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第4巻:如月令嬢は『春宵の鼻端を笑わない』  作者: アリス・リゼル


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EP,Summer ~section6:『夜風と、幻の甘い余韻』~

 パトカーの赤色灯が旧市街の古い街並みをせわしなく照らし出す烏森神社を背に、僕たちは夜の石畳を歩いていた。

 時刻は午後十時を回ろうとしている。あれほど熱狂的な喧騒に包まれていた夏祭りの会場も、凄惨な事件の噂がどこからともなく広まったのか、あるいは単に夜が深くなったせいか、急激に熱を失い始めていた。

 焼きそばやりんご飴の屋台はすでに片付けの作業に入っており、裸電球の光が一つ、また一つと消えていく。むせ返るような晩夏の熱気も、夜空に浮かぶ薄雲を散らすように吹き抜けた少し強めの夜風によって、いくぶんか和らいでいた。耳をつんざくようだった油蝉の鳴き声はいつの間にか完全に鳴りを潜め、代わりに神社の裏山の茂みから、秋の訪れを予感させる鈴虫の微かな鳴き声が聞こえ始めている。


 漆黒の巨大なリムジンが停められている大通りへと向かう道すがら、僕の足取りは鉛のように重かった。

 肉体的な疲労もさることながら、精神的な疲労が限界を突破している。絶世の美女と美少女をエスコートするという極度の緊張状態から始まり、お化け屋敷でのパニック、そして本物の流血沙汰と七十年前の白骨死体の発見。平凡な高校一年生がたった数時間で経験していいキャパシティを、宇宙規模で超過している。


 しかし、僕の前を歩く三人の足取りは、僕のそれとは全く異なっていた。


「あーあ。せっかくの夏祭りだったのに、なんだかひどいオチがついちゃったわね」


 大人びた百合の花の浴衣を着崩すこともなく、石畳をぽっくりで軽やかに鳴らしながら歩く翡翠さんが、大きなため息をつきながら夜空を見上げた。その横顔には、つい先程まで殺人未遂の現場にいたという悲壮感や恐怖の色は微塵もない。むしろ、予定外の残業を押し付けられたOLのような、純粋な呆れと疲労感だけが漂っている。


「申し訳ございません、翡翠様。警護の身でありながら、あのような不審者の接近を許し、不快な思いをさせてしまったこと。この黒田、一生の不覚でございます。いかなる罰も受ける覚悟です」


 翡翠さんの斜め後ろを歩く黒田さんが、その巨大なゴリラのような身体を縮こまらせ、野太い声でひたすらに恐縮している。しかし、彼が気に病んでいるのはおそらくお嬢様たちに血生臭い現場を見せてしまったことよりも、お化け屋敷の暗闇でコンニャクに怯え、僕と一緒に情けない悲鳴を上げてしまったことに対するボディガードとしての強烈な自己嫌悪だろう。彼の広い背中からは、隠しきれない哀愁が漂っていた。


 そして、その黒田さんのさらに前。

 僕たちの先頭を歩く瑠璃さんは、事件のことなど最初から存在しなかったかのように、ただ凛とした姿勢で、涼しい夜風に青い石の簪を揺らしながら歩いていた。


 やがて、大通りに停められたリムジンの前に到着した。

 黒田さんが素早く運転席からキーを取り出し、恭しく後部座席のドアを開ける。

 冷房の効いた車内から、高級な本革シートの匂いと、微かな芳香剤の香りが漏れ出してきた。翡翠さんが先に乗り込もうとし、僕に向かって手招きをした。


「ほら、光太郎くんも早く乗って。このまま警察の事情聴取を受けて解散なんて、なんだか後味悪すぎるじゃない。完全に気分を変えてから帰りたいの。どこか美味しいスイーツが食べられるお店、この辺りにないかしら」


 甘いものを食べて口直しをしてから帰る。翡翠さんのその提案に、僕は一瞬だけ思考を巡らせた。

 夜の十時過ぎに開いている旧市街の店で、彼女たちの極めて厳しい嗜好のストライクゾーンを撃ち抜ける可能性のある場所。一つだけ、心当たりがあった。


「あの、スイーツというほどお洒落じゃないですけど。ここから車で五分くらいの路地裏に、夜中までやっている昔ながらの純喫茶があります。そこのマスターが作るかためのプリンなら、もしかしたら」


「かための、プリンじゃと」


 車に乗り込もうとしていた瑠璃さんの足がピタリと止まり、その紫の瞳の奥で強烈な光がスパークした。

 その反応を見た翡翠さんが、楽しそうに笑い声を上げる。


「決まりね。黒田、光太郎くんのナビ通りに車を出して」


「お待ちください、翡翠様、瑠璃様。そして光太郎さん」


 黒田さんが、ひどく真剣な表情で僕たちを制止した。

 街灯の光の下で、黒田さんは自身の着ている最高級の黒いスーツの袖口と、瑠璃さんの着ている銀糸の流水紋が描かれた浴衣の裾を指差した。


「先程の迷路施設内での救命処置により、お嬢様の浴衣の裾と、私のスーツには、被害者の血液が大量に付着しております。暗闇であったため目立ちませんでしたが、このお姿のまま夜の喫茶店などに入店すれば、間違いなく警察に通報される事態となります」


 黒田さんの指摘に、僕はハッと息を呑んだ。

 言われてみればその通りだ。瑠璃さんのシックな浴衣の足元には、真っ黒な染みとなった血の飛沫が広範囲にこびりついている。黒田さんの袖口に至っては、圧迫止血を代わった際に浴びた血でどす黒く変色し、生臭い鉄錆の匂いを放っていた。

 こんな猟奇殺人犯の逃亡直後みたいな格好で場末の喫茶店に現れたら、マスターが腰を抜かすどころの話ではない。僕たちの気分転換のスイーツ計画は、凄惨な現実の汚れの前にあっさりと頓挫したかに思えた。


「ああ、そうね。すっかり忘れていたわ。いくらなんでも血まみれでお店に入るわけにはいかないわね。光太郎くん、ごめんなさい。やっぱり今日はこのまま…」


 翡翠さんが残念そうに肩を落とした、まさにその時だった。


「ご案じには及びません。このような不測の事態、すなわちお嬢様方のお召し物が汚損するトラブルも想定し、この車両には常に複数パターンの予備の衣服と靴、並びに簡単なパウダールーム機能が完備されております」


 黒田さんがリモコンのボタンを操作すると、巨大なリムジンの後部トランクが音もなく滑らかに開いた。

 僕が中を覗き込むと、そこにはただの荷物入れではなく、まるで高級ブティックのクローゼットをそのまま切り取って押し込んだかのような、異常なまでの機能的空間が広がっていた。数着のドレス、カジュアルなワンピース、予備の靴、そしてタオルやアメニティグッズが、一切の無駄なく整然と収納されている。如月コンツェルンの財力と、黒田さんの異常なまでの危機管理能力の結晶だった。


「瑠璃様、翡翠様。後部座席のパーティションを完全に遮光状態にいたしますので、車内でお着替えをお願いいたします。光太郎さん、恐れ入りますが、お嬢様方のお着替えが済むまで、私とともに少々車の外でお待ちいただけますでしょうか」


「あ、はい。もちろんです」


 瑠璃さんと翡翠さんがリムジンの後部座席に乗り込むと、黒田さんの操作によって分厚い防弾ガラスの窓が完全に漆黒の遮光モードへと切り替わり、外からは一切中の様子が窺えなくなった。

 旧市街の薄暗い大通り。閉ざされたリムジンの横で、僕と黒田さんは男二人、夜風に吹かれながら待機することになった。


「黒田さんも、その血のついた服、着替えるんですよね」


 僕が尋ねると、黒田さんは無言で頷き、トランクの奥から自分用の予備のシャツとジャケットを取り出した。そして、おもむろに血に染まったジャケットを脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツのボタンを引きちぎるような勢いで外し始めた。

 街灯の下で露わになった黒田さんの上半身を見て、僕は思わず悲鳴を上げそうになった。常人の倍はあろうかという分厚い大胸筋と広背筋。そしてその筋肉の鎧の上には、過去の激戦を物語る無数の刃物の傷跡や、銃創のような生々しい古傷が縦横無尽に刻まれていたのだ。


 どう見ても、旧市街の裏路地で抗争の準備をしている本職のヒットマンにしか見えない。

 夜道を歩いていた数人の酔っ払いが、上半身裸の黒田さんの背中を見た瞬間、酔いが完全に覚めたような顔をして無言でUターンしていくのが見えた。僕はひたすらに視線を足元に落とし、この生きた凶器のようなボディガードの着替えが早く終わることを神に祈り続けた。


 数分後。

 黒田さんが真新しい黒のスーツに身を包み終えたのとほぼ同時に、リムジンの後部座席のドアがカチャリと開いた。


「待たせたな、サクタロウ。出立するぞ」


 車内から降りてきた瑠璃さんの姿に、僕の思考は再び完全に停止した。

 先程までの妖艶な和の装いとは打って変わり、今度は漆黒のサマーワンピースに身を包んでいる。フリルや装飾を極力排した、彼女の白い肌とサラサラの黒髪を最大限に引き立てる洗練されたデザインだ。足元は細いストラップの入った黒のサンダルに変わっており、血の匂いなど一切感じさせない、ただただ純粋で圧倒的な美しさだけがそこにあった。

 続いて降りてきた翡翠さんも、涼しげなエメラルドグリーンのサマーニットと白いパンツスタイルに着替えており、先程までの艶やかな浴衣姿とは違う、大人の洗練されたカジュアルさを見せつけている。


 もう、何を着ても似合いすぎる。僕の脆弱なメンタルの防御壁は、すでに粉々に砕け散っていた。


「それでは朔様。ご案内をお願いいたします」


 黒田さんの低い声に促され、僕は半ば放心状態のまま、助手席ではなく後部座席へと押し込まれた。

 ドアが閉まり、外界の音が完全に遮断される。左にはエメラルドグリーンのニットを着た翡翠さん。右には漆黒のワンピースで冷徹なオーラを放つ瑠璃さん。高級車の滑らかなシートに沈み込みながら、僕は自分の心臓の音が車内に響き渡ってしまうのではないかと、本気で心配になるほど極度に緊張していた。

 少しでも揺れれば触れてしまう距離。僕は両手を膝の上で固く握り締め、ひたすらに窓の外を流れる旧市街の薄暗い景色を見つめながら、運転席の黒田さんに道を指示し続けた。


**


 やがてリムジンは、旧市街のさらに奥深く、昭和の時代から時間が止まっているかのような狭い路地裏の入り口で静かに停車した。

 これ以上は車幅的に進めないため、僕たちは車を降りて路地を歩く。街灯もまばらなその薄暗い道の奥に、オレンジ色の淡いネオンサインが一つだけ、ぽつんと灯っていた。


『純喫茶 ノスタルジア』


 色褪せたレンガ造りの外壁に、木枠のガラス扉。ドアノブの横には自家焙煎珈琲と書かれた古い木の看板が掛けられている。

 僕がドアを開けると、カランコロンと、どこか気の抜けたような真鍮のベルの音が鳴った。


 店内は、深煎りのコーヒー豆の香ばしい匂いと、微かなタバコのヤニの匂いが染み付いていた。琥珀色の間接照明が、使い込まれた赤茶色のベルベットのソファと、黒光りする木製のテーブルを柔らかく照らし出している。

 カウンターの奥でネルドリップのコーヒーを淹れていた白髪の老マスターは、僕に続いて店内に入ってきた翡翠さんと瑠璃さん、そして最後に入り口のドア枠に頭をぶつけそうになりながら入ってきた巨漢の黒田さんの姿を見て、持っていたコーヒーポットを取り落としそうになるほど驚愕の表情を浮かべた。

 血の汚れこそ落としてきたものの、この薄汚れた旧市街の場末の喫茶店に、あまりにも不釣り合いな絶世の姉妹と本職のボディガードが現れたのだから無理もない。


 僕たちは奥の四人掛けのボックス席へと案内された。

 向かいの席に翡翠さんと瑠璃さんが並んで座り、僕の隣には黒田さんが、その巨大な身体を丸めるようにして窮屈そうに座った。黒田さんの筋肉の圧迫感のおかげで、僕は向かいの美しい姉妹に対する極度の緊張を、かろうじて物理的に中和することができていた。


「いらっしゃいませ。あの、ご注文は」


 マスターが震える声で水とおしぼりを運んでくる。


「自家製プリンを一つ。それに、冷たいミルクを頼む」


 メニューも開かずに、瑠璃さんが静かに注文した。


「私はアイスティーをお願い。光太郎くんと黒田さんは」


「あ、僕はアイスコーヒーで」


「わ、私も同じものを」


 十分後。

 瑠璃さんの目の前に、脚のついた銀色のアンティークな器に乗せられた、自家製プリンが運ばれてきた。

 琥珀色のカラメルソースがたっぷりと掛けられ、その頂上には真っ白な生クリームと、シロップ漬けの赤いチェリーが一つ乗っている。いかにも昭和の純喫茶といった、完璧なビジュアルだった。


 瑠璃さんはテーブルに置かれたスプーンを手に取った。

 彼女はまず、スプーンの背でプリンの表面を軽く、トントンと叩いた。プリンはぷるんと小刻みに震えるが、決して崩れることはない。その確かな弾力を確認すると、彼女の口元に、ほんのわずかだけ、本当にミリ単位の微小な変化だが、確かな満足げな笑みが浮かんだ。


「ふむ。ゼラチンで誤魔化した大量生産品ではない。卵と牛乳、そして熱の力だけで凝固させた、極めて正統な質量と弾力じゃ」


 瑠璃さんはスプーンをプリンの端に差し込み、一口分をすくい上げる。そして、目を伏せ、ゆっくりとそれを口へと運んだ。

 店内には、古い柱時計の音と、コーヒーを沸かす微かな音だけが響いている。黒田さんも、翡翠さんも、そして僕も、彼女がプリンを味わうその神聖な儀式のような静寂を、ただ息を飲んで見守っていた。


 彼女の細い喉が、小さく動く。

 ゆっくりと目を開いた瑠璃さんは、スプーンを器に置き、冷たいミルクのグラスに口をつけた。


「カラメルの焦がし具合、極めて秀逸じゃな。甘さを徹底的に抑え、焦げた砂糖の持つ奥深い苦味と香ばしさを極限まで引き出しておる。それが、卵の濃厚な風味を限界まで濃縮したこの硬質なプリン本体と絡み合うことで、口の中で完璧な計算式が完成する。添えられたチープなチェリーの酸味も、味覚の数式において絶妙なアクセントとして機能しておるわ」


 それは、ただのプリンに対する感想というにはあまりにも論理的で、大げさなものだった。しかし、彼女のその言葉の裏には、この場末の喫茶店のマスターの仕事に対する、彼女なりの最大の敬意と賛辞が込められていることが、僕にははっきりとわかった。


「美味しいみたいね、光太郎くん。紹介してくれてありがとう」


 翡翠さんが、ストローでアイスティーをかき混ぜながら、僕に向かって優しく微笑んだ。その大人びた笑顔に、僕の心臓が再びドクリと大きく跳ねる。しかし、先程までの逃げ出したくなるような極度の緊張感はなく、どこか心地よい、夏の夜の微熱のような感覚だった。


 隣を見ると、黒田さんがサングラスの奥から大粒の涙をこぼし、ハンカチで必死に鼻を啜っていた。


「お嬢様が、あのように美味しそうに甘味を召し上がっておられる。あの陰惨な事件の後だというのに、なんというお心の強さ。この黒田、感無量でございます」


 巨漢のボディガードが、女子高生がプリンを食べている姿を見て号泣している。

 向かいの席では、絶世の美女がクスクスと笑い、その横では美少女が、全く動じることなく二口目のプリンを極めて真剣な表情で口に運んでいる。


「サクタロウ」


 最後の一口を食べ終え、チェリーの枝を皿の端に置いた瑠璃さんが、ふいに僕の方へとその紫の瞳を向けた。


「あのメロンクリームソーダの品質、そしてこのプリンの完成度。今日のお主のナビゲート能力と情報収集能力だけは、高く評価してやろう。助手としての合格点には、まだ遠く及ばんがな」


 それは、彼女なりの最大限のねぎらいだった。相変わらずの上から目線で、人を忠犬か何かのように扱っている。


「ありがとうございます、如月さん。まあ、たまには僕も役に立つってことで」


 僕が苦笑いしながら答えると、瑠璃さんはふいと顔を逸らし、グラスのミルクを飲み干した。


 窓の外からは、旧市街の夜の静寂とともに、秋の訪れを告げる虫の音が微かに聞こえてくる。

 僕のグラスの中の氷が、カランと涼しげな音を立てて溶けた。

 向かいの席では、極上のプリンを平らげて満足げに目を閉じる絶世の美少女と、優雅にアイスティーを楽しむ美女。そして僕の隣では、未だにハンカチで顔を覆ってむせび泣いている巨漢のボディガード。


 血生臭い事件と七十年前の白骨死体という、今日経験した重すぎる非日常は、このレトロな純喫茶の甘い匂いと琥珀色の光の中に、すっかり溶けて消え去ろうとしていた。

 極度の緊張も、得体の知れない恐怖も、そして女性に対する致命的な耐性のなさも、僕の脆弱なメンタルではまだまだ克服できそうにない。それでも、この旧市街での平凡で退屈だった日常は、もう二度と元には戻らないことだけは確かだ。


 圧倒的な疲労感と、口の中に広がるアイスコーヒーのほろ苦さを噛み締めながら。僕は深く、しかし決して悪くない実感とともに、ゆっくりと息を吐き出した。



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