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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
51/55

(23)

 梓姫はゆっくりと目を開けた。体が揺れているような気がする。


(何だろう——)


 目を開けた先に見えたのは、まだ薄暗い空だ。ようやく陽が昇る前なのか、少しだけ白んできた山の端の姿が目に入った。


「母上……?」


 思わず声を出す。顔をつけていたのは誰かの背中だ。梓姫の周りには、寒さをしのぐためなのか蓑のようなものが巻き付けられていて、頭を付けているその背中からは顔にしっかりと温もりを感じる。それは生きている誰かの背中だ。


「姫様……?」


 誰かが梓姫に答えた。男の声だ。するとそこで揺れが止まる。


「姫様……気づかれましたか!」


 男が声を張り上げた。梓姫は顔の前の藁を押し上げてそこからその男の方を見上げる。するとその男がこちらを振り向いた。


「伊織……?」


「いえ。伊織ではありませぬ。姫様、虎政でございます!」


 虎政、と口に出して、もう一度その顔を見つめた。まだ薄暗い中ではあるが、振り向いた横顔は、間違いなく虎政の姿だ。


「待て……そなた、猫になっておったのであろうが」


「姫様。某は人間に戻ったのです。そして、姫様も」


 そう言うと、梓姫の手に何かが触れた。それは冷たい手。しかし、次の瞬間にはそこから言葉にならない温かなものが伝わって来るような気がした。


「冷たき手で申し訳ござりませぬ。しかしこれは私の手。そしてこれは姫様の手。間違いなく、人間の手でございます」


 彼に掴まれた手を少しずつ目の前まで引き上げる。それは人間の、そして自分の手だ。凍えるような空気の中で冷えきってしまったその手で、梓姫は自分の頬を触れた。


「これは……私の顔じゃ」


 その時、冷たい風が吹いてきた。そして、梓姫の視界を長い髪が揺れていく。それは黒猫ではない。人間の、梓姫自身の黒髪だ。 


「人間に……戻った」


「ようお戻りになられましたな」


 近くで女の声が聞こえた。驚いてそちらの方を向くと、黒髪に白髪の混じった女が馬に乗ってこちらを見ている。一瞬、誰かに似ていると思ったが、すぐに人違いだと思った。彼女は梓姫を見つめたまま言った。


「人間に戻られたということは、早月の願いが成就したということでありましょう」


「早月……? そなた、母上を知っておるのか。一体、何者じゃ」


「私は歩き巫女のおさ、望月千代と申します。志月から話は伺っております」


「志月から……。待て。私は一体、どうしたというのじゃ。確か、真穂たちと一緒に越後に向かうことになっておったはずじゃが」


「ええ。今は、信濃でございます。少し前まで、あのお方が、猫になっておった姫様をお連れしてくれていたのですよ」


 千代という女が顔を向けた方を見ると、別の馬に一人の女がまたがっていた。


「蓮姫様——」


 薄暗い中でよく見えないが、深く被った蓑の間からその顔が見えた。ホッとしたような、優しい顔だ。その時、虎政が叫んだ。


「誰か来るぞ!」


 その声にハッとして、虎政の体の横から前を覗く。すると、松明のような灯りがすぐ近くに見えた。


「まさか……敵か」


 蓮姫の怯えるような声が聞こえる。それは数十騎の騎兵で、ドドッという音を立てながらあっという間に梓姫たちを取り囲んだ。蓮姫はヒイイと声を上げて顔を伏せる。すると、一騎の馬が梓姫の方に近づいてきた。


「梓……そなた、梓か」


 どこかで聞き覚えのある声。梓姫はその甲冑を着た馬上の人間を見つめた。


「菊姉さま……?」


 無意識にその名が口に出た。よく見ると、その人間は甲冑を身に付けてはいるが、髪を後ろに縛り、優しい視線でこちらを見つめる女子おなごだ。


「久しいのう、梓」


 それは、上杉家に嫁いだ菊姫だった。彼女とは叔母と姪という関係にはなるが、幼い頃から優しく接してくれた、姉のような一番身近な存在であった。彼女はさらに馬を近づけて梓姫の横に並び、馬上からその体をギュッと抱きしめた。


「よう来てくれた……。そなたが生きておって、本当に良かった」


「姉さま——」


 菊姫の冷たい頬の感覚がはっきりと分かる。そして、そこから温かな涙のような感触が伝わってくる。それは自分のものなのか、菊姫のものなのか分からない。しかし、それはただ心地よかった。しばらくして菊姫は体を離すと、隣にいた千代の方を向いた。


「千代。ようここまで梓を連れて来てくれた。深く礼を申す」


「いいえ。菊姫様の方こそ、まさかこのような場所までおいでいただくとは、思いもよりませんでした。まだこの辺りは真田の息のかかった地ではありませぬか」


「ホホホ。何を言うか。私はこれでも信玄公の娘ぞ。真田など恐れるに足らぬわ。それに、相手が真田であろうが、織田であろうが、馬において遅れは取らぬ自信もあるからのう」


「これは頼もしいことで。しかし、これでは景親かげちか殿も敵いませぬな」


 千代は、菊姫の後ろに控えていた目つきの鋭い髭面の武将の方に顔を向ける。するとその男は、ハハハ、と笑った。


「さすがおさ殿はよくお分かりじゃ。それにしても、この暗がりの中でも御前様は本当にお速い。夜の戦に慣れた我らでもついて行くのが精一杯で」


「まさに、はやきこと風のごとく、じゃな」


 菊姫はそう言って、別の方に顔を向けた。


「蓮姫様。お懐かしゅうございます」


「菊姫……久しいのう」


 菊姫が言うのに蓮姫が声を震わせて答える。梓姫はそこで思い出した。この二人には因縁があるのだ。


 北条家との同盟の証として蓮姫が武田家に嫁いでから、数年して、菊姫が武田家の仇敵であった上杉家に嫁ぐことが決まった。それは、武田家が同盟相手として、北条ではなく上杉を選んだということだ。それを知って蓮姫は焦って、北条家に密使を送る。怒った北条はすぐに甲斐に侵攻し、勝頼はすぐに自ら出兵したので、菊姫は誰にも見送られずに甲斐を去ることになってしまった。


「私を、恨んでおろうな」


 蓮姫は小声で言った。菊姫はただ黙ってじっと蓮姫を見つめ返している。そこで「姉さま」と梓姫が声を掛けると、菊姫は梓姫の方をチラッと振り向いてから、蓮姫に深く頭を下げた。


「かたじけない。蓮姫様には本当に、梓をよくお守りいただき、深くお礼を申し上げます」


「えっ……そ、そなた、何を申すか」


 戸惑ったような蓮姫の前で、菊姫は真っすぐに彼女の方を見て言った。


「蓮姫様。我らはこれから春日山に戻ります」


 それを聞いて、蓮姫はハッとしたような表情になった。


「春日山……。やはり、私も行くのじゃな」


「ご存知のとおり、上杉家にとって北条家は因縁浅からぬ仲。先の御館おだての争いに勝ったとはいえ、当主の景勝様をはじめ、上杉家を分断した北条家への恨みは深いものがあります」


「そう……であろうな」


 怯えるように言う蓮姫の前で、菊姫はゆっくりと首を振った。


「戦国の世は戦いに明け暮れております。殺し合い、騙し合いも世の常。しかし、そのような中でも、あなた様は私の大事な梓をしっかりと守ってくださいました」


「えっ——」


「だから、あなた様がたとえあの北条の娘だとしても、私は、上杉景勝の正室として、必ずあなた様をお守りいたします」


 菊姫はそう言って蓮姫に笑顔を向ける。蓮姫も菊姫の方を見つめていたが、やがて「すまぬ」とだけ言って俯いて黙ってしまった。すると、菊姫は再び梓姫の方を振り返った。


「それにしても、虎政も見違えたものじゃのう。梓より体も小さかったそなたが、よきおのこになったものじゃ」


「いえ……そのような事は」


「フフ……それに、二人で馬に乗る様は、まるで夫婦めおとのようではないか」


「ね、姉さま!」


 梓姫はハッとして思わず虎政から体を離そうとした。しかし、腰の辺りを縄のようなものでくくられているのか、全く離れることができない。


「まあ、良いではないか。それよりもまだ春日山までは遠いぞ。敵も潜んでおるかもしれぬゆえ、全力で駆け抜けるが、虎政、ついて来れるか」


 菊姫は虎政に並んで微笑する。


「ハッ。姫様をお守りするのが我が役目。姫様をお連れして、必ずついて参ります」


 虎政が答えると、菊姫は大きく頷く。そして、チラッと梓姫の方を向き笑顔を向けてから、後ろに控えていた武将を振り返った。


「景親! 春日山に帰城するぞ」


 おう、と周りの武将からも掛け声が上がる。すると、菊姫は手綱を引いて颯爽と駆けだした。その後ろから虎政の馬も駆けていく。梓姫は慌てて虎政の体にしっかりと抱きついたが、その時、胸元で小さな印伝の袋が揺れるのが見えた。

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