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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
48/55

(20)

 その晩、真穂は古びた寺の本堂のような場所にいた。馬に乗り、手綱を引かれていたので、どのくらい進んだのかよく分からなかったが、甘利虎勝が言うには、まだ穴山の元々の領地であった下山という場所までは来ていないらしい。


 夕飯、と言ってもお結びのようなものが出てきただけであったが、それを食べ終わった頃だった。


「穴山の軍勢が参ったようでございます」


 虎勝が屈んでそう報告すると、隣にいたお富が尋ねる。


「梅雪殿が来たのですか」


「奴とはワシも面識がありますが、間違いなく梅雪のようでございます。もっと体が動けば、奴に一太刀くらわしてやりたいところですが」


 ハハハ、と虎勝は笑った。しかし、真穂たちについてきた味方の兵士は僅かに10人ほどしかいない。穴山の軍勢と戦うには無理があるだろうが、虎勝にしてみれば武田家を裏切った梅雪にはそれほどの恨みを持っているということだろう。


 すると、程なくして、「穴山様がお越しでございます」と武士が告げてきた。廊下を歩いてくる音が聞こえ、一人の男が部屋の入口に立った。


「穴山梅雪、参りましてございます」


 彼はそう言って真穂の前まで進み、そこに座って頭を下げた。後ろには彼を守るように5人の武士が控えている。外にもかなりの人数が来ているに違いない。部屋の隅では、お富と虎勝が、梅雪の方を苦々しい表情で見つめている。すると、彼は頭を上げて真穂の方をじっと見つめた。


「久しぶりですね」


「ええ……。新府城でお会いした時と変わらず、姫様は相変わらずお美しいですなあ」


 フフっと梅雪は不敵に笑い、顔を横に向けた。


「虎勝殿も、息災のようで何よりじゃ。腕の調子はいかがか」


「くっ……そなたのような者に心配される筋合いはない。そなたの方こそ、武田家の重臣であるワシの前に、よくもぬけぬけと姿を見せられたものじゃ」


 すると、梅雪の後ろにいた武士の一人が膝をついて虎勝に体を向けて刀を抜こうとした。それに梅雪は「待て」と声を掛ける。


「まあ、それぞれの生き方があるということじゃ。ところで、少し姫様とお話しをしたいのじゃが、外してもらえぬか」


「何じゃと。一体、どういうつもりじゃ」


「いいから外せ、と言っておる。ただ、話がしたいのじゃ」


 梅雪は冷静な声で虎勝に向かって答えた。その様子に、真穂も「少し外してもらえますか」と言うと、ようやく虎勝とお富は頭を下げて部屋を出て行った。その後ろから、梅雪の周りにいた武士たちも部屋を去って行く。


 障子が閉められ、足音が遠ざかっていった時だった。


「よく決心してくださいましたな」


 二人きりになった部屋で、梅雪は少しだけ頷いてから言った。


「いえ。父上が命じたのに従っただけです」


「フフ……経過などは良いのです。大事なのは結果でしてな」


 そう言うと、梅雪は真穂の方に膝を進めてきた。


「それにしても姫様はお美しい。駿河に戻ったら、すぐに勝千代との婚儀を進めることといたしますぞ」


 ニヤッとした彼の顔を見て、真穂は鳥肌が立つ気がした。気おされないよう、慌てて口を開いた。


「それで……何か話があるのですか」


 すると、梅雪はハッとした様子で、座り直した。


「そうですな。その事ですが……姫様は、お母御が亡くなられる際、何か石のようなものを形見に貰っておるのではないですか」


「石……」


「はい。黒き石のようなものです」


「それが、どうしたというのですか」


「それを我らに引き渡して貰いたい」


 梅雪はそう言って真穂の方を真っすぐに見つめた。


「それがあれば、織田と徳川の武田家への侵攻を止めることができる。勝頼様も助けられると、三河守みかわのかみ様からも確約を取っておるのです」


 梅雪の刺すような視線を感じながら、真穂は黙っていた。そして、大きく深呼吸してから答える。


「一つ、聞いてもよいですか」


「何でしょうか」


「この前、どうして私を連れ去ろうとしたのですか」


 そう尋ねると、梅雪は少し瞳を大きく開けた。


「連れ去るとは……何のことでしょうか」


「とぼけないでください。この前、新府城に忍者のような者を忍び込ませ、私を連れ去ろうとしたでしょう」


「これは異なことを。どうしてそれがしがそのようなことをしましょうか。……今だから申し上げますが、既に武田家の命運は尽きておりました。織田と徳川の大軍に、北条も攻め寄せる中で、某が徳川の側につき、それと和議を結ぶ条件として姫様の婚儀を申し出れば、勝頼様はきっと応じると睨んでおりました。そのような中で、敢えて姫様を連れ去る必要はございますまい」


 梅雪が答えると真穂はハッとした。確かにその通りかもしれない。


「それでは一体、誰が私を連れ去ろうとしたのですか」


「そのようなことは、もうどうでもよいことです。それよりも早く、石をお渡しくだされ」


 梅雪はそう言って膝を一歩進めた。真穂は思わず立ち上がった。


「ま、待ってください。私は……」


 後ずさる真穂の前に、梅雪も立ち上がった。その時だった。


「曲者じゃ!」


 何人かの叫ぶ声が聞こえた。するとすぐに、誰かがドタドタと走って来る音が聞こえたと思うと、障子が勢いよく開いた。


「梅雪! 何をしておるか」


 そこにいた虎勝はそう叫ぶと、梅雪の体を乱暴に押しのけて、真穂の前に立った。


「なっ、何をするか。ワシは徳川の名代なのだぞ」


「フン。それがどうした。ワシも武田の名代ぞ。しかし、ワシはこの婚儀には反対でな」


 虎勝はそう言うと、あっという間に梅雪の体を押し倒した。そして、その喉元に短刀を向ける。騒ぎを聞いて、すぐ後から梅雪の家臣たちも慌てて周りを取り囲んだが、虎勝に脅されている梅雪の姿を見て、それ以上近づけない。


「ハハハ。梅雪の命が惜しくば離れよ。聞こえぬか!」


 虎勝が叫ぶと、その余りの権幕に「皆、下がれ」と梅雪が弱々しく言った。囲む人々が下がっていき、虎勝は梅雪の腕をしっかりと掴みながら立ち上がった。


「そなた……どうして腕が」


「ただ戦に出ていなかっただけで、使えなかった訳ではなくてな。ほれ、この通り」


 虎勝は左腕で梅雪の腕を強く掴むと、梅雪はヒイと呻き声を上げた。そして、虎勝は振り返り「ここを出ましょう」と真穂に言った。


 梅雪を人質にとった虎勝に、お富も慌ててやって来て一緒に外に出るが、穴山の兵はそれを遠巻きに取り囲んでいる。甘利家からついてきた味方の兵も、いつの間にか虎勝の近くまでやってきた。


 その時だった。


 ダーン!


 大きな音が響いて思わず目を閉じた。すると、虎勝の体がゆらっと傾いた。


「くっ……鉄砲か」


 虎勝はそこに膝をついた。それとともに、梅雪が背中を向けて走り出していく。


「い、今じゃ。あ奴らを捕らえよ!」


 梅雪の声が聞こえ、一斉に兵がこちらに駆け寄ってきた。すると、後ろの方から「待てい」という声が聞こえた。その次の瞬間、太陽の光でも反射したような強い光が広がっていく。


「な、何じゃ! これは」


 真穂も目を閉じたが、その手を誰かが握った。薄目を開けてその方に顔を向ける。


「真穂。迎えに来たよ」


 そこにいたのは伊織だった。彼は真穂の手を引いて走り出していく。後ろの方では戦いが始まったのか、喚声が聞こえたが、目の前を走る伊織の姿だけを見つめて必死に走っていく。すると、いつの間にか、隣に志月がやってきた。


「真穂殿。間に合って良かった」


 少しだけ志月は笑顔を向けてから、彼女は真穂を追い抜くと、その先にいた馬の隣に立った。


「これに乗って」


 伊織にも手伝ってもらい、真穂が先に馬に乗ると、その後ろに伊織も乗った。すると、志月は自分の首に手を回して、真穂に何かを差し出した。


「これを持っていってください」


 真穂がそれを手に取る。それは紐に付けられたあの黒い石だった。


「これは、志月様のものではないですか」


「いいのです。きっとあなた方の役に立ちます」


 志月はそう言うと、何かに気づいたように顔を横に向けた。そちらを見ると、暗闇の中で火のようなものが近づいてくるようだ。


「あれは……敵の援軍では?」


 真穂が言うと、志月はそれをじっと見つめていたが、真穂に笑顔を向けた。


「大丈夫。あれは、武田の軍です。勝頼様が援軍に来てくださったようですね。さあ、行きなさい。伊織殿、手綱を掴んで」


 志月の声で、馬がゆっくりと動き出す。その歩みは徐々に早くなり、志月の姿が小さくなっていく。真穂は彼女に向けて必死に叫んだ。


「志月様! どうぞご無事で」

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