EP,Summer ~section5:『沈黙と、誓約の終焉』~
どこからか流れてくる耳障りな読経のBGMと、お化け屋敷のチープな赤い点滅照明。そして、足元から立ち上る生々しい鉄錆の匂い。
非現実と現実が最悪の形で入り混じったこの閉鎖空間で、僕たちは遠くから近づいてくる救急車のサイレンの音を、ただ息を潜めて待ち続けていた。
僕の目の前では、巨漢の黒田さんが顔面を険しくしながらも、一切の妥協のない正確なフォームで、血まみれの男の腹部を強く圧迫し続けている。彼の強靭な腕力によって、男の傷口からの出血量は明らかに減少していた。
壁際に退避した翡翠さんは、祈るように両手を胸の前で軽く組み合わせているが、その表情にパニックや恐怖の色は微塵もなかった。血の気を失うこともなく、むしろ極めて冷静に、鋭い観察眼で事の推移を静かに見守っている。己がどう振る舞うべきかを完全に理解している彼女の姿は、僕にとって一種の頼もしさすら感じさせた。
そして、その凄惨な現場の中心で。
瑠璃さんは真っ白な新しい軍手をはめた指先で、あの不釣り合いなほど巨大なダイヤモンドがあしらわれた白金の婚約指輪をつまみ上げ、スマートフォンのライトの光の中で静かにその輝きを見つめていた。その美しい横顔には、瀕死の重傷者を前にした焦りも、猟奇的な事件に巻き込まれた恐怖も、何一つ浮かんでいない。あるのはただ、過去の歴史の深淵を覗き込むような、底知れぬ探求の光だけだった。
その時だった。
僕たちが入り込んできた暗幕の向こう側から、ベニヤ板の床を乱暴に踏み鳴らす、慌ただしい足音が近づいてきた。
ギシギシという不快な音が反響し、数秒後、処刑場の小部屋を仕切る黒いビニールシートを乱暴に払い除けて、一人の初老の男が転がり込むようにして現れた。
年齢は六十代半ばほどだろうか。白衣に浅葱色の袴という、いかにも神社の神職といった装いだが、その着物には不自然な泥の汚れが付着し、息を大きく切らしている。大きな声や高圧的な人間が極端に苦手な僕の防衛本能が、瞬時にけたたましい警報を鳴らした。この男が纏っている空気は、明らかに尋常ではない。
男は赤い点滅照明の下で、床に広がる赤黒い血の海と、黒田さんに押さえつけられて呻く同僚らしき男の姿を目に止めた。
「な、何事だ。お前たち、ここで何をしているっ」
男は芝居がかった、ひどく上擦った裏声で叫んだ。
しかし、その目は足元で死にかけている男の心配など微塵もしていなかった。男の血走った両目は、空間を素早く見渡し、そして、直立して静かに佇む瑠璃さんの指先、正確には、彼女の指先で純白の光を反射している『白金の指輪』に完全に釘付けになったのだ。
「あ、ああ。それは。それは神社のものだ。貴様ら、勝手に持ち出すな。それを返せ」
男の顔面が、欲望と焦燥で醜く歪む。彼は血溜まりを踏み越えることも厭わず、瑠璃さんに向かって一直線に手を伸ばし、突進してきた。
その瞬間、横で圧迫止血を行っていた黒田さんが、片手で男の傷口を押さえたまま、もう片方の丸太のような太い腕を瞬時に真横へと突き出した。
ドスッという鈍い音とともに、突進してきた神主の男の胸倉が黒田さんの剛腕に激突し、男は弾き返されるようにして無様に床へ尻餅をついた。
「お下がりください。これ以上お嬢様に近づくのであれば、実力をもって排除いたします」
黒田さんの低く、地を這うような重低音の威圧。凶悪犯すら震え上がる本職のボディガードの殺気に当てられ、男はヒッと短い悲鳴を上げて後ずさった。
しかし、指輪に対する異様なまでの執着が、男の恐怖を上回った。
「警察を呼ぶぞ。いや、もう呼んだのか。いいか、それは我が烏森神社に代々伝わる神聖な宝物だ。そこの賊が盗み出そうとしたところを私が見つけ、揉み合いになったのだ。さあ、その指輪を早くこちらへ渡すんだ」
ペラペラと、男の口から信じがたい嘘が滑り落ちる。
自分の都合の良いように事実を捻じ曲げ、目の前の死にかけの男にすべての罪を擦り付けようとするその浅ましい言葉に、僕は強烈な吐き気を覚えた。
しかし、瑠璃さんは男の怒声にも、その見え透いた嘘にも、表情一つ変えなかった。
彼女は指輪をつまんだまま、ゆっくりと、男を見下ろすように視線を向けた。硝子細工のように冷たく、一切の感情の揺らぎを含まない紫の瞳。その絶対的な零度の眼差しに射抜かれ、男の口がパクパクと痙攣したように止まる。
「神聖な宝物、じゃと」
瑠璃さんの澄んだ声が、カビの匂いが充満する空間に凛と響いた。
「笑わせるな。一九五二年。旧市街の闇市利権を巡って血みどろの抗争を繰り広げた佐藤家と松本家が、一時的な休戦の証として交わした、欲望と憎悪と呪いの結晶。それがこの指輪の正体じゃ。これを神聖などと呼ぶお主の知性は、道端に転がる石ころ以下じゃな」
「な、なぜお前がそのことを」
男の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていくのがわかった。
「お主の嘘など、物理的証拠の前に何の意味も持たん。お主の着物の袖口、そして袴の膝部分に、微量の赤黒い飛沫が付着しておるな。それは動脈から噴出した血液の飛沫痕じゃ。倒れている男と揉み合った程度でつくものではない。お主がこの男を正面から刃物で刺し、至近距離でその返り血を浴びた動かぬ証拠じゃ」
「ち、違う。私は知らない。それはっ」
男が必死に言い逃れようとした、まさにその時。
瑠璃さんは男からあっさりと視線を外し、僕の手からスマートフォンをひったくるように奪い取った。そして、その真っ白なLEDライトの光を、部屋の中央の木製椅子に縛り付けられている、あの不気味な骸骨の模型へと直接向けたのだ。
「サクタロウ。わしが先程、なぜこの安っぽい骸骨の模型の前で足を止めたか、わかるか」
「え。それは、指輪が骸骨の指に嵌まっていたからじゃ」
「違う」
瑠璃さんは僕の言葉を冷たく一刀両断にした。
「わしが足を止めたのは、指輪を見つけるより前じゃ。このお化け屋敷に足を踏み入れた瞬間から、わしはここにあるすべての造形物の材質、強度、配置、そして空圧シリンダーの駆動音に至るまで、すべてを無意識のうちに五感で分析しておった。どれもこれも、大量生産された安価なプラスチックやシリコン、あるいは木材と鉄パイプで作られた、ただのチープなガラクタばかりじゃ」
瑠璃さんはスマートフォンの光を、骸骨の頭部、肋骨、左腕へと順番に当てていく。
「しかし。この処刑場のセットの中央に配置された、この骸骨の模型。これの右腕だけが、空間の整合性から完全に逸脱しておったのじゃ」
「右腕、ですか」
「そうじゃ。プラスチック特有の光の反射率、表面に付着した埃の積もり方、そして何より、関節部分の微細な構造。左腕や肋骨は金型に樹脂を流し込んで作られた量産品じゃが、この指輪が嵌められていた右腕、正確には右の手首から先の骨格だけは、他の部位と決定的に材質が異なっておる」
瑠璃さんは純白の軍手をはめた手で、骸骨の右手の骨をコンコン、と軽く叩いた。
硬く、そしてどこか詰まったような、鈍い音が響く。
「プラスチックではない。表面には微細な無数の孔が存在し、長年の乾燥によってカルシウムが変質した特有の脆さと重量感がある。これは」
瑠璃さんはそこで言葉を区切り、床にへたり込んでいる神主の男へと、再びその紫の瞳を向けた。男はガタガタと全身を震わせ、後ずさりしようとしている。
「紛れもない、本物の人間の白骨じゃ」
僕の全身の毛穴が総毛立ち、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
本物の、人骨。僕たちは今、ただのお化け屋敷のセットだと思っていた本物の死体の一部を、スマートフォンのライトで照らし出していたのだ。
「一九五二年。佐藤家と松本家の和睦の証であったはずの政略結婚は、成立しなかった。いや、成立させることができなかったのじゃな。なぜなら、結婚を目前にして、花嫁か、あるいは花婿のどちらかが、もう一方の陣営の過激派によって暗殺されたからじゃ。両家の抗争はさらに泥沼化し、暗殺の事実は闇に葬られた。そして、その死体は誰の目にも触れないよう、この不可侵の聖域である神社の敷地内、古い蔵の奥深くに隠匿された」
瑠璃さんの冷徹な推論が、過去の分厚い扉をこじ開け、七十年前の暗黒の真実を現代に引きずり出していく。
「長い年月が経ち、死体は完全に白骨化した。そして、この神社を管理する一族の人間も代替わりし、隠された白骨の正確な由来を知る者は徐々にいなくなったのじゃろう。結果として、古い蔵の中に放置されていた本物の人骨の一部が、このお化け屋敷を設営する際、偶然か、あるいは意図的か、ガラクタの模型の一部として雑に組み込まれてしまった」
瑠璃さんはそこで一度言葉を切り、足元で苦しげに呼吸を続ける男を見下ろした。
「この倒れている男は、神社の古い資料か何かを整理していて、偶然その七十年前の暗殺の事実と、隠されていた指輪の存在を知ってしまった。男は、己の先祖が犯した罪の重さに耐えかねたか、あるいは純粋な贖罪の意識から、この呪われた指輪を警察に届けるか、元の持ち主の遺族に返還しようとした」
瑠璃さんの鋭い視線が、再び神主の男を射抜く。
「しかし、神社の現在の権威と名誉を守らねばならないお主にとって、それは到底許容できることではなかった。七十年前の殺人隠蔽が公になれば、この神社の信用は地に落ちる。お主は男を止めようとこの迷路施設に追い込み、揉み合いの末に刃物で刺した。男は薄れゆく意識の中で、指輪だけは奪われまいと、たまたま目の前にあったこの骸骨の指、奇しくも七十年前の被害者本人の右腕の骨に、それを嵌めた。これが、この現場において物理的かつ論理的に導き出される、唯一の真実じゃ」
完璧な、一切の反論を許さない論理の構築。
神主の男は、もはや言葉を発することすらできず、両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにして泣き崩れた。己の犯した罪と、隠蔽し続けてきた一族の汚れた歴史をすべて白日の下に晒され、完全に心が折れたのだ。
そのみすぼらしい背中を見下ろす瑠璃さんの瞳には、憐れみも、怒りも、そして軽蔑すらも存在しなかった。ただ、計算式が正しく解けたことを確認しただけの、冷たく凪いだ湖面のような静けさがあるだけだ。
僕たちの背後で、激しいサイレンの音が急激に近づき、神社の裏手でけたたましく停止する音が聞こえた。
「警察と救急隊が到着したようです。こちらへ案内します」
黒田さんが僕に傷口の圧迫を交代するよう指示を出し、素早い動きで暗幕の向こうへと走っていく。
**
数分後。
赤い点滅照明しか及ばなかった暗い処刑場のセットは、突入してきた大勢の救急隊員と警察官たちの強力な懐中電灯の光によって、白日の下に晒された。
救急隊員たちが迅速な動きで止血の引き継ぎを行い、男をストレッチャーに乗せて運び出していく。泣き崩れていた神主の男も、数人の警察官に両脇を抱えられ、抵抗することなく連行されていった。
僕と翡翠さんは、警察官からの簡単な状況聴取を受けることになった。僕はまだ足の震えが止まらず、上擦った声で必死に事実を説明するしかなかったが、隣に立つ翡翠さんは対照的だった。彼女はコンツェルンの要職に就く人間らしい極めて冷静で理路整然とした口調で、僕たちの発見時の状況と、神主の男の言動を正確に警察官へと伝えていた。その堂々とした対応に、僕はただ圧倒されるばかりだった。
現場検証が始まり、ブルーシートが敷かれる中。
一人の年配の刑事が、瑠璃さんの前に歩み寄ってきた。彼は瑠璃さんの威風堂々とした立ち姿と、その圧倒的な美しさに一瞬たじろぎながらも、手帳を開いて口を開いた。
「君が、あの指輪を見つけてくれたんだね。あれは事件の重要な証拠品になる。すまないが、こちらに渡してもらえないだろうか」
刑事はそう言って、透明な証拠品用のビニール袋を差し出した。
七十年前の泥沼の抗争と、現代の殺人未遂事件。そのすべての因果の中心にある、莫大な価値を持つ白金の婚約指輪。
瑠璃さんはその指輪の放つ強い情念に惹かれ、執着しているのではないか。僕は心のどこかでそう思っていた。ありえない物のルーツを探求する彼女にとって、これほど重い意味を持つ品は、簡単に手放したくないのではないかと。
しかし。
瑠璃さんは、はめていた純白の軍手ごと、まるでただの道端のゴミ屑でも捨てるかのように、一切の躊躇なく、その指輪を刑事のビニール袋の中にポイと落とし込んだ。
「持って行くがよい。ルーツの鑑定はすでに終わった。わしにとって、もうその金属の輪に何の価値もない」
彼女の顔には、執着も未練も、本当に一片たりとも残っていなかった。
「如月さん。いいんですか。あんなに熱心に調べていたのに」
僕が思わず尋ねると、彼女は退屈そうに小さく欠伸をした。
「サクタロウ。わしが興味があるのは、それがどこから来て、なぜそこにあるのかというルーツの謎そのものじゃ。モノ自体に執着しているわけではない。あのような人間の醜い欲望と血をたっぷりと吸い込んだ、汚れた歴史の付着物など、わしの手元に置いておく理由がどこにある。警察の証拠品保管庫という埃まみれの棚が、あの石ころにはお似合いじゃ」
彼女は冷たくそう言い放つと、刑事の制止を振り切るようにして、さっさと踵を返して出口の方へ歩き出してしまった。
黒田さんが深々と刑事に頭を下げ、翡翠さんが僕の方を見て軽くウインクをし、余裕の笑みを浮かべながらその後を追う。僕も慌てて、彼女たちの背中を追いかけた。
お化け屋敷の分厚い暗幕をくぐり抜け、外の世界へと戻る。
時刻はすでに夜の九時を回っており、あれほど喧騒に包まれていた神社の境内も、祭りの終わりを告げるように少しずつ人が引き始めていた。
生温かい夜風が、僕の汗ばんだ頬を撫でる。
血の匂いと死の気配が充満していたあの異常な空間から解放され、僕は大きく、深く深呼吸をした。
漆黒のリムジンが待つ鳥居の方へと歩きながら、瑠璃さんがふと、夜空を見上げて独り言のように呟いた。
「それにしても」
彼女の横顔を、並んだ提灯のオレンジ色の光が優しく照らし出している。
「あの屋台のメロンクリームソーダは、実に計算され尽くした、見事な品質であった。シロップの糖度とハーブの香りのバランス、そして純氷が溶ける速度に至るまで、完全に統制されておった。あれほどの完璧な調合物に出会えたことだけは、今日の唯一の収穫じゃな」
凄惨な事件を解決し、七十年前の暗黒の歴史を暴いたことなど、彼女にとってはもうすでに過去のどうでもいいノイズでしかなかった。彼女の脳内に今残っている価値ある記憶は、ただのメロンクリームソーダの味と品質の評価だけなのだ。
その徹底した価値観のブレのなさに、僕は乾いた笑いを漏らすしかなかった。
前を歩く黒田さんの巨体と、隣で優雅に微笑む翡翠さん。そして、僕の前を凛とした足取りで歩く、絶世の美少女。
この常軌を逸した人たちと関わっている限り、僕の平凡で退屈な日常は、二度と戻ってこないのだろう。
しかし不思議なことに、あれほど後悔していた図書室での僕の誘いを、今の僕はもう微塵も呪ってはいなかった。
むしろ、彼女の横で、次はいったいどんなありえない場所にある、ありえない物のルーツに立ち会うことができるのか。そんな場違いな期待すら抱いている自分がいることに気づき、僕は小さく肩をすくめた。




