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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
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(21)

 蓮姫は、馬に乗って信濃の山中を進んでいた。前には真田昌幸とその家臣が同じように馬に乗っていて、すぐ後ろには侍女のお常が馬に乗って続き、その後ろから真田家の二人の家臣がついてきている。


 その日も日が暮れてきた頃だった。昌幸が蓮姫を振り返る。


「もう少し先に、それがしのよく知る村があります。今日はそこで泊まることとしましょう」


 暗くなり、やや心細くなってきた時だったので、蓮姫はその言葉で励まされる気がした。それから四半刻(30分)ほど経った頃、一行は小さな村にたどり着いた。


 辺りは真っ暗だが、家屋から灯りがぼんやりと漏れ出ているのが見えて、蓮姫はホッとした。一行は馬を村の入口で降りると、昌幸は慣れた様子で村の奥の方に進んでいく。そして、ひと際大きい家屋の門をくぐり、その戸を叩いた。すると、「はい」と中から女性の声が聞こえて、引き戸が開いた。まだ若そうな女性だが、外の仕事から帰ったばかりなのか、着物も顔も手もまだ土で汚れている。


「どちら様で」


「真田の殿が参ったと長老に伝えよ」


「へえ……これはお殿様でございますか。長老は今、近くのお寺さまで村の者と打ち合わせしておりますもんで。すぐに呼んでまいりますので、中に入ってお待ちくだされ」


 女性はそう言って頭を下げて一行を中に案内した。土間の先に囲炉裏があり、女性はその周りに、奥から粗末な座布団を出してきて置いていく。囲炉裏の火がほどよく燃えていて、その前に座ると少しずつ体が温まる気がした。


「お茶だけでもお出ししましょうか」


「後でよい。早く長老を呼んでこい」


 昌幸が少し苛立った様子で言うと、女性は深く頭を下げて、慌てた様子で草履を履いて外に出て行った。蓮姫は、囲炉裏の火に手を向けて、正面に座った昌幸に声を掛ける。


「もうこの辺りは真田殿の所領になるのですか」


「はい。まだ上田の本拠からは少し離れておりますが、ここの長老とは某が若き頃より世話になっておるのです。それで、甲斐への往還の際には、よくここに寝泊まりしておりましてな。今日もここで泊まらせてもらう旨、使いを出しておりました」


「左様か。それは安心じゃ」


 パチパチと薪の燃える火を眺めながら蓮姫は答えた。それからしばらくそこで待っていたが、長老も先ほどの女性も戻ってこない。昌幸も少し不審に思ったのか、傍にいた家臣二人に外の様子を見てくるように言った。


 再び家の中が静まり返り、パチッと薪が音を立てた時だった。


「蓮姫様。一つ、お伺いしたき儀がございます」


 昌幸が口を開いた。


「何でしょうか」


「そちらの籠のものですが、それは梓姫様の飼っていた猫どもが入っておるのでしたな」


「そうじゃが、それが何か」


「いえ……実は昨日まで、某は全く別のことを考えておったのです」


「別のこと?」


「はい。梓姫様を甘利虎政とともに越後までお逃げさせることです」


 蓮姫はハッとして、薪の火の向こうの昌幸の細い目をじっと見つめた。


「殿もそれにご同意されていました。しかし、今朝になって、殿が急に梓姫の部屋に行き、香を焚くように言われたのです。そして、しばらくして部屋の中を見ると、そこで眠る二匹の猫がいた」


 蓮姫の隣には侍女のお常が座っており、その隣に籠が置かれていたが、昌幸の視線が次第にそこに向かっていく。


「殿はその猫どもを自ら箱の中に入れて、小姓とともに持っていかれた。しばらくして、蓮姫様たちとお話しされた殿から言われたのは、蓮姫様とその箱の猫を連れて越後に行くようにということでした」


「そう……ですか」


「一体、その猫どもは何なのですか。なぜ、梓姫様の替わりに猫を越後まで連れて行く必要があるのですか」


 昌幸は蓮姫の方を真っすぐに見つめた。


「それは……そなたには関係のないことです」


「いや、関係あるのじゃ」


 急に昌幸は声音を変えた。蓮姫はそれにドキッとして昌幸の姿を見つめる。すると彼は、傍らに置いていた刀を掴むと、立ち上がって刀を抜き、蓮姫の方に構えた。囲炉裏の火に照らされて、銀色の刀が怪しく光る。


「な、何をするか!」


 蓮姫は驚いて体を後ろに引いた。すると、昌幸はフフっと不気味に笑った。


「申したではございませんか。ここは既に我が領地。もはや風前の灯火の武田家に義理立てすることはない」


「まさか……そなた、裏切ったか!」


 蓮姫は必死に叫ぶ。すると、昌幸は囲炉裏を回って蓮姫の方に近づいてきた。


「殿があれだけ大事にしておった梓姫様を置いて、蓮姫様と猫ごときを越後に送るとは、尋常なことではない。まさしく、梓姫様よりもずっと大事なものがその箱にあるとしか思えぬ。……いや、ワシはもうそれを知っておる。そこにあるのは、月の石であろう」


 近づいてくる昌幸から蓮姫は後ろに逃げ、お常に体を寄せた。


「猫のことはよく分からぬが、大方、月の里の怪しげな術か何かがかけられておるのであろう。とにかく、その箱はいただく。それを持って織田方に渡せば、ワシの所領も間違いなく安堵されることになろうからな」


 昌幸はそう言って、蓮姫に一歩近づく。もう片方からも彼の家臣が回り込んでくる。その時だった。


「ホホホ……本性を現しおったな」


 その声は突然近くから聞こえてきた。蓮姫は驚いてそちらを振り向く。そこには、ずっと隣にいたお常が、真っすぐに昌幸の方を見上げていた。


「お常……そなた」


「姫様。この真田殿こそ、この前、梓姫様を連れ去ろうとした張本人でございます」


 蓮姫は驚いて昌幸を見つめる。彼は刀をこちらに向けたまま、そこで立ち止まっていた。


「貴様……どうしてそれを」


「忍びの出浦いでうら氏を使って、姫様を連れ去り、それを穴山氏の仕業に見せかけようとしたのですよ」


「おのれ! その口、黙らせてくれるわ」


 昌幸は刀を思い切り振り上げて、お常の方に斬りかかった。蓮姫は「やめよ!」と叫んで思わず目を閉じる。


 カキン!


 刀が鉄のようなものに当たったような音を立てた。ゆっくりと目を開けると、昌幸は少し離れた場所に後ろ向きに倒れていた。


「こ奴……何を」


 家臣の方も反対側からお常に斬りかかった。その刀がお常を横から斬ろうとしたが、強い光が飛び散り、まるで何かに突き飛ばされたように、その家臣も離れた床の上に倒れてしまった。


「お常——」


 蓮姫はその姿を見つめた。白髪の混じった長い髪を後ろで束ねた彼女は、小豆色の粗末な着物を着てそこに座っている。彼女も蓮姫の方を見つめた。すると、蓮姫の中に不思議な感覚が湧き上がってきた。


「そなた……一体、誰じゃ」


 お常は、北条家を出た時から蓮姫の側にずっと仕えていたはずなのだが、今、目の前にいる女性は、お常ではないような気がしてきた。しかし、蓮姫はその彼女をお常だと思ってずっと接してきたし、周りの者もそうしていたはずだ。それはまるで、夢でも見ていたような奇怪な感覚で、蓮姫は体中に鳥肌が立った。


「姫様、申し訳ございませぬ。本物のお常は、もう昨年の秋には北条家に戻っておりましてな。それ以降、私がずっとお常の替わりをしておったのです」


「なっ、なんと。では、そなたは……」


「はい。私は、歩き巫女の長である望月千代(ちよ)と申します」


 彼女はそっと頭を下げて笑った。すると、離れた場所に倒れていた昌幸が体を起こした。


「うぬぬ……そなたは、歩き巫女であったか。しかし、一体どうやって我らをかどわかしたのじゃ」


「ホホ……これも歩き巫女の秘術の一つでしてな。人間の記憶など、全く頼りにならぬものでございます」


「おのれ……しかし、この村の周りは出浦氏の忍びが取り囲んでおるのじゃ。もはやそなたらも逃げられぬぞ」


 昌幸は背中をさすりながらゆっくりと立ち上がると、先ほど突き飛ばされた家臣もその傍に寄って彼の体を支える。すると、千代は口に手を当てて笑った。


「ホホホ……これは異なことを。この村の者はもちろん、忍びの者とて所詮は人間。真田殿。そもそも、ここで人間の姿を見ましたかのう」


「何じゃと……」


 その時、入口の引き戸が開いた。昌幸はとっさにその方を振り向く。すると、姿を現したのは、ここに案内してきた薄汚れた姿の女性だった。そして、彼女の後ろには、さっき様子を見に行った昌幸の家臣が二人とも、縄で縛られて倒れていた。


「この村には誰もおらぬ。今頃、出浦の者を含めた皆が、遠く離れた別の村のことをこの村じゃと思うて過ごしておるわ。さあ、真田殿。お命が欲しくば、すぐにお引き取りを」


 彼女はそう言って懐から短剣を取り出して目の前に構え、開けている引き戸を片手で示した。昌幸はキッと千代の方を睨んだが、それ以上言葉にならない。そして、落としていた刀を拾い上げた。


「おのれ……歩き巫女など、必ずひっ捕えてくれるわ」


 昌幸はそう言って、家臣に支えられながら家を出て行く。その後ろ姿に、千代は再びホホホと笑って声を掛けた。


「月の石などなくとも、真田家はきっと実力で生き残っていけますぞ」


 そこでようやく千代は立ち上がった。


「さて……我らも参りましょう。もうひと踏ん張りです」

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