(22)
桃色の桜の花びらが辺り一面でひらひらと舞っていた。
「どうじゃ、梓。綺麗であろう」
「はい。まるで、雪のように見えまする」
「ホホホ。私もこの風景が一番好きじゃ。花は散る時が最も綺麗なのじゃ」
「散る時……ですか」
「そうじゃ。そして、武士の道では、人の世もそれと同じじゃという」
人の世、と梓姫は繰り返して、隣に立っている人間の方を向いた。
「母上様——」
そっとその手を握る。しかし、母上はこちらには顔を向けない。少し前までは母上の体はとても大きく見えたのだが、最近、梓姫の背も急激に伸びてきたこともあって、今では母上とほとんど目線が変わらない。むしろ、母上の方が低く見えるような気もしていた。
「この前、お話しになったことは、まことでございますか。我が武田家が滅びの道を進んでいるというのは」
「——まことじゃ」
母上は相変わらず桜の花の散る姿を真っすぐに見ていた。
「御館様が偉大であったためではない。それに、後を継いだ勝頼様に力がない訳でもない。大きな流れには逆らえぬだけのこと。毎年、春になれば桜が咲き、その花が散り、青葉が茂り、そしてそのよく茂った葉でさえもいずれ枯れ落ちるのと同じなのじゃ」
「しかし……それでは、母上はそれを知っていながら、父上のもとに嫁がれたのですか」
「そうじゃな……。そうとも言えるし、そうでもないとも言える。大きな流れは、時に別の流れを作ったりもするからのう」
そこでようやく母上はこちらを向いた。母上の髪は私よりも短い。父上の他の側室や侍女たちとも違って、一度も髪を伸ばした事がないという。それを「まるで男のような女子」と陰口を叩く者もいることを知っている。しかし、梓姫はその母上の髪が好きだ。そして、その白い肌と大きな瞳を持った顔立ちは、間違いなく武田家の中の誰よりも美しい。その母上の髪を春の風がサラサラと揺らしていく。
「それは一体、どういう事でしょうか」
「ホホホ。分からぬか。そなたの事ぞ」
母上は楽しそうに笑った。彼女のその白い肌が桃色の桜の花びらの中で一層輝いて見える。
「このように可愛い姫が産まれようとは、思ってはおらなかったわ」
母上はそこでようやく梓姫の方を向いて、その頬を両手で挟んだ。その手はヒヤッとするほど冷たい。しかし、その次には反対にその手から信じられないほどの温かさが伝わってくる。不思議な手だ。
「母上様……」
「本当にそなたが愛おしい。私は、そなたのためにここにいるのかも知れぬ」
「いいえ。私とて、母上様がおらねば、この世は暗闇の世界となりましょう」
梓姫は本心からそう言った。しかし、母上はそこで真面目な顔に戻り、梓姫の頬から手を放して再び桜の木を見上げた。花びらの向こうから、温かな春の日差しが注いでいる。
「全ての生きとし生けるものには限りがある」
母上は誰に言うともなく呟くように言った。
「しかし、それは別の存在に命を繋げるものでもある。今、この日本の国は戦いに明け暮れておるが、死んでいく者もいれば、生まれる者もいる。武田家が滅びるとしても、全ての人間が死なねばならぬ訳ではないし、敵もそのようなことはできぬ。いずれ近いうちにこの戦国の世は終わる。だから私は、そなたにはしっかりと命を繋いでほしい」
「しかし……お家が無くなれば、女子の私など、いかようにもされてしまうでしょう。そのような辱めを受けるくらいであれば、私は自害いたしまする」
「梓……命は大切にせよ」
母上は空の方を見上げたまま、厳しい口調で言った。
「私は、勝頼様に嫁ぐまでの若き頃、歩き巫女の長である千代様に連れられて、色々な地を巡ってきた。そして、どこに行っても、戦と略奪と、怒りと悲しみがあふれておった。……しかしのう。どのように強い存在であっても、全てのものを奪いつくすことはできぬ。人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。この世は人で成り立っておることを必ず忘れるでない。家や誇りなどに惑わされることなく、必ず生き残れ。私の願いはそれだけじゃ」
「母上——」
「その石は、必ずそなたを守ってくださる。困ったら、その石に願いを込めよ」
母上は梓姫の方を振り向いて、その手を取り、梓姫の胸元に掛けられたその黒い石を握らせた。するとその手の中に、不思議な温かさが伝わってくる気がした。
「そなたは、本当の幸せを掴むのじゃ」
その母上の声にハッとする。しかし、顔を上げた瞬間、強い光に照らされて、何も見えなくなってしまった。




