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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
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(19)

 翌日の早朝に、真穂はお富と穴山家の使者とともに館を出た。護衛として虎勝と数人と兵士がその前後を囲む。彼女は馬に乗せられ、その手綱を使者が引いていく。伊織は館の入口の辺りでその様子を見送った。


 その日は一日中、空が厚い雲で覆われていた。夜中に降っていた雪は朝には止んでいたが、日差しも無く凍えるように寒い。地面に積もった雪はまだ数センチ程度だろうが、辺り一面を白く覆っている。特に誰からも呼び出されることも無かったので、伊織は館の入口の門の辺りをウロウロとしていた。辺りが暗くなってきた頃になって、その雪の上を駆けて来る馬の姿が見えた。


「何奴じゃ!」


 近くにいた門番の兵士が叫んで、持っていた槍を構える。すると、乗っていた人間はその手前で馬を降りた。


「志月様!」


 伊織は思わず彼女に駆け寄った。彼女の後ろからも甲冑を着た人間が馬で追ってきて、その後ろに降り立つ。志月は肩で息をしていて、その顔の前に白い息が見えていた。


「どうしてここに……?」


「信濃からの帰りに、勝頼殿が新府城を捨てたと聞いて急いで参りました。真穂殿も来ておるのですか?」


「真穂は……朝に、館を出ました」


「出た? して、どこに?」


「穴山の息子のところに嫁ぐように、殿が……」


「なんと……」


 志月は目を見張った。


「穴山に嫁げば、少なくとも彼女の命は助かります。だって、穴山家は梓姫を嫁にもらいたかったんでしょう?」


 伊織が言うと、しかし志月は首を振った。


「駄目です。これは罠かもしれませぬ」


「罠?」


「梅雪はおそらく知っておるのです。月の石のことを」


「えっ? どういうことですか?」


「奴は、まだ姉上が生きておった時から、月の里のことや月の石のことを密かに調べておった節があるのです。だから、奴が本当に欲しいのは、本物の梓姫が持つ月の石だけ。石を持たぬ今の真穂殿では、偽物だと分かってしまう。そうなれば、どうなるか分かりません」


 それを聞いて伊織はハッとした。


「それに、本物の梓姫が人間に戻るには、おそらくその体、つまり真穂殿が無事でいる必要があるのです。もし、梅雪が本物の梓姫でないと知って、彼女が消されてしまうようなことがあれば、姫様も永遠に人間に戻れない」


「そんな……」


「まだ間に合う。すぐに追いましょう」


 志月が言ったその時だった。


「待て! そなた、何をするつもりじゃ」


 その声に振り返ると、いつの間にか勝頼が門の前に立っていた。すると、志月は伊織の手を引く。


たつみ! 伊織を馬に乗せてください」


 志月が叫ぶと、彼女の後ろに控えていた甲冑を着た男が、今度は伊織の手を引き、後ろの馬の背に乗せ、男もその後ろに乗った。


「勝頼様」


 志月が勝頼の方を向いて言った。


「なぜ、あなた様は姉上の想いをないがしろにするのですか」


「何じゃと」


「先の長篠のいくさの時もそうでした。姉上は必死に止めましたが、あなた様は出陣された。その結果、この武田家はたくさんの重臣方を失い、勢力を弱めてしまいました」


「貴様……何を言いたいのじゃ!」


「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」


 志月が言うと、勝頼はハッとしたような表情になった。


「その言葉どおり、強い武田家を支えていたのはたくさんの人でした。身分は違えど、重臣から下級武士、そして領民まで、お館様は広く心を注いでおられました。しかし、あなた様は姉上と梓姫にしか愛情を注いでおらぬ。姉上は梓姫のこと、あなた様のことだけでなく、武田家と領民のことを想い、自らの命も削って手を打とうとしてきたのですよ。あなた様はそれを何も分かっておらぬ」


「なっ、何を……」


「かの者は武田家には縁なき者。決して、あなた様の捨て駒ではない。もはや、穴山家との婚儀で武田家が存続する道はありませぬ。私は必ず彼女を取り戻します。それが姉上が本当に願った道に繋がりますから」


 志月はそう言って、傍らにいた馬に飛び乗った。


「うぬぬ……待てっ! 皆の者、その者を斬れ!」


 勝頼が叫ぶと、刀を振りかざして10人ほどの兵士たちが駆け寄ってくる。すると、志月は彼らに何かを投げつけるような仕草をした。


「うわっ!」


 一瞬、何かが爆発したような光が辺りに広がる。伊織も思わず目を閉じたが、次に目を開けると、叫び声をあげた兵士たちは地面に転んでいた。


「参りましょう!」


 志月がそう叫んで馬を走らせると、伊織の後ろに座った甲冑の男も手綱を引き、小さな馬は急に走り始めた。

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