EP,Summer ~section4:『血潮と、白金の輝き』~
薄暗いお化け屋敷の小部屋に、不規則で暴力的な赤い点滅照明が上部から降り注いでいる。
本来ならば客の恐怖心を煽るためのチープな演出に過ぎないその赤い光は、今や足元のベニヤ板に広がる本物の赤黒い水溜まりを、ひどくおぞましく、そして生々しく照らし出していた。
スピーカーから絶え間なく流れる女のすすり泣くようなBGMと、おどろおどろしい読経の音声。それに混じって、足元に倒伏する五十代半ばほどの男の、気道に血が絡んだようなヒュー、ヒューという絶望的な呼吸音が、僕の鼓膜を直接削り取っていく。
強烈な鉄錆の匂い。人間の体内から流れ出たばかりの、重く生温かい血液の匂いが、ドライアイスの白煙の埃っぽいカビの匂いを完全に塗り潰し、閉鎖された空間の酸素を奪っていくようだった。
「こちら黒田。烏森神社境内、特設の迷路施設内にて刺創を負った重傷者一名を発見。意識混濁、出血多量。至急、救急隊および警察の出動を要請する。施設への進入経路は神社の裏手、北側の鳥居からが最短だ。繰り返す」
僕の背後で、完全に歴戦のプロフェッショナルとしての顔を取り戻した黒田さんが、自身のスマートフォンで警察と消防へ淀みない報告を行っている。その太く落ち着いた声だけが、この狂気に満ちた空間における唯一の正常なアンカーのように感じられた。
壁際に退避した翡翠さんは、慌てることなく静かに、その場に直立して事の成り行きを見守っていた。
パニックを起こして悲鳴を上げたり、泣き崩れたりするような真似は一切していない。如月コンツェルンの経理と会計を一手に担い、莫大な数字と冷徹な現実を日々動かしている彼女は、医療的な応急処置という自身の専門外の領域において、自分が不用意に動くことが現場のノイズになるということを正確に理解している。それに、妹である瑠璃さんが『モノのルーツ』を探求する過程において、こうした血生臭い修羅場や不可解な事件に出くわすのは、どうやらこれが初めてではないらしかった。
彼女は先程の瑠璃さんの指示通り、ただ処置の邪魔にならないよう壁際に下がり、冷静に現場の状況と周囲の安全を把握しようと鋭い視線を巡らせている。
一方の僕は、スマートフォンのライトを持つ右手が痙攣したように小刻みに震え、白い光の円が床の上で激しく踊り続けていた。足の震えは止まらず、立ち上がることはおろか、膝をついた姿勢から一歩も動くことができない。平和な日常しか知らなかった平凡な高校生にとって、目の前で人間の命がまさに零れ落ちようとしている光景は、精神の処理能力を遥かに超えていた。
しかし、僕の目の前で片膝をつき、男の腹部からとめどなく溢れ出る血潮を両手で直接圧迫し続けている少女は、僕たちとは完全に別の次元の思考回路で動いていた。
「黒田。通報は済んだか」
瑠璃さんの氷のように冷たく、一切の感情の揺らぎを含まない声が響いた。
「はっ。救急車ならびにパトカーは、およそ五分から七分で現着するとのことです」
「よかろう。ならばここを代われ。わしの手の位置と全く同じ場所を、お主の腕力で均等に圧迫し続けよ。救急隊が到着するまで、決して力を緩めるな」
「承知いたしました」
黒田さんが巨体を屈め、瑠璃さんの横に滑り込む。瑠璃さんが男の腹部からゆっくりと手を離すのと同時に、黒田さんの分厚く巨大な手が、寸分の狂いもなく同じ止血点を強烈に圧迫した。男の口から短い呻き声が漏れるが、止血の確実性は素人目に見ても明らかに跳ね上がったことがわかる。
瑠璃さんは血の海からゆっくりと立ち上がった。
彼女が両手にはめていた純白の軍手は、手首のあたりまでどす黒い赤に染まりきり、指先からはポタポタと血の滴りが落ちている。しかし彼女は、自分の手が血にまみれていることなど全く気にする素振りも見せず、忌々しそうにその軍手を引き抜いた。
血に染まった軍手を足元のベニヤ板の端に無造作に捨てると、彼女は再び浴衣の袂から、予備の、全く新しい純白の軍手を取り出し、優雅な動作で両手にはめ直した。
「サクタロウ。ライトをよこせ」
絶対的な命令だった。僕は震える手で、自分のスマートフォンを瑠璃さんに向けて差し出した。
瑠璃さんは無言でそれを受け取ると、迷うことなく、部屋の中央に鎮座する骸骨の模型へと歩み寄った。赤い点滅照明の中、スマートフォンの真っ白なLEDライトが、骸骨のプラスチック製の指を強烈に照らし出す。
そこに嵌められている、不釣り合いなほど巨大なダイヤモンドがあしらわれた、重厚な白金リング。
瑠璃さんは新しい純白の軍手をした指先で、骸骨の中指からその指輪をそっと、しかし確かな手つきで引き抜いた。骨のサイズに合っておらずぶかぶかだったそれは、何の抵抗もなく彼女の手のひらへと収まる。
ありえない場所に存在した、ありえない物。その完全な確保だった。
「如月さん。その指輪、警察が来るまで触らない方がいいんじゃ」
僕が絞り出すような声で忠告するが、彼女の耳には全く届いていないようだった。彼女の意識は、手のひらの上にある冷たい金属の輪と、そこに秘められた膨大な歴史的情報へと完全にダイブしている。
瑠璃さんは指輪を目の高さまで持ち上げ、スマートフォンの光を様々な角度から当てて、ダイヤモンドのカットとプラチナの台座の摩耗具合を観察した。そして、再び懐からあの美しい装飾が施された銀のルーペを取り出すと、指輪の『内側』、その細い金属の裏面に顔を極限まで近づけた。
赤い照明が明滅するたびに、彼女の長い黒髪が妖しく光る。血の匂いと死の気配が充満する空間で、彼女だけが、まるで静寂に包まれた博物館の特等室で美術品を鑑定しているかのような、絶対的な孤独と凄まじい集中の中にいた。
「やはりな。サクタロウ、よく聞け」
不意に、瑠璃さんが口を開いた。ルーペから目を離さず、指輪の内側に刻まれた極小の文字を読み解きながら、彼女は淡々と語り始めた。
「この月見坂市、特に我々が今いるこの旧市街のエリアは、戦後の混乱期において、巨大な闇市が形成された場所じゃ。配給制度が崩壊し、人々が飢えを凌ぐためにあらゆる物資が非合法に売買された無法地帯。そこには当然、莫大な利権と暴力が渦巻いておった」
彼女の声は、凄惨な現場の空気とは一切交わらない、大学の老教授が歴史の講義を行っているかのような、ひどく冷徹で知的な響きを持っていた。
「その旧市街の闇市利権を二分し、血で血を洗う泥沼の抗争を繰り広げていたのが、この地に古くから根を下ろす二つの土着の旧家。佐藤家と、松本家じゃ。両家は長年にわたり、この土地の支配権を巡って憎み合い、殺し合ってきた。警察組織すらも介入できないほどの、深く暗い因縁の歴史がこの街の地層には埋まっておる」
そこまで語ると、瑠璃さんはゆっくりとルーペを下ろし、僕の方へと顔を向けた。紫の瞳の奥で、何十万、何百万という情報の断片が結合し、一つの明確な真実の輪郭を形作っていくのがわかった。
「この指輪の内側には、極めて精巧な技術で文字が刻印されておる。『1952 S to M』。一九五二年。それは、長きにわたる凄惨な抗争に疲弊した佐藤家と松本家が、表向きの手打ちとして、両家の跡取り同士の政略結婚を取り決めた年じゃ」
「SとM。佐藤から、松本へ。つまりこれは」
「左様。佐藤の当主が、和睦の証として松本の娘に贈った、因縁と憎悪の入り混じった婚約指輪に他ならん。これほどの大きさのダイヤモンドと、この時代には極めて希少であった純度の高いプラチナ。当時の闇市の莫大な利益を注ぎ込んで作られた、血塗られた富の象徴じゃ」
彼女の言葉が、ひんやりとした冷気となって僕の背筋を駆け下りた。
単なる高価な落とし物などではない。この旧市街の土着の歴史と、過去の人々のどす黒い執着、怨念、そして流された血の記憶をたっぷりと吸い込んだ、極めて重い意味を持つ『遺物』だったのだ。
「しかし、如月さん。そんな七十年以上も前の歴史的な指輪が、どうしてこんなお化け屋敷の、しかも骸骨の模型の指なんかに嵌まっていたんですか」
僕の問いに対し、瑠璃さんは指輪を手のひらで転がしながら、足元で黒田さんに止血されている男へと、静かに視線を落とした。
「この烏森神社は、かつて佐藤と松本が抗争の果てに手打ちの儀式を行った、両家にとっての不可侵の聖域じゃ。そして、倒れているこの男が着ている白衣と袴。神社の関係者、おそらくは神主かそれに連なる立場の人間じゃろう。指輪のルーツと、この男がここで腹を刺されているという現在の物理的状況。これらは決して独立した事象ではない」
瑠璃さんはスマートフォンのライトを男の周囲の床へと向けた。
血溜まりのすぐそば、男が倒れた拍子に散乱したと思われる、血に濡れた古い桐の箱が転がっている。
「この指輪は、長年この神社の奥深くに隠匿、あるいは厳重に封印されていたのじゃ。戦後の和睦の証であったはずの指輪が、なぜ公の場に出ることなく神社に隠されていたのか。それは、一九五二年のその政略結婚が、決して平穏に成就しなかったことを意味しておる。おそらくは、結婚の直前に凄惨な裏切りか、あるいは殺人事件が起き、両家の因縁はさらに深く決定的なものとなった。その汚れた歴史の証拠品として、この指輪は神社の暗がりに葬り去られたのじゃ」
瑠璃さんの推理は、もはやただの推論の域を超え、過去の事実そのものを目の前で再構築しているかのような圧倒的な説得力を持っていた。
「そして今日、何らかの理由でこの男が桐の箱から指輪を持ち出した。それを阻止しようとした者、あるいは指輪そのものを奪取しようとした者によって、男はこの場所で刃物で腹部を刺された。男は薄れゆく意識の中で、奪われることだけは避けようと、咄嗟に目の前にあったこの骸骨模型の指に指輪をねじ込み、そのまま力尽きて倒れた。そういうことじゃな」
見事なまでの論理の展開だった。
足元に広がる血の海、瀕死の人間、そして不気味なお化け屋敷という、通常の人間であれば恐怖で思考が完全に停止してしまうような極限状況の中で。彼女はたった一つの小さな指輪の刻印から、この街の七十年にわたる暗黒の歴史を読み解き、目の前の殺人未遂事件の全体像を、まるでパズルのピースを嵌めるかのように完全に立証してしまったのだ。
僕は、骸骨の横に立ち、白金の指輪を片手に持ったまま静かに佇む瑠璃さんの姿を、ただ呆然と見上げていた。
赤い点滅照明と、スマートフォンの白い光が交差する中、彼女の美しさは常軌を逸していた。浴衣の裾に飛び散ったわずかな血の染みすらも、彼女を彩るための残酷な装飾にしか見えない。
僕は、その横顔から目を離せなかった。
他人の痛みや死を前にしても、彼女は決して取り乱さない。しかしそれは、彼女が人間としての感情を欠落させているからではないのだと、今の僕にははっきりと理解できた。
亡き親友である皐月優奈さんから受け継いだ『情動の視座』を持つ彼女は、誰よりもその指輪に込められた深い情念や、目の前で血を流す男の苦痛を正確に理解しているはずだ。
ただ、彼女の圧倒的な知性は、パニックという無駄なプロセスを完全にスキップし、人命救助という『今なすべき最も合理的な行動』と、モノのルーツを解き明かすという『己の最大の目的』を、全く同じ精度で同時並行処理しているだけなのだ。
目の前の男を救うことは、彼女にとってはこの指輪の謎を解き明かす過程で生じた、当然の行動であり、副産物に過ぎないのかもしれない。この後、もしこの男が一命を取り留めて彼女に感謝を述べたとしても、彼女は全く興味を示さないだろう。
だが、結果として彼女のその揺るぎない迅速な初期対応が、確実に一つの命を繋ぎ止めていることは紛れもない事実だった。
人間の命が失われようとしているこの泥臭く血生臭い現実の泥沼の底で、彼女の知性だけが、天上の星のように冷たく、そして絶対的な輝きを放っている。
そのあまりにも完成された強靭な精神と、深淵のような知性に、僕は底知れぬ畏怖と、どうしようもないほどの強い憧憬を抱いていた。
僕は乾いた唇を舐め、ただひたすらに、白金の輝きを纏ったその美しい少女の姿を目に焼き付けることしかできなかった。




