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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
53/55

(25)

 誰かに呼ばれているような気がした。


(あれ……?)


 伊織はゆっくりと顔を上げる。目の前には黒板が見える。不思議に思って周りを見回すと、そこは高校の教室だった。


「伊織くん?」


 その声にハッとして顔を向けると、窓際に誰かが立っていた。傾いてきた日差しに背を向けて立っているその人の顔をじっと見つめる。


「真穂……」


 思わずガタンと席を立った。ようやくそこで焦点が合ってきた。


 そこにいたのは、山本真穂だ。


 慌てて彼女に近づいて、その正面に立った。彼女は不思議そうにこちらを見ている。


「どうしたの? 私に何か用事があったんじゃないの」


「えっ……」


 そこで伊織は、何を言って良いのか分からなくなってしまった。


(あれ? 確か僕は、さっき矢を射られて……)


 そうだ。矢を背中に受けて意識を失ったはずだ。そこで自分の背中に手をやってみた。しかし、そこには何もない。


「何やってるの?」


 真穂が不思議そうに尋ねてきた。


「いや……何も」


 伊織は言葉を濁して頭をかきながら少し俯く。その時、思わず息を呑んだ。


 そこあるはずの自分の足が見えない。あるのはただ、木目調の床だけだ。ちょうど股下から先が全く何もない。


「えっ——」


 驚いて、反射的に真穂の足に視線を向ける。しかしそこには、スカートから伸びた足がしっかりと存在している。


(まさか……僕は、死んだのか)


 そう言えば、死ぬ直前になると、走馬灯のように過去の思い出が見えるという話を聞いたことがある。すると自分は、真穂に告白した時のことを思い出しているのだろうか。


「どうしたの? ……特に用が無いなら、私帰るね」


 彼女はそう言って、自分のリュックを背負うために伊織に背中を向けた。


「あの……真穂」


 伊織はその名前を呼んだ。そうだ。自分はもう死ぬ。いや、既に死んでいるのかもしれない。ここは過去の思い出の世界だ。自分はもうその世界に戻ることはできず、戦国時代で矢を射られて命を落とした。


 真穂がこちらを振り返る。その瞬間、彼女をしっかりと抱きしめた。


「好きなんだ、君のこと」


「えっ——」


「でも……もう僕は死ぬ。もうこれが君に会える最後の機会かもしれない。だから、もう少しだけ、このままでいさせて」


 そう言って、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。もう二度と彼女に会うことはできない。そう思うと、知らぬ間に涙が溢れてきた。


「伊織くん」


 耳元で聞こえたその声にハッとした。いつの間にか、真穂の手が自分の背中に回っているような気がした。温かな手。その感覚がまるで一瞬で体の奥まで伝わっていくようだ。そして、彼女の声が聞こえた。


「駄目だよ」


「えっ……?」


 訳が分からずにいると、そっと彼女が体を引いた。そして、ゆっくりとその両手を広げる。するとそこには、不思議な青白い光を放つものがあった。


「これは——」


 その光を見つめてから、再び顔を上げる。そして、そこで息が止まりそうになった。


「えっ……」


 そこにいたのは、真っ白い着物を着た女性。梓姫によく似ている、美しい女性だった。


『梓を助けてくれて、かたじけなかった』


 彼女はそう言って伊織の手を取り、その青白い光の上にその手を乗せる。


「梓って……まさか、あなたは早月さん?」


 伊織がその女性を見つめて尋ねると、彼女はゆっくりと頷く。


『私は、どうしても梓を生かしたかった。それで、あの子が誤った道を選んで一度命を落とした時、ずっと先の世界ではあるが、虎政とよく似たそなたに梓を守ってもらい、梓に幸せになってもらおうとした。しかしそれは、真穂殿を犠牲にすることに他ならない。私は、梓のことばかりを考え、我を見失っておったのじゃ』


「早月さん——」


『しかしのう。梓の虎政への想いと、そなたの真穂殿への想い、いや、そなたたち全ての想いが、新しき道を作り出してくれた。本当に、そなたと真穂殿にはどれだけ感謝してもしきれぬ』


 女性が深く頭を下げた。


「いえ……いいんです。僕はもう死んだんですよね。あなたに会えたってことは、これからあの世に行くってことですか?」


 伊織がそう言って女性の目を見つめると、彼女はゆっくりと首を振った。


『そなたを死なせる訳には参らぬ。そなたを死なせれば、我が月の里の子々孫々にも顔向けができぬわ。……見よ。まだ私の力はここに残っておる。さあ、そなたの望む世界へ行くのじゃ』


 彼女はそう言うと、伊織の手を握って思い切り引っ張った。まるで体が宙に浮いたような感じがして、教室の窓に向かって体が飛んでいく。ぶつかる、と思って目を閉じると、そこから真っ白な光に包まれてしまった。

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