な環境下に軟禁状態に置かれておる」
窓の外では、完全に日が落ちようとしていた。
「そしてこの絵本は、子供に向けた夢物語などではない。外の世界へ向けた、必死のSOSメッセージというわけじゃな」
天才の知的好奇心を満たす極上の獲物が、今、彼女の目の前に提示された。人助けなどという下等な動機は一切ない。ただ、このありえない文章が紡ぎ出されたルーツを確かめたいという純粋な渇望だけが、瑠璃の心を冷たく燃え上がらせていた。




